第65話 モルガ・カービー編 12
開店三分前。
カフェ・ラートの店内には、焙煎されたてのコーヒー豆の香ばしさと、ほんのり甘く刺激的なシナモンの香りがふわりと広がっていた。
木の床が朝の陽射しを受けて柔らかく光り、白いカーテンが静かに揺れている。
一方でモルガの胸は高鳴り、手のひらにはうっすら汗が滲んでいた。初めての接客、初めてのカフェ。お客さまに失礼のないように——そう思うほど、体はこわばっていく。
そんな様子を見ていたアルスが、さりげなく彼女の背を軽く叩いた。
「今日は僕がずっとそばにいるから、安心して。困ったら何でも聞いて」
「はいっ! ありがとうございます!」
「じゃあ、看板出しに行こうか」
モルガは元気よく頷き、アルスと並んで店の入口へ向かう。
本日のおすすめメニューが描かれた黒板を掲げ、ドア横に掛かっていた「CLOSED」の札をくるりと裏返して「OPEN」に変える。
扉を開け放つと、外の朝の風がふわりと流れ込み、店内の香りをやさしくかき混ぜた。
やがて一人、また一人とお客が訪れる。平日の朝とあって、来店するのは仕事前のテイクアウト客がほとんど。だが中には、コーヒーを片手にゆったりと朝の時間を楽しみに来る常連もいた。
「お、新人さんかい?」
カウンター席に腰かけた初老の男性が、にこにことモルガに声をかけた。白髪混じりの髪に帽子をかぶり、読む新聞を膝の上に置いている彼は、ラート開店当初から通う常連の一人だ。
「はいっ! モルガ・カービーと申します。今日が初日なんです。よろしくお願いいたします!」
モルガが少し緊張しながらも元気よく答えると、男性は目を細めて笑った。
「いい声だね。朝にぴったりの明るさだ。じゃあ今日はブレンドコーヒーと、ベジタブルサンドをお願いしようかな」
「はい、ブレンドコーヒーとベジタブルサンドですね。ミルクとお砂糖はおつけしますか?」
「うん、両方頼むよ」
「かしこまりました!」
モルガは感熱式の伝票に注文内容を丁寧に書き込み、一枚をミシン目から剥がしてテーブルの伝票入れに差し込む。そして、伝票の控えを手に、キッチンカウンターの方へ向かった。
「ブレンドコーヒーとベジタブルサンドです。ミルクとお砂糖もお願いします!」
「了解」
雪緒が静かに頷くと、手にした伝票をキッチンへと回し、自身はコーヒーの準備に取りかかった。
豆を計り、挽く。手慣れた所作で、香りがさらに広がり、ラートの空気に一層深みが加わっていく。
あっという間にピークは過ぎ、いつの間にか昼過ぎになっていた。
忙しかったランチタイムの熱気がようやく引いて、店内にはゆったりとした空気が戻りつつある。
午後のひと息ついたタイミングで、アルスはモルガに声をかけた。
「モルガさん、接客すごくよかったよ」
「えっ、でも……ミルクのこととか、伝え忘れそうになって。もっと落ち着いて対応できるようにならないとって……」
モルガは頬を赤らめながら、小さく視線を落とした。するとアルスは、少し笑いながら肩をすくめた。
「それでも十分上出来だよ。僕なんて初日は、お盆持ったまま思いっきり転んだんだ。ミルクどころじゃなかったよ」
思わず笑ってしまったモルガに、アルスもつられて笑う。そんな他愛ないやりとりの中に、ほんの少しだけ、緊張がほどけていくのをモルガは感じていた。




