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【第一部完結】役立たず僧侶の僕が「弱い」と捨てられた仲間を集めたら、全員が規格外の天才でした 〜世界で唯一の【魂律師】は、人の本当の才能を見抜く〜  作者: 牧静
第四章 水の女王

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第二十八話 死なない道

 森の中に、短い沈黙が落ちた。


 目の前には、水のない平地が広がっている。


 どう見ても、三方向から水が押し寄せる場所には見えなかった。


「……本当に、そんなに危険なんですか?」


 ユナが尋ねた。


「説明している時間が惜しい。死にたくなければ、来た道を七十歩ほど戻れ。根の浮いた大樹がある。その裏から斜面を上がる」


「待ってください。どうして分かるんですか?」


 青年は答えず、森の奥へ視線を向けた。


 少し離れた枝で、小さな鳥が一羽鳴いた。


 くすんだ青灰色の羽をした、小柄な鳥だった。


 青年がそちらへ一瞬だけ目を向ける。鳥は逃げず、そのまま枝に残っていた。


「リシェルさん」


 ミハルが判断を求めた。


 リシェルは青年の顔ではなく、青年が見ている方向を確かめていた。やがて背負っていた荷物の紐を締め直す。


「移動する。理由は歩きながら聞く」


 青年が、わずかに眉を動かした。


「信じるのか?」


「信じたわけではない。ここに留まる理由がないだけだ」


「そうか」


 青年は背を向けた。


「なら、俺が踏んだ場所を踏め」


 三人は青年のあとを追った。


 来た道を戻り始めると、青年は迷うことなく木々の間を進んでいく。


「そこは踏むな」


 ユナが足を止めた。


 つま先のすぐ前に、枯れ葉で隠れた浅い穴があった。


「ありがとうございます」


「次から自分で見つけろ」


「言い方というものがありませんか?」


「落ちる前に言った。それで十分だ」


 ユナが頬を膨らませる。


 その肩の近くで、姿を隠しているリートの声がした。


「気に入らぬ男だな」


 青年の目が、一瞬だけユナの肩へ向いた。


 だが、何も言わず歩き続ける。


「水が来る根拠を聞いてもいいか?」


 リシェルが尋ねた。


 青年は一本の木を指した。


 幹の下部に、濡れた樹皮が帯のように残っている。


「昨日、水はあそこまで来た」


 ミハルの膝より少し高い。


「でも、今は乾いています」


「今はな」


 青年は木の根元を示した。


 小さな蟻が、白い卵を抱えて列を作っている。すべて斜面の上へ向かっていた。


「虫は人間より早く水に気づく」


 少し先では、幹を這う虫が高い場所へ集まっている。


 地面には小動物の足跡が残っていた。低地へ向かうものはない。


「獣も朝から下へ降りていない。水鳥も消えた」


 青年はしゃがみ込み、枯れ葉をどけた。


 下の土は濃く湿っている。


 次に、平地の左右を指した。


「向こうに浅い沢が二本ある。後ろにも水の通り道がある。あそこは三つの低地がぶつかる場所だ」


 ミハルは振り返った。


「だから、三方向から……」


「ああ」


「四半刻というのは?」


「鳥と獣の動き。地面の湿り方。あとは距離だ」


 青年は歩みを止めない。


「水が見えてから逃げるのは、逃げるとは言わない」


 青年が言った。


「流される場所を選ぶだけだ」


 やがて、大きく根を浮かせた古木が見えた。


 青年はその裏へ回り、枯れ草に覆われた斜面を上り始める。


「ここから滑る。木の根を踏め」


 リシェルが続き、そのあとをユナ、ミハルが追う。


 腐葉土が水を含み、足を置くたびに沈んだ。


「あっ」


 ユナの背負い袋が傾いた。


 青年が手を伸ばし、垂れていた紐をつかむ。ユナが転ぶより早く、近くの根へ引き寄せた。


「紐が緩んでいる」


「あ……ありがとうございます」


「荷物に殺されるぞ」


 青年は手早く紐を結び直すと、何事もなかったように進み始めた。


 ユナがその背中を見る。


「助けてくれたのに、どうしてあんな言い方になるのでしょう」


「聞こえている」


「聞こえるように言いました」


 青年は答えなかった。


 斜面を上り切ると、細長い尾根が続いていた。


 その途中で、一本の倒木が窪地へ渡されている。


 嵐で倒れた大木が、偶然向こう側の斜面まで届いたらしい。


 青年は根元を確かめ、片足を乗せた。


「一人ずつ渡れ」


 リシェルが最初に渡る。


 続いてユナ。


「下を見るな」


「今、言われたので見てしまいました」


「なら戻せ」


 ユナは口を結び、慎重に渡った。


 ミハルもあとに続く。


 窪地の底には枯れ葉が積もり、水は一滴も見えない。


 半ばまで来たところで、遠くから音が聞こえた。


 風ではない。


 低い地鳴りのような音だった。


 ミハルが足を止める。


「止まるな!」


 青年の声が飛んだ。


 ミハルは足を進め、リシェルの差し出した手をつかむ。


 向こう側へ下りた直後、音がはっきりと水音へ変わった。


 一方向ではない。


 左手の森から枝の折れる音が響く。


 右手からも。


 さらに、三人が歩いてきた背後からも近づいてきた。


「本当に、三方向から……」


 ユナの顔から血の気が引いた。


 青年が倒木へ足をかける。


 その瞬間、森の奥へ目を向けた。


「早いな」


「何が?」


「思ったより速い」


 窪地の左側から水が流れ込んだ。


 最初は地面を薄く覆うだけだった。


 だが、すぐに枯れ葉を持ち上げ、倒木の下を走り始める。


「急いでください!」


「急げば落ちる」


 青年は倒木へ乗らず、根元を見た。


 水が土を削っている。


 大木の根が、低い音を立てて軋んだ。


「離れろ!」


 リシェルがユナとミハルを斜面の上へ押し上げる。


 次の瞬間、右手から流れ込んだ水が倒木へぶつかった。


 根元の土が崩れた。


 倒木が大きく傾き、そのまま水に持ち上げられる。


 枝が木々へぶつかり、激しい音を立てながら流されていった。


 青年だけが、反対側へ取り残された。


「そんな……」


 ユナが息を呑む。


 青年のいる場所は、太い木の根が張り出した小さな高みだった。


 その周囲にも水が回り始めている。


 背後から三本目の流れが加わった。


 水位が一気に上がる。


「ここから縄は届くか?」


 リシェルが荷物を下ろした。


 ミハルも縄を取り出す。


 だが、投げて届く距離ではなかった。


「無理だ」


 対岸から青年が言う。


「お前たちは、そのまま上へ行け」


「あなたはどうする?」


「考える」


 リシェルが青年の足元を見る。


 水はすでに木の根の半分まで達していた。


「そこはもたない」


「分かっている」


 青年は淡々と答えた。


 ユナが周囲を見回す。


「火球では水は止められません。向こうの木を倒すにも、この距離では……」


 縄を結べる木はある。


 だが、対岸へ渡す方法がない。


 ミハルにも、助ける方法は見えなかった。


 それでも、対岸の青年を見た。


 この男は、自分たちには見えないものを、ずっと見ていた。


 水が来る場所も、逃げる獣も、足元に隠れた危険も。


「助けられます」


 ミハルは言った。


 リシェルとユナが振り返る。


 青年が険しい目を向けた。


「何を根拠に言っている?」


「あなたなら、ここにあるものを使って、死なない道を見つけられます」


 青年は黙った。


「俺に考えさせるのか」


「はい」


「自分では何も思いつかないくせに?」


「思いつきません」


 ミハルは答えた。


「でも――あなたならできます」


 その言葉とともに、ミハルの胸元から淡い光がこぼれた。


 ほんの一瞬だった。


 見間違いとも思えるほど、かすかな光だった。


 けれど、その光は水面を越え、青年の胸元へ届いた。


 青年が目を細める。


 何かが変わったわけではない。


 水は増え続けている。逃げ道もない。状況は何一つ好転していない。


 それでも――


 青年の目が、もう一度周囲を見た。


 三人の側にある大樹。


 縄。


 自分の腰に下げた細い糸。


 木々の間隔。


 水の速さ。


 そして、空。


「……根拠のない楽観だ」


 青年は吐き捨てた。


 だが、その目はもう止まっていなかった。


 青年が唇へ指を当て、短く鋭い音を鳴らした。


 頭上の枝葉が揺れる。


 先ほどの青灰色の鳥が木々の隙間から姿を現し、青年の腕へ下りた。


「その鳥は……」


 青年は腰から細い糸を取り出し、その端を鳥の脚へ緩く結んだ。


 三人の側にある大樹を指し、短く口笛を鳴らす。


 鳥が短く鳴いた。


挿絵(By みてみん)


 翼を広げ、水の上へ飛び出す。


 ユナの頭上を一度回り、近くの枝へ止まった。


「糸を外せ!」


 ユナが鳥の脚から糸を外す。


「引け!」


 糸を引く。


 途中から重くなった。


 青年が、その先へ太い縄を結んでいる。


 ミハルも加わり、二人で手繰り寄せた。


 リシェルが縄を受け取り、大樹へ回す。


「二度巻け。根の下を通せ!」


 三人で固定する。


 青年も反対側を木へ結びつけた。


 一本の縄が、水の上へ張られる。


「渡れるのか?」


 リシェルが尋ねる。


「渡れなければ死ぬ」


「それは答えになっていない」


「なら、渡る」


 青年は縄へ両手をかけ、身体をその下へ吊った。


 少しずつこちらへ進む。


 足元では、三方向から集まった水が渦を巻いている。


 半分ほどまで来たところで、身体が大きく揺れた。


 横から新しい流れがぶつかった。


 青年が縄へ腕を絡ませる。


「縄を引きましょう!」


 ユナが手をかける。


「まだだ!」


 リシェルが止めた。


 水面を見つめる。


 泡の流れ。


 木の葉の動き。


 縄の震え。


 そのとき、上流から大きな流木が流れてきた。


 枝が水面を引っかきながら、張られた縄へ迫っている。


「あれが当たったら……」


 ミハルが声を漏らした。


 ユナの肩から、小さな炎が飛び出す。


「リート君!」


「分かっておる!」


 リートが水面すれすれを飛ぶ。


 ユナが流木から突き出した枝を指した。


「あそこだけです!」


「任せろ!」


 細い炎が枝の根元へ集中した。


 濡れた樹皮の内側で、乾いた破裂音が響く。


 亀裂が走った。


 流木が縄へ届く寸前、水の力で枝が折れる。


 残った幹が縄の下を流れていった。


 青年の目が、リートへ向いた。


 わずかに見開かれる。


 だが、その直後に波がぶつかった。


 青年の身体が水へ沈む。


「危ない!」


 ユナが叫んだ。


 青年が再び浮かび上がる。


 一瞬だけ、水の流れが緩んだ。


「今だ!」


 リシェルの声と同時に、青年が縄を手繰った。


 一気にこちらへ進む。


 リシェルが斜面へ身を乗り出した。


 ミハルとユナが、その腰を支える。


 青年の腕をつかむ。


「離すな!」


 四人の重みで斜面の端が崩れた。


 それでもリシェルは離さない。


 青年が土をつかみ、最後は自分の力で身体を引き上げた。


 四人は折り重なるように高台へ倒れ込んだ。


 直後、青年がいた対岸の木の根が崩れ、水へ消えた。


 しばらく誰も話さなかった。


 青年は仰向けになったまま空を見ている。


 やがて、青灰色の鳥が下りてきて、その胸の上へ止まった。


 青年は身体を起こし、鳥の翼を確かめた。


「無茶をさせたな」


 鳥が小さく鳴く。


 ユナが青年を見る。


「その鳥には、優しく話せるんですね」


「人間より話が通じる」


「助けたのは、私たちもです」


「四人がかりで一人だ。効率が悪い」


「そこは、ありがとうではないのですか?」


「頼んだ覚えはない」


「この人、本当に……」


 ミハルは思わず笑った。


 青年が見る。


「何がおかしい」


「助かってよかったと思っただけです」


「俺が助かると信じていたんじゃなかったのか」


「信じていました。でも、心配はします」


「意味が分からない」


 青年は立ち上がり、濡れた上着を絞った。


 リシェルも立ち上がる。


「名を聞いてもいいか」


「名前を知ってどうする」


「呼ぶために使う」


 青年は濡れた縄を束ねながら、しばらく答えなかった。


 やがて短く言う。


「ヴァルドだ」


「私はリシェル。こちらがミハルとユナだ」


「さっき聞いた」


「なら、覚えていたのですね」


 ユナが言うと、ヴァルドは答えなかった。


 代わりに、その視線がユナの肩へ向く。


 リートが浮かんでいた。


 ヴァルドはしばらく小さな炎を見つめた。


「それは何だ?」


「リート君です」


「名前じゃない」


「炎の精霊です」


 ヴァルドの目が僅かに細くなる。


「精霊……」


 それだけ言うと、ヴァルドは森へ視線を戻した。


 水の勢いは少し弱まっていた。


「ここから動く」


「森の外へ戻るのか?」


 リシェルが尋ねる。


「違う。ここから外へ戻る道の方が危険だ」


「では、どこへ?」


「俺の住んでいる場所だ。ここより高い」


 ヴァルドは縄を肩へかけた。


「昨日までの道は使えない。水で地形も変わっている」


 ユナが水没した森を見た。


「たどり着けるのですか?」


 ヴァルドは一度だけ振り返った。


「死なない道がないとは、言っていない」


 そう言って、森の奥へ歩き出した。

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