第二話:母の笑顔
何がおかしいのかと言語化することは、まだ幼い彼には難しかった。
王宮の日常は、表向きは何一つ変わっていない。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
声の高さも、美しい礼も、いつも通りだ。
通り過ぎた直後、背後でふっと立ち消える空気の振動。振り返れば、侍女たちは何事もなかったかのように作業へ戻っている。
一度、ラウゼルは試してみたことがある。
角を曲がったふりをして、柱の影に息を潜めて足止めしたのだ。
案の定、さっきまでひそひそと囁き合っていた二人の侍女は、ピタリと会話を断ち切った。その顔からは血色が失われ、無表情でただ床を見つめていた。
ラウゼルは幼い眉をひそめた。
幼少ゆえに子供扱いされるのは不快だったし、何より「何も知らない存在」として除外されることが耐え難かった。
だが、最近の大人たちは、彼が近づくだけで異様なほど寡黙になった。
変化は兵士たちにも及んでいた。
練兵場で汗を流しながら冗談を言い合っていた男たちが、今は血の匂いを警戒する獣のように口を閉ざしている。廊下に配置された歩兵の数は日に日に増し、その中には見覚えのない冷たい眼差しをした者たちも混ざっていた。
何より妙だったのは、その向きだ。
外敵を拒むための兵士なら、視線は当然、窓や外郭へ向けられるはずだった。しかし彼らは、まるで宮殿の内側――通路の奥や王族の寝所を監視するように、壁を背にして立っていた。
誰かを侵入させないためではない。誰一人として、ここから逃がさないために。
その違和感を父王に尋ねようとしたが、父は以前にも増して多忙を極めていた。
朝食の席に現れても、器を空にするや否や険しい顔で執務室へ去っていく。夜の宴に姿を見せないことも珍しくなくなった。
母もまた、同じだった。
かつてはラウゼルの勉強部屋を気まぐれに訪れては羊皮紙を覗き込み、庭園の散策に誘ってくれた。
今も母は微笑み、語りかけてくれる。だが、その瞳の焦点は遠いのだ。
「母上?」
「……ええ。何かしら、ラウゼル?」
呼びかければ、瞬く間にいつもの慈愛に満ちた王妃の顔に戻る。
だが、その仮面が付け直されるほんの一瞬の綻びを、少年は見た。
何かが、変わろうと動き出している。
だが、それが何なのかを教えてくれる大人は、誰一人としていなかった。
◇
幾重にも重なる違和感を抱えたまま迎えた、穏やかな春の昼下がりだった。
ラウゼルが王宮の庭園で木漏れ日を浴びながら資料を開いていると、母がただ一人で歩み寄ってきた。
それは極めて異例な光景だった。
王妃が庭へ出る際には、常に数人の侍女と近衛が影のように付き従うのが宮廷の絶対の法だったからだ。しかし今日、母の背後に従者の姿はなかった。
「ラウゼル」
「母上」
ラウゼルは開いていた厚い本を静かに閉じた。
「何を読んでいるの?」
「『王朝初期における小麦の収穫量と税制推移』です」
「……まあ、農業史?」
母が本の革装丁を覗き込む。
「七歳のあなたには、まだ少し難しすぎるのではないかしら」
「難しくありません。数値を追いかけるのは、物語を読むより真実が見えます」
「……あなたは本当に、不思議な子ね」
母がくすりと笑った。その笑い声には、久しぶりに嘘のない温もりが宿っていた。
ラウゼルは隣の大理石のベンチを示した。
母がドレスの裾を整えて腰を下ろす。
春の柔らかな風が庭園を吹き抜け、満開のバラの花壇を揺らしていた。遠くでは庭師が剪定ハサミを鳴らす規則正しい音が響いている。
穏やかな午後だ。
「ラウゼル」
「はい」
「少しの間、この王都を離れてみない?」
唐突な問いだった。
「どこへ行くのですか?」
「私の実家へ。緑豊かな、侯爵家の領地よ」
「遊学ですか?」
「そう……そうね、遊学よ」
母の華奢な指先が、膝の上の生地をわずかに握りしめたのをラウゼルは見逃さなかった。
「あなたもそろそろ、この王宮の狭い鳥籠の中だけでは学べないことを知るべきだわ」
「広大な領地の経営や、兵站の維持、農民からの徴税などを?」
「ええ。あなたが望むなら、そのすべてを」
「侯爵領は、質の良い小麦の大生産地でしたね。去年の減税措置の記録を覚えています」
「よく覚えていること」
母はそう言って目を細めた。
「いつ、発つのですが?」
「三日後よ」
「……急ですね」
「そうね。急な決定になってしまったわ」
ほんの一瞬、母の声がかすかに震えた。ラウゼルは眉を寄せる。
「父上は、この件をご存じなのですか?」
「許可はすでにいただいているわ」
「父上もご一緒されるのですか?」
「いいえ。陛下はお忙しい身ですから」
「母上は?」
「私は……あなたを向こうへ送り届けたら、すぐにこちらへ戻ります」
言葉を切った母は、どこか遠く、王都を囲む巨大な城壁の向こうへ視線を投げた。それからゆっくりとラウゼルに向き直る。
「どうかしら。行ってくれるわね?」
「分かりました」
母の顔に、弾けるような安堵の彩りが広がった。今度の笑顔は、今日の中で最も自然で、そしてどこか壊れそうなほどに美しかった。
その表情を見て、ラウゼルもまた、胸の奥の重荷が少しだけ軽くなるのを感じた。
「ありがとう、ラウゼル」
母の手が伸び、優しくラウゼルの黒髪を撫でた。細い指先が、愛おしむように少年の頬を滑る。
「本当に……良い子ね」
「子供扱いしないでください。僕は王子です」
「ええ、そうね。誇り高き、私の王子様」
微笑む母の瞳から、つと一筋の透明な雫がこぼれ落ち、少年の頬に落ちた。
「……母上? なぜ泣いているのですか」
母は素早く顔を背け、絹のハンカチで目元を拭った。
「急に強い風が吹いたから……目に何か入ったみたい。もう、大丈夫よ」
木々は静かに佇み、風などどこにも吹いていなかった。
ラウゼルは違和感を口にしかけたが、それ以上追及するのをやめた。
七歳のラウゼルには、母の涙の本当の意味を知る術はなかった。
一人の親として、王子である前にただの子供として彼を生き延びさせるための、命がけの嘘であったことを。
◇
それからの三日間、王宮の空気は異様な加速を見せた。
ラウゼルの旅立ちの準備という名目で、あまりにも膨大な荷が運び出されていく。豪奢な衣類、膨大な書物、貴重な錬金薬、そして長期の旅に耐えうる糧食。さらには、宮廷騎士団の中でも異質なまでに沈黙を守る精鋭の護衛たち。
「遊学にしては、過剰な重装備ですね」
積まれゆく革箱を眺め、ラウゼルが呟く。
「殿下のご安全を最優先するためでございます」
侍従は引きつった笑みを浮かべるばかりだった。出発を明日に控えた夕刻の餐卓にも、父王の姿はなかった。
「父上は本日も不参加ですか」
「お仕事が重なっているのよ」
食後の紅茶が給仕された際に、ラウゼルは聞いてみた。
「母上。何か私に隠していることはありませんか?」
「……なぜそんなことを聞くの?」
「あなたの目が、私を見ていないからです」
母は綺麗な笑みを浮かべて見せた。
「何もないわ。約束する。だから……安心して眠りなさい」
その笑顔に免じて、ラウゼルは追及を止めた。母が笑っている。なら、世界はまだ破綻していないのだと、七歳の少年は自分に言い聞かせた。
◇
自室のベッドに入ったものの、胸を突く得体の知れない胸騒ぎがラウゼルの眠りを妨げていた。
王宮が、あまりにも静かすぎた。
いつもなら聞こえるはずの交替兵の整然とした足音も、遠い厨房からの雑音も途絶えている。ただ静かなのではない。無数の人間が暗闇の中で息を殺しているかのようだった。
冷たい床に裸足を下ろし、ラウゼルは密かに扉へ近づいた。
隙間から廊下を窺う。
松明の光の中に立つ二人の兵士の顔には見覚えがなかった。王家の紋章ではなく、見知らぬ暗色の外套を羽織っている。
(……誰だ?)
そう呟いた瞬間だった。
――ガシャン!!
遠くの階下で、硬質な金属が削れ合う破壊音が響いた。
ラウゼルが息をのんだ瞬間、自室の扉が激しく跳ね上がった。
「殿下!!」
飛び込んできたのは、母に付き従っていた筆頭侍女だった。その顔からは血気が失われ、幽鬼のように白かった。
「何ごとだ」
「すぐにお立ちを、今すぐご領地へ向かいます」
「……今から? 出発は明朝のはず――」
「刻限が早まりました!!」
侍女の叫び声は恐怖で裏返っていた。
その背後から、顔を隠した護衛騎士が室内に滑り込んでくる。
「何が起きている!? 父上と母上は!?」
「殿下、お許しを」
返答の代わりに、騎士の太い腕が伸びた。次の瞬間、ラウゼルの口元が分厚い布で強く塞がれた。
「んっ……! んんっ!?」
視界が歪む。ラウゼルは全身の力を振り絞って抵抗した。腕を突き出し、脚を暴れさせ、騎士の甲冑を蹴りつけた。だが、幼子の力など、鍛え上げられた大人の膂力の前には無に等しかった。
「お静かに……、殿下」
耳元で囁かれたのは、幼少期から剣術を教えてくれていた信頼する近衛の声だった。
だからこそ、底なしの恐怖がラウゼルを襲った。この忠義の男にここまでさせろと命じたのは誰だ。
身動きを封じられたまま抱え上げられ、視界が宙に浮く。
震える侍女が向かったのは、何もないはずの寝室の壁面だった。
彼女が壁のレリーフの隠された窪みを強く押し込むと、カチリと鈍い仕掛け音が鳴り、重い石壁が滑らかにスライドした。
現れたのは、光の届かない漆黒の抜け道。
王宮の隠し通路。ラウゼルすら存在を知らされなかった闇の穴だった。
護衛がラウゼルを抱えたまま、迷わずその暗闇へ飛び込む。
直後、背後で石壁が閉じ、完全な暗闇が視界を塗りつぶした。
「んー!! んー!!」
「……殿下、どうか……どうか声をお控えください」
侍女の声は石のように冷えていた。
隠し通路の壁を伝って、外の振動が音となって響いてくる。
肉を裁断する不気味な音。
断末魔の叫び。
崩落する石材の響き。
そして――火災の熱気が、隠し通路の隙間からかすかに吹き込んできた。
ラウゼルの胸が激しく脈打つ。
父は? 母は? 王宮で何が起きている!?
騎士たちはラウゼルを抱えたまま、暗闇の斜面を全力で駆け下りていく。
足音が洞窟内に不気味に反響する。誰も口を開かない。誰も状況を説明しない。ただ、必死の形相で闇を切り裂いて走る。
やがて、前方に夜空の薄光が見えた。
王宮の外郭、城壁の遥か外へと繋がる出口だった。
湿った草の匂いと冷たい夜風が叩きつける。
外へ飛び出した瞬間、ようやくラウゼルの口を覆っていた手が離された。
「ハァッ……ハァッ……!説明しろ!」
ラウゼルは地に足をつけるや否や、騎士の胸甲を叩いた。
「父上はどこだ!? 母上は!? なぜ僕をこんなところへ――」
騎士は答えなかった。
ただ、草むらに膝をつき、頭巾を外して深く頭を垂れた。その顔は無念と屈辱で苦しく歪んでいた。
「……生きてください、ラウゼル殿下」
「答えになっていない! 朝になれば侯爵領へ行くと母上と約束した! 二人を呼んでこい!!」
「殿下……!!」
絶叫する少年の背後で、夜空が禍々しい赤に染まり始めていた。
ラウゼルはゆっくりと振り返った。
丘の向こうに見える、白亜の王宮。
数百の窓を誇り、毎朝平和の鐘を鳴らしていた彼の家。
彼が生まれ、王子として生きてきた象徴。
そこから、いくつもの炎が天を突いて燃え上がっていた。
「……っ……」
声が出なかった。ラウゼルの思考が、完全に停止した。
大人たちは、知っていたのだ。
侍女たちの静寂も、兵士たちの冷たい視線も、父の不在も。
そして――風など吹いていなかったあの昼下がり、母が流した涙の意味も。
『あなたを送り届けたら、私はすぐに戻るわ』
母は最初から、戻るつもりなどなかったのだ。遠くで、王宮を包む炎が爆発的な音を立てて燃え盛る。
この夜、王宮の灯りが崩落とともに消え去った瞬間。ラウゼル・アシュレイドの世界は終わりを告げた。
父王が二度と己の前に現れないことも、母が笑顔の裏に秘めていた絶望の深さも。
そして、この夜を境に、自分が王子という名に守られて生きる時間を永遠に失ったことも。
頬を伝う冷たい涙にすら気づかないまま、炎に包まれる故郷を、呆然と見つめ続けていた。
その胸の奥底に、二度と消えることのないほの暗い喪失が刻み込まれたことを、幼い彼はまだ知らなかった。
頭の中で水色の桔梗の家紋がワーっと並びました。これは、恋愛小説になるんだ、謀反についてクローズアップするのは今じゃねえ!と自分を抑えて書いたのがコレです。




