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第1話 沈む心、旅立ちの朝

 ――時は遡り、全てが始まる前の朝。


 アウレリア王国の片田舎、モンテカーロの市場に朝日が差し込んだ。


 石畳の広場には多くの露店が並び、威勢の良い声が飛び交っている。焼きたてのパンの香ばしい匂い、熟れた果実の甘い香り、家畜の糞尿の臭いが入り混じり、生活の匂いとなって立ち上る。


 そんな市場の片隅、最も人通りの少ない場所に、みすぼらしい天幕が一つあった。


「……あの、これ、いかがですか」


 埃をかぶった古い真鍮(しんちゅう)燭台(しょくだい)を手に、通りかかった中年女性に声をかける。その声は、市場の喧騒(けんそう)にかき消されそうなほど小さかった。


 カイの店先に並ぶのは、埃をかぶった古道具や、どこで仕入れたのかも怪しいガラクタばかり。これらはカイ自身のくすんだ夢の残骸のようでもあった。


 隣では、白髪の老商人が調子の良い口上で客を引き寄せている。


 「さあさあ、テッラローザから仕入れたばかりの上物だよ!この革袋、見てくれよこの艶!雨にも強いし、何年だって使える!」


 老商人の売り物は、カイが見る限り、自分の商品より質が劣っていた。革袋の縫い目は粗く、所々ほつれも見える。


 だがそんなことは関係ない。老商人の巧みな話術に引き込まれ、客は次々と財布の紐を緩めていく。


 「ほら、奥さん!今なら特別に、この小袋もおまけしちゃう!えっ?高い?いやいや、これでも採算ギリギリなんだ。でもまあ、奥さんの笑顔には敵わないね。銀貨二枚のところを、一枚と銅貨五十ソルダでどうだい?」

 

 巧みな値引きの演出。計算されたため息。そして最後には、客も商人も満足そうな顔で取引を終える。銀貨がチャリンと音を立てて、老商人の懐に収まった。


 カイは、その一部始終を見つめながら、胃の底に重い石が沈んでいくような感覚を覚えた。


 どうして自分にはあんな風にできないのだろう。客の顔を見ると緊張で舌が固まる。


 心の奥底では、いつか成功して、大金持ちになって、皆を見返してやりたいという、小さな炎が(くすぶ)ってはいる。


 しかし、厳しい現実という名の冷たい風が吹き付けるたび、その炎は消え入りそうに揺らめくのだった。


 太陽が高くなるにつれ、市場の活気は最高潮に達した。だがカイの前を通る人は稀で、立ち止まる人はさらに少ない。


 昼過ぎ、ようやく一人の老人が足を止めた。杖をついた痩せた老人は、カイの商品を物色し始める。


「この壺は、いくらかね」


「あ、ええと、それは……」


 カイは慌てて値段を考える。仕入れ値は銅貨三十ソルダ。普通なら倍の六十ソルダで売るところだが、老人の擦り切れた衣服を見て、つい口が滑った。


「よ、四十ソルダで」


「四十?ふむ……三十なら買うがね」


「え、でも、それじゃ……」


 仕入れ値と同じでは、何の利益もない。だが老人の濁った眼を見ていると、断れなかった。結局、カイは三十ソルダで壺を手放した。労力だけが消え、懐は一ソルダも増えない。


 隣の老商人が、その様子を見て肩をすくめた。商売人としての資質を疑う視線が、カイの背中に突き刺さる。


 夕暮れが近づく頃、カイは売れ残った商品を麻袋に詰め込んでいた。今日の売り上げは、銅貨三十ソルダのみ。宿代にもならない。


 ふと、懐の革袋に手を当てる。そこには、数日前の苦い記憶が重く横たわっていた。


 『一攫千金のチャンスだ、若旦那!この石を見てくれ、この輝き!アメジストの原石だよ、間違いない!』


 行商人風の男が差し出した青い石。確かに美しく、カイの中の何かが「これは本物だ」と囁いた。


 有り金をはたいて手に入れたその石は、しかし、ただのありふれたクズ石だった。


 宝石商は鼻で笑った。


『坊や、こんなもんに騙されるなんて、商売人失格だね』


 あの時の屈辱と自己嫌悪が、今も胸の奥で(うず)いている。自分には才能がない。商売の才能も、人を見る目も、何もない。


 今日も赤字だ。明日の食事代すら危うい。このままでは――


 カイは首を振った。考えても仕方がない。とりあえず、安い宿を探さなければ。いや、その前に何か腹に入れないと。


 売れ残りの商品を背負い、夕暮れの街道を歩き始めた。


 以前は、この道のりもそれほど苦ではなかった。


 隣には、無口だが心優しい相棒がいたからだ。荷運びロバのロシナンテ。カイが愚痴をこぼせば、ロシナンテは賢そうな瞳でじっと耳を傾けてくれたし、疲れて道端でうたた寝をしてしまえば、心配そうに鼻面を()り寄せてきた。


 「……ロシナンテ」


 呟いた名前は、風に(さら)われて消えた。


 三日前の朝を思い出す。いつものように荷物を積もうとしたロバは、立ち上がることができなかった。前日から食欲がなく、水もあまり飲まなかった。


 カイは必死に看病した。


 街で一番の獣医は、高額な治療費を要求した。カイには払えない。結局、自分で薬草を探し、水を飲ませ、体を拭いてやることしかできなかった。


 『大丈夫だ、ロシナンテ。お前は強い子だ』


 震える手でロバの首を撫でながら、カイは必死に語りかけた。だがロバの息は次第に浅くなり、瞳から光が失われていった。


 最期の時、ロシナンテはカイの手を弱々しく舐めた。


 カイは一人で穴を掘り、ロシナンテを埋葬した。涙が止まらなかった。たかがロバ、そう思う者もいるだろう。だがカイにとって、ロシナンテは唯一の友だった。辛い時も、売り上げがない日も、いつもそばにいてくれた。


 この日から、カイは本当に一人ぼっちになった。


 話し相手もいない。温もりもない。心のどこかにぽっかりと穴が空いたような、途方もない孤独感がつきまとう。


 重い荷物が、骨と皮ばかりの痩せた肩に深く食い込む。


 かつてはロシナンテが運んでくれた荷物。今は全て自分で背負わなければならない。


 日が沈みかけている。赤く染まった空は、まるで血のように荒涼としていた。


 このまま野宿すれば、朝には体が動かなくなっているかもしれない。


 いっそ、このまま――


「だめだ」

 

 カイは頭を振った。そんなことを考えてはいけない。生きなければ。今死んだら、自分の人生は何だったのか。



※※※※※※



 遠くに小さな灯りが見えた。街道沿いの安酒場だ。評判の良い店ではないが、今のカイには、選択の余地などなかった。


 重い木戸を押し開けると、むっとする熱気と騒音が押し寄せてきた。煙草の煙と安酒の匂い、汗と埃の入り混じった空気。


 店内はランプの灯りが弱々しく揺らめき、煤けた木のテーブルと不揃いの椅子が点在している。


 カイはできるだけ人目につかない隅の席を選び、一番安いスープを小声で注文した。


 無愛想な店主が、濁った色のスープを運んでくる。香味野菜の切れ端と崩れた古パンが濁った汁に浮かぶだけの、名ばかりのスープ。卵の一片すら入っていない。


 それでも、温かいものが腹に入るだけでありがたかった。


 「なんだい、今日も売れなかったのか、小僧」


 カウンターの向こうから、髭面の店主が声をかけてきた。


 カイは曖昧に頷く。この店には何度か来たことがある。いつも一番安いスープだけを頼む客として、店主も覚えているのだろう。


 「商売ってのはな、度胸だよ、度胸。声が小さいんじゃ客も逃げちまう」

 

 正論だった。分かっている。分かっているが、できないのだ。


 カイは黙ってスープに視線を落とした。


 店内は相変わらず騒がしい。賭博に興じる傭兵崩れ、大声で下品な話をする商人たち、一人で酒を煽る旅人。


 誰もが自分の世界に浸っている。カイもまた、自分の殻に閉じこもりたかった。


 不意に、カイの視線が、酒場の奥の一角に釘付けになった。


 そこには、この薄汚れた空間には似つかわしくない、一人の老人が座っていた。濡れたような光沢を放つ上質な外套を(まと)い、美しい白髪を長く伸ばしている。その涼やかな瞳は、磨かれた水晶のように澄み渡り、深い知性と、どこか浮世離れした気配を漂わせていた。


 だが、その顔色は土気色(つちけいろ)で、時折、魂が肉体から遊離したかのようにぼんやりとした表情を見せ、旅の疲労がその老巧(ろうこう)な精神を(むしば)んでいるのが見て取れた。


 その老人の近くへ、二人組の商人が近づいていった。


「これはこれは、お客さん。何かお探しですかな?」


 声をかけたのは、派手な服を着た商人風の男だった。にやにやと笑いながら、老人を値踏みするような視線を向けている。隣には、がっしりとした体格の相棒がいた。

 

 カイは、嫌な予感がした。あの二人組は、以前にも見たことがある。旅人相手に粗悪品を高値で売りつける、質の悪い連中だ。

 

 案の定、商人は懐から何かを取り出した。


 「ちょうど良かった。実は今日、とんでもない掘り出し物を手に入れましてね」


 掌に乗せたのは、紫色の水晶だった。ランプの光を受けて、鈍く光る。


 「魔法の触媒ですよ、旦那。これがあれば、術の威力は三倍増し!いや、五倍も夢じゃない!」


 大袈裟な身振り手振り。如何にも胡散臭い。だが老人は興味深そうに水晶を見つめた。


 「ほう……魔法の触媒か」

 

 「ええ、ええ!北の魔術師から特別に譲ってもらったんです。本来なら金貨十枚の品ですが、旦那には特別に五枚で」


 「五枚か……」


 老人は水晶を手に取り、様々な角度から眺めた。その仕草は真剣そのものだ。


 カイは、スープを飲む手を止めた。胸の奥で、何かが(うず)く。


 あの水晶に、魔力など宿っていない。なぜ分かるのか、自分でも説明できない。だが確信があった。あれはただの石だ。


 綺麗に磨かれ、色を付けられただけの、何の価値もない石ころだ。


 商人はさらに饒舌になった。


 「見てください、この透明度!この色合い!千年に一度しか採れない貴重な品ですよ!」


 カイは、その光景を、まるで自分の過去の愚行を鏡で見せられているかのような苦々しい思いで眺めていた。


 あの手練手管(てれんてくだ)は、市場の詐欺師たちが使い古した常套句だ。


 カイの中で、何かが弾けた。


「……ただの石ころですよ」


 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。

 

 一瞬、店内が静まり返った。商人たちが、ゆっくりとカイを振り返る。その眼は、獲物を見つけた肉食獣のようだった。


 「なんだと、小僧?」


 商人の顔が、見る見るうちに赤くなっていく。隣の大男が、ゆらりと立ち上がった。


 「今、なんつった?」


 カイの心臓が、早鐘を打つ。足が震える。逃げたい。今すぐこの場から逃げ出したい。でも――


 「その石に、魔力なんて……これっぽっちも感じない」


 震える声。それでも、言葉は止まらなかった。あとから考えれば、このときの自分は自棄になっていたのかもしれない。


 商人の相棒が、カイに詰め寄った。胸倉を掴まれ、足が地面から浮く。


 「てめぇ、俺たちの商売にケチつける気か?」


 「や、やめ……」


 後悔を帯びた冷たい汗が、背筋を伝い落ちた、まさにその時だった。


 「おい、騒がしいぞ!何事だ!」

 

 新たな声が響いた。入り口に、屈強な男たちが立ち、鋭い眼光で店内を見渡している。彼らの腕には、精巧な獅子の紋章が縫い取られた揃いの腕章が見える。


 アウレリア王国の商人や職人たちが、それぞれの職業ごとに結成し、互いの利益を守り、時には市場の不正を取り締まる権限をも持つ同業者組合――『アルティ』の見回り組だった。


 カイのような行商人も、彼らの存在を知らない者はいない。下手に目をつけられれば、商売がやりにくくなる厄介な相手だ。


 商人たちの顔色が変わった。慌ててカイを離し、愛想笑いを浮かべる。


 「いえいえ、何でもありませんよ、旦那方」


 「本当か?」


 見回りの一人が、鋭い視線を向ける。商人たちは首を振り、逃げるように店を出て行った。去り際、リーダー格の男が振り返り、カイに向かって口の端を歪めた。


 『覚えてろよ、小僧』


 無言の脅しにカイは身を(すく)めた。



※※※※※※



 見回りも、特に事件がないと判断したのか、店を後にした。再び喧騒が戻ってくる。


 カイは、へたり込みそうになる足を必死に支えた。何てことをしてしまったのだろう。余計なことに首を突っ込んで、恨みまで買って。


 「ありがとう、若者よ」


 顔を上げると、あの老人が穏やかに微笑んでいた。


 「お陰で、無駄な買い物をせずに済んだ」


 「あ、いえ……」


 老人は、思いのほか冷静だった。騙されかけていたというのに、怒る様子もない。むしろ楽しんでいるようにすら見える。


 「しかし、驚いた。あの石に魔力がないと、よく分かったな」


 「え?」


 「魔力の有無というのは、そう簡単に分かるものではない。君は特別な才能があるのかもしれない」


 才能。その言葉は、カイの胸に小さな波紋を起こした。だがすぐに、自嘲の笑みを浮かべる。


 「才能なんて……俺には何も……」


 その時だった。


 「ぐっ……」


 老人が突然、(うめ)き声を上げた。


 「だ、大丈夫ですか!?」


 カイの言葉に答えることはなく、老人は膝から崩れ落ちた。顔面が蒼白になり、額に脂汗が浮かぶ。カイは慌てて駆け寄り、老人を支えた。


 「誰か!爺さんが倒れた!」


 しかし、周囲の客たちは面倒事に関わりたくないとばかりに、視線を逸らす。店主も舌打ちをするだけだ。


 「ちっ、面倒な……おい小僧、あんたの連れだろ?さっさとどうにかしろ。営業妨害だ」


 「連れじゃ……」


 店主の不機嫌そうな声に、カイは口をつぐんだ。このまま老人を放置することはできない。溜息をつき、老人の腕を肩に回した。




※※※※※※




 何とか老人を支えながら、自分の安宿へと連れ帰った。狭い部屋のベッドに老人を横たえ、濡れた布で額を拭く。


 老人の呼吸は浅く、時折苦しそうに眉を(ひそ)めた。荷物の中から水筒を取り出し、唇を湿らせてやる。


 こんなことをしている場合ではない。カイ自身、明日の宿代にも困る身だ。それなのに、見ず知らずの老人の世話を焼いている。


 ふと、老人の荷物が目に入った。上質な革の鞄。中には何が入っているのだろう。


 もしかしたら、金目の物が……。

 

 カイは首を振った。そんなことを考えるなんて、最低だ。


 でも……せめて宿代くらいは……。


 革鞄の古びた真鍮の留め金に、カイの震える手が触れようとした、その瞬間。鞄が、まるで生きているかのように、もぞり、と微かに動いた。


「!?」


 カイは反射的に手を引いた。見間違いか?いや、確かに鞄が動いた。まるで中に何か生き物が――


 その刹那、隙間から、にゅるり、と半透明の、触手とも呼べぬ、しかし明らかに生物の一部と思しき奇妙なものが姿を現した。


 半透明のゼリーのような、ぷるぷると震える物体。形は定まらず、触手のようなものが現れては消える。内部には光る核と、不気味な影が2つ、目のように浮遊している。


 それは、生物と呼んでいいのかさえ分からない、異形の存在だった。


 次の瞬間、それは跳んだ。


 「うわあああああ!」


 カイの顔面に、べちゃりと張り付く。


 鼻を塞がれ、息ができない。冷たくて、ぬるぬるとした感触。振り払おうと手を振り回すが、吸盤のように離れない。


 「ぷるぷる!お腹すいたのー!」


 甲高い声が、頭の中に直接響いた。いや、違う。この生き物が喋っている。しかも、その声は――


 「お兄ちゃん、なんかちょーだい!」


 さっきの悪徳商人の声にそっくりだった。


 パニックに陥ったカイは、壁に背中を打ち付けながら、必死にその生物を引き剥がそうとする。


 「取れろ!取れろ!頼むから取れてくれ!」


 「えー、ヤダー!お腹すいてるのー!」


 今度は子供のような無邪気な声に変わった。ころころと声色を変えるその生物に、カイは恐怖よりも混乱が勝った。


「ふむ、騒がしいな」


 その時、ベッドで寝ていたはずの老人がゆっくりと目を覚ました。何事もなかったかのように身を起こし、カイとその生物を眺める。


 「あんた、この…この気持ち悪いのは一体なんなんだ!」


 カイは半狂乱で老人に詰め寄った。


 「ああ、これはIN212Hと言ってだな…」


 「プリルだよ!」


 生物――プリルはカイの鼻から離れ、ぴょんと床に降り立った。そして得意げに宣言する。


 「プリルはプリルなの!シエルがつけてくれたんだもん!」


 「シエル?」


 カイは混乱の極みにあった。鼻にはまだぬるぬるとした感触が残っている。目の前では、得体の知れない生物がプヨプヨと(うごめ)いている。


 そして老人は、それをまるで日常の光景のように、眺めている。


 「あんた……何者なんだ」


 ようやく絞り出した問いに、老人は優雅に微笑んだ。


 「ベルクト・ファロス。しがない旅の学者だ」


 学者。確かにその風貌は、そう言われれば納得できる。だが――


 「この、プリルってのは?」


 「ああ、これは……まあ、複雑な事情があってな」


 ベルクトは言葉を濁した。プリルは相変わらず「お腹すいたー」と繰り返している。


 カイは深い溜息をついた。どうやら、とんでもないものに関わってしまったらしい。


 「とりあえず……何か食べさせれば、おとなしくなるんですか?」


 「恐らくな。私らはここ数日、まともな食事を取ってなくてね」


 カイは荷物から干し肉を取り出した。プリルはそれを見るなり、歓声を上げて飛びついた。

 

 「わーい!お兄ちゃん、優しい!大好き!」


 干し肉は、プリルの体内に吸い込まれていく。半透明の体の中で、肉が溶けていく様子が見える。気持ち悪いやら、興味深いやら。


 老人は、そんなカイの様子を面白そうに眺めていた。


 「さて、改めて礼を言わせてもらおう」

 

 ベルクトは立ち上がり、深々と頭を下げた。


 「先ほどは助けてもらった。そして今も、介抱してくれている。ありがとう」


 「いえ、その……」


 カイは居心地が悪かった。下心があったことを見透かされているような気がした。


 「礼をしたいところだが、実は今、所持金がほとんどなくてね」


 ベルクトは困ったように笑った。


 「私の持つ魔道具や薬は、本来それ相応の値段で売れるはずだ。だがこの辺境では、私の持ち物の価値を理解してもらえそうにない」


 そう言って、鞄を軽く叩く。カイは再び、微かな力の波動を感じた。あの鞄の中には、確かに何か特別なものがある気がした。


 「そこで提案だが、商業都市テッラローサまでの護衛をしてもらえないだろうか?もちろん、着いた暁には、それなりの謝礼をしよう」


 護衛。カイは自分の貧弱な体を見下ろした。商売もできない自分に、人を守ることなど出来ない。盾にされるのが関の山だろう。


 だが、他に選択肢があるだろうか?


 明日の宿代もない。商売は失敗続き。このままでは、野垂れ死ぬしかない。


「……分かりました。テッサローサまでで良ければ……」


 カイは、小さく頷いた。


 するとプリルは「やったー!お兄ちゃんと一緒だー!」と冷たくも柔らかな体をすり寄せてくる。ぷにぷにした奇妙な感触にカイの全身の産毛が逆立った。


 この時のカイは、まだ気がついていなかった。この小さな決意が、やがて世界そのものを揺るがすほどの激流になるとは。

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ロシナンテのボディは食べる事も売る事もしなかったんですね 切羽詰まり度が低いのか相棒を食糧や現金に変えたく無かったのか
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