第二百三十六話:想いと願い
かつて、沙織は博孝に対して語ったことがある。それは訓練生時代、沙織が自身の力を高めることだけに邁進していた頃の話だ。
当時の沙織は力だけを求め、周囲に対しては噛み付くような態度を取っていた。しかし、そんな沙織にも気にかかる相手がいたのだ。
それは二人の訓練生――博孝と里香だ。
博孝はES能力を使えずとも心折れることなく、体術の訓練に励むその在り方が自分と重なって見えたから。そして、里香は“苦手”だったから。
現在の里香はともかく、昔の里香は気が弱いところがあった。小動物のようにビクビクとしており、それでいて沙織に非があった場合にじっと見つめてくるあの瞳がどうにも苦手だったのだ。
気性は沙織と正反対であり、周囲の和を重んじ、静かに微笑んでいるような少女だった。外見も性格も行動も、沙織には真似ができないような“女の子らしさ”が滲んでいた。
簡単に言えば、自分にないものを持っている里香にどう接すれば良いか沙織はわからなかったのである。冷たく当たってもどこか悲しそうに微笑むだけで一歩も下がらないその姿は、沙織からすれば得体の知れない生き物に見えてしまった。
紆余曲折を経て里香とは親友に――初めて得た同性の親友になったが、里香に対する印象が拭えたかといえばそうではない。自分に持っていないものを持っているというのは、それだけで目を惹く。
優しく、料理が得意で、控えめでありながら芯を持ち、必要とあれば必要なことを口にできるその姿は、沙織とは大きく異なる。
沙織も料理はできるが、それは生きるためにやむなく身につけた技術だ。幼い頃はともかく、物心がついた頃には両親からの扱いも冷たいものになっていたため、必要に迫られて覚えただけである。
その点、里香は料理人になろうとしていただけあり、他者のために振るえる料理を作るのが得意だ。その味は里香の人柄が宿ったように優しいものであり、沙織は密かに尊敬している。
『ES能力者』としての方向性が沙織とは真逆なのも気を惹く点だろう。沙織は相手を傷つけ、里香は相手を癒す手段に重きを置いている。また、特例として参謀かつ軍医という職に就いたことも明確な差だろう。
情報を整理し、細かい作戦を立てるのは苦手な沙織にとっては、余計に頭が上がらない。
沙織は自分のことを前線に飛び出して刀を振るうことぐらいしかできない、と思っている。昔に比べれば落ち着いたものの、強い者に出会えば戦いたくなり、劣勢だろうと戦いを楽しんでしまう性があった。
しかし里香はそんなことはない。戦闘能力では遥かに劣るだろうが、それを他の面で補うだけの強さがあった。
――単純に言うならば、沙織はそんな里香に対する憧れがあったのだ。
自分にはできないことができる。それが沙織にとっては羨ましく、同時に誇らしい。沙織が初めて心を許した親友は、里香は、『こんなにすごいのだ』と、博孝に対する心情とは別の敬慕がある。
“だからこそ”、博孝の告白を受けた時は沙織も驚いた。沙織の目から見ても博孝と里香の仲は良好であり、互いに憎からず思っていたように思う。
博孝と里香が共に立つその姿があまりにも自然で、沙織はそんな二人の姿を見るのが好きだった。同時に胸が軋むように疼いたが、他の者ならばともかく、里香ならばとも思っていたのである。
博孝に対しては愛慕と信頼を、里香に対しては友愛と敬意を抱いていた。だからこそ、もしも博孝の隣に立つのが里香だったならば沙織は後悔しなかっただろう。相手が里香ならば納得できて、胸はきっと痛むけれど、それは耐えられる痛みだったはずだ。
だが、博孝が選んだのは沙織だった。そのこと自体は嬉しく、博孝の告白を受け入れたことにも後悔はない。むしろ、これまで生きてきた中で最も嬉しく、輝かしい出来事だったと断言できる。
もしも沙織に後悔することがあるとすれば、それは――。
即応部隊の寮は三階建てであり、一階は管理室や食堂、救護室や売店が存在し、二階は男性用の部屋、三階は女性用の部屋となっている。しかし、階段を登れば屋上に上がることもでき、里香は沙織を屋上へと誘った。
コツコツと靴の音を立てながら、沙織と里香は階段を登る。その間二人は無言であり、沙織は僅かに緊張をしながら先を行く里香を追う。屋上へ続く扉を開くと夕陽が差し込み、沙織は思わず目を細めてしまった。
無意識の内に右手に提げた『無銘』を布袋越しに握り締め、鞘が僅かに軋んだ音を上げる。しかしそれに構わず屋上へと足を踏み入れると、ここにきてようやく里香が振り返った。
「…………」
両者とも無言であり、金属製の扉が閉まる音だけが響く。思いの外風が強いが、もしも階下に人がいても風の音に紛れて会話が聞こえることはないだろう。
里香は今日も仕事だったため野戦服を着ており、それに対する沙織は私服姿だ。動きやすいようにと下はズボンを穿き、上は長袖の上にコートを羽織っていた。
「それで……話って?」
わざわざ人目のつかないところに呼んだ以上、ただの世間話ということはあるまい。沙織は口の中が渇いていくのを実感しつつも尋ねると、里香は小さく頷いてから視線を逸らした。
「最初に聞いておきたいのは……」
里香も平常ではないのか、声が僅かに震えている。
「――沙織ちゃんは、博孝君と付き合ってるんだよね?」
逸らしていた視線を真っ直ぐ沙織に向け、里香が尋ねた。その問いかけを受けた沙織は何故か言い訳をしたい気持ちになりつつも、誤魔化すことなく頷く。
この場で誤魔化すことも、嘘を吐くことも、沙織にはできそうになかった。
「ええ……この前の休暇に、想いを伝え合ったわ」
「……そう、なんだ」
その返答を聞いた里香は、小さく呟いて視線を床に落とす。風に煽られて髪が乱れているが、それに構う様子もない。肩が震えているように見えるのは、沙織の目の錯覚ではないだろう。
そんな里香の姿を見た沙織は、胸が締め付けられるような感覚を覚えながらも視線を逸らさない。今視線を逸らすのは失礼だと、そう思ったから。
里香は何度か深呼吸をすると、顔を上げて沙織と視線を合わせる。その瞳に浮かんでいたのは決意であり、僅かな涙。
「少し……うん、少しだけ愚痴を吐いてもいいかな?」
「……ええ」
言葉少なく頷く沙織に、里香は『ありがとう』と呟く。そして大きく息を吸いこむと、万感の思いを込めて声を吐き出した。
「わたしね、博孝君が好き」
「――――」
里香の言葉に、沙織は何も答えない。その気持ちを、想いを、沙織は知っていた。いくら色事に鈍い沙織でも、里香の気持ちはわかっていた。
それでも絶句したのは、自分が里香から博孝を“取り上げた”のだと思い知らされたからだ。
里香はぽつぽつと、遠い思い出を語るように言葉を紡いでいく。
「訓練校では席が隣で、博孝君はあの性格だからわたしにもよく話しかけてくれて、時々からかって……命を救ってくれて。自分の目標に真っ直ぐ進んで、そのために毎日眠る時間すら惜しんで訓練をして……」
里香はまっすぐに沙織を見ていた。そんな里香の視線を正面から受け止め、沙織は何も言わない。
「いつの間にか好きになってた……自分でも驚くぐらいに、どうしようもないぐらいに。隣に立ちたい、博孝君の傍にいたいって……心から思ってた」
その言葉で限界だったのか、里香の目に溜まっていた涙が一筋、静かに流れ落ちる。それが引き金になり、沙織の口は勝手に動いていた。
「里香……ごめ――」
「謝らないでっ!」
しかし、咄嗟に口から出ようとした謝罪の言葉は里香らしからぬ怒声で掻き消される。里香は自分の頬に伝う涙を拭うと、そのまま顔を両手で覆った。
「謝らないで……謝っちゃ、だめ……これはただの八つ当たりで、沙織ちゃんは何も悪くないんだから……」
それはまるで自分に言い聞かせているようでもあり、沙織はゆっくりと里香に近づいていく。そして涙を拭う里香を抱き締めると、切なさを含んだ声をかけた。
「それでも、やっぱり言うわ……ごめんなさい、里香」
里香を抱き締めたまま、沙織は“後悔”の念を浮かべる。少なくとも、里香とだけは言葉を交わしておくべきだった。博孝から告白を受けた後、後ろめたさを押し殺してでも話すべきだった。
たしかに里香の言う通り、沙織が謝る筋合いはないのだろう。博孝と里香は仲が良かったものの恋仲ではなく、二人の間にあったのは友人関係だった。
だが、里香は博孝を想っていた。沙織も博孝のことを想っていたが、“どちらが先か”で言えば里香の方が先で、結果として後から博孝に惚れた沙織が恋仲になっている。
もしも里香が赤の他人だったのならば、沙織もそこまで気にすることはなかった。だが沙織にとっては里香も大事であり、これまで里香が積み重ねてきた博孝への想いを無視することはできない。
「……沙織ちゃんが悪いって思うのなら、一つだけでいいから、お願いを聞いてくれる?」
そして、沙織は同時に思う。もしも自分がいなければ、博孝の隣に立っていたのは間違いなく里香だったのだろう、と。
「わたしにできることなら」
真摯に答える沙織に対し、里香が望んだのはたった一つ。
「――博孝君を守ってあげて」
その言葉を聞いて、沙織は無性に泣きたくなった。
ここまで里香は“恨み言”を何一つ言っていない。博孝が好きで、しかしそんな博孝に想いを告げることができなくて、苦悩し続けた里香自身に対する愚痴しか言葉にしていなかった。
沙織が負い目を感じていることも、里香は察している。だからこそ、里香は涙を拭って顔を上げ、決然とした表情で告げた。沙織がこれ以上負い目に感じないようにと、告げた。
「博孝君の隣に立つのなら、絶対にその手を離さないで。一緒に道を歩むのなら、絶対に離れないで。どんな危険が立ちふさがっても、一緒に立ち向かってあげて」
そこまで言って、里香の視線が強さを増す。その視線を受けた沙織はかつてないほどの胸が痛んだが、目は逸らさない。里香の吐露する想いと言葉は、余さず受け止めたいと思った。
そんな沙織の態度に、里香は自分を抱き締めている沙織の胸に顔を埋めて視線を隠す。
「わたしじゃ無理だった! わたしは弱くて! 博孝君の隣には立てなくて! 敵に捕まって博孝君を危険に晒したこともある! わたしのせいで博孝君が死に掛けたこともある!」
まるで血を吐くように、里香は叫ぶ。
「博孝君の隣に立つには力が必要なのに、わたしにはないっ! 力以外の何かで隣に立ちたかったけどそれは敵に通用しなくて! 博孝君が本当に危険な時、その隣にいることができない!」
認めたくはない。だが、認めなくては前に進めない。
――自分では、どう足掻いても博孝の隣には立てないのだと。
「だから……だからっ! 絶対に博孝君の手を離さないで!」
それだけを叫び、里香は荒い息を吐く。それは里香の心からの『願い』であり、沙織は里香がここまで悩んでいたことを見抜けなかった自分が情けなくなった。否、見ようとしなかった自分が腹立たしかった。
「ええ……」
唇を噛み締め、沙織は頷く。
沙織ならば博孝の隣に立ち、共に戦い、その身を守ることができる。だからこそ里香は願い、託せるのだ。
自分にはできないことだが沙織ならば――里香の“親友”ならば成し得ると。博孝の隣に立って、その身を守ってくれると。
そんな里香の心情を受け、気が付けば沙織の両頬にも涙が伝っていた。一度は流した涙を堪える里香とは対照的に、沙織の涙は止まらない。
この状況にあってなお、里香はその優しさを見せている。沙織には『お願い』と言っているが、その内容は『何があっても博孝と共に在ってほしい』という願いだ。
想い人と恋敵が共に在れと、何があろうと二人の手が離れないようにと、里香自身の想いに蓋をしてでも願う。
悔しくないのか――悔しくないはずがない。
悲しくないのか――悲しくないはずがない。
しかし、だ。博孝が想い人ならば、沙織は親友だ。博孝の隣に立つことができる、自慢の親友だ。だからこそ沙織にならば託し、願える。
――恋い焦がれた想い人との成就を、祝うことができる。
「二人が幸せにならなかったら……絶対に許さないから」
「うん……ありがとう、里香」
ごめんなさいではなく、ありがとう。謝罪よりも感謝の言葉を告げ、沙織は里香の体を強く抱き締めた。
(やっぱり、勝てないな……)
涙を堪え続けている里香を抱き締めながら、沙織は心の中で呟く。もしも沙織が里香の立場だったら、どうしただろうか。悔し涙を流してなお、祝福することができただろうか。
それは沙織にもわからない。だが、それを考えることすらも里香に対して失礼だろう。里香は自分のことを強くないと言うが、沙織からすれば自分以上に“強い”と思った。
里香を抱き締めていた沙織は静かに身を離し、握りっぱなしだった『無銘』をさらに強く握る。そして里香に力強い視線を向け、誓うように言った。
「約束するわ……わたしは、絶対に博孝を守り通す。この刀に……いえ、里香に誓って、必ず」
己の手に慣れ親しんだ『無銘』よりも、里香に対して誓いを立てる。里香の願う通り、博孝の隣に立って守ると宣誓する。
そんな沙織の宣誓を聞いた里香は、少しだけ目を擦ってからはにかんだ。
博孝に直接言える勇気がない自分を、許してほしい。ただ、博孝にこれ以上の“重荷”を背負わせたくない。それが里香の願いでもあり、沙織の負い目を祓う一助でもあった。
もしも里香が伝えずとも、博孝は里香の想いを察していただろう。訓練生時代に他の女生徒に気付かれていたことを、博孝が気付かないはずもない。
それでも何も言わず、何の行動もしなかったのは、博孝が危険な立場だからだ。
例え博孝の弱点になろうと想いを伝えることができたのならば、結果は変わったかもしれない。博孝が隣に立てる者だけを選ぼうとしなければ、違った未来があったかもしれない。
胸に抱いた想いをすぐに忘れることはできないだろう。これからの博孝と沙織を見て、胸を痛めることもあるだろう。しかし、一途に想いを向けた相手が無事に、幸せに生きていけるのならば、いつの日か胸の痛みも思い出に変わる――かもしれない。
「お願いね……でも、沙織ちゃんも無茶はしないでね?」
「わかったわ。無理はするかもしれないけど、それは勘弁してね?」
里香は己の心に蓋をして、沙織と共に笑い合う。そんな里香の気持ちを察した沙織は、心の中でもう一度誓った。
――絶対に博孝を守り抜く。
そう願う沙織と里香を、沈み行く夕日が静かに照らしていた。
「…………」
そんな沙織と里香の会話を扉越しに聞いていた博孝は、無言でその場を離れる。
希美と共に即応部隊の基地に帰ってきたが、寮の屋上に沙織と里香の『構成力』があるにも関わらずほとんど動かないことを疑問に思い、足を運んだのだ。
寮の三階は女性用のエリアのため足を踏み入れることができないが、階段を登って屋上に行く分には問題がない。妙な焦燥感もあったため確認に向かったのだが、二人が話していたのは博孝に関わることだった。
途中からしか話は聞いていないが、金属製の扉越しに聞こえた話をつなぎ合わせれば話の全貌が見える。最初は立ち去るべきだと思ったのだが、足が凍りついたように動かなかった。
(里香……)
己の力不足を嘆き、それでも博孝の隣に立とうとした里香。『支援型』としては優れているものの、戦闘能力というわかりやすい分野では望んだ通りに成長できず、博孝の隣に立つことができなかった――と、本人は言っている。
そんなことはないと声をかけたかった。里香は強いのだと言いたかった。
しかし、博孝にその資格はない。『天治会』に狙われているという自分の立場を枷にして、里香の想いに目を向けることすらできなかった。
もしも博孝の立場が安穏としたものならば。もしも里香よりも沙織に惹かれていなければ。あるいは違った未来があったのかもしれない。
だが、博孝は沙織を選んだ。沙織への好意、沙織への愛情で、自ら決断したのだ。沙織と共に生きたい、沙織と共に道を歩んでいきたいと、願ってしまったのだ。
そしてその願いは叶い、晴れて恋人同士になった。
(手厳しく振るのも一つの優しさ、ね……そいつは難しいですよ清香さん)
つい先ほど清香に言われた言葉を思い出し、博孝は拳を握り締める。沙織のことが好きだからといって、里香のことをどうとも思わないわけではない。
IFの話ではあるが、もしも博孝が『ES適合者』にならず、平和な世界で里香と出会っていれば、間違いなく惹かれていたはずだ。
現状とて里香のことが嫌いなはずもなく、むしろ好きだと言えるだろう。戦闘能力に優れているわけではないが、里香が立案した作戦ならば迷うことなく命を賭けられるほどに信頼してもいる。
友人として、同じ釜の飯を食べて過ごした同期として、同じ部隊の仲間として、里香に悪感情を抱く要素はなかった。だからこそ里香の想いと言葉は博孝の胸にも強く圧し掛かり――。
「……いや、それこそ里香に失礼な話だな」
沙織と同じように、博孝もありがとうと呟く。博孝と里香の運命が交差することはなかったが、里香にそこまで想ってもらえたことは嬉しく、誇らしい。
沙織が里香に誓ったことを破らせないためにも、よりいっそうの修練が必要だろう。里香が安心できるように、もっと強くなりたいと思った。
そんな決意を胸に、博孝は階下へと下りていく。さすがにこのタイミングで屋上に足を踏み入れることなどできるはずもない。里香への感謝を抱きつつ、小さな足音を立てながら博孝は自室へ向かう。
――沙織と里香が留まる屋上から遠ざかる足音は、“二つ”だった。




