第二百三十五話:不協和音 その3
博孝が丸山清香という女性と共に過ごした期間は、およそ一ヶ月。『ES適性検査』によって『進化の種』に適合した博孝の検査に立ち会い、何かにつけて世話を焼いてくれたのである。
それは清香にとっても任務の一環だったのだろうが、博孝からすれば初めて身近に接した『ES能力者』であり、世話になったこともあって清香のことを忘れるはずもなかった。
「これはまた……ビックリしました。まさかこんなところで清香さんに会うなんて……」
「そうね、こっちも驚いたわ……近くに『構成力』を感じたから様子を見に来たけど、まさかまた君と会うなんてね」
清香も博孝同様に驚いたような顔をしており、その視線を博孝の胸元に向ける。そして、今度は本気で驚いたように目を見開いた。
「……わたしの記憶が正しければ、あなたは四年ぐらい前に『ES能力者』になったと思うのだけど……空戦少尉? しかもバッジが銀色って、二級特殊技能まで発現したの?」
「ええ、まあ……色々とありまして」
本当に色々とあったとしか言えない。博孝は困ったように笑いながら言うが、清香が付けているバッジに変化はない。
「清香さんは……」
「“そのまま”よ? 普通の『ES能力者』って、そこまで短期間で出世するものでもないし」
言外におかしいと言われているような気がしたため、博孝はますます困ってしまう。
「あの、河原崎君? この人は……」
清香と言葉を交わしていた博孝だが、ここにきて希美が口を挟んだ。希美と比べても年上に見える風貌の清香が博孝と顔見知りというのが、不思議だったのである。
そんな希美の疑問の声を聞いた清香は、希美に視線を向けてから小さく微笑む。
「あら……これはお邪魔をしちゃったわね。わたしは丸山清香陸戦少尉よ。『ES適性検査』の後に河原崎君の……河原崎少尉の担当を受け持ったの」
「そうなんですか……」
納得したような、納得できないような。希美は僅かに警戒心を滲ませながら清香の様子を窺うが、博孝が大きな変化を見せないということは本当にただの知り合いなのだと判断し、視線の強さを緩める。
「清香さんは今どうしてるんです? 今日は休暇ですか?」
博孝は希美の挙動に意識を割きつつも、清香に尋ねた。すると、清香は困った様子で頬に手を当てる。
「最近国境線が騒がしいでしょう? わたしは『支援型』だから怪我人が出た時に備えて駆り出されてるのよ。今日は休暇だから買い物に来たのだけど、欲しいものも特になくてね」
「なるほど、大変なんですね」
どうやら清香は息抜きのために外出したらしい。博孝の場合は目的もなく外出するぐらいならば自主訓練に励むが、休暇の過ごし方は個人の自由だ。
清香は苦笑を浮かべたが、どこか気まずそうな様子で希美へと視線を向ける。
「折角久しぶりに会ったのだからもう少し話したいところだけど、これ以上は彼女にも悪いわね」
「……えっと、わたしは河原崎君の彼女ってわけじゃ」
「それならますます申し訳ないわ。折角のデートを邪魔するっていうのは……」
清香がそう言うと、希美は表情に暗いものを混ぜ、それを察した博孝は静かに視線を逸らす。実際のところ博孝の彼女は沙織であり、希美とは今回限りのデートをしているのだ。
しかし、そんな二人の様子を見た清香は二人の顔を交互に見比べ、少しばかり険しい顔付きへと変わる。
「……もしかして、修羅場? それだったら一人の『ES能力者』として、周囲の方々に迷惑がかからないよう場所を変えて話し合うよう勧めるわ。『ES能力者』の痴話喧嘩に巻き込まれて建物が崩壊したって話もあるぐらいだし……」
真剣な顔でそう提案する清香。それを聞いた博孝は慌てて右手を振る。
「いや、そうじゃなくてですね……デートはデートなんですが、俺は他に付き合っている子がいまして……」
そこまで口にすると、清香の目がギラリと光った。それまで場を辞す素振りを見せていたが、何故か希美の隣に座る。
「河原崎君……二股っていうのは十分に修羅場なのよ? 彼女がいるのに他の子とデート? 君は明るくて元気が良いと思っていたけど、女性関係にまで“元気”になる必要はないのよ?」
「久しぶりに会ったと思ったらものすごい誤解が!? いや、そうじゃなくて!」
清香の目が女性の敵を見るように細められたのを見て、博孝は慌てて弁解しようとした。だが、それよりも先に希美が口を開く。
「違うんです! 河原崎君は何も悪くないんです! 全部わたしが悪いんです!」
「やめてください松下さん! その言い方だと逆に俺が悪く見えますから!」
希美は混乱しているのか、下手をすると爆弾に聞こえる発言をした。それを聞いた博孝は余計に慌てるが、清香の目はますます細くなっていく。
「河原崎君? わたしはあなた達の事情はよく知らないけど、客観的に見てどう見えるか説明しましょうか?」
「いえ……結構です。よく理解してます……」
清香から見れば、博孝は彼女がいるのに希美とデートをしている浮気者。希美の事情はわからないが、博孝に彼女がいると知ってなお諦めきれずに逢瀬を重ねる浮気相手。そう見えているに違いない。
博孝は自分を落ち着かせるためにコーヒーを飲み干し、清香に真摯な眼差しを向けた。一気に飲んだコーヒーは、普段以上に苦く感じた。
「清香さんからどう見えているかもわかっています。ですが、俺に後ろめたいところはありません」
「なるほど……つまり、君にとって浮気は後ろめたいことではないというのね?」
「誤解が解けない!? 違います! 俺は彼女を一途に想っています!」
「つまり、この子のことは浮気以前の遊びだったと……昔の君は、自分の夢に向かってあんなに輝いていたのに……年月というのは人を変えるのね」
清香からの評価がどんどん落ちていく。博孝は思わず頭を抱えそうになったが、清香はそんな博孝を見て相好を崩した。
「冗談よ。わたしが声をかけるまでは二人とも普通に見えたし……でも、彼女がいるのに他の女の子と遊ぶのは感心しないわよ? 知らない人が見たら、わたしと同じことを思うでしょうし」
「……心臓に悪いんで、その手の冗談はやめてください」
博孝はほっと息を吐き、椅子の背もたれに身を預ける。希美は何故か清香とハイタッチをしており、希美にも嵌められたということだろう。
年上の女性って怖い。そんなことを思いつつ、博孝はコーヒーのお替りを注文する。
「でも、それじゃあ二人はどうしてデートを? あなた……」
「松下希美です。階級は陸戦伍長です」
「うん、希美ちゃんね。それで、希美ちゃんはなんで河原崎君と?」
博孝の注文に合わせて自分の分もコーヒーを頼みつつ、清香は質問をした。それを聞いた希美はどこか気まずそうな様子で答える。
「河原崎君に彼女がいるっていうのは本当で……わたしは振られまして。でも、せめて一度だけも良いから、デートをしてみたいなって……」
「思い出作りってやつ? お節介ついでに言うけど、河原崎君もよく頷いたわね」
「彼女が許可を出しましたし、思い出のためと言われると……」
本当ならば冷徹に切って捨てるべきだったのだろうが、希美とは訓練生時代から四年近い親交があった。だからこそすっぱりと断るべきだったのだが、博孝はそこまで非情になれなかったのである。
「そこで許可を出す彼女もすごいわね」
運ばれてきたコーヒーを片手に、清香は困惑した声を零す。いつの間にか三人で会話を進めているが、清香は聞き上手かつ話し上手らしく、博孝も希美もそのことに違和感を覚えなかった。
「ま、ほどほどにしておきなさいね? 年上のお姉さんから一つアドバイスをするけど、『ES能力者』同士の痴情の縺れって本当に危ないのよ。過去に何回かあったけど、刺されたぐらいじゃ死なないし? 止めるには『ES能力者』の手が必要だし?」
「物騒ですね……痴情の縺れで自爆とかあったり?」
「あったみたいね。実際に見たわけじゃないけど、好きな相手と無理心中を図ったとか……相手の方が強くて自爆じゃ仕留められなかったって話だけど」
「本当に物騒すぎる!?」
階級は同じだが、清香は博孝よりも年長の『ES能力者』だ。口調も滑らかに、様々な話を行う。その内容も面白く、最初は警戒していた様子の希美も最後にはしっかりと耳を傾けていた。
「……と、こんな感じかしら」
コーヒー一杯をゆっくりと飲みつつ、話を行う清香。話を終わらせたのは、飲んでいたコーヒーが丁度空になったタイミングだった。民間人に聞かれて困る話をする際は声を潜めていたが、博孝も希美も漏らすことなく聞き終える。
「好きな人との無理心中を図った自爆かぁ……ちょっと憧れるかも」
「えっ……」
予想外の希美の発言に、博孝は思わず言葉を失う。だが、それを見た希美は苦笑しながら首を横に振った。
「冗談よ。河原崎君のことは好きだけど、そんなことをするのはちょっと……自爆しても効きそうにないし」
「最後の部分がなければ安心できましたよ!?」
先程からツッコミしかしてない気がするが、希美も楽しんでいるらしく表情に陰はない。清香はそんな博孝と希美の顔を見て満足そうに頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
「それじゃ、わたしは行くわ。お邪魔したわね」
これ以上は本当に邪魔になると思ったのか、それまでの話しぶりが嘘のようにあっさりとした態度である。ただし、何かを思い出したように博孝に近づくと、人差し指を伸ばしてその額を優しく突いた。
「手厳しく振ってあげるのも一つの優しさよ? いくら思い出のためだからって、本命以外の子とデートに行くのは感心しないわ」
「ははっ……肝に銘じておきます……よ?」
言葉の途中で、博孝はかつてないほどの違和感を覚えた。一瞬視界が渦のように歪み、“何か”がひび割れるような音が脳内に響く。それは陶器が割れたような甲高くも鈍い音であり、博孝は思わずテーブルに手をついてしまった。
「……河原崎君?」
僅かに身を揺らした博孝を見て、希美が訝しそうに尋ねる。すると、その声が届くなり博孝の視界は鮮明になり、先ほど覚えた違和感も完全に消え去っていた。
「突然どうしたの? 顔色が悪いわよ?」
清香もまた、そんな博孝を覗き込んでいた。その声色には心配の色が滲んでおり。
「え……ああ……いや、なんでも、ないです……」
――目の奥に無機質な光が見えたのは、博孝の目の錯覚だろうか。
博孝は一度頭を振ると、意識をハッキリさせる。そして自分の体調を確認するが、何の異常も感じられなかった。
「一瞬めまいがしたんですが……あはは、訓練のし過ぎですかねぇ」
咄嗟に、誤魔化すように言う。それを聞いた清香は肩を竦めると、からかうように冗談を放つ。
「今更になって、彼女以外の女の子とデートをしているプレッシャーを感じたとか……」
「やめてください……いやもう、本当にやめてください……」
洒落にならない。博孝は強がるようにそう言うと、清香に小さく頭を下げる。
「本当に大丈夫ですから……また会うような機会があったら、声をかけてくださいね?」
「ええ――それじゃあ、“また”ね?」
そう言って、清香は伝票を持って歩き出す。博孝と希美の邪魔をした詫び代わりなのだろう。
「河原崎君……本当に大丈夫? 少し顔色が悪いわよ?」
「いやいや、大丈夫ですって。本当に一瞬めまいがしただけで、今は何もないですし」
「でも、体調が悪いなら切り上げても……」
希美は心配そうな様子でそう言うが、博孝は首を横に振る。
「せっかくのデートですから……それで終わったら勿体ないでしょう?」
「もう……本当に無茶はしないでよ? きつかったら言うこと。いいわね?」
本当に問題がないのだと判断し、希美は博孝の頑固さに苦笑するのだった。
博孝と希美が休日にデートをする。そのことに許可を出していた沙織は、博孝達が外出するなり恭介を連れて即応部隊の基地から外へと出た。
「……で、追う手段は?」
「走るわ」
何でもない事のように言い放ち、沙織は駆け出す。それを見た恭介はため息を吐き、沙織の背中を追って駆け出した。
二人とも動きやすさを重視した服装であり、博孝とデートをする際はスカートを選んだ沙織も、今回ばかりはズボン姿だ。その手には布袋に包まれた『無銘』が握られており、博孝達に発見されないよう『構成力』を抑えながら道路脇の林を疾走する。
「休日だってのに……まあ、ある意味これも訓練っすねぇ」
「悪いわね。今度食事でも奢るわ」
生い茂る木々をすり抜けるようにして走りつつ、希美が運転する車を追う二人。希美が運転する車は法定速度をしっかりと守り――むしろかなり遅いスピードであり、二人は容易についていく。
道路を走ることができれば更に楽なのだが、車を追って走る二人組など目立ち過ぎる。そのため『ES能力者』としての身体能力をフルに活用し、木々を利用して周囲の視線を避けるように車を追った。
普通の人間ならば一瞬で見失うような速度で地を駆け、時には木々に身を潜め、車を見失わない程度に距離を取りつつ移動していく。その動きは『ES能力者』というよりも忍者のようであり、常人が目撃することができれば己の目を疑っただろう。
下手をすると、沙織達は不審者として通報されそうである。もしも優れた『ES能力者』が近くにいれば、一体何事かと詰問するだろう。“それ”を避けるために沙織は恭介を相棒に選んだのだが、当の恭介と言えば内心で困惑するだけだ。
(沙織っちの気にし過ぎ……なんて楽観は捨てるべきっすかね。博孝や岡島さんとは違った意味で勘が鋭いし……)
博孝と里香が洞察力や推理力に優れるならば、沙織はそのままの意味で勘に優れる。本人に言えば笑顔で斬られそうだが、獣のような直感を持っているのだ。
それは大抵戦闘時に発揮されるのだが、沙織が戦うこと以外で気にかかると言うのなら“何か”があるのだろう。あるいは、戦闘以上に博孝のことが大事なのかもしれない。
しかし同時に、恭介は博孝と里香のことも信頼している。二人が希美に対して何も含むところがないのならば、怪しむ必要はないのではないか、とも考えていた。
それは、恭介としては希美を疑いたくないという心情がそうさせたのかもしれないが、今のところは沙織の話を本気三割程度にしか捉えていない。
沙織と恭介は暇つぶし程度に言葉を交わしつつ、車を追って市街地まで到着する。即応部隊の基地からはそれなりに離れていたが、二人とも息を乱すことすらせずに周囲を見回した。
「これからどうするっすか?」
「思ったよりも人が少ないわね……人ごみに紛れて監視するのは難しいから、『構成力』の動きを見ましょうか」
希美の運転する車が有料駐車場に入っていくのを確認すると、沙織は恭介を連れて近くのコンビニへと入った。そしてあんぱんと牛乳を手に取ると、レジに向かう。
「沙織っち? なんであんぱんと牛乳を買うんすか?」
「……? 尾行や張り込みには必須だって、博孝が言ってたわ」
心底不思議そうに答える沙織だが、恭介は思わず床に膝を突きたくなった。このままでは、博孝の言うことは全て受け入れてしまいそうである。
「それは刑事ドラマとかのお約束っつーか、いくらなんでも古すぎるっつーか……」
そう言いつつ、恭介もあんぱんと牛乳を購入した。こちらは尾行や張り込みのためというよりも、手軽に飲み食いできると判断したからである。
二人はそのままコンビニを出ると、のんびりとした様子で歩き出す。下手に緊張感を持ってしまえば、それだけで博孝に気付かれるからだ。
「うーむ……こうして尾行してみると、博孝の警戒範囲って広いっすよね」
現在は視線が通らないよう建物の角などを利用しているが、下手に姿を晒せば一発で気付かれそうだ。『構成力』を隠していると言っても『隠形』ほどの精度はなく、百メートル以内に近づけば『探知』なしで気付かれるだろう。
「わたしの彼氏だもの。当然よ」
「そこは当然じゃないっす。沙織っちの彼氏になるには広い警戒範囲が必要とか……ん? 沙織っちの彼氏だからこそ? むしろこれぐらいでないと沙織っちの彼氏は務まらない?」
沙織と付き合うとなれば、その祖父であり『武神』と呼ばれる源次郎ともつながりができる。それを考えれば、博孝ぐらいの技量があった方が良いのではないか。
ないとは思いたいが、孫可愛さに源次郎が襲ってきた時のことを考えると、強いに越したことはない。『お前に孫をやれるか』と力試しを挑んでくる可能性があるが、相手は『武神』だ。並の『ES能力者』は相対するだけで白旗を揚げるだろう。
「あれ……そう考えると、沙織っちの相手が博孝ってのはむしろ順当な気も……でも中将閣下がどう思うかが……」
「以前、お爺様からは博孝との結婚を勧められたわ。博孝はお爺様のお気に入りだし、問題はないわね」
「既に外堀が埋まってた!?」
付き合うどころかすぐにでも結婚しそうである。それは二人の友人として喜ばしいが、さすがに関係の発展が早すぎるのではないかと恭介は思った。
「最大の難関である『武神』から既に許可が出ているなんて……ちょっと羨ましい気もするっすね」
そう言いつつ恭介が想像したのは、優花の顔である。予想した以上に博孝と沙織の関係は発展しやすいようだが、自分はどうかと恭介は考えた。
優花は歌手兼アイドルであり、有名人の売れっ子だ。しかし、それ以上に問題なのは恭介が『ES能力者』であり、優花が普通の人間だということだろう。
恭介にとって身近なところで言えば砂原や野口が似たような境遇だが、『ES能力者』同士、あるいは普通の人間同士で結ばれるよりも困難があるはずだ。
(我ながら厄介な……ん?)
そこまで考えたところで、恭介は視線を移した。それは沙織も同様であり、博孝と希美が入った喫茶店へ近づく人影へと視線が向けられる。
「あれは……」
「『ES能力者』っすね」
外見だけで見れば二十歳前後と思わしき、黒髪の女性。沙織と恭介の反応が少しばかり遅れたのは、敵意や殺意といった気配が皆無だったからだ。女性は迷いのない足取りで喫参へ入ると、博孝達の元へと近づいていく。
「見たことない人っすね。近くの部隊の人っすか?」
「そう……かしら?」
何やら歯切れが悪い返答に、恭介は不思議そうな視線を沙織に向けた。遠目に見ただけでは所属もわからないが、その足運びを見るだけで大体の技量はわかる。おそらくは陸戦の者だろうと恭介は考えた。
沙織ならば恭介以上に相手の技量を見抜くのだろうが、当の沙織は若干困惑した様子で首を傾げている。喫茶店の中で戦闘が行われている気配はないが、三つの『構成力』が集まって動かない。会話をしている可能性が高いが、何の目的があるのか。
「動き一つを見ても、そこまで強くはない……とは思うの。わたし達なら、単独で相手をしても倒すのに十秒かかるかどうか……だと思う」
「曖昧っすね。何か気になる点でも?」
先程購入した牛乳を飲みつつ、恭介が尋ねる。だが、沙織も自分の感覚に困惑しており、明確な答えを出せないのだ。
喫茶店は道路に面してガラス張りとなっており、場所を変えれば店内の様子も窺える。困惑した様子の沙織をつれて恭介が場所を移動すると、件の女性は何故か博孝の対面に座って何事かを話していた。
さすがに声が聞こえるはずもないが、博孝は百面相をしている。時折目を剥いて驚いているが、博孝とよくボケとツッコミの関係になる恭介は、博孝が何をしているのか大体理解できた。
「あの人、多分博孝の知り合いっすよ……さすがに初対面の人にあんな激しいツッコミは披露しないっすから……いや、アイツならするかな?」
「なになに……『俺は彼女を一途に想っています』? も、もう……博孝ったら……公衆の面前で……」
「さり気なく読唇術なんて披露しないでほしいっす! あと、照れるなら場所を選んでほしいっすよ!」
突然赤面して両頬を手で押さえる沙織に、近くを通りかかった民間人が不思議そうな顔をしている。恭介は愛想笑いをしてやり過ごすが、沙織は顔を赤くしたままだ。
そうやって博孝達の様子を見続けるが、おかしな点は何もない。いつの間にか三人で楽しそうに談笑しており、遠くからそれを見続ける恭介は少し虚しくなってきた。
「なあ、沙織っち……何かあるかと思ったけど、さすがに何もないんじゃないっすか? 博孝の知り合いっぽいし、変な素振りは見せないし……」
「そうね……“こっちに気付いて動かない”なんてこともなさそうだし、杞憂だったかしら?」
もしも自分達の存在に気付いて自然に振る舞っているのだとすれば、大した狸だと沙織は思った。沙織の目から見ても女性は自然体であり、おかしな点が見当たらない。
だから、きっと勘違いなのだろう。そう思った沙織は三人の様子を窺うが、相変わらず談笑を続けている。
そうやってしばらく様子を見ていると、女性が伝票を持って立ち上がった。そして何事か言葉をかけ、からかうようにして博孝の額を人差し指で突く。
「…………?」
一瞬、博孝の表情に変化があった――気がする。しかし、瞬きをすれば博孝は普段通りだ。苦笑混じりに女性を見送っており、希美と会話をしている。
白い壁に一滴の墨が塗られたような、拭いがたい違和感。沙織はその違和感が何なのかを探ろうとするが、まるで霧か霞のように胸中から消えてしまう。
「おっと、二人も出てきたっすよ……沙織っち?」
「ん、ああ……そうね。今回は二人が安全かどうかを見守るだけだし、とりあえず追いましょうか」
そう言って沙織は移動を始めた博孝達の追跡を再開する。だが、その前に女性が立ち去った方向へと視線を向けてみるが、いつの間にかその姿は雑踏に消えていたのだった。
結局、何事もなく博孝と希美のデートは終了した。二人の後を尾行していた沙織達が首を傾げるほどに、何も起こらなかったのだ。
喫茶店を出た後は博孝が希美をエスコートし、女性が好きそうな雑貨店を巡り、昼食を奢り、時折ベンチに座っては雑談に興じていた。
その間も敵襲などはなく、博孝達が乗ってきた車に戻り、即応部隊の基地へ戻り始めたところまで確認してから沙織達も市街地を後にした。
「結局、何もなかったっすね」
「ええ……せっかくの休日を潰しちゃって、悪かったわね」
「いや、いいっすよ。これはこれで面白かったし」
謝意を述べる沙織に、それを気にするなと笑い飛ばす恭介。二人は即応部隊の基地を目指して走り、希美の運転する車が基地まで残り五分程度というところで速度を上げ、先に基地へと戻った。
これは尾行していたことを悟らせないためだが、基地に戻った沙織は予定にない事態に遭遇する。
とりあえず着替えようと思い、自室に戻ろうとした沙織だが、自室の扉の前に人影があったのだ。
「あ……沙織ちゃん。少し、時間をもらえるかな?」
そこには、沙織がこれまでに見たことがないほど真剣な表情をした里香が立っていた。




