第88話 下された神託
深い闇に包まれた、最高級ホテルの最上階ペントハウス。
全面ガラス張りの窓の外には、百万ドルの夜景が箱庭のように広がっていた。
だが、ジェミニ(双子座)にとってその煌びやかな光は、自らの永遠を彩るための、安っぽい飾りに過ぎなかった。
彼女は、贅沢なシルクの長椅子に身を横たえ、自身の指先を見つめていた。
極限まで薄く透き通るような生地に包まれた服から覗くのは、透き通るような白磁の肌。
触れれば切れるような鋭い美貌。
だが、その指先がわずかに動くたび、人工神経を流れる高密度のナノ・オイルが、微かな、しかし完璧に調律されたハミングを奏でる。
その音は生身の人間と同じであった。
最先端擬態生体皮膚『ヴェール』を纏った彼女は、どんな生体スキャンを受けても生身の人間としか認識はできない。
二百年。
彼女はこの美貌を、そして社会的地位を、幾度となく「換装」してきた。
ある時は若き野心溢れる企業令嬢として。
またある時は、歴史の裏側で糸を引く物静かな政府高官として。
歴史を裏から弄ぶのも少し飽きてきたから試してみた、法執行機関のエリート中間管理職としての人生。
「……ふふ。今回のこの『顔』も、そろそろ使い古したかしら。次はもっと……そうね、顔も体ももっと幼くして、青春でも楽しもうかしら」
鏡に映る自分を見つめ、彼女は薄く笑う。
その微笑には温もりなど微塵もない。
生身の肉体など、とうの昔に一欠片も残っていない。
欲望の赴くままに脳を電脳化し、全てをデジタルへと昇華し続けた結果、彼女は「人間」という生物的脆弱さを卒業した。
彼女を支配しているのは、生まれつき肥大し続けてきた、剥き出しの強欲だった。
他者の財を根こそぎ奪い去る独占欲。
世界の運命を指先一つで転がす支配欲。
そして、センサー(感覚機能)を焼き切るほどの、飽くなき肉欲。
それら全てを「無限」に味わうために、彼女には神々の長たる双子座だけに許された特権がある。
電脳麻薬『No』。
彼女以外のサイボーグであれば、接続した瞬間から電脳のロジック(倫理階層)へ拭い去ることのできない致命的な異物を流入させ、多幸感と、生身では到達できない快楽と引き換えに、最終的には修復不能な電脳破壊に至る最悪の電脳麻薬。
だが、多元層デュアル・コア化され、幾つもの意識を並列処理する彼女の特異な電脳は、その猛毒を純粋な多幸感へと変換し、脳を焼き切ることなく無限の快楽をループさせることができた。
「……ああ……いいわ。最高に気持ちがいい。私は優秀。私は至高。ゆえに、この世の全てを貪り、汚し、弄ぶことは、私に与えられた正当な権利なのよ」
肉欲の対象に男か女かの区別などない。
ただ、その瞬間に「最高に美しい」という基準を満たせば、それで良かった。
絹のように滑らかな肌を愛で、絶望に染まる瞳を楽しみ、電脳麻薬『No』を流し込むと、極限の肉欲を貪り尽くす。
そして一度使えば、BAS容器(バイオ・エアゾール・シェル。衝撃で跡形もなく消失する樹脂素材)のように、その存在ごと消し去るのだ。
それが神々の長たる双子座のマナー(作法)である。
先程まで双子座の肉欲を満たすために弄ばれていた、かつて人間であった「シミ」は、空中で音もなく蒸発し、もはやこの世には魂の欠片すら残っていない。
そんな双子座の生涯の中で、たった一度だけ、『友達』と呼んでも良いかもしれない女がいた。
共に笑い、下賤な食べ物や飲み物で一喜一憂して、『ふつうの女の子』として、時間を忘れて語り合った。
超越者たるジェミニ(双子座)にとって、くだらなくも何故か眩しく充実感すら感じた日々。
親友には何故か自分の汚らしい欲望を見せたくなかった。
だが、その女は踏み越えてはならない一線を越えた。
ジェミニの存在に一瞬気が付きかけたのだ。
お別れは、ジェミニ(双子座)自身の手で行われた。
愛おしいその彼女の眼窩にACHR (対サイボーグ重量弾)を撃ち込んだのだ。
その時、電脳の片隅が明滅し、ザイフェルト中佐から送られたメッセージと座標データが展開される。
「……あら」
神々の長たる双子座は、蠍のネットワークに展開されていた情報に歓喜する。
ジェミニの紅い唇が、歓喜に震えた。
それは、彼女という「至高の存在」を根底から否定し、その繁栄の影で常に崩壊の芽を狙い続けてきた、忌まわしいネズミどもの気配。
「『UPL』……あの忌々しいドブネズミどもの巣を、ついに突き止めたというの!?」
立ち上がった彼女の全身から、不可視のグラビティ・ウェーブ(重力波)を含んだ電脳波が爆発的に放射される。
その圧力に押され、彼女の髪が重力を無視して不意に浮かび上がり、まるでオーラを展開した破壊神のように、背後で逆巻いた。
彼女は、表向きは「ほどほどのエリート」として目立たぬよう振る舞ってきた。
それはひとえに、自らを狩り立てようとするUPLという存在への、本能的な恐怖があったからだ。
「ああ……煩わしい! 汚い! 視界に入るだけで虫酸が走るわ! ようやく汚らしいネズミどもを一匹残らず、綺麗にさっぱり消し去ってやるチャンスが来たのね」
彼女は即座に電脳で『レッド・スコルピオン(蠍)』のネットワークに直結した。
世界中に潜む構成員たちの電脳に、絶対支配者からの、抗うことのできない「熱い意志」が叩き込まれる。
「全レッド・スコルピオンに通告。UPL本部を強襲なさい! 命令は単純よ。誤射で構わない、まずはありったけの砲撃を、ミサイルを撃ち込みなさい! 十五分間、地上の全てを火の雨で焼き尽くすのよ。衛星陽電子砲はいけるかしら? 撃てるなら今すぐブチ込みなさい! UPLなんて、機密にし過ぎて、この世には存在しない基地なんでしょう? ならば、何が起きても『無』が消えるだけのことだわ!」
彼女の意志は、蠍のネットワークを通じて末端の兵士たちにまで、強制的な生理現象のように伝播する。
ゾディアック以外の構成員達にとって、神々の長たる『ジェミニ(双子座)』からのオラクル(神託)など、見た事が無かった。
それは、構成員にとっては神への生贄を捧げる神聖なる儀式であり、不老不死の恩寵に預かるための、一生に一度……いや、数百年に一度の神になるチャンスであった。
「重要な情報を集めた者、今回の襲撃で私を喜ばせる仕事をした者……その者には、私が直々にエタニティ(栄光)を下賜しましょう」
十二宮の座にある者たちへは、電脳を通じて直接流し込まれるジェミニの『強固な意思』。
それは逆らうことなど許されない絶対の命令であり、彼らにとっての「主神」の託宣であった。
夜明け直前のパールハーバー。
美しい夏の海の上に、見えない蠍の巨大な針が、一斉に振り下ろされようとしていた。
ジェミニは手に持っていた薄いシャンパングラスを中空に投げ捨て、空中で粉々に砕ける音を楽しむと、瞬時にそれを霧散させる。
そして狂気混じりの笑みを浮かべた。
「さあ、始めましょう。汚いネズミを掃除した後のパープル・ベリー・クリーム・パンケーキは、きっと格別に甘くて美味しいはずだわ……!」




