第二十八話 死なない道
森の中に、短い沈黙が落ちた。
目の前には、水のない平地が広がっている。
どう見ても、三方向から水が押し寄せる場所には見えなかった。
「……本当に、そんなに危険なんですか?」
ユナが尋ねた。
「説明している時間が惜しい。死にたくなければ、来た道を七十歩ほど戻れ。根の浮いた大樹がある。その裏から斜面を上がる」
「待ってください。どうして分かるんですか?」
青年は答えず、森の奥へ視線を向けた。
少し離れた枝で、小さな鳥が一羽鳴いた。
くすんだ青灰色の羽をした、小柄な鳥だった。
青年がそちらへ一瞬だけ目を向ける。鳥は逃げず、そのまま枝に残っていた。
「リシェルさん」
ミハルが判断を求めた。
リシェルは青年の顔ではなく、青年が見ている方向を確かめていた。やがて背負っていた荷物の紐を締め直す。
「移動する。理由は歩きながら聞く」
青年が、わずかに眉を動かした。
「信じるのか?」
「信じたわけではない。ここに留まる理由がないだけだ」
「そうか」
青年は背を向けた。
「なら、俺が踏んだ場所を踏め」
三人は青年のあとを追った。
来た道を戻り始めると、青年は迷うことなく木々の間を進んでいく。
「そこは踏むな」
ユナが足を止めた。
つま先のすぐ前に、枯れ葉で隠れた浅い穴があった。
「ありがとうございます」
「次から自分で見つけろ」
「言い方というものがありませんか?」
「落ちる前に言った。それで十分だ」
ユナが頬を膨らませる。
その肩の近くで、姿を隠しているリートの声がした。
「気に入らぬ男だな」
青年の目が、一瞬だけユナの肩へ向いた。
だが、何も言わず歩き続ける。
「水が来る根拠を聞いてもいいか?」
リシェルが尋ねた。
青年は一本の木を指した。
幹の下部に、濡れた樹皮が帯のように残っている。
「昨日、水はあそこまで来た」
ミハルの膝より少し高い。
「でも、今は乾いています」
「今はな」
青年は木の根元を示した。
小さな蟻が、白い卵を抱えて列を作っている。すべて斜面の上へ向かっていた。
「虫は人間より早く水に気づく」
少し先では、幹を這う虫が高い場所へ集まっている。
地面には小動物の足跡が残っていた。低地へ向かうものはない。
「獣も朝から下へ降りていない。水鳥も消えた」
青年はしゃがみ込み、枯れ葉をどけた。
下の土は濃く湿っている。
次に、平地の左右を指した。
「向こうに浅い沢が二本ある。後ろにも水の通り道がある。あそこは三つの低地がぶつかる場所だ」
ミハルは振り返った。
「だから、三方向から……」
「ああ」
「四半刻というのは?」
「鳥と獣の動き。地面の湿り方。あとは距離だ」
青年は歩みを止めない。
「水が見えてから逃げるのは、逃げるとは言わない」
青年が言った。
「流される場所を選ぶだけだ」
やがて、大きく根を浮かせた古木が見えた。
青年はその裏へ回り、枯れ草に覆われた斜面を上り始める。
「ここから滑る。木の根を踏め」
リシェルが続き、そのあとをユナ、ミハルが追う。
腐葉土が水を含み、足を置くたびに沈んだ。
「あっ」
ユナの背負い袋が傾いた。
青年が手を伸ばし、垂れていた紐をつかむ。ユナが転ぶより早く、近くの根へ引き寄せた。
「紐が緩んでいる」
「あ……ありがとうございます」
「荷物に殺されるぞ」
青年は手早く紐を結び直すと、何事もなかったように進み始めた。
ユナがその背中を見る。
「助けてくれたのに、どうしてあんな言い方になるのでしょう」
「聞こえている」
「聞こえるように言いました」
青年は答えなかった。
斜面を上り切ると、細長い尾根が続いていた。
その途中で、一本の倒木が窪地へ渡されている。
嵐で倒れた大木が、偶然向こう側の斜面まで届いたらしい。
青年は根元を確かめ、片足を乗せた。
「一人ずつ渡れ」
リシェルが最初に渡る。
続いてユナ。
「下を見るな」
「今、言われたので見てしまいました」
「なら戻せ」
ユナは口を結び、慎重に渡った。
ミハルもあとに続く。
窪地の底には枯れ葉が積もり、水は一滴も見えない。
半ばまで来たところで、遠くから音が聞こえた。
風ではない。
低い地鳴りのような音だった。
ミハルが足を止める。
「止まるな!」
青年の声が飛んだ。
ミハルは足を進め、リシェルの差し出した手をつかむ。
向こう側へ下りた直後、音がはっきりと水音へ変わった。
一方向ではない。
左手の森から枝の折れる音が響く。
右手からも。
さらに、三人が歩いてきた背後からも近づいてきた。
「本当に、三方向から……」
ユナの顔から血の気が引いた。
青年が倒木へ足をかける。
その瞬間、森の奥へ目を向けた。
「早いな」
「何が?」
「思ったより速い」
窪地の左側から水が流れ込んだ。
最初は地面を薄く覆うだけだった。
だが、すぐに枯れ葉を持ち上げ、倒木の下を走り始める。
「急いでください!」
「急げば落ちる」
青年は倒木へ乗らず、根元を見た。
水が土を削っている。
大木の根が、低い音を立てて軋んだ。
「離れろ!」
リシェルがユナとミハルを斜面の上へ押し上げる。
次の瞬間、右手から流れ込んだ水が倒木へぶつかった。
根元の土が崩れた。
倒木が大きく傾き、そのまま水に持ち上げられる。
枝が木々へぶつかり、激しい音を立てながら流されていった。
青年だけが、反対側へ取り残された。
「そんな……」
ユナが息を呑む。
青年のいる場所は、太い木の根が張り出した小さな高みだった。
その周囲にも水が回り始めている。
背後から三本目の流れが加わった。
水位が一気に上がる。
「ここから縄は届くか?」
リシェルが荷物を下ろした。
ミハルも縄を取り出す。
だが、投げて届く距離ではなかった。
「無理だ」
対岸から青年が言う。
「お前たちは、そのまま上へ行け」
「あなたはどうする?」
「考える」
リシェルが青年の足元を見る。
水はすでに木の根の半分まで達していた。
「そこはもたない」
「分かっている」
青年は淡々と答えた。
ユナが周囲を見回す。
「火球では水は止められません。向こうの木を倒すにも、この距離では……」
縄を結べる木はある。
だが、対岸へ渡す方法がない。
ミハルにも、助ける方法は見えなかった。
それでも、対岸の青年を見た。
この男は、自分たちには見えないものを、ずっと見ていた。
水が来る場所も、逃げる獣も、足元に隠れた危険も。
「助けられます」
ミハルは言った。
リシェルとユナが振り返る。
青年が険しい目を向けた。
「何を根拠に言っている?」
「あなたなら、ここにあるものを使って、死なない道を見つけられます」
青年は黙った。
「俺に考えさせるのか」
「はい」
「自分では何も思いつかないくせに?」
「思いつきません」
ミハルは答えた。
「でも――あなたならできます」
その言葉とともに、ミハルの胸元から淡い光がこぼれた。
ほんの一瞬だった。
見間違いとも思えるほど、かすかな光だった。
けれど、その光は水面を越え、青年の胸元へ届いた。
青年が目を細める。
何かが変わったわけではない。
水は増え続けている。逃げ道もない。状況は何一つ好転していない。
それでも――
青年の目が、もう一度周囲を見た。
三人の側にある大樹。
縄。
自分の腰に下げた細い糸。
木々の間隔。
水の速さ。
そして、空。
「……根拠のない楽観だ」
青年は吐き捨てた。
だが、その目はもう止まっていなかった。
青年が唇へ指を当て、短く鋭い音を鳴らした。
頭上の枝葉が揺れる。
先ほどの青灰色の鳥が木々の隙間から姿を現し、青年の腕へ下りた。
「その鳥は……」
青年は腰から細い糸を取り出し、その端を鳥の脚へ緩く結んだ。
三人の側にある大樹を指し、短く口笛を鳴らす。
鳥が短く鳴いた。
翼を広げ、水の上へ飛び出す。
ユナの頭上を一度回り、近くの枝へ止まった。
「糸を外せ!」
ユナが鳥の脚から糸を外す。
「引け!」
糸を引く。
途中から重くなった。
青年が、その先へ太い縄を結んでいる。
ミハルも加わり、二人で手繰り寄せた。
リシェルが縄を受け取り、大樹へ回す。
「二度巻け。根の下を通せ!」
三人で固定する。
青年も反対側を木へ結びつけた。
一本の縄が、水の上へ張られる。
「渡れるのか?」
リシェルが尋ねる。
「渡れなければ死ぬ」
「それは答えになっていない」
「なら、渡る」
青年は縄へ両手をかけ、身体をその下へ吊った。
少しずつこちらへ進む。
足元では、三方向から集まった水が渦を巻いている。
半分ほどまで来たところで、身体が大きく揺れた。
横から新しい流れがぶつかった。
青年が縄へ腕を絡ませる。
「縄を引きましょう!」
ユナが手をかける。
「まだだ!」
リシェルが止めた。
水面を見つめる。
泡の流れ。
木の葉の動き。
縄の震え。
そのとき、上流から大きな流木が流れてきた。
枝が水面を引っかきながら、張られた縄へ迫っている。
「あれが当たったら……」
ミハルが声を漏らした。
ユナの肩から、小さな炎が飛び出す。
「リート君!」
「分かっておる!」
リートが水面すれすれを飛ぶ。
ユナが流木から突き出した枝を指した。
「あそこだけです!」
「任せろ!」
細い炎が枝の根元へ集中した。
濡れた樹皮の内側で、乾いた破裂音が響く。
亀裂が走った。
流木が縄へ届く寸前、水の力で枝が折れる。
残った幹が縄の下を流れていった。
青年の目が、リートへ向いた。
わずかに見開かれる。
だが、その直後に波がぶつかった。
青年の身体が水へ沈む。
「危ない!」
ユナが叫んだ。
青年が再び浮かび上がる。
一瞬だけ、水の流れが緩んだ。
「今だ!」
リシェルの声と同時に、青年が縄を手繰った。
一気にこちらへ進む。
リシェルが斜面へ身を乗り出した。
ミハルとユナが、その腰を支える。
青年の腕をつかむ。
「離すな!」
四人の重みで斜面の端が崩れた。
それでもリシェルは離さない。
青年が土をつかみ、最後は自分の力で身体を引き上げた。
四人は折り重なるように高台へ倒れ込んだ。
直後、青年がいた対岸の木の根が崩れ、水へ消えた。
しばらく誰も話さなかった。
青年は仰向けになったまま空を見ている。
やがて、青灰色の鳥が下りてきて、その胸の上へ止まった。
青年は身体を起こし、鳥の翼を確かめた。
「無茶をさせたな」
鳥が小さく鳴く。
ユナが青年を見る。
「その鳥には、優しく話せるんですね」
「人間より話が通じる」
「助けたのは、私たちもです」
「四人がかりで一人だ。効率が悪い」
「そこは、ありがとうではないのですか?」
「頼んだ覚えはない」
「この人、本当に……」
ミハルは思わず笑った。
青年が見る。
「何がおかしい」
「助かってよかったと思っただけです」
「俺が助かると信じていたんじゃなかったのか」
「信じていました。でも、心配はします」
「意味が分からない」
青年は立ち上がり、濡れた上着を絞った。
リシェルも立ち上がる。
「名を聞いてもいいか」
「名前を知ってどうする」
「呼ぶために使う」
青年は濡れた縄を束ねながら、しばらく答えなかった。
やがて短く言う。
「ヴァルドだ」
「私はリシェル。こちらがミハルとユナだ」
「さっき聞いた」
「なら、覚えていたのですね」
ユナが言うと、ヴァルドは答えなかった。
代わりに、その視線がユナの肩へ向く。
リートが浮かんでいた。
ヴァルドはしばらく小さな炎を見つめた。
「それは何だ?」
「リート君です」
「名前じゃない」
「炎の精霊です」
ヴァルドの目が僅かに細くなる。
「精霊……」
それだけ言うと、ヴァルドは森へ視線を戻した。
水の勢いは少し弱まっていた。
「ここから動く」
「森の外へ戻るのか?」
リシェルが尋ねる。
「違う。ここから外へ戻る道の方が危険だ」
「では、どこへ?」
「俺の住んでいる場所だ。ここより高い」
ヴァルドは縄を肩へかけた。
「昨日までの道は使えない。水で地形も変わっている」
ユナが水没した森を見た。
「たどり着けるのですか?」
ヴァルドは一度だけ振り返った。
「死なない道がないとは、言っていない」
そう言って、森の奥へ歩き出した。
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