第一話:王子の朝
朝の鐘が、王都の空に響き渡る。
白亜の尖塔から解き放たれた重厚な音色は、王宮上階にある部屋まで届いていた。
精緻な銀細工が施された大窓の前に、一人の少年が佇んでいる。
隙なく整えられた金の髪、胸元に光る王家の紋章、そして一粒の泥も許さない磨き上げられた革靴。
王子ラウゼル。
その姿は王族たる整っていたが、彼と日常を共にする使用人たちにとって、彼は敬愛の対象であると同時に胃痛の種でしかなかった。
「ラウゼル殿下。お目覚めのお時間でございます」
扉の向こうからの声に、ラウゼルは振り返ることもなく短く応じた。
「分かった」
入室してきた年嵩の侍従は、定規で測ったかのような正確な角度で頭を下げる。
「本日のご予定を申し上げます。午前は古文書に基づく王朝歴史学、続いて帝王学。昼餐を挟みまして、午後から実戦剣術、続いて隣国との外交史でございます」
「政治学は?」
「本日の予定にはございません」
「昨日もなかった」
「昨日は殿下が自らご予定を変更なさいましたので」
「なら、今日も変更する」
侍従の胃が、キュッと締め付けられた。
ラウゼル殿下は年齢以上に賢い。そして、果てしなくめんどくさい。
「朝餐の時間を十分早めてくれ。城下へ行く」
「ですが、本日は隣国の使節団との重要な会食が……」
「知っている。会食までに戻ればいい」
「ですが、護衛兵の編成と結界魔法の準備が」
「必要最低限でいい」
「殿下……」
侍従の顔に苦渋の皺が刻まれる。ラウゼルは流れるような動作で向き直り、冷ややかな視線を向けた。
「何だ」
「殿下は、この国の未来そのものを背負うお方でございます。もう少しご自身のお立場というものを――」
「王子だから外へ出てはいけないのか?」
「そういう意味では」
「では、どういう意味だ?」
理屈で詰め寄り、相手が言い返せなくなる。
絶句する侍従を置き去りにし、ラウゼルはフンと鼻を鳴らして歩き出す。
足音を吸い込む絨毯の上を歩けば、廊下ですれ違う侍女や近衛兵たちが次々と頭を下げる。
「おはようございます、殿下」
「おはよう」
「昨夜の舞踏会はいかがでしたか?」
「退屈だった」
侍女の笑顔が引きつる。ラウゼルは一瞥も与えず通り過ぎた。誰も彼もが、貼り付けたような同じ笑顔を浮かべて自分を持ち上げてくる。
敬意。忠誠。親愛。
――嘘ばかりだ。
この者たちが頭を下げているのは「王子」という記号であって、自分自身ではない。
王子の仮面の下で、幼さの残る歪んだ寂しさをこじらせていることに、本人は気づいていなかった。
◇
大広間では、父王が朝食を前に待っていた。
「来たか、ラウゼル」
「おはようございます、父上。朝餐が終わったら城下へ行きます」
「……今日は使節団との会食があるぞ」
「それまでには戻ります。護衛は要りません」
「そうはいかん。十人はつけよ」
「多すぎて目立ちます」
「王家の威光を誇示して何が悪い?」
ラウゼルは冷ややかな目で父を見つめた。
「私が王子だと分かってしまうからです。城下の人間が王子の顔を知っているとは限らない。無知な者として混ざるほうが、真実の声を聞きやすいと思うのです」
父王は静寂の中、しばらく幼い息子の瞳を見つめ返した。やがて、広間を揺らすような朗らかな笑い声を上げた。
「お前は本当に変なところばかり、大人びているな」
「そうでしょうか」
ラウゼルは金箔が施された椅子に腰を下ろした。給仕によって料理が運ばれてくる。
他国から取り寄せた香辛料で焼き上げられた滋味豊かな肉。
魔力を育んだ香草のスープ。
一等麦で作られた焼きたての白パン。
遠方の領地から献上された瑞々しい果物。
銀の器を満たす果汁水。
どれも美しく隙なく洗練されていた。そして、いつものように美味だった。ラウゼルは静かに匙を動かしながら高窓の向こうの空を見上げる。
「そういえば」
父王が思い出したように口を開いた。
「昨日、城下へ降りたそうだな」
「はい」
「何を見た?」
「貧民街の市場で、固いパン一つを買うために一時間も列に並んでいる人々がいました」
「パンか」
「はい」
「下層区では珍しいことではない」
「ですが、この王宮の厨房では、毎日大量のパンが捨てられています」
父王の手が、ピタリと止まった。
「王宮と市井とでは、背負う事情が違う」
「それ自体が、歪んだ構造なのではないですか?」
張り詰めた緊張感が広間を支配する。
隣に座っていた王妃が、案じるように息子を見た。
「ラウゼル」
「はい」
「あなたは最近、年には過ぎた難しいことばかり考えていますね」
「そうですか?」
「ええ」
「では母上。人はどうして、姿すら見ぬ王に従うのですか?」
王妃は言葉を失った。父王が重々しく答える。
「王という概念そのものが、絶対だからだ」
「王だから?」
「そうだ」
「では、その冠を失い、王でなくなった者は?」
父王の視線が鋭く研ぎ澄まされる。
ラウゼルは何気なく、まるで世界の不可解な仕組みを尋ねるかのように淡々と問うていた。その眼差しには、純粋な求知心だけが宿っていた。
「そのときは……」
父王は言葉を吟味するように長い間を置いた。
「そのときは、その者が王座にふさわしくなくなったというだけのことだ」
「では、そこに生きる人々は?」
「何?」
「人々は、王座を失ったただの男に、二度とついてはいかないのですか?」
「ラウゼル」
父王の声に威圧感が混ざり、低く響いた。
「王というものは、王座に鎮座しているからこそ王なのだ」
「……」
「いずれお前も理解するときが来る」
ラウゼルはスープを一口、静かに飲み干した。
「分かりました」
「何が分かった?」
「人は王という人間ではなく、ただ『王座』という記号と権力を崇めているのだな、と」
父王はどこか寂しげに苦笑した。
「まあ、世理とはそういうものだ」
ラウゼルは今日のやり取りを何年、何十年経っても決して忘れることはなかった。
◇
初老の教師が、古文書から王朝史を朗誦していた。
「そして第十四代国王は、王国を揺るがした反乱軍を徹底的に鎮圧し――」
「先生」
「はい、殿下」
「反乱という炎は、どうして燃え上がるのですか?」
教師が瞬きをした。
「それは……民衆が、王の威光に不満を持ったからです」
「どうして不満を?」
「政治への誤解があったのでしょう」
「政治が悪かったから、起きたのではないのですか?」
「……一概には言えません」
「では、真の要因は何ですか?」
「殿下。歴史という複雑な織物は、様々な因子が複雑に絡み合って――」
「歴史という言葉は、常に勝者の剣によって記されるのでしょう?」
凍りつくような静けさに、室内に帯同していた護衛が息をのみ、侍従は無意識に胃を押さえた。
「……光と影の側面はございます」
「では、敗れ去った反乱軍は、永遠に悪者として記されます」
「秩序を乱した逆賊でございますから」
「ですが、反乱軍の兵士にも守るべき家族がいたはずです」
「……」
「その人たちは、自分たちが悪だと知りながら戦ったのでしょうか?」
誰も答えを提示できなかった。ラウゼルは澄んだ瞳で教師を静かに見つめた。
「殿下。その問いの深淵に挑むには、当時の社会情勢と魔導の発達を――」
「分かりました」
ラウゼルは追及を止めた。羊皮紙の教科書へ目を戻す。
教師は少し間を空けてから再開した。けれど、少年の瞳は文字を追ってはいなかった。
反乱。
血塗られたその二文字だけが、彼の意識の奥に沈んでいった。
うんと、めんどくさい主人公を書いてみたい。思いついてAIと壁打ちして公開して音声読み上げで聞いたら、文体までめんどくさいことに気付きました。手遅れですが、修正しました、内容は変わっていません。




