第三十二話 戻る森
森の図書館を出た四人は、祭壇の光が示した山へ向かった。
最初のうちは、これまで歩いてきた森と何も変わらなかった。
木々の隙間から光が差し込み、湿った土の上にはところどころ昨日の雨が残っている。遠くから鳥の鳴き声が聞こえ、枝の上を小さな獣が走る音もした。
ヴァルドは先頭を歩いていた。
背中には、普段よりひと回り大きな荷物を背負っている。その後ろをリシェル、ユナ、ミハルが続いた。
しばらく歩いたところで、ユナが木々の向こうを見上げた。
「山、まだ遠いですね」
「もう近い」
ヴァルドが前を向いたまま答える。
「そうなんですか?」
「ああ」
木々の間から見える山は、まだ森の奥に大きな影となって横たわっていた。歩いているのに、なかなか近づいているようには見えない。
「近く見えませんけど」
「山はそういうもんだ」
「便利ですね、その言い方」
「何がだ」
「近くても遠くても説明できます」
ヴァルドは答えなかった。
リシェルが前を向いたまま山を見る。
「少なくとも、昨日よりは大きく見える」
「ですよね」
「だから近い」
ヴァルドが言った。
ユナが少し不満そうに口を尖らせる。
「リシェルさんが言うと納得できます」
「意味が分からん」
ヴァルドはそれ以上相手をせず、そのまま森を進んだ。
◇
木々が少なくなり始めたころ、山はいつの間にか視界の大半を占めるようになっていた。
遠くから見たときには、緑に覆われた一つの大きな山にしか見えなかった。
しかし近づいてみると、印象はまるで違う。
斜面のあちこちから黒っぽい岩肌が突き出し、場所によっては壁のように切り立っている。森の木々もふもとへ近づくにつれて低くなり、やがて岩の間に灌木や丈の短い草が張りつくように生えるだけになった。
ユナが立ち止まり、首が痛くなるほど上を見上げる。
「……思ったより高いですね」
「だから言った」
「高いとは聞いてません」
「険しいとは言った」
「それ、同じですか?」
「だいたい同じだ」
「違うと思います」
ヴァルドはもう聞いていなかった。
腰の袋から折り畳んだ地図を取り出し、風に煽られないよう片手で押さえながら開く。
何度も使われた紙には、川や岩場だけでなく、獣道や季節によって水の溜まる場所まで細かく書き込まれている。
だが、その線は山のふもとで途切れていた。
リシェルが隣から覗き込む。
「ここまでか」
「ああ」
「登ったことは?」
「ない」
ユナが驚いたように振り返った。
「ヴァルドさんでも?」
「俺がこの森の全部を知ってると思ってるのか」
「ちょっと思ってました」
「知らんものは知らん」
ヴァルドは地図を畳み、再び腰の袋へしまった。
「だから見る」
そう言って、目の前の斜面を見上げる。
遠くからでは一枚の壁に見えた山にも、近づけば岩の切れ目や草の生え方、雨水が削った跡がある。
「ここから先は、俺より前に出るな」
「分かった」
リシェルはすぐに答えた。
ユナも頷く。
「はい」
「僕も」
ミハルが続く。
ヴァルドは一度だけ三人を確認すると、山の斜面へ足を踏み出した。
◇
登り始めて間もなく、道らしいものは完全になくなった。
足元には大小の岩が転がり、その隙間を湿った土が埋めている。木の根をつかみ、岩に足を掛け、ときには両手を使わなければ進めない。
森の中を歩いているときとは違い、少し登っただけでも息が上がった。
ユナが額の汗を腕で拭う。
「これ……ずっと続くんですか?」
「もっと急になる」
「聞かなければよかったです」
前を歩いていたヴァルドが足を止めた。
「そこを踏むな」
ユナが出しかけた足を止める。
「右だ」
言われた通り、すぐ横の岩へ足を移した。
ヴァルドはそれを確認すると、そのまま先へ進む。
直後、ユナが踏もうとしていた地面の端が崩れた。薄く残っていた表面の土が音もなく割れ、斜面の下へさらさらと滑り落ちていく。
ユナは思わず振り返った。
「前を見ろ」
「……はい」
すぐに顔を戻し、ヴァルドのあとを追った。
少し登ると、斜面が二つに分かれていた。
左は土が多く、傾斜も緩い。右は岩が剥き出しで、見るからに急だった。
「右だ」
ヴァルドが言う。
リシェルは一度だけ左の斜面を見たが、何も聞かずに右へ向かった。
左手の斜面には、土に埋まった大きな岩がいくつも斜面から顔を出していた。
ユナも黙って二人のあとに続いた。
岩場へ入ると、足を置ける場所は狭くなった。
ヴァルドは数歩進んでは立ち止まり、三人がついてきていることを確かめる。
「そこは右足からだ」
「分かった」
「ユナ、手を掛けるならその岩じゃない。上だ」
「これですか?」
「それだ」
◇
昼を過ぎるころには、ふもとの森がずっと下に見えるようになっていた。
木々の頂が一面の緑となって広がり、その向こうを川が細い銀色の筋となって流れている。
四人は風を避けられる大きな岩の陰で休むことにした。
荷物を下ろすなり、ヴァルドが言った。
「水を飲め」
「まだありますよ」
ユナが水筒を持ち上げる。
「今飲め」
「喉が渇いてからじゃ駄目なんですか?」
「駄目だ」
「どうして?」
「渇いてから飲むと遅い」
ユナは少しだけ首を傾げたが、今度は素直に栓を開けた。
リシェルも同じように水を飲む。
ミハルは自分の水筒を口へ運びながら、ヴァルドを見る。
「自分は?」
「飲んだ」
「いつ?」
「歩きながら」
「気づかなかった」
「見るのが足りないな」
ユナが笑った。
「言われましたね」
ヴァルドは干し肉を一つ取り出して口へ入れる。
「食え」
四人は岩陰に腰を下ろし、短い休憩を取った。
登っているあいだは気づかなかったが、風は少しずつ強くなっていた。さっきまで青かった空にも薄い雲が広がり始めている。
ヴァルドは何度か空を見たあと、斜面に生えている草の揺れ方へ目を移した。
「少し急ぐ」
「天気が崩れるのか?」
リシェルが尋ねる。
「夕方には風が強くなる」
「雨は?」
「分からん」
ユナが水筒の栓を閉めながら言った。
「雲を見れば分かるんじゃないんですか?」
「分かることと分からんことがある」
「ヴァルドさんでも?」
ヴァルドがユナを見る。
「それ、何回聞くつもりだ」
「便利なので」
ユナが笑う。
ヴァルドはため息もつかず立ち上がった。
「行くぞ」
◇
午後になると、斜面はいよいよ急になった。
木々はほとんどなくなり、岩肌の間にわずかな草が生えているだけだ。
しばらく進んだところで、四人の前に小さな崖が現れた。
高さそのものはそれほどでもない。
ただ、斜面がほとんど垂直で、足を掛けられる場所が少なかった。
ヴァルドは一度上まで目で追い、それから荷物を下ろした。
「縄を出す」
リシェルがすぐに自分の荷物を開き、太い縄を取り出した。
昨日、ヴァルドから渡されたものだった。
ヴァルドはそれを受け取ると、近くの岩へ回し、何度か体重を掛けて確かめる。
「ここを登る」
ユナが崖を見上げた。
「これを?」
「ああ」
「別の道は?」
「ある」
「あるんですか?」
「遠回りすればな」
「じゃあ――」
「二時間くらい余計にかかる」
ユナはもう一度崖を見た。
「ここでお願いします」
ヴァルドは先に登った。
岩の出っ張りへ足を掛け、手を伸ばし、迷うことなく上へ進んでいく。
上まで登ると縄を固定し、下を覗いた。
「リシェル」
「ああ」
リシェルは縄をつかむと、ためらうことなく登った。
続いてミハル。
最後にユナが縄を握る。
「落ちませんよね?」
「縄は落ちん」
「私の話です」
「手を離さなければな」
「離しません」
ユナは慎重に足場を探しながら登っていった。
半分ほど登ったところで、靴の先が岩から滑った。
「わっ」
体が一瞬下へ落ちる。
縄が強く張り、そこで止まった。
「大丈夫か?」
上からミハルが声をかける。
「だ、大丈夫です」
ヴァルドは縄を握ったまま、少し下を覗く。
「右に足場がある」
「右?」
「もう少し上」
ユナが探す。
「あ、ありました」
足を置き、もう一度体を持ち上げる。
ようやく崖を登り切ると、ユナはその場へ座り込んだ。
「怖かった……」
「だから縄を持ってきた」
ヴァルドは何事もなかったように固定した縄をほどき始める。
ユナはその縄を見てから、自分の荷物を見た。
「昨日、二本必要だって言ってた意味、ちょっと分かりました」
「一本まだ使ってない」
「そういうことじゃありません」
ヴァルドは答えず、縄をまとめた。
◇
さらに一時間ほど登ると、斜面は少しずつ緩やかになった。
代わりに風が強くなる。
高い木はもう一本もなく、地面には風に押しつけられるように低い草が生えているだけだった。
ヴァルドが足を止める。
「もうすぐだ」
「頂上ですか?」
ユナが息を整えながら尋ねる。
「たぶんな」
「たぶん?」
「来たことがない」
「あ、そうでした」
前方には、岩が連なった尾根が壁のように見えていた。
四人はそこへ向かう。
最後の斜面を登り切り、最初に尾根へ出たのはリシェルだった。
そのまま足を止める。
「……これは」
ヴァルドが横へ並んだ。
何も言わなかった。
ユナとミハルも遅れて登り切る。
そして、二人も同じように立ち止まった。
山を越えれば、その向こう側へ斜面が続いているのだと思っていた。
その先には、別の平地や森があるのだと。
違った。
眼下には、巨大な窪地が広がっていた。
遠くまで続く山々が、まるで大地を囲む壁のように輪を描いている。
その中心。
はるか下に、深い森があった。
陽の光を受けた木々が一面に広がり、ところどころ濃い影を落としている。
今まで歩いてきた森とは、完全に切り離されていた。
ユナが小さく息を呑む。
「森……?」
「ああ」
リシェルが左右へ目を向ける。
「山の内側にあるのか」
ヴァルドは答えなかった。
目を細め、眼下の森をじっと見ている。
川を探しているのか。
獣道を探しているのか。
あるいは、この景色そのものから何かを読み取ろうとしているのか。
しばらくして、ユナが尋ねた。
「知ってたんですか?」
「いや」
ヴァルドの返事は短かった。
「初めて見る」
ユナはもう一度、眼下の森を見る。
「ヴァルドさんが知らない森……」
「俺の森じゃない」
「森に持ち主っているんですか?」
「そういう意味じゃない」
ヴァルドは尾根の向こうへ続く斜面を見た。
「下りる」
「今から?」
「ああ」
リシェルが空を見る。
日はまだ高いが、山の向こうには少しずつ長い影が伸び始めていた。
「日が落ちるまでには?」
「森までは行ける」
「その先は?」
ヴァルドはもう一度、眼下を見た。
「知らん」
今までなら、その言葉のあとに何かしらの予測が続いた。
だが今度は、本当に何も分からないらしい。
「ここから先は全部、初めてだ」
◇
下りは、登りとは別の難しさがあった。
山の内側は土が柔らかく、足を置くたびに靴底が少しずつ滑る。
ヴァルドは適当な細木を選び、幹を引いて強度を確かめてから縄を掛けた。
「一人ずつ下りる」
今度はユナも何も言わなかった。
縄を握り、ヴァルドの指示通りに足場を探す。
何度か同じことを繰り返しながら斜面を下りていった。
高度が下がるにつれて、景色が変わっていく。
最初は地面へ張りつくような灌木だけだった。
そこに細い木が混じり始め、さらに下ると、枝を広げた大きな木々が頭上を覆うようになった。
山の上で吹いていた強い風の音が、少しずつ遠ざかっていく。
代わりに聞こえてきたのは、鳥の声だった。
虫の羽音。
葉が触れ合う音。
どこかで小さな枝が折れる。
ユナが周囲を見回した。
「普通の森に見えますね」
「見えるな」
ヴァルドが答えた。
だが、その声は少し低かった。
森へ入ってから、ヴァルドは何度も足を止めるようになった。
木の幹を見る。
地面へしゃがむ。
折れた枝を拾い、葉の裏を確かめる。
また歩き、しばらくすると再び止まる。
リシェルが尋ねた。
「何かあるのか?」
「……分からん」
その答えに、ユナが振り返った。
「何がです?」
「森だ」
ヴァルドは地面へしゃがみ、湿った土へ指を触れた。
「獣の跡はある」
「なら、進めるんじゃないか?」
リシェルが言う。
「そうじゃない」
ヴァルドは立ち上がった。
「跡が変だ」
「変?」
「方向がない」
ユナには意味が分からなかったようで、地面を見た。
確かに蹄の跡らしい窪みや、小さな爪痕が残っている。
「普通はある」
「何が?」
「流れだ」
ヴァルドが森の奥を指す。
「獣が水へ行く道。餌場へ行く道。寝床へ戻る道。何度も通れば、そこに流れができる」
「ここにはない?」
「ある」
ヴァルドは少し間を置いた。
「でも、全部途中で消える」
リシェルが周囲を見る。
「人が入らないからでは?」
「獣はいる」
森の奥から、何かが葉を揺らす音がした。
ヴァルドはそちらを見る。
しばらく考えてから言った。
「進むぞ」
◇
森の奥へ入るにつれ、空は見えなくなった。
高い木々が枝を伸ばし、葉が幾重にも重なっている。
ヴァルドは一本の木の前で足を止め、短刀の先で幹に小さな傷をつけた。
「印ですか?」
「ああ」
ユナがそれを見て尋ねる。
「迷ってるんですか?」
「確認してるだけだ」
「何を?」
「進んでるか」
ユナが一瞬黙った。
「進んでますよね?」
「そのはずだ」
再び歩き始める。
ヴァルドは方角を変えながら進み、途中で何度か空を見上げた。
だが枝葉が厚く、太陽はほとんど見えない。
それでも迷う様子はなく歩き続けた。
やがて、突然足を止める。
目の前の木を見た。
幹に、小さな傷がついている。
さっき自分で刻んだものだった。
誰もすぐには声を出さなかった。
ヴァルドはその傷へ指を触れる。
「……戻った」
ユナが後ろを見る。
「同じ道を?」
「いや」
「でも、ここに戻ったんですよね?」
「ああ」
「じゃあ――」
「違う道を歩いた」
ヴァルドは周囲を見回した。
さっきまでの森と何も変わらない。似たような木々が並び、ところどころ岩が覗き、足元には湿った土が続いている。
ヴァルドは一つずつ確かめるように周囲を見てから、再び方向を変えた。
「こっちだ」
今度は、木の幹や岩、地面に何度も印を残しながら進んだ。
それでも、しばらく歩いた先で、また同じ木が現れた。
最初につけた傷が残っている。
ユナが小さく呟く。
「また……」
「ああ」
ヴァルドは答えた。
少し長い間、何も言わず森を見回す。
「おかしい」
初めて、その言葉を口にした。
リシェルが尋ねる。
「何が起きている?」
「分からん」
ヴァルドは即答した。
「地形は変わってない。太陽の位置も大きくはずれてない。歩いた距離も合わない」
「魔法か?」
「分からん」
苛立った様子はなかった。
ただ、地面を見て、木を見て、わずかに見える空を見た。
何度も確かめる。
それでも答えは出ない。
そのとき、ユナがふと顔を上げた。
「……あれ?」
「どうした?」
ミハルが尋ねる。
ユナはすぐには答えず、目を閉じた。
「ユナ?」
「少し待ってください」
四人の間から声が消えた。
風が葉を揺らしている。
ユナはしばらくそのまま立っていた。
やがて、ゆっくりと右を向く。
「あっち……」
「何がある?」
リシェルが尋ねる。
「分かりません」
ユナは眉を寄せた。
「でも……」
胸元へ手を当てる。
「呼ばれてるような気がします」
ヴァルドがユナを見る。
「誰に?」
「分かりません」
「音がするのか?」
「音じゃないです」
「匂い?」
「違います」
ヴァルドは黙った。
ユナが少し困ったように笑う。
「変ですよね」
誰も答えなかった。
「でも、たぶん、あっちです」
ユナが指した先には道がない。
木々が密集し、足元には背の低い植物が生い茂っている。
ヴァルドはその方向を見る。
次に地面を見る。
木を見る。
もう一度、ユナを見る。
「確かか?」
「……確かって言われると困ります」
「どれくらいだ」
「どれくらい?」
「自信」
ユナは少し考えた。
「分かりません」
ヴァルドの眉がわずかに動く。
「でも、行きたいです」
「理由は?」
「呼ばれてる気がするから」
ヴァルドはしばらく黙っていた。
リシェルも口を挟まない。
ミハルも待った。
やがて、ヴァルドがユナを見る。
「分かった」
ユナが目を瞬いた。
「いいんですか?」
「ああ」
「でも、私、何も説明できませんよ」
「俺も今は説明できん」
ヴァルドはユナが指した方向へ向き直った。
「なら、同じだ」
ユナが少しだけ笑った。
「行きます?」
「ああ」
ヴァルドは一歩踏み出した。
ユナの示した方向へ。
◇
それからは、不思議なことに同じ場所へ戻らなかった。
ユナはときどき足を止め、目を閉じて何かを確かめるようにしばらく黙った。そして方向を指す。
ヴァルドは理由を聞かず、その方向へ進んだ。
どれくらい歩いただろう。
やがて、木々の向こうがわずかに明るくなった。
ユナが足を止める。
「近いです」
「分かるの?」
ミハルが聞く。
「はい」
今度は迷わなかった。
「すぐそこです」
ヴァルドが先へ出ようとした。
その腕を、ユナがつかんだ。
「待って」
ヴァルドが止まる。
「何だ?」
ユナは木々の隙間を見ていた。
「いる」
「何が?」
リシェルが尋ねる。
ユナは答えなかった。
木々の向こう。
誰かがいた。
連続更新3日目、ありがとうございました。
ついに、水の女王へ至る場所まで来ました。
明日9/23も更新します。
第四章最大の謎へ入ります。




