第2話 ベルクトの片鱗
朝靄が薄く立ち込める中、一行はアウレリア王国の田舎町を背に、テッラローザへと続く街道を踏み出した。
東の空がようやく白み始め、糸杉の細い影が道に長く伸びている。なだらかな丘陵地帯にはオリーブの畑が点在し、未舗装の道は乾いた土埃を舞い上げる。
カイは先頭を歩きながら、時折振り返って後ろの二人——いや、一人と一匹を確認した。
後ろには、場違いなほど上等な黒い外套を纏った老人と、その肩で揺れる半透明の塊。
老人は優雅に歩いているが、手提げ鞄の持ち方がおかしい。重さを分散させることを知らず、ただ握力だけでぶら下げている。素人だ。
「……なあ」
カイは足を止めず、振り返りもせずに問いかけた。
「テッラローザで、本当に売れるんだろうな。あんたの荷物」
沈黙。ベルクトは空を見上げ、まるで他人事のように答える。
「ふむ、金銭の計算は君に任せるとしよう。私はどうも、そういう細々としたことには疎くてな」
カイのこめかみが、ぴくりと動いた。指が無意識に額を押さえる。
「……売れなきゃ、野垂れ死にだぞ」
「まあ少なくとも、この辺りの無教養な商人よりは、物の価値を理解する者がいるはずだ」
無教養な商人。その言葉が、カイの胸に小さな棘を刺した。自分のことを言われているわけではない——そう分かっていても、喉の奥が苦い。
視線を落とす。自分の履き古した靴が、土埃にまみれている。
そして何よりもカイを落ち着かなくさせるのは、ベルクトの鞄から顔を出したり、カイの肩に突然乗ってきたりと、ちょこまかと動き回るプリルだった。
昨夜、宿で聞いたプリルの声真似——悪徳商人の声を完璧に再現したあの不気味な能力が、どうしても頭から離れない。
その後もプリルは周囲の動物の鳴き真似や、カイが呟いた独り言などを唐突に真似ては、カイを驚かせた。
「……おい」
とうとうカイはベルクトに尋ねた。
「こいつ、なんでこんないろんな声が出るんだ」
ベルクトは、道の脇に咲く名も知らぬ野草の葉脈を熱心に観察しながら、こともなげに答える。
「ああ、あれか。IN212H……いや、プリルだったな。これはな、決まった形を持たないが故に、表面を振動させて音を出している。だから理論上、どんな音でも出せるのだ。」
「プリルはねー、聞いた声、ぜーんぶ覚えちゃうの!」
プリルが甲高い声で答える。
カイは黙って前を向いた。この老人の話は、いつも半分も理解できない。
道中、カイは無意識のうちに、道端を飛ぶ風切鳥の姿を目で追った。
羽ばたきのタイミング。風のあおりを受け、翼がしなる瞬間。その軌道が、妙に目に焼き付く。右の翼が下がった。次は左へ旋回する――
「ほう、あの鳥は興味深い飛び方をする」
ベルクトが突然立ち止まり、カイと同じ方向を見上げた。
「風の律動を巧みに捉えているようだ。見たまえ、翼を広げるタイミングと、風の流れが完璧に調和している」
カイは眉をひそめた。
「律動って、何だ?」
「ああ、そうか。君はまだ基礎的な概念も知らないのだな」
ベルクトは杖を地面に突き、講義でも始めるような口調になった。
「万物は、根源的なエネルギーの流れ、すなわち"律動"によって成り立っている。魔法とは、その律動に自らの魔力で干渉し、望む現象を引き起こす技術なのだよ」
カイは半信半疑で聞き流した。魔法使いをこの目で見た経験は数えるほどだが、誰もが裕福で教養もあった。この不審な老人が、魔法に明るいとは思えなかった。
「この植物の葉脈のパターンは、ある種の術式構造と類似性が見られるな」
ベルクトは道端の雑草を指さし、また独り言のように呟いた。
カイは空を仰いだ。この調子では、テッラローザに着く前に日が暮れるどころか、年が暮れてしまいそうだ。
※※※※※※
夕暮れが近づいた頃、一行は街道から少し外れた森の中で野営の準備を始めた。
カイは慣れた手つきで焚き火の用意を始め、ベルクトは興味深げに周囲の植物を観察している。
「晩飯、何がいい?」
「君に任せるよ」
ベルクトは悪びれる様子もなくそう答えた。彼はカイの手際に感心しているようであった。
カイは小さくため息をつき、腰の小袋から罠を取り出した。
「火を起こすから、その辺でキノコでも採ってきてくれ。……食べられそうなやつな」
「菌類か。嫌いじゃないな」
ベルクトは子供のように目を輝かせ、嬉々として森の奥へと入っていく。その背中を見送りながら、カイの眉間に皺が寄った
しばらくして、ベルクトが両手いっぱいのキノコを抱えて戻ってきた。一目見て、カイは顔面蒼白になる。
「見ろ、この鮮烈な色彩!この種なら目立つから効率的に集められるぞ」
ベルクトが差し出したキノコは、どれも毒々しい赤や紫に彩られていた。中でも特に目を引く黒いキノコを見て、カイは叫んだ。
「……馬鹿か、あんた」
カイの声が裏返った。
「それ全部毒だ! 特にその黒いのは『死の接吻』だぞ。食ったら内臓が溶けて尻から出るんだよ!」
カイは片っ端からキノコを叩き落とした。ベルクトは不満そうに眉をひそめる。
「なぜだ?これほど視覚的に優れた標本を——」
「食うためのキノコを探してこいって言っただろ!」
プリルがケラケラと笑い声を上げた。
「ベルクト、やっちゃったー!カイ、怒ってるー!」
結局、カイは自分で森鼠を狩り、慣れた手つきで解体した。内臓を取り出し、串に刺して火で炙る。
ベルクトは、その手際をじっと見つめていた。
「ふむ、実に効率的だ。君の生活技術は賞賛に値する」
「あんたと違って、俺は生きるために必要なことをやってるだけだ」
カイは肉を裏返しながら、ぶっきらぼうに答えた。誰かから褒められたのは久しぶりだった。
焚き火の傍で、肉を頬張りながら、ベルクトは再び「律動」について語り始めた。
カイは適当に相槌を打ちながら、話を聞き流す。腹が膨れてきたせいか、さっきまでの苛立ちが少し薄れている。
「君は時に、常人では気づかないような物事の本質を見抜くことがある」
ベルクトの言葉に、カイは手を止めた。
「……何の話だ」
「先ほどの鳥だ。君も、あの鳥の飛び方に何かを感じていただろう?」
カイは居心地悪そうに視線をそらした。肩が強張る。
沈黙が落ちたとき、それまで満足気に肉を取り込んでいたプリルが声を挙げた。
「美味しかった! カイ、お礼に歌ってあげる!」
カイは、この妙に人懐っこい奇妙な生き物に、未だ馴染めずにいた。
「……好きにしろ」
投げやりに答える。
「うん、じゃあ始めるねー」
その瞬間。 空気が変わった。
どこまでも透明で透き通るような美しい歌声が、しかし力強く大気を震わせた。
プリルの歌う曲はアウレリア王国では有名な曲だ。カイも旅の吟遊詩人が歌っているのを何度か聞いたことがあった。
だが、カイが知っている安酒場の歌とは違う。
音の一つ一つが、直接脳髄に響いてくる。 哀愁と、底知れぬ情熱。
夜空の星が、そのまま音になって降り注いでくるような感覚。
稀有な才能と果てしない研鑽のいずれが欠けても成立しない歌声だった。
カイは、串を握ったまま動けなかった。
口が半開きになっている。瞬きすら忘れている。
プリルはしばらく歌うと、カイの様子に気づき、満足そうに体をぷるぷると揺らした
。
「どう? まえに聴いた上手な人のマネだよー! すごいでしょ? プリルのこと見直した?」
カイは何も答えなかった。
ただ、その視線がプリルから離れなかった。
※※※※※※
夜の森特有の虫の声、時折聞こえる梟の鳴き声、風が木々を揺らす音だけ聞こえる。
焚き火は小さくなり、熾火が赤い光を明滅させているが、その暖かさも徐々に夜の冷気に侵食されつつあった。
カイは、地面の硬さと夜の冷気を感じながら、なかなか寝付けずにいた。
明日の食料。次の宿場までの距離。ベルクトの荷物は本当に売れるのか。売れなかったらどうする。金が尽きたら——
ふと、荷物の中から何かが月光を反射して光った。以前、商人にクズ石だと言われたあの宝石だった。
カイは宝石を手に取り、月明かりにかざして眺めた。不思議なことに、石の表面がまるで水を纏っているかのように、ひんやりと濡れている。
いや、濡れているのではない。石そのものが、内側から微かに冷気を放っているような——
「……ただの石ころだよな」
カイは呟いた。自分に言い聞かせるように。
「……でも、なんでか、捨てられないんだ」
価値のないものにしがみついている。分かっている。それでも、この石を見ていると、なぜか胸の奥がざわつく。
そのとき、妙な気配を感じた。
虫の声が、いつの間にか止んでいる。風も凪いで、森全体が息を潜めているような不自然な静寂。
カイの全身の産毛が逆立つ。
「……誰かいるのか?」
カイは身を起こし、辺りを見回した。
ベルクトは相変わらず静かに横たわり、プリルも丸くなって眠っているように見える。何も異常はない。
だが、背筋を這う悪寒が止まらない。空気が、重い。
「へへ、こんな爺と餓鬼が野宿とはな。懐の物、全部置いていきな」
突然、闇の中から男たちが五人、姿を現した。
薄汚れた服装に、棍棒や錆びた剣といった粗末な武器を手にしている。
月光に照らされた彼らの顔は、痩せこけているが、獣のようにギラギラと光る目でカイたちを見下ろしていた。
カイの体が硬直した。
足が、動かない。声が、出ない。
咄嗟に眠っているベルクトを庇おうとしたが、膝が笑って一歩も踏み出せなかった。
「く、金なら……少しだけなら……」
震える声が、途切れ途切れに漏れる。
その時、ベルクトが静かに目を開けた。
その瞳は、月明かりが雲間から一瞬差し込んだせいか、驚くほど冷たい光を宿していた。
襲われていることに気づいていないように、無防備に立ち上がる老人。野盗の一人が嘲笑うような声をあげた。
「なんだ爺さん、命が惜しくないのか?」
ベルクトは、汚いものを見るように野盗たちを一瞥した。
そして、埃を払うように、指先を軽く振るった。
音も、光も、何の前触れもなかった。
ただ、空気が一瞬、歪んだように感じられた。
野盗たちの顔から、一斉に表情が消えた。
リーダー格の男が、何かを叫ぼうとして口を開いたまま、膝から崩れ落ちる。
二人目の男は、まるで糸が切れた人形のように、音もなくその場に倒れ伏た。
突然の出来事に残りの三人は声を失い、数歩遠ざかるが、一人、また一人と…まるで重力に逆らうことを忘れたかのように、地面へと倒れていく。
「な、なんだ……?」
カイは震えながら、最も近くに倒れた野盗に這い寄った。
恐る恐る、その呼吸を確かめる。
「……死んでる」
声が掠れた。
血は一滴も流れていない。外傷もない。
まるで、安らかに眠っているかのような表情で——しかし確実に、彼らは死んでいた。
カイは恐怖でガタガタと震えながら、ベルクトを見上げた。
「あ、あんた……何を……」
ベルクトは、崩れ落ちた野盗たちを一瞥し、カイの反応を静かに観察しながら、淡々と答えた。
「彼らの魂魄の律動を少しばかり停止させただけだ」
その言葉は、まるで朝食の献立でも説明するかのように淡々としていた。
「生命活動を維持させながら意識だけを奪うのは、些か手順が複雑でね。彼らが我々にそれほどの手間をかけさせる価値があるとは思えん」
この老人にとって、眼の前の野盗たちは纏わりつく虫と変わりないのだ。
「カイ、大丈夫?」
プリルがカイの腕にそっと触れた。その小さな体は、心配そうに震えている。
「プリル怖かった……。でも、カイが無事でよかった……」
※※※※※※
カサカサ。
静寂の中、乾いた音が響く。
カイは野盗の死体を漁っていた。
手が震える。吐き気がする。だが、生きるためだ。仕方ない。そう自分に言い聞かせた。
しかし、出てきたのは、ガラクタばかりだった。
錆びた農具を改造した粗末な武器、カビの生えたパンの欠片——そして、破れて泥に汚れた小さな子供の靴。それだけだった。
ベルクトは、カイが野盗の持ち物を漁るのを、特に興味も示さず、かといって咎めるでもなく、ただ静かに見ていた。
しかし、カイが子供の靴を手に取り、動きを止めているのを見て、初めて口を開く。
「重税で土地を奪われ、家族を飢えさせ、最後は盗賊に身を落とす。この国ではよくある話だ」
その言葉には、何の感情も込められていなかった。ただ、事実を述べているだけのように聞こえた。
カイは何も言えなかった。靴をそっと元の場所に戻す。
「ところでカイ、君は彼らが近づいてくるのに、なぜ気がついた?」
突然の質問に、カイは戸惑った。
「え? それは……なんとなく、空気が変わったというか……」
うまく説明できない。肌が粟立つような、空気が重くなるような感覚。
ベルクトの瞳に、鋭い光が宿った。
「ふむ。やはりそうか」
ベルクトは静かに立ち上がり、カイの傍に歩み寄った。
「世界には時々、律動に関する不思議な感受性を持つ者がいる。『祝福』と呼ばれる稀有な才能だよ、カイ。君は、世界の"律動"を——その流れや淀みを、他人よりも敏感に感じ取ることができるようだ。『共鳴感知』とでも呼ぶべきか」
カイの肩に、ベルクトの手が置かれた。
その手は、先ほど五人の命を奪ったとは思えないほど、穏やかで温かかった。
「それだけでは大きな力ではないが、磨けば面白い武器になる。配られたカードを上手く使うのが人生のコツというものだ。君のカードは、決して悪くない」
カイは何も言えなかった。
ただ、肩に置かれた手の温もりだけが、震えを少しずつ鎮めていった。
※※※※※※
夜が明け始めた頃、カイはまだ野盗たちの死体の傍に座り込んでいた。
「さて、そろそろ出発しようか」
ベルクトが促すが、カイは動けなかった。
「……なあ、ベルクト」
荷物をまとめながら、カイは口を開いた。
「その……」
言葉が詰まる。視線が泳ぐ。
「……助けてくれて、ありがとう」
ベルクトは意外そうな顔をし、そして微かに笑った。
「礼を言われるようなことではない。君がいなければ、テッラローザまで辿り着けん」
相変わらず素っ気ない物言いだったが、その言葉にはかすかな温かみがあった。
カイはふと、気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、ベルクトはなんで旅をしているんだ?」
「……私の長年の研究も、いよいよ最終段階に入っている。どうしても必要な最後の“サンプル”が存在するのだ。それを探す旅、いわば最後のフィールドワークといったところだな」
ベルクトの話はほとんど理解できなかった。だが、その瞳の奥に、何か尋常ではないものが燃えているのは分かった。
彼が真実を話していると、カイは直感した。
朝日が昇り始めた。
カイは深呼吸をし、歩き出した。後ろからベルクトとプリルがついてくる。
「テッラローザまで、あとどれくらいだ?」
ベルクトが尋ねる。カイは前を向いたまま答えた。
「……順調にいけば、あと三日ってところだ」
「ふむ、それまでに君の『共鳴感知』について、もう少し詳しく調べてみたいものだな」
「……勝手にしろ」
カイはぶっきらぼうに答えた。
足元の道は、相変わらず土埃にまみれている。
だが、朝の光が差し込んで、その色が少しだけ明るく見えた——ような気がした。




