閑話:とある女子訓練生の慕情と野口伍長の災難
野口秋雄、二十八歳独身。現在の階級は伍長。
かつては第七ES戦闘大隊に所属し、当時は軍曹として一個小隊を率いる。
第七ES戦闘大隊在籍時、『ES寄生体』の撃破数は84を記録。内、単独撃破が51、小隊としての撃破が33。
これは第七ES戦闘大隊の中でも歴代トップの記録であり、対ES戦闘部隊全体を見ても上位の撃破数である。また、陸戦の『ES能力者』と比較しても平均を大きく上回る撃破数だった。
勤務態度に少々の問題があったものの、その類稀なる戦功により小隊指揮を任され、第七ES戦闘大隊のエースとして将来を嘱望される。しかし前線を退いて後方への異動を希望。現場部隊による強い慰留があったもののこれを固辞し、訓練校勤務へ異動する。
そして、一ヶ月ほど前に発生した『大規模発生』にて分隊を指揮。部下から死傷者を出しつつも二体の『ES寄生体』を撃破するという大功を残す。
しかしながら戦闘時に負傷し、訓練校での設備管理任務を一時離脱。一ヶ月の休養を経て再び訓練校へと舞い戻る――。
「野口さん、やっと退院したんですね。あ、これお見舞いのバナナです」
「お見舞いのバナナっす」
「バナナです」
「おう……って、なんで全員バナナなんだよ! しかも一房丸々持ってきやがって! 嫌がらせか!?」
第七十一期訓練生が使用する体育館の管理室。一ヶ月振りに仕事場に戻ってきた野口を迎えたのは、博孝や恭介、中村達からの差し入れだった。しかし、何故か全員バナナである。
「いやぁ、うちの売店って売ってる果物がバナナぐらいしかないんですよねー」
「野口さんなら酒か煙草の方がいいかと思ったんすけど、売店にはなかったっすよ」
「この前の戦いではお世話になったんで、せめてものお礼にと思ったんですけど……くそっ、せめて河原崎達と事前に話し合っておけば良かった」
少なくとも、全員悪気はないらしい。野口はしばらく眉を寄せていたが、ため息を吐いてからバナナを受け取って机の上に置く。
「まあいい。時間が経てば交代人員が来るしな。ここに置いておけば勝手に食うだろ」
野口が入院していたのは訓練校から離れた場所にある病院であり、訓練生である博孝達は見舞いに行くことができなかった。そのため野口の退院を知るなり押しかけたのだが、全員タイミングが悪かったらしい。
「や、中村達がバナナを買っているのを見て、『何をしているんだろう?』とは思ったんですけどね」
博孝はカラカラと笑うが、その表情は嬉しそうである。野口は『ES能力者』ではないため、骨が折れるほどの重傷を負えば回復までに時間がかかるのだ。
それだというのに野口は一ヶ月程度で職務に復帰しており、見知った顔が復帰したことを純粋に喜んでいるのである。
もっとも、野口は『ES寄生体』と戦闘したことで肋骨を三本、左上腕を骨折。さらには打撲多数に出血多量という状態だった。職務に復帰こそしたものの、完治にはもうしばらく時間がかかる。
博孝もそれがわかっているのか、嬉しそうな表情を一転させて心配そうな顔をした。
「……で、復帰は嬉しいんですけど、完治したんですか?」
「折れた骨はつながったが、完治にはもうちょいかかるんだよな……ったく面倒くせえ」
懐を漁って煙草の箱を取り出しつつ、野口はぼやくように言う。それを聞いた中村は思わず苦笑する。
「『ES寄生体』相手に大暴れしましたしね……というか、よく一ヶ月ぐらいで復帰できるまで回復しましたね」
それは純粋な疑問だった。普段から面倒臭そうに管を巻いている野口を見れば、病院でゆるりと過ごすと思っていたのである。
「これでも若い頃に比べたら回復力が落ちてるんだがな……まあ、とりあえずまた『ES寄生体』と戦う羽目になっても問題ないぐらいまで回復したから、リハビリがてら復帰したわけだ……それに、病院にいると見舞いの客が鬱陶しいんだよ」
煙草を咥え、至極面倒そうにため息を吐く野口。そんな野口の言葉を聞いた博孝達は思わず顔を見合わせた。
「見舞いが鬱陶しいって……何かあったんですか? 野口さんなら病院のナースさんに粉かけて遊んでそうですけど」
「お前は俺をどんな目で見てんだ? いや、確かにちょいとナンパしようかと思ったけどよ……上官や古巣の部隊の奴が押しかけてきてな」
煙草に火を点けて紫煙を吐く野口だが、その表情は暗い。どうやら野口にとっては本当に面倒なことがあったらしく、その背中は煤けて見えた。
「撃破数を伸ばしたのを見て何を勘違いしたのか、上官が転属を勧めてきやがったんだよ。古巣の部隊にゃ『怪我が治ったら戻ってくるんだろう?』なんて言われるし、俺だって訓練校の設備管理任務で『ES寄生体』と戦うなんて思ってなかったんだっつーの!」
好んで『ES寄生体』を倒したわけではなく、必要に迫られて倒しただけだ。それだというのに、野口がやる気を取り戻したと勘違いされたらしい。
「ちなみに、転属の誘いに乗ってたらどうなってたんすか?」
「……この前の事件で対ES戦闘部隊も全体的に戦力が低下したからな。『ES寄生体』の発生頻度が高い地域を任地にしている部隊に飛ばされてたんじゃねえの? 階級も給料も上がるって聞いたんだが、俺は今の閑職でのんびりしてる方が性に合ってるんだよ」
功績を上げたことが原因で激戦地に送られそうになったようだ。野口を訓練校に配置するのは戦力の浪費だと思ったのだろうが、野口は今回の功績を盾に頑強に抵抗してきたらしい。
「戦うのがそこまで嫌なら退役するのも手だと思うんですが……なんだかんだ言っても、“この世界”から抜けられないんでしょう?」
「……まあ、そりゃあな。どっぷりと浸かっちまった以上、簡単には抜け出せねえよ」
確認を取るように博孝が言うと、野口は渋々頷く。それなりに長い期間、兵士として『ES寄生体』と戦ってきたのだ。今更“普通”の世界に戻るのは困難だろう。
「今回の怪我を理由にするのもアリかと思うんですが、野口さんとしてはどんな理由があったら退役するんです? あ、これはあくまで興味本位の質問ですよ?」
野口に辞めてほしいわけではない。そう前置きして博孝が尋ねると、野口は煙草をふかしながら首を捻る。
「そうだなぁ……若くて美人な嫁さんでももらって、家庭を築けば辞めるかもな。そんでサラリーマンになって普通の生活を送るとか……」
自分で言っておきながら、そんな未来が訪れるようには思えない。そんなことを考える野口だが、強い風が吹いたのか管理室の窓がガタリと揺れた気がして振り向く。しかし、何もない。
「サラリーマン……気に入らない上司を殴り飛ばす未来しか見えませんよ」
「うるせえ。ツッコミを入れるなら、若くて美人な嫁さんってところにしやがれ。自慢じゃねえが、ロクにモテた覚えがねえんだぞ」
軍人でありながら、上官からの推薦をそのまま蹴り飛ばすような人間だ。軍人としては間違っているものの、周囲が瞠目するような戦功を積み上げてきた野口からすれば、上官ではなく上司が相手でも“いつも通り”に振る舞うと思われた。
褒められないことを口走る野口。博孝達はそんな野口の言葉に苦笑し――管理室の窓がガタガタと揺れる。
「……この前の戦闘でどっか歪んだのか? さっきから変な音がするんだが」
野口は再度窓に視線を向けるが、異常はない。体育館の管理室は体育館内部だけでなく、グラウンド側に面した窓もあった。
もしかすると、この前の戦闘で体育館にガタがきているのかもしれない。部下からそんな報告はなかったが、などと思いつつ、野口は確認のために窓を開けた。
「……ぴゃっ!?」
「……あん?」
妙な声が聞こえたため、野口は視線を下げる。外は日が落ちて時間が経っており、いくつもの外灯が設置された訓練校の内部とはいえ、暗闇に包まれた場所も多い。
管理室から窓を開けて視線を下げた野口だが、窓の真下は体育館から漏れ出す明かりによって逆に死角になっていた。闇というほど暗くはないが、それでも明るい場所から覗き込めば十分に暗く見える。
――そんな暗がりに、蹲って野口を見上げる謎の人物がいた。
「うおおおおぉぉっ!?」
思わず驚きの声を上げ、野口は後ろへ飛び下がった。妙な音がすると思えば、暗がりに体を丸めた人影があったのである。しかも野口を見上げており、暗がりでも僅かに光って見える目と視線がぶつかってしまった。
さすがに予想外だったため、野口は腰元の拳銃に手を伸ばしてさえいた。そんな野口を見た博孝は、コーヒーを飲みながら首を傾げる。
「ん? どうしたんです?」
「ど、どうしたじゃねえ! なんか変なのがいるぞ!?」
暢気に尋ねる博孝に対して野口が叫ぶが、博孝は悠々とコーヒーを啜っている。
「ああ、さっきからずっといましたよ? 『構成力』は少ないし敵意はないしで、放っておいたんですが」
「放っておくなよ!?」
博孝は害がないと判断して放置していたらしい。博孝からすれば感じられる『構成力』は少なく、『隠形』で隠しているわけでもなく、気配も駄々漏れだったため、野口も気付いていると思ったのだ。
「くそっ、入院して勘が鈍ってんな。こんな至近距離の気配に気付かないとは……」
博孝どころか恭介や中村達も動じていないのを見て、野口は乱暴に頭を掻く。博孝が相手に敵意がないと言うのなら、それは事実なのだろう。そう思った野口は再度窓から顔を出し、暗がりに視線を向けた。
「ど、どちらさんで?」
若干腰が引けていたのは、相手が女性だったからである。夜間、それも建物の死角にできた暗がりに潜んでいるなど、普通ならば声をかけたいとは思わない。
「え、あ、あの、あのあのっ」
野口に声を掛けられた女性――訓練校の制服に身を包んだ女子は、どこか慌てた様子で立ち上がる。そうすると管理室から漏れる明かりに照らされることになるのだが、相手の顔を見た野口は僅かに思案した後、顔見知りだということに気付いた。
「お、おう。誰かと思えば“あの時”の嬢ちゃんか」
思い出すのに少しばかり時間がかかったが、相手は野口が『ES寄生体』から助けた女子生徒だった。野口がそんな言葉をかけると、女子生徒は忘れられていなかったことを喜ぶように微笑む。
「んで、何か用か?」
煙草を灰皿に押し付けて消しつつ尋ねる野口。用がなければこんなところまでこないと思うが、用がある相手が誰かわからない。
野口の見舞いと自主訓練の休憩がてら管理室を訪れた博孝達に用があるのか。そう考えた野口だが、女子生徒は視線を彷徨わせながら言う。
「そ、その、野口さんに用が、あ、ありまして……」
「ん? 俺にか?」
どもりながらも、少女は野口に用があると告げる。一体何だろうかと首を傾げる野口だが、同時に違和感を覚えた。
「あれ……俺、お前さんに名乗ったっけか?」
一ヶ月近く前のため記憶が怪しいが、眼前の少女に対して名乗った覚えはない。博孝が名前を呼んでいたため、そこから名前を覚えたのだろうか。
「ぶ、部下の方に尋ねまして……た、助けてもらったお礼とか、病院にお見舞いに行きたかったんですけど、その、この前の騒ぎで外出許可も下りなくて……遠くて駄目だったし」
「そうか……そいつはわざわざ悪いな」
「いえ……それでその、つまらない品ではありますが、その、お見舞いの品をですね……」
少女は視線を彷徨わせつつ、包装紙に包まれた箱を取り出した。どうやら助けられたことを恩に思い、礼の一つでもしたかったらしい。任務だから良いのだが、と思いつつ野口は背後の博孝達に視線を向けた。
「……おい、お前ら何でこっそりと逃げようとしてんだ」
野口が視線を向けた先では、博孝達が足音を立てずに管理室から出て行こうとしていた。足音だけでなく気配まで消しており、振り向くのがあと十秒遅ければ全員が撤収していただろう。
「いやいや、俺達はお邪魔かなぁと思いましてね?」
「コーヒー美味しかったっす」
「では野口さん、明日にでも“事後報告”を聞きにきますね」
ハハハ、と胡散臭い笑い声を上げつつ、博孝達は逃げ出そうとした。しかし、野口は怪我が完治していないにも関わらず迅速な動きで間合いを詰め、博孝の腕を掴む。
「待てや。博孝、せめてお前だけでも残れ」
「何でですか!? 馬に蹴られたくはないですよ!?」
「変な気を回すんじゃねえ! それに、お前は馬に蹴られても怪我一つしねえだろうが!?」
さすがに振り払うわけにもいかず、博孝は抗議の声を上げた。しかし野口は腕を離さず、どこか真剣な顔で言う。
「なんか嫌な予感がするんだよ! お前なら“何か”あってもあの嬢ちゃんを取り押さえられるだろ?」
「野口さんなら訓練生の一人や二人、どうにかできるんじゃないんですか?」
「馬鹿言うな! 殺しても良いなら話は別だが、訓練生を殺すわけにはいかねえだろうが!」
押し問答をする博孝と野口。恭介はその間に中村達と共に管理室から脱出すると、笑顔を浮かべて去っていく。
「野口さん、訓練生が相手なら勝つ自信があるんすね……」
「さすがにES能力なしならって話だろ?」
「河原崎が残るなら俺達はいなくてもいいな」
「あ、お疲れっしたー」
口々にそう述べて、恭介達は撤収する。そして、そんな彼らと入れ違うようにして先ほどの少女が体育館に足を踏み入れた。
「あの、その……突然押しかけてごめんなさい……」
少女は見舞いの品を差し出しつつ、そんなことを言う。それを聞いた野口は、さすがに追い返すわけにもいかないと判断して頭を掻いた。
「あー……まあ、折角来たんだ。茶でも飲んでいくか?」
お茶を出して、感謝の言葉を聞いたらお帰り願おう。野口はそう考えて少女を管理室に通す。博孝はいっそのこと窓から逃げ出そうかと思ったが、野口がさり気なく立ち位置を変えることで牽制されてしまった。
「むむむ……さすが野口さん。普通の人間にしておくには惜しい体捌き……」
「変なところで感心してんじゃねえよ。おら、お前も座れや」
椅子に座るよう促され、博孝は渋々着席する。野口が何を恐れているのかはわからないが、そこまで言うからには何かあるのだろうと腰を落ち着ける。
野口は少女にも椅子を勧め、紙コップに急須でお茶を淹れると差し出した。
「紙コップで悪いな、嬢ちゃん」
「い、いえ……あ、あと、わたし、お嬢ちゃんじゃなくて白崎伊織です」
「……嬢ちゃんでいいだろう?」
少女――伊織と名乗った少女に対し、野口は頬を引き攣らせながら言う。
伊織は第七十五期に入校し、入校から七ヶ月程度の訓練生だ。博孝の目から見るとその居住まいは隙だらけであり、『構成力』も少ない。『ES能力者』として見るならば、新兵も新兵。殻に閉じこもったヒヨっ子だ。
しかし、白崎伊織という一個の人間として見ればどうだろうか。
『ES能力者』になって日が浅いため、中学校を卒業したてと言わんばかりの幼さ。伊織本人も童顔で、身長の低さが輪をかけて幼く見せる。
だが、肩まで伸びた艶やかな黒髪や目元の泣きぼくろ、そして年齢に見合わぬ“女性的”なプロポーションはギャップの塊だろう。
内向的な性格らしく、野口をチラチラと見ながらたどたどしく話す姿は昔の里香を連想させた。
(まあ、スタイルはこの子の方が……って、妙な殺気が!?)
思わず真剣な顔で周囲を見回す博孝だが、何も異常はない。そして、そんな博孝を脇に置いて伊織は野口と言葉を交わす。
「の、野口……あ、秋雄さんって言うんですよね?」
「おう」
「こ、今年で二十八歳なんですよね?」
「おう」
「独身なんですよね?」
「……おう」
何故知っているのか、そして何故わざわざ確認してくるのか。そんな疑問が表情に浮かんだことに気付いたのか、伊織は慌てて首を横に振る。
「そ、その、部下の方から聞いたんですよ?」
「そうか……アイツらにはあとでたっぷりと“お礼”をしてやらないとな」
名前はともかく、何の理由があって年齢や独身であることまで話したのか。野口は同席している博孝に視線を向けたが、博孝は我関せずと言わんばかりに視線を逸らし、置き物のように動かない。
「それで、その、この前助けていただいたことについてなんですけど……」
何が『それで』なのかはわからないが、野口はとりあえず先を促す。
「り、両親に話したら、是非とも家に来てもらえ、と」
「いや、待て、何かおかしくねえか?」
体を張って娘を助けてくれた命の恩人を家に招待する。そう言えば聞こえは良いのだが、伊織の様子からはそれだけで済むようには思えない。
「だ、大丈夫です! わたしも父を説得しますから!」
「なんの説得だよ!?」
必死に言い募る伊織と、逐一ツッコミを入れる野口。博孝はコーヒーを飲みながら翌日の自主訓練メニューを考えていたが、伊織の様子を見て『おや?』と首を傾げた。
(この子、滅茶苦茶テンパってないか?)
一見冷静だが、目がグルグルと回っているように見える。あまりにも緊張しすぎて、自分が言いたいことが色々と混ざっているのではないか。博孝はそう思った――が、放置した。
伊織は野口の返答を聞くと、何かに気付いたように手を打ち合わせる。そして焦りが混じった微笑みを浮かべると、僅かに野口の方へと身を寄せた。
「す、すいません。緊張しちゃって……何を言ってるかわからないですよね。ごめんなさい……」
「ああ、いや、俺も大声を出して悪かったな。ほら、お茶でも飲んで落ち着けよ」
少しずつ間合いを詰める伊織に対し、野口がお茶を飲むよう促す。伊織はその言葉に従ってお茶を飲み、唇を湿らせると野口に真剣な目を向けた。
「さ、先に言っておくべきことがありました……」
「……そうか。だが、礼の言葉ならさっきから何度も聞いてるんだが……」
「わ、わたしとお付き合いを前提に結婚してください!」
「前提がおかしいし、それは言うべきことじゃないだろ!?」
ずずい、と前に出て、とんでもないことを口走る伊織。それを聞いた野口は悲鳴に近いツッコミを入れる。
「なんだろう、この子にはこれまでにない親近感を覚えるな……」
そんな野口と伊織を眺めていた博孝は、思わず遠くを見ながらそんなことを呟いた。昔、似たようなことを冗談で里香に言ったことがある。その時の返事は『勘弁してください』だったが、野口はなんと答えるのか――。
「おいこら博孝! テメエなんでそんなキラキラとした目で見てんだ!?」
「あ、俺のことはどうぞお気になさらず。ただの木石と思ってください」
「だったらそんな興味百パーセントみたいな目で見るな! 他に言うことがあるだろ!?」
「うわー、やったじゃないですかー。若くて美人な嫁さんが向こうからやってきましたよー。ラッキー」
「寝惚けたこと言ってんじゃねえぞ博孝ァッ!」
ひとまず博孝にツッコミを入れることで野口は落ち着きを取り戻す。そして伊織に視線を向けると、緊張に震えながらもどこか期待するような眼差しを向けられた。
「いや、あのな? いきなり結婚とか言われてもリアクションに困るだけだからな?」
「だ、大丈夫です! わたし、この前十六歳になりましたから!」
「そういう問題じゃねえ!?」
常識に従って宥めようとしたものの、返ってきた回答は斜め上に飛んでいく。伊織はそんな野口の反応に対し、困惑したように目を瞬かせた。だが、すぐに恥ずかしそうに頬を朱に染め、視線を膝元に落とす。
「でもでもっ、野口さんにはこれ以上ないほど恥ずかしいところを見られたわけですし……せ、責任を取ってほしいですっ!」
そして、これ以上ない爆弾を投下する。
「おおい!? 誤解を招くようなことを言うんじゃねえ! あと博孝! テメエもそんな目で俺を見るんじゃねえよ!」
「野口さん、アンタ何やったんすか……」
さすがに聞き逃すわけにはいかず、博孝は胡乱気な様子で野口に尋ねた。もしかすると、自分が知らないだけで野口と伊織の間に何かがあったのかもしれない。実は痴情の縺れで発生した修羅場に巻き込まれただけなのではないか。
「待て! 俺は何もしてねえ! 恥ずかしいところっつうのは――」
そこまで言って、野口は口を閉ざす。さすがにここで博孝相手に“色々と”暴露するわけにはいかない。博孝が言いふらすとは思わないが、伊織個人の醜聞に関わることなのだ。
「恥ずかしいところっつうのは? いえ、俺もよそ様の複雑な関係に首を突っ込む気はないんで、聞こうとは思いませんけど」
自衛のために残したはずの博孝が、むしろ敵に回りつつある。そのことに野口は歯噛みするが、絡まった糸を解すのは簡単ではない。
冷静に、どうにか誤解を解かなくてはならない。その上で伊織の名誉を傷つけない、最高の返答が必要だ。
「……この嬢ちゃんの名誉に関わることだから説明はできねえ。だが、俺は恥じる必要があることはしてないと断言できる」
真剣な表情を浮かべ、野口は説明をしていく。
「俺が嬢ちゃんと顔を合わせたのは、『大規模発生』の一回きりだ。俺は嬢ちゃんを助けただけで、それ以上のことは何もしてない」
「……今日まで入院していたわけですしね」
野口の説明は、博孝としても納得がいくものである。そして、野口が伊織のような少女に手を出すような性格ではないことも知っていた。
そんな二人の会話を聞いて自分の発言を思い出したのか、伊織は顔を真っ赤にしている。伊織は本当にテンパっていたのだろう、挙動不審なほどに視線を彷徨わせ、『あわわ……』と呟きながら突破口を探している。
「混乱しているようだけどよ……結局、嬢ちゃんは何を言いたかったんだ?」
さすがに結婚だの両親への挨拶だのが本題とは思えない。むしろ、思いたくない。野口は最大限に警戒しつつも、伊織の言葉を待つ。
伊織の視界に博孝は映っていないのか、野口の顔を見て、自分の膝元に視線を落とし、再び野口の顔を見てから覚悟を決めたように両手を強く握り締める。
「あの、その……野口さんに助けてもらって、ひ、一目惚れしました! わたしとお付き合いをしてください!」
そうして伊織の口から出てきたのは、告白の言葉だった。あまりにも直截かつ真っ直ぐなその言葉を聞き、野口は思わずその場で静止する。
まだ混乱しているのか――否、伊織の様子は真剣かつ真面目だ。顔を真っ赤にして恥ずかしそうに、それでいて真っ直ぐに野口を見つめている。
あまりにも直球な告白を聞き、博孝は内心で感嘆の念を抱いた。ただ、本音としてはすぐにでもこの場から逃げ出したい。あまりにも場違い過ぎる。そもそもなんで俺はここにいるのだろう、と現実を逃避したくもなる。
「……気持ちはありがたいが、いくらなんでもなぁ」
立場も年齢も違い過ぎる。野口からすれば、伊織は一回りも年下なのだ。しかし、伊織はその言葉を違う意味に捉えたらしい。
「お、お互いのことはこれから知っていけばいいと思いますし、長く向き合っていたら自然と受け入れていただけるかもですしっ。わ、わたしけっこう料理も得意ですよ?」
気弱な外見や性格とは異なり、意外なほどに押し込んでくる。それほど野口のことが好きなのか、と逃げ出す隙を窺いながら博孝は思った。
「いやな? 俺と嬢ちゃんじゃあ年齢差がな?」
「しゃ、社会に出たら十二歳差っていうのもアリだと思います!」
「そりゃそうだが、今この時が問題なんだよ!」
グイグイと攻め込む伊織に対し、野口はタジタジである。伊織にとっては年齢差など気にする要素ではないのだろう。
「おい博孝、お前からもなんとか言え! 十二歳差だぞ!? しかも嬢ちゃんは外見が変わるのが遅えから、俺が歳を取るほど犯罪っぽく見えるんだぞ!?」
「あー……俺の場合、教官が似たような立場になっているのを知ってるんで、ノーコメントで」
「役に立たねえなお前!?」
呆気なく回避する博孝だが、砂原の場合は野口と伊織どころの話ではない。砂原の実年齢を考えれば、妻である美由紀とは親子に近いほどの年齢差があるはずだ。
それでも野口は説得を諦められないのか、博孝を部屋の隅に引き摺って行く。
「頼むからお前も案を出せ! 結婚は法律的にセーフかもしれねえが、付き合うのは倫理的にアウトなんだよ!」
「いや、というか野口さん、逆に尋ねますけどあの子のどこが悪いんです? 最初はテンパってましたけど、普通に話してみたら可愛くて一途そうな子ですけど」
少なくとも、博孝が傍から見た分には好印象だ。童顔で少々幼く見えるが可愛らしく、蠱惑的な魅力もあり、それでいて性格は一途そうである。本人が料理もできると言っている以上、家庭的な一面もありそうだ。
「それを認めるのは吝かじゃねえ……が、あの嬢ちゃんはお前と同じで『ES能力者』だぞ?」
それまでも伊織に聞こえないよう声を潜めていたが、いっそう注意して声を小さくする野口。その発言を聞いた博孝は、思わず眉を寄せてしまった。
「……『ES能力者』は恋愛対象にならないって話ですか? でも、それはさすがに……」
――理由としては酷いのではないか。
そう言いかけて、博孝は思いとどまる。自分自身も『ES能力者』だが、“普通”の人間と違う存在だというのは覆しようがない事実だ。
その最たるものは寿命であり、現在の研究では普通の人間の三倍程度生きると考えられている。これは外見が三年で一歳程度加齢しているように見える点からの推察だが、源次郎などを見ればあながち間違いではないと考えられていた。
それを考えれば、野口が天寿を全うする頃でも伊織は外見的に四十代に届くかどうか、というところだろう。実年齢は十二歳差だが、傍からすればそうは見えない。
それでも好き合っていればそれでいいのではないか、と博孝は思う。砂原のように普通の女性と結婚している例もある。砂原と結婚した美由紀とて、その辺りの葛藤を全て飲み込んだ上で砂原と結婚したはずだ。
身近に実例を知る博孝としては、そういった理由で拒否するのはどうかと思った。無論、納得のいく理由でもあるのだが、もう少し取り繕った理由にしてほしいとも思ってしまう。
「アホか。俺が“そんなこと”を気にするような男に見えんのか?」
だが、野口はあっさりと否定する。
「え? それなら何が嫌なんです?」
あまりにもあっさりと否定されたため、博孝は目を丸くしながら尋ねた。
「お前の言うこともわかるし、何もなければ俺の方が先に死ぬってのもわかる話だが……例えばだ、例えばの話、俺があの嬢ちゃんと付き合ったとしよう。付き合うって言っても、お互い“人間”だ。意見が違えば喧嘩をすることもあるだろうよ」
「まあ、そうでしょうね」
一度も“すれ違い”を起こさないことなど、有り得るはずもない。そうなった場合は口論なり喧嘩なりするだろう。
「――その場合、下手すると俺は死ぬぞ?」
これ以上ないほど、真面目な表情で野口は言う。
「普通の人間同士でも起きないことじゃねえが、相手が『ES能力者』となると危険度が跳ね上がる」
「それは……いや、そういう危険性もありますか」
人間同士、『ES能力者』同士ならば問題にならないようなことが、致命的な事態を招くかもしれない。そしてそれは、伊織の心に大きな傷を残すだろう。
「俺も簡単にくたばるつもりはねえが、歳を取ったらそうも言えん。ちょいと小突かれただけで死ぬかもしれねえ。もしもそんなことになってみろ、あの嬢ちゃんは間違いなく“後追い”するぞ」
「……いやいや、まさか」
さすがにそこまでは、と否定する博孝だが、野口は真剣なままだ。
「馬鹿野郎、お前はわからねえのか? あの嬢ちゃんは間違いなくそのタイプだ。というか、そういう目をしてる。先のことはいざ知らず、少なくとも今はそれを否定できねえんだ。あと絶対独占欲が強い。一途も過ぎればやべぇんだよ」
「はぁ……」
「一目惚れ……この場合は憧れみたいなもんか。それを否定する気はねえが、あくまでそれは一方通行な感情だ。早めに目を覚ましてほしいんだが、どうにも長引きそうな気がする……こいつは困ったことになった」
今度は深刻そうな表情へと変わり、野口はため息を吐く。仕事に復帰した早々、まさかこの手の厄介事が転がり込んでくるとは思わなかった。
「それを説明して断れば……って、それができるなら苦労しませんか」
「聞いちゃくれねえだろうな……さっきから俺の話を聞いてくれねえし」
そう言いつつ伊織の様子を窺うが、彼女はお茶を飲みながらソワソワとした様子で視線を彷徨わせている。その姿は一目惚れの告白に対する答えを待つ乙女らしい、微笑ましくも艶やかなものだ。
「今は落ち着いているみたいですし、冷静に話せばワンチャン……」
「ねえよ。ワンもツーもチャンスはねえよ」
どうするか、と野口は思案する。ここまでくればさすがの博孝も茶化す気は起きず、真面目に思考を巡らせた。
「敢えて付き合ってみるってのはどうでしょう? 一目惚れが憧れ云々って言うのなら、普段の野口さんを見れば百年の恋も覚めるんじゃないですか?」
「……言ってくれるじゃねえか、博孝。だが、それが一番手っ取り早いんだよな……」
断っても食い下がってきそうだ。それならば相手側が嫌うよう仕向けた方が良い。
「でも、もしもですよ? もしも嫌うどころか余計に惚れ込んだら?」
「それはない、と思いたい……大丈夫だ、きっと、多分、おそらくは問題ない……」
後半になるにつれて、言葉に弱気が滲んでいく。伊織が惚れたのは吊り橋効果によるものであり、精神が落ち着けば何でもなかったのだと気付くのではないか。
そうに違いない、そうであってくれと野口は願う。もっとも、『大規模発生』が終息して生活も落ち着き、野口が一ヶ月近い期間入院していて会えなかったにも関わらず想い続けていた辺り、望み薄だが。
相手を傷つけても良いのなら声高に罵声でも飛ばし、お前のことは何とも思っていない、迷惑だと吠えた方が良いだろう。しかし、さすがの野口でもいじらしく答えを待つ伊織を手酷く突き放すことはできなかった。
――あるいは、その判断こそが間違っていたのかもしれない。
「仕方ねえ……まずは友達からということでどうだ? お互いをよく知るところから始めよう。な?」
自分の命を救った相手に無下にされるのも、辛いだろう。最終的にそう考えた野口が答えたのは、玉虫色なものだった。
伊織にとっては希望になり、絶望にも成り得る答えでもある。それでも野口の口からそれなりに前向きな言葉が出てきただけで満足なのか、伊織は輝かんばかりの笑顔を浮かべた。
「は……はいっ! よ、よろしくお願いしますっ!」
その笑顔を見た野口は『やはり早まったか』と考えたが、一度口にした言葉を撤回することなどできなかった。
「それで、昨晩は結局どうなったんすか?」
「あー……現状維持? いや、一歩前進?」
翌日、自主訓練を行いながら尋ねる恭介に、博孝は曖昧な答えを返す。結局何故自分があの場に居合わせたのだろう、と首を傾げざるを得ない。
何が悲しくて他人の告白シーンに付き合わなければならないのか。そんなことを考えた博孝だが、視界の先に上機嫌で体育館へ向かって歩を進める伊織の姿を見つけ、思わず声をかけた。
「よう、野口さんのところか?」
「あ、か、河原崎先輩。その、秋雄さんにお夜食でもと思って……」
そう言ってはにかみながら、手に持った布包みの弁当箱を持ち上げる伊織。間違いなく手作りなのだろう。
「そ、そうか……まあ、頑張ってな?」
「はいっ!」
博孝が励ますように言うと、満面の笑みを浮かべて頷く。そして鼻歌を歌いそうなほどの上機嫌さで体育館に向かう伊織を見送った博孝は、思わず呟いた。
「秋雄さんって……」
名字ではなく名前呼びである。本人に対しても言うのかわからないが、伊織は確実に互いの距離を詰めていきそうだ。博孝は困ったように頬を掻くと、恭介や中村達を呼び寄せて顔を突き合わせる。
「とりあえず、当面は野口さんのところにお邪魔するのは止めとこうか……」
どう転ぶかわからないが、あまり邪魔になるのもどうかと思う。そんな提案をする博孝に対し、恭介達は揃って頷く。
こうしてじわじわと外堀から埋められていくのだが、野口が陥落したかどうかは不明だった。
――それがわかるのは、まだまだ先の未来のことである。
そして彼らの“その後”を知る者はいない……。
どうも、作者の池崎数也です。
以前もやってしまった気がしますが、何の前触れもなく閑話です。
不意にネタが降ってきたので、衝動的に書いてしまいました。ネタを思いついたら書かずにはいられませんでした。しかし、突発的なネタで一万字以上書き込んでしまうのはどうなんでしょう……。
スポーツ大会同様、本編に関係あるかは謎です。
なお、作中で博孝が思った通り、当初の伊織嬢はテンパっていただけでした。
正気に返ってからも押せ押せですが。
それでは、こんな拙作ではありますが今後ともお付き合いいただければ幸いに思います。