第二十六話 本当の休日
それから数日後。今日は朝から、何もすることがなかった。
正確には、依頼がなかった。
ギルドへ行く必要もない。旅の支度もいらない。誰かに会う約束もなければ、今日中に済ませなければならない用事もない。
三人で暮らし始めてから、初めてのことだった。
朝食の席で、ミハルはパンをちぎりながら二人を見た。
「今日は久しぶりに何もない日だけど、二人はどうする?」
リシェルがチーズを切りながら答えた。
「私は鍛錬をする」
「リシェルさん」
ユナがすぐに口を挟んだ。
「それ、休みじゃないです」
「なぜだ?」
「休みの日に鍛錬するからです」
「休日だからといって鍛錬を休む理由はないだろう」
「それじゃあ、いつ休むんですか?」
「寝ている」
「そういうことじゃないです」
リシェルは本気で分からないらしい。
ミハルは笑いながら、今度はユナを見る。
「ユナは?」
「休みます」
「何して?」
「……休みます」
「うん」
それ以上聞くことでもなさそうだった。
「ミハルさんは何をするんです?」
「僕は庭に畑を作ろうかなと思って」
「畑?」
「うん。昨日、市場で苗も少し買っておいたんだ」
「休みの日に?」
「そのあと本でも読むよ」
ユナが二人を見比べた。
「……二人とも、休むの下手じゃないですか?」
◇
朝食が終わると、宣言どおりユナは自分の部屋へ戻った。
ベッドに横になる。
何もしなくていい。
誰にも呼ばれない。
依頼もない。
最高の休日だった。
仰向けになる。
天井を見る。
寝返りを打つ。
窓を見る。
もう一度、寝返りを打つ。
「…………」
まだ、それほど時間は経っていない。
ユナは枕を抱えた。
「…………つまんなーい!」
誰も答えなかった。
ユナは起き上がった。
◇
ミハルは庭にいた。
家の壁際に小さな区画を作り、土を掘り返している。
「何してるんですか?」
背後から声がした。
「畑」
「それは聞きました」
ミハルが振り返る。
ユナは少し離れたところに立っていた。
「手伝う?」
「嫌です」
即答だった。
「土、触るでしょう?」
「畑だからね」
「じゃあ嫌です」
「そう」
ミハルはまた土へ向き直った。
ユナは帰らなかった。
しばらく、その場で作業を眺めている。
ミハルが掘った土をほぐし、小さな石を取り除く。
苗を植える場所を決め、指で間隔を測る。
「何が楽しいんですか?」
「これ?」
「はい」
「この苗から野菜が採れるんだよ」
ユナが苗を見る。
まだ頼りない、小さな葉が数枚出ているだけだった。
「いつくらい?」
「一か月もかからないんじゃないかな」
「おっそ!」
ミハルが顔を上げた。
「そう?」
「一か月ですよ?」
「野菜なら早い方だよ」
「つまんないです」
「ユナが聞いたんでしょう」
「もっとすぐ何か起こるのかと思いました」
「毎日ちょっとずつ大きくなるよ」
「もっとつまんなそう」
「ひどいな」
ユナは庭を見回した。
少し離れた場所から、規則正しい音が聞こえてくる。
「あ」
ユナがそちらを見る。
リシェルがいた。
「じゃあ、リシェルさんのところ行ってきます」
「うん」
「ミハルさんより面白いことしてるかもしれないので」
「たぶん期待しない方がいいと思うよ」
◇
リシェルは同じ動きを繰り返していた。
一歩踏み込む。
止まる。
足元を見る。
元の位置へ戻る。
また踏み込む。
ユナはしばらく眺めた。
「リシェルさん」
「何だ」
「何してるんですか?」
「見れば分かるだろう。鍛錬だ」
「さっきから同じことしかしてませんよ」
「同じではない」
「同じに見えます」
「踏み込む位置を変えている」
「どれくらい?」
リシェルが指でわずかな幅を示した。
「……それだけ?」
「それだけで変わる」
「楽しいですか?」
「楽しいかどうかでやるものではない」
ユナは少し考えた。
「……ミハルさんよりつまんなそう」
「何をしに来たんだ、お前は」
「暇なんです」
「休むと言っていただろう」
「休むのに飽きました」
「知らん」
リシェルは再び構える。
一歩。
止まる。
戻る。
ユナはまだいる。
何度か繰り返したところで、リシェルが振り返った。
「お前は魔法の鍛錬はしないのか?」
「今日、休みですよ?」
「だから何だ?」
「……リシェルさんと話してると、休みって何なのか分からなくなります」
リシェルは答えず、また踏み込んだ。
「少しくらいやったらどうだ」
「えー」
「暇なのだろう?」
「暇ですけど」
ユナは渋々立ち上がった。
両手を前へ出す。
呼吸を整え、身体の内側へ意識を向ける。
マナを感じ、それを集め、一定の流れに整えていく。
子供の頃から何度も繰り返してきた、魔法使いの基礎訓練だった。
「そんなことをしても、俺は使えんぞ」
声がした。
見ると、いつの間にかリートがユナの肩の近くに浮いている。
「今、魔法の練習してるんです」
「だから、それでは俺の力は扱えんと言っている」
「うるさいなぁ。昔からこうやって習ってるんです!」
「間違った鍛錬をいくら続けても――」
「リート君は黙っててください」
「なぜだ!」
ユナは無視した。
しばらくマナを巡らせていたが、やがて集中が切れた。
「リシェルさん」
「何だ」
「鍛錬って、何かコツがあるんですか?」
リシェルの動きが止まった。
少し考える。
「結局は、自分に合った鍛錬を自分で編み出すしかないな」
「自分に合った?」
「ああ。他人に合う方法が、自分にも合うとは限らない」
ユナは自分の手を見る。
「自分に合った鍛錬……」
「だから俺が――」
「リート君は黙ってて!」
「まだ何も言っていないぞ!」
◇
昼食を食べ終えた頃から、空の色が変わり始めた。
朝には薄く雲がかかっている程度だった空が、いつの間にか灰色に覆われている。
風も強くなっていた。
最初に気づいたのはミハルだった。
「あ」
「どうした?」
「洗濯物」
三人が窓を見る。
庭では洗濯物が風にはためいていた。
その隣には、前の依頼で使った縄や敷布、野営用の道具も干してある。
ぽつり。
窓に水滴が当たった。
「まずい」
三人が同時に立ち上がった。
「ユナ、洗濯物!」
「はい!」
「リシェルさん、そっちの敷布お願いします!」
「分かった!」
庭へ飛び出す。
風がさらに強くなる。
ユナは洗濯物を片端から抱えた。
「これ、誰のですか!」
「今はいいから取り込んで!」
「ミハル、縄はどうする!」
「そのまままとめて!」
雨粒が増えていく。
最後の敷布をリシェルが抱えた直後、本格的に雨が降り始めた。
三人は家の中へ駆け込んだ。
扉を閉める。
「……危なかった」
ミハルが息を吐く。
ユナは抱えていた洗濯物を見下ろした。
「せっかく乾いてたのに」
「ほとんど濡れてないよ」
「私の髪が濡れました」
「それくらい拭けばいいだろう」
「リシェルさんは気にしなさすぎです」
外では雨脚がどんどん強くなっていた。
◇
午後は三人とも一階で過ごすことになった。
ミハルは窓辺の椅子で本を読んでいる。
リシェルは壁際で室内でもできる鍛錬を始めた。
ゆっくり身体を沈めては戻す。
その後は床板の継ぎ目を目印にして、何度も踏み込みを確認している。
ユナは椅子に座っていた。
右を見る。
ミハルが本を読んでいる。
左を見る。
リシェルが踏み込んでいる。
「…………」
雨の音。
ページをめくる音。
床板を踏む音。
「…………つまんない」
ミハルが本から顔を上げた。
「また?」
「だって二人とも、さっきから同じことしてるじゃないですか」
「僕は本を読んでるだけだからね」
「私は同じことをしているわけではない」
「リシェルさんは朝もそれ言ってました」
ユナは卓上に頬杖をついた。
「三人で何かしましょうよ」
「何をする?」
「何かです」
「それが一番困るんだけど」
しばらく考えた末、ミハルが棚から古い札の束を見つけた。
老夫婦が置いていったものらしい。
「これなら?」
ユナが顔を上げる。
「やります!」
リシェルも鍛錬を止めた。
「札遊びか」
「知ってる?」
「当然だ」
なぜか少し声が強かった。
◇
「ユナ」
「何ですか?」
「その札、取ってほしくないでしょう」
「なんで分かるんですか!?」
三人で始めてから、それほど時間は経っていなかった。
ユナは弱かった。
とても弱かった。
札を引かれそうになるたびに目が動く。
いい札が揃えば嬉しそうになる。
悪い札が残れば露骨に嫌そうな顔をする。
「もう一回!」
「さっきも言ってたよ」
「今度は顔に出しません!」
数分後。
「ユナ、それ」
「なんで!?」
「見てれば分かるよ」
「もうやりません!」
ユナは札を卓上へ置いた。
そして腕を組む。
「二人でやってください」
「いいの?」
「見てます」
残った二人が札を取る。
リシェルの顔から表情が消えた。
ユナが目を細める。
「リシェルさん、本気ですね」
「勝負だからな」
「遊びですよ?」
「だからどうした」
ミハルが一枚の札へ手を伸ばす。
リシェルの指が、ほんの少し強く札を握った。
ミハルは別の札を取った。
しばらくして。
「終わり」
「……」
リシェルの手元に一枚だけ札が残った。
「ミハルさんの勝ちですね」
ユナが言う。
リシェルは残った札を見た。
次にミハルを見る。
「……もう一度だ」
「まだやるの?」
「今度は負けない」
再戦が始まった。
今度のリシェルは、先ほどまでとは違った。
札を持つ手から余計な力を抜いている。
ミハルがどの札へ手を伸ばしても、まったく反応しない。
ユナが感心する。
「すごい。本当に分からない」
それでも。
「終わり」
「……なぜだ」
またリシェルの手元に一枚残った。
「なんで分かるんですか?」
ユナが身を乗り出す。
リシェルも真剣な目でミハルを見ている。
「さっきは、取られたくない札に手を伸ばすと、リシェルさんの握りが少し強くなってたんだ」
リシェルが自分の手を見る。
「だから今度は握らなかった」
「うん」
「なら、なぜ分かった?」
ミハルは少し笑った。
「リシェルさんのいいところでもあるんだけど」
「何だ」
「カードを真剣に見すぎなんだよ」
「……?」
「取られたくない札ほど、ちゃんと見てる」
リシェルが黙った。
ユナが吹き出す。
「じゃあ、何も考えなければいいんですよ!」
「それでは勝負にならないだろう」
「……それもそうですね」
「もう一度だ」
「まだやるの?」
そのときだった。
窓の外が白く光った。
直後。
腹に響くような雷鳴が轟いた。
「ひゃっ!」
ユナの肩が大きく跳ねた。
静かになる。
ミハルとリシェルがユナを見る。
「……何ですか?」
「いや」
「何だ?」
「別に驚いてませんからね」
二人とも何も言っていなかった。
卓上にいたリートが胸を張る。
「安心しろ、ユナ」
「何がです?」
「雷など恐れる必要はない。俺の方が強い」
「そういう問題じゃないです!」
「では何が問題なのだ」
「急に鳴るのが嫌なんです!」
「なら、鳴る前に教えてやろう」
「そうしたら怖くないとかじゃないんです!」
ミハルとリシェルが顔を見合わせた。
ユナが二人を見る。
「……何ですか?」
「何でもないよ」
◇
夕食の頃には、雷は遠ざかっていた。
雨はまだ屋根を叩いているが、先ほどまでのような雷鳴はない。
ユナはすっかり普段の調子に戻っていた。
「ほら。もう大丈夫ですよ」
ミハルがスープを飲みながら顔を上げる。
「何が?」
「雷です」
「誰も聞いてないよ」
「別に怖かったわけじゃないですからね」
「そうか」
リシェルが答える。
「ちょっと驚いただけです。あれだけ急に鳴ったら、誰だって驚きますよね?」
「そうだな」
「ですよね」
ユナは満足そうにパンをちぎった。
ミハルは何も言わなかった。
◇
夜。
それぞれが自分の部屋へ戻った頃になって、再び雨脚が強くなった。
ユナはベッドの中にいた。
布団を頭までかぶっている。
「大丈夫。寝ればいいだけ……」
遠くで雷が鳴った。
「……遠いし」
目を閉じる。
また鳴った。
今度は少し近い。
ユナは布団の中で身体を丸めた。
「別に怖くないし……」
「だから言っただろう」
布団の外から声がした。
ユナが少しだけ顔を出す。
リートが浮いていた。
「心配するな。雷より俺の方が強い」
「そういう問題じゃないんです」
「何度言えば分かる。雷が襲ってくれば俺が――」
「雷は襲ってきません!」
「なら何を恐れている」
「怖がってません!」
その瞬間。
窓の外が真っ白になった。
ほとんど間を置かず、轟音が家を揺らした。
「――っ!」
窓が震えた。
ユナが飛び起きる。
気づいたときには、布団から出ていた。
◇
扉を叩く音に、リシェルは目を覚ました。
「誰だ?」
「……わたしです」
リシェルが扉を開ける。
寝間着姿のユナが立っていた。
「どうした」
「リシェルさんが怖いかと思って」
「何がだ」
「雷です」
「私は別に怖くないが」
「でも、一人だと怖いかもしれないでしょう?」
「怖くない」
「……そうですか」
ユナは動かなかった。
「では、おやすみ」
「待ってください」
「何だ」
「……一応、そばにいてあげます」
「私に?」
「はい」
「私は怖くないぞ」
「でも、一人より二人の方がいいでしょう」
「何が危ないんだ」
「いいから」
ユナはリシェルの横をすり抜けて部屋へ入った。
「おい」
そのままベッドへ向かう。
布団をめくる。
潜り込む。
リシェルが呆然と見ていた。
「……何をしている」
「一緒に寝てあげます」
「私と?」
「はい」
「私は別に――」
また空が光った。
少し遅れて、大きな雷鳴。
ユナの身体が跳ねた。
次の瞬間には、リシェルへぎゅっと抱きついていた。
「……」
「……」
ユナは何も言わない。
リシェルも何も言わなかった。
少しして。
リシェルは静かにユナの背中へ腕を回した。
「……これで安心ですね」
「ああ」
「そうでしょ」
「そうだな」
部屋の隅から声がした。
「だから最初から俺がいるから安心だと言っているだろう」
「リート君はもういいです!」
「なぜだ!」
「そういう問題じゃないって何回言えば分かるんですか!」
「俺は炎の王だぞ。雷ごとき――」
「もう寝ます!」
ユナはリシェルへ顔を押しつけた。
リシェルが小さく笑った。
外ではまだ雨が降っている。
遠くで雷が鳴った。
そのたびにユナの腕へ少し力が入ったが、やがてそれもなくなった。
呼吸がゆっくりになる。
ほどなくして、小さな寝息が聞こえ始めた。
リシェルはユナを起こさなかった。
◇
翌朝。
ミハルは一階で朝食を用意していた。
昨夜の嵐が嘘のように、窓から朝の光が差し込んでいる。
パンを切っていると、二階で扉の開く音がした。
一度だけ。
続いて、階段を下りてくる足音。
二人分。
ミハルが顔を上げる。
リシェルとユナが一緒に降りてきた。
「おはよう」
「おはよう」
「……おはようございます」
ミハルはそれ以上何も言わず、皿を並べた。
三人が席につく。
パンを置く。
チーズを切る。
ユナがちらちらとミハルを見る。
ミハルは気づいていたが、何も言わなかった。
しばらくして。
「……何も聞かないんですか?」
「何を?」
「え?」
「何かあるの?」
ユナが一瞬詰まった。
「……昨日は雷がすごかったでしょう?」
「うん」
「それで、リシェルさんが一人だと怖いと思ったので」
「うん」
「一緒に寝てあげたんです」
「そうなんだ」
ミハルがリシェルを見る。
リシェルは真顔で頷いた。
「うん。その通りだ」
「そっか」
ミハルはパンをちぎった。
ユナが少し安心したように息を吐く。
そのとき。
「なぜ嘘をつく」
卓上にリートが現れた。
「昨夜、雷が鳴るたびにユナが――」
「リート君!」
「何だ」
「言わなくていいんです!」
「なぜだ。事実ではないか」
「いいんです!」
「だが、お前はリシェルに――」
「リート君!」
ミハルが笑った。
リシェルも笑う。
「もう!」
朝の食卓に、ユナの声が響いた。
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