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橄欖色のアーカイブ  作者: 藍川 卯木子


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24/24

第24話 4月21日 宵月家 邸宅 夕方

 宵月の家は、一目で名家とわかる、風格ある和風の屋敷だった。

 門をくぐった瞬間、空気がすっと澄む。

 石畳が庭の奥へと伸び、その両脇には丁寧に手入れされた松や四季の草花が並んでいる。池のほとりには古い灯籠が静かに佇み、景色全体が一枚の日本画のように調和していた。


「……宵月さんらしい家ですね」


 思わず漏れた言葉に、宵月は足を止めることなく振り返る。


「そうか?」

「はい。派手じゃないのに、すごく落ち着きます」


 宵月はそれ以上何も言わず、静かに玄関へ向かった。

 引き戸を開けると、木の香りがふわりと漂う。


「ただいま戻りました」


 ほどなくして、奥からエプロン姿の女性が姿を現した。

 小柄な体つきながら背筋はぴんと伸び、柔らかな笑みがよく似合う。


「あら、お嬢様。お帰りなさいませ。お夕飯はいかがなさいますか?」

「いただきます。今日は客人が泊まります。その分もお願いします」

「あら、それは珍しいこと」


 女性は嬉しそうに目を細めると、アルスとソノラへ丁寧に頭を下げた。


「初めまして。私はこの家に仕えております亀子と申します」

「環アルスです。この子はソノラです。お世話になります」


 頭を下げ返すと、亀子はにっこりと微笑んだ。

 その笑顔には、どこか人を安心させる温もりがあった。


「お部屋は私がご案内いたしましょうか?」

「いえ、私が行きます。亀子さんは夕飯の支度を。今日も楽しみにしています」

「ふふ、それは腕が鳴りますねぇ」


 上機嫌で台所へ向かいかけた亀子が、ふと思い出したように振り返る。


「ところで……その方、お嬢様のお友達ですか?」


 一瞬だけ、宵月が言葉を置いた。


「……違います」


 静かな声。


「任務です」

「あら、そうでしたの」


 亀子は意味ありげに微笑む。


「アルス様、ソノラ様、ごゆっくりお過ごしくださいませ」


 そのまま台所へ消えていく後ろ姿を見送りながら、アルスは自然と頬を緩めた。

 まるで本当の祖母のような人だ。


「こちらだ」


 宵月に案内され、屋敷の廊下を歩く。


「今使用出来る客間は三部屋ある。好きな部屋を使ってくれ」

「三部屋もあるんですか」


 最初の部屋へ入った瞬間、思わず足が止まる。


「……広い」


 整えられた畳。

 重厚な座卓。

 床の間には掛け軸と生け花が飾られ、旅館の特別室を思わせる空間だった。


「高級旅館みたいですね」

「ここにするか?」

「えっと……少し待ってください」

「他も似たようなものだが」


 ありがたい。


 ありがたいのだが――。


「あの……もう少し小さい部屋はありませんか?」


 宵月は不思議そうに首を傾げた。


「狭い方がいいのか?」

「はい。普段の部屋との差がありすぎて、落ち着かなくて……」


 しばらく考えた宵月は、小さく頷く。


「あるにはある。ただ、かなり狭い」

「ぜひお願いします」


 二人はさらに屋敷の奥へ進んだ。

 長い廊下の突き当たりで宵月が立ち止まる。


「ここだ」

「え? 壁しか……」


 宵月が壁を押す。

 すると、壁の一部が音もなく横へ滑った。


「隠し扉……!?」

「この屋敷で仕掛けがあるのは、ここだけだ」


 中へ入る。

 そこはアルスの部屋より少し広い程度の和室だった。

 小さな窓から柔らかな光が差し込み、一幅の掛け軸には『大和心』と墨で力強く記されている。

 華美な装飾はない。

 それでも、不思議と心が落ち着く空間だった。


「この部屋にします」

「本当にいいのか?」

「はい。理由は分かりませんけど……ここ、すごく好きです」


 宵月は部屋を見回し、小さく頷いた。


「祖父の部屋だった」

「お祖父さんの?」

「瞑想や考え事をするときは、いつもここに籠もっていた」


 少しだけ間を置いて付け加える。


「面倒な家族から逃げるためだったらしいが」


 思わず笑みがこぼれた。


「他のご家族は、この部屋を?」

「知らない。知っているのは祖父と私だけだ」


 宵月は掛け軸へ静かに目を向ける。


「祖父は数年前に亡くなった。今は空き部屋だ」

「そんな大切な場所を、僕なんかが使っていいんですか?」

「祖父が一番落ち着ける場所だった」


 宵月は穏やかに微笑む。


「君も気に入ったんだろう?」

「……はい」

「なら、祖父も喜ぶ」

「ありがとうございます」


 アルスは深く頭を下げた。


「夕飯になったら呼びに来る」

「お願いします」


 宵月が部屋を出て行く。

 アルスはリュックを下ろし、そのまま畳へ寝転んだ。

 天井を見上げると、張り詰めていた緊張が少しずつほどけていく。

 隣ではソノラが体育座りをしたまま、静かにアルスを見つめていた。

 昨日から起きた出来事は、どれも現実とは思えない。

 それでも、この静かな部屋だけは、不思議なくらい心が落ち着いた。

 コンコン、と控えめなノックが響く。


「はい」

「夕飯ができた」


 扉を開けると、宵月が大きな布団を抱えて立っていた。


「寝る時はこれを使ってくれ」

「ありがとうございます……うわっ、重い!」


 見た目とは裏腹に、ずしりと腕へ重みがのしかかる。


「祖父が使っていた布団だ」

「だからこんなにしっかりしてるんですね」

「質はいい」

「寝るのが楽しみです」


 ほんの少しだけ宵月の口元が緩んだ。


「食堂へ行こう」

「はい」


 食堂へ入ると、思わず目を奪われた。

 炊き込みご飯に焼き魚。

 湯気の立つ味噌汁。

 彩り豊かな煮物や和え物が、食卓いっぱいに並んでいる。


「すごい……」


 昼から何も食べていなかったことを思い出し、腹の虫が鳴いた。


「さあ、温かいうちにどうぞ」


 亀子が炊き込みご飯をよそって差し出す。


「今日は鶏肉としめじ、それから生姜を効かせていますよ」

「いい香りですね」

「亀子さんの炊き込みご飯は絶品だ」


 宵月が静かに言う。


「もちろん他の料理も美味しい」

「そんなふうに言っていただけると嬉しいですねぇ」


 亀子は照れくさそうに笑った。

 その時だった。


「お嬢さんも召し上がりますか?」


 ソノラは料理をじっと見つめている。


「ソノラ、ご飯食べる?」


 アルスが一口食べたのを見届けると、ソノラは迷わず筍の煮物へ手を伸ばした。


「わっ、ソノラ! 手じゃなくて――」

「大丈夫ですよ」


 亀子は優しく笑い、子ども用のフォークを差し出す。


「これを使ってみましょうか」


 ソノラはフォークとアルスの顔を交互に見つめる。

 そして、小さく頷くようにフォークを握り直した。


「そうそう。そのお皿から食べてくださいね」


 アルスは胸を撫で下ろした。


「ありがとうございます」

「シジミのお味噌汁もどうぞ」

「いただきます!」


 炊き込みご飯は香ばしく、味噌汁は体に染み渡る。

 煮魚も副菜も、一品一品に丁寧な仕事が感じられた。


「ごちそうさまでした!」

「お粗末さまでした」

「本当に美味しかったです。食べ過ぎちゃいました」


 ぽん、とお腹を叩くと、亀子が嬉しそうに笑う。


「明日の朝も楽しみにしていてくださいね」

「はい!」


 食堂を出ると、アルスは自然と笑顔になっていた。


「亀子さん、本当に素敵な方ですね」

「ああ」


 宵月は静かに頷く。


「幼い頃から、実の子どものように育ててくれた」

「大好きなんですね」


 少しだけ照れたように目を伏せる。


「……そうだな」


 短い返事だったが、その一言だけで十分だった。


「ご家族は?」

「今は公演中だ」

「公演?」

「宵月家は舞踊の一族だ。各地を巡って舞台に立っている」

「宵月さんも?」


 ほんの少しだけ沈黙が流れる。


「いや」


 首を横に振った。


「私は向いていなかった」


 その声に後悔は感じられない。


「兄たちが継いだ。私は今の方が気楽だ」


 アルスは余計なことを聞いてしまったかと思ったが、宵月は穏やかな表情のままだった。


「機会があれば兄たちの舞台を見てくれ。本当に美しい」

「ぜひ見てみたいです」


 部屋へ戻ると、眠気が一気に押し寄せてきた。


「何かあれば私か使用人を呼べ」

「わかりました」

「今日は疲れただろう。おやすみ」

「おやすみなさい」


 宵月を見送ると、アルスは布団を二枚敷き、ソノラをそっと寝かせた。

 けれど彼女は目を閉じようとしない。


「どうしたら寝てくれるんだろう」


 考えても答えは出ない。

 部屋の灯りを消し、月明かりだけが畳を淡く照らす。


「おやすみ。ゆっくり休んでね」


 そう囁いた途端、ソノラは安心したように瞼を閉じた。

 その寝顔を見届けると、アルスもようやく張り詰めていた力を抜く。

 今日という長い一日が、静かに幕を下ろした。

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