第二十一話 ユノと炎の王
地底湖を離れ、三人が洞窟の外へ出た頃には、空が茜色に染まり始めていた。
山の向こうへ傾いた陽が、木々の隙間から細長い光を落としている。
洞窟へ入る前とは違い、足元を流れる水の音が聞こえていた。
岩の割れ目から染み出した水が、細い流れとなって山道を下っている。
「本当に戻ったんですね」
ユナが足元へ目を向けた。
「ああ。村へ着く頃には、川にも変化が出ているかもしれない」
リシェルはそう答えてから、ユナの肩に座るリートを見た。
「それで、先ほどの水龍の話をどう思う?」
リートは腕を組んだまま、洞窟を振り返った。
「あいつ自身にも、黒い石が何なのか分かっていなかった」
「気づいたときには、もう身体の中にあったと言っていたね」
ミハルが言う。
「ああ。だが、それがおかしい。あいつは、あの湖と長く一つになっている。湖へ流れ込んできたものなら、普通は何らかの痕跡を感じ取れるはずだ」
「痕跡?」
「水は、触れたものを覚えている」
リートは当然のことのように言った。
「どこを流れ、何に触れ、何を運んできたのか。少しずつだが、その痕跡が残る。水の精霊なら、それを感じ取れる」
リシェルが足元の流れを見た。
「それなのに、水龍は石がどこから来たのか分からなかった。水を通ってきた痕跡が、あの石にはなかったということか」
「そういうことだ」
「つまり、あの石は川や地下水によって運ばれてきた可能性が低いのか」
「少なくとも、普通の形で水に運ばれてきたとは考えにくい」
「では、誰かが地底湖へ持ち込んだのでしょうか」
「分からん」
ミハルは洞窟を振り返った。
「水龍自身も、気づいたときには身体の中にあったと言っていたからね」
三人の間に沈黙が落ちる。
ただの魔石とは思えなかった。
しばらく、三人は黙って歩いた。
やがてユナが、肩の上のリートを見る。
「リート君。水龍が言っていた水の女王って、どんな精霊なんですか?」
「俺も詳しくは知らん」
「会ったことはないんですか?」
「ない」
「炎の王なのに?」
「炎の王だからといって、すべての精霊と顔見知りなわけではない!」
リートの髪が勢いよく燃え上がる。
ミハルが少し笑ってから尋ねた。
「でも、存在は知っているんだよね」
「ああ。古くからいる水の精霊だということくらいはな」
リシェルが言った。
「水龍は、水の行く先を辿れと言っていた」
「村で聞けば分かるかもしれないね」
ミハルが言った。
山から流れ出した水は、小川を通ってやがて大きな川へ合流するはずだ。その先を辿れば、何か見つかる可能性はある。
だが、今すぐ水の流れを追って旅立つわけにはいかない。
「まずは村へ戻る」
リシェルが言った。
「水が戻ったことを確かめ、依頼を完了させる。その後、黒い石と水の女王についてギルドへ報告する」
「監察官も、必ず報告へ戻れと言っていたね」
「ああ。あの石は、今回だけの問題とは限らない」
リシェルが歩き始める。
三人も、山道を下り始めた。
◇
水を吸った土は、来たときよりも滑りやすくなっていた。
リシェルが先頭で足場を確かめ、ミハルがその後を歩く。ユナは少し遅れていたが、無理に追いつこうとはしなかった。
リートはユナの肩に座っている。
炎でできた身体が外套へ触れているのに、布が燃える様子はない。
「そういえば」
ミハルは歩きながら、二人を振り返った。
「ユナとリート君は、いつから一緒にいるの?」
「君をつけるな」
「では、リート」
「気安く呼ぶな。俺は炎の王だ」
「どちらで呼べばいいんだ……」
ミハルが困っていると、ユナが小さく笑った。
「わたしが初めて火の魔法を使った頃からです」
「初めて?」
「はい。まだ小さかったので、はっきりとは覚えていないのですが……家の竈に火をつけようとしていたんです」
何度試しても、薪には火がつかなかった。
指先に浮かぶのは、すぐに消えてしまう小さな火花だけだった。
家族からは、今日はもうやめるように言われた。
それでも一人で練習を続けていると、竈の奥から声が聞こえたという。
「何と言われたの?」
「下手だな、です」
ミハルがリートを見る。
「初めて会った相手に?」
「本当に下手だったからな」
「もう少し言い方があるだろう」
リシェルが呆れたように言った。
「でも、そのあと火をつけてくれたんです」
ユナは懐かしそうに続けた。
「竈の中に小さな炎が浮かんで、その中からリート君が出てきました」
「そして教えてやった。炎というのは、力任せに大きくするものではないとな」
「そのときも、自分を炎の王だと言ったの?」
「はい。でも、こんなに小さな子が王様のはずはないと思って……」
「当時の俺は今より大きかった!」
「同じくらいでした」
「少しは大きかった!」
リートが抗議する。
ユナは慣れているのか、気にせず話を続けた。
「家族を呼んだのですが、誰にもリート君は見えませんでした。声も聞こえなかったみたいで……」
「信じてもらえなかったんだ」
「はい。見えない友達を作ったと思われていました」
それからも、リートはユナのそばにいた。
魔法の練習をしていると、頼んでもいないのに口を出してきた。落ち込んでいるときには近くを飛び回り、眠るときには枕元の小さな明かりになった。
だが、ほかの者の前へ姿を現すことはなかった。
ユナが魔法使いとして魂鏡泉の判定を受けたとき、ようやくリートのことを信じてもらえると思った。
自分には特別な火の力があり、そのために炎の精霊がそばにいるのだと考えた。
しかし、何年練習を続けても、ユナの火球は強くならなかった。
「それで、わたしは少しずつ考えるようになりました」
ユナが肩の上のリートを見る。
「リート君が見えることと、わたしに火の才能があることは、別なのかもしれないって」
「存在を疑ったわけではないのか?」
リシェルが尋ねる。
「はい。リート君はずっと、そばにいてくれましたから」
ユナはわずかに目を伏せた。
「ただ、本当に炎の王だとは思っていませんでした。わたしにしか見えない、小さな精霊なのだろうと……」
「小さな、は余計だ」
「ごめんなさい」
「すぐに謝るな」
リートは不機嫌そうに顔を背けた。
けれど、ユナの肩から離れようとはしなかった。
「だったら、どうして昨日まで姿を見せなかったの?」
ミハルが尋ねる。
「ユナが前の仲間と危険な目に遭ったときも、近くにいたんだよね」
「ああ」
「けれど、僕たちには見えなかった」
「ユノは俺を友達だとは思っていた。だが、俺の炎が誰かを守れるとは思っていなかった」
ユナは何も言えなかった。
「それに、自分のことも信じていなかった」
「わたしを……?」
「魔法を使う前から、どうせ失敗すると思っていただろう」
ユナは視線を落とした。
「では、なぜ昨日は姿を現したんだ?」
リシェルが尋ねる。
「ユノの思いが、俺まで届いたからだ」
リートはミハルを指差した。
「こいつを助けたいという思いが、自分は失敗するという怖さを上回った。それだけだ」
ユナはミハルの背中を見た。
洞窟で魔術師に追い詰められたミハルを見たとき、身体が震えた。
また失敗する。
自分の火球では届かない。
そう思ったはずなのに、逃げたいとは思わなかった。
「だから、俺も出ることにした」
リートが言う。
「ユノが信じる相手なら、一度くらい俺も信じてやろうとな」
「一度だけなんだ」
「今のところはな」
ミハルが苦笑した。
「それでも、助けてくれてありがとう」
「礼はもう聞いた」
リートは顔を背ける。
背中の翼から散る火の粉が、穏やかに揺れていた。
「精霊の力は、信じられることで現れるのか?」
リシェルが尋ねた。
「そんなに単純な話ではない」
リートは答えた。
「人間と精霊が力を重ねるには、互いの思いが同じ方を向いていなければならない。それだけだ」
「それを信頼と呼ぶんじゃないかな」
ミハルが言う。
「人間の言葉で勝手に決めるな」
「違うの?」
「……知らん」
リートはそれきり黙り込んだ。
◇
村が見える場所まで戻ると、山道の下から大勢の声が聞こえてきた。
「小川に水が戻ったぞ! 上から流れてきている!」
村の中央に人々が集まっていた。
井戸から汲み上げられた桶を囲み、子供たちが歓声を上げている。乾きかけていた小川にも水が流れ、夕日を受けてきらきらと輝いていた。
ユナの肩にいたリートが、姿を薄くする。
「隠れるの?」
ユナが小声で尋ねた。
「これ以上、大勢に騒がれるのは面倒だ」
完全に姿を消したわけではない。
三人には見えているが、村人たちは気づいていないようだった。
村へ入った三人を見つけ、村長が駆け寄ってくる。
「皆さん、ご無事でしたか!」
「ああ」
リシェルが答える。
「水が戻ったのですね」
「つい先ほどです。最初は僅かでしたが、どんどん水位が上がってきまして」
村長は三人の濡れた衣服や、傷ついた装備へ目を向けた。
「地底湖で、何があったのですか」
「ここでは人が多い。場所を移した方がいい」
リシェルの言葉に、村長が頷いた。
三人は村長の家へ案内された。
居間へ入ると、村長は家族に頼み、温かい飲み物と乾いた布を用意させた。
「それで、原因は分かったのでしょうか」
「地底湖にいた水の精霊が、水を止めていた」
リシェルが答えた。
村長は、しばらく意味を理解できない様子だった。
「水の……精霊ですか?」
「龍の姿をしていました」
ユナが補う。
「身体は水でできていて、普段は地底湖と一つになっていたみたいです」
「龍……」
村長は目を見開いた。
「まさか、古い言い伝えの山の主とは……」
「そのような言い伝えがあるの?」
ミハルが尋ねる。
「地底湖を汚せば、山の主が水を隠すと言われています。私も子供の頃、先代から聞かされました。しかし、水場を守るために作られた話だとばかり……」
「今回、水龍が水を止めたのは、村の人たちが湖を汚したからではありません」
ユナが言った。
「黒い石が、その身体の中へ入り込んでいたんです」
三人は地底湖で起きたことを説明した。
黒い石によって水龍が苦しみ、水を止めていたこと。
石を壊したことで水龍が正気を取り戻し、再び水が流れ始めたこと。
リートの存在については、話さなかった。
「黒い石は、どうなったのですか」
「燃えて崩れた。欠片は残っていない」
リシェルが答える。
「詳しいことはギルドにも報告する」
村長はしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
家の外では、戻ってきた水を喜ぶ声が続いている。
泣いている者もいた。
依頼書には、原因を調査してほしいとしか書かれていなかった。
だが三人は、水を取り戻して帰ってきた。
「今夜は、ぜひ村で休んでいってください」
村長が言った。
「大したもてなしはできませんが、食事と寝床を用意させます」
リシェルがミハルとユナを見る。
「二人はどうする?」
「できれば、休んでいきたいです」
ユナが答えた。
「僕も賛成。今日は、いろいろありすぎたからね」
「では、世話になろう」
◇
その夜、三人には村長の家の一室が貸し与えられた。
床には藁を詰めた寝具が三つ並べられている。
夕食には、根菜と鶏肉を煮込んだスープが出された。水が戻った祝いも兼ねているらしく、焼いた肉や果物まで添えられていた。
食事を終えたあとも、ユナは寝具へ入らず、膝の上で両手を組んでいた。
リートは窓辺に座り、外を流れる小川を眺めている。
「ユナ」
ミハルが声をかけた。
「疲れていない?」
「少しだけ。でも、大丈夫です」
そう答えたあと、ユナは何かを言おうとして口を閉じた。
リシェルが壁へ立てかけていた曲剣から手を離す。
「ちょうどいい。今後について話しておきたい」
ユナの肩が小さく揺れた。
「今回の依頼は、明日ギルドへ報告すれば完了する」
「はい」
「試しに一度、共に依頼を受けるという話だったな」
ユナが俯く。
「……はい」
「実際に組んでみて、どうだった?」
すぐには答えが返ってこなかった。
ミハルはユナの表情を窺う。
「無理に今決めなくてもいいよ」
「いいえ」
ユナが顔を上げた。
「決めています」
杖を握っていたときとは違う。
組んだ両手はわずかに震えていたが、その目は二人へ向けられていた。
「あの……ひとつ、お願いがあります」
「何だ」
「今度は、わたしから言わせてください」
ユナは一度だけ息を吸った。
「わたしを、お二人の仲間にしてください」
リシェルとミハルは、黙ってユナを見つめた。
ユナは視線を逸らさなかった。
「昨日は、誰でもいいから自分を入れてくれるパーティーを探していました。一人になるのが怖くて、冒険者を続けられなくなるのが怖くて……」
膝の上で、両手を握り直す。
「でも、今は違います」
「何が違うの?」
「お二人と、一緒に歩きたいです」
ユナは答えた。
「わたしが弱いから守ってほしいのではありません。すぐに強くなれるとも思っていません。それでも、自分にできることを見つけたいです」
洞窟で火を調整したこと。
リートを黒い石まで届けたこと。
どちらも、これまで役に立たないと思っていた力だった。
「お二人は、わたしに何もできないとは言いませんでした。でも、何でもできるとも言いませんでした」
ユナの声から、少しずつ震えが消えていく。
「わたし自身も知らないことを、一緒に確かめようとしてくれました。だから、もっと知りたいんです。自分に何ができるのかも、お二人がどんな人なのかも」
ミハルは笑みを浮かべた。
「僕は賛成だよ」
ユナの表情が明るくなる。
リシェルは、なおも静かにユナを見つめていた。
「一つだけ確認する」
「はい」
「私たちと組んでも、危険がなくなるわけではない。今回のように、依頼書に書かれていない事態へ巻き込まれることもある」
「分かっています」
「私もミハルも、常にユナを守れるとは限らない」
「はい」
「それでも来るか」
ユナは迷わず頷いた。
「守られるだけの仲間にはなりません」
その答えに、リシェルの表情がわずかに緩んだ。
「なら、よろしく頼む」
「はい!」
ユナの返事が部屋へ響く。
リシェルが差し出した手を、ユナは両手で握った。
「よろしく、ユナ」
ミハルも手を差し出す。
「よろしくお願いします、ミハルさん」
三人の手が重なる。
「待て」
窓辺から、リートの声がした。
三人が振り返る。
リートは腕を組み、不満そうに宙へ浮かんだ。
「二人の仲間とはどういうことだ。俺を忘れているだろう」
「あ……」
ユナが目を瞬く。
「ごめんなさい。リート君も一緒です」
「俺は最初からユノと一緒だ」
リートは三人の重ねた手の上へ降り立った。
「それなら、僕たちは三人と一人かな」
ミハルが言う。
「俺を人間と同じ数え方に入れるな」
「では、三人と炎の王だ」
リシェルが真顔で言った。
リートは満足そうに頷く。
「分かっているではないか」
ユナが小さく笑った。
その声に、ミハルとリシェルの笑いも重なる。
窓の外からは、絶えることなく水の音が聞こえていた。
昨日まで、ユナは自分を入れてくれる場所を探していた。
けれど今は違う。
ここにいたいと、自分の言葉で伝えることができた。
重ねた手の上で、リートの炎が静かに揺れる。
それはもう、ユナにしか見えない小さな火ではなかった。




