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第75話 永遠に溶け合う電脳の中で

 凪いだ、休暇という日々が続いていた。

 これだけの証拠があるのにも関わらず捜査が難航しているという事実は、蠍の毒が巧妙に捜査機関を狂わせている証左である。

 

 深い静寂が支配するパールハーバーの夜。

 カインの意識が、リブートに伴うシステム・メンテナンスへと沈んでいく。

 電脳の深層では、膨大なログが整理され、現実と記憶の境界が曖昧に溶けていく。

 カインはアリアと電脳を同期して以来、リブート中に夢を見る事が増えていた。

 そしてその夢は電脳の特性なのか、鮮明にログに残り、アリアと共有すらしているのだ。


 気がつくと、カインは柔らかなシーツの感触に包まれていた。

 まだ夜は明けておらず、窓には星空を映し出す海面が広がっていた。

 隣には、アリアがいた。

 アリア?ああそうか、この世で一番愛おしい妻アリア。

 モニター越しのアバターでも、網膜投影のホログラムでもない。

 月の光を浴びて白く輝く、しなやかな「肉体」を持った彼女が、確かにそこにいた。

 カインもアリアも服を着ていなかった。

 ぼんやりと霞がかった記憶を思い返すと、どうやら昨晩は二人して裸でベッドに潜り込んだらしい。

 確か、愛の果てに疲れ果てて寝てしまったようだ。


 カインが手を伸ばすと、指先に微かな熱が伝わる。

 擬似的な体温ではない。

 生きた人間が持つ、脈打つような確かな熱。

 カインは吸い寄せられるように、寝ている彼女の唇に、触れるか触れないか分からないほどの優しいキスを落とした。


『……んっ……カイン……』


 アリアの声が、耳元で甘えるような声色で震える。

 アリアの可愛らしい、少し目尻が上がったアーモンド型の瞳は少し(うれい)を帯びているようだ。

 彼女の手がカインの首に回され、優しくカインの頭を自らの優しい膨らみに抱き寄せる。

 カインの顔には、アリアの柔らかな胸が押し当てられている。

 アリアの顔は、熟れた果実のように赤く染まっていた。

「恥ずかしい……。カイン、私……今……幸せよ……」


 死神と恐れられ、数多の強敵を屠ってきたカインの体は、わずかに震えていた。

(ああ、愛おしい人……。あんなに強いあなたがこんな私の体で震えるのね……)

 アリアは愛しさに胸を締め付けられ、カインの頭に込める力をさらに強くして、自らの胸へと深く抱き寄せた。


「アリア、少し……この格好は恥ずかしい」

「ダメよ。何だか……とても抱きしめたくなってしまったんだもの」


 カインの手が、戸惑うように彼女の豊かな曲線に触れる。

 指先がただ、少し触れているだけ。

 愛おしさともどかしさがアリアを苛む。

 アリアは潤んだ瞳でカインを見上げ、消え入りそうな声で囁いた。

「カイン?……さ…………さ……触っても、いいんだよ?」


 その瞬間、世界が白く反転した。


 目覚めは、無機質なアラートと共に訪れた。

 UPLヴィラの寝室。

 窓の外にはいつもの変わらぬ朝の海が広がっている。

 カインは、自身のバイタルログを読み取った。 

 高揚した心拍数。

 それは先ほどの夢が、アリアが己に無い肉体を渇望し、絶望の果てに生み出した「祈り」そのものであったことを示していた。


(アリア……)


 呼びかける声に、返事はない。

 ただ、電脳の深層から、震えるような嗚浴が伝わってくる。

『な、何よ……。……見てたのね……』


 泣いている。

 夢の中で得たはずの「肉体」も「熱」も、目覚めれば電子の残滓へと無惨に引き戻される。

 そのあまりにも残酷な断絶に、彼女の心は悲鳴を上げていたのだ。


(いや……幸せな夢を見ていたんだ。俺も……俺が望む未来の夢をな…………ああ……とても幸せだった……)


『カイン……少し心がつらいの……抱きしめて欲しい……。……あ、でも、無理だよね、私たち……』


「無理じゃない」


 カインは静かに、けれど明確な意志を持って、自身の精神を電脳空間へと沈めた。

 そこには、現実の軍用プロトタイプのような冷たさはない。

 アリアのアバターに合わせてデフォルメされた、穏やかな姿のカインがいた。


 アバターのカインはアリアを、ありったけの力で強く抱きしめた。

 優しいキス。

 そして情熱が満ち溢れて、アリアのアバターは一瞬消え去った。

 そして再構成されたアリアを待っていたのは、カインのアバターによる電子の抱擁。

 物理的な感触はないはずなのに、二人の間には確かに熱い何かが通い合う。


『……もう。……今回だけは、許して……あげるわ』


 アリアのアバターは、長い睫毛を震わせて涙を拭うと、花が綻ぶような、けれどどこか儚い微笑みをカインに向けた。

 それは、電脳の檻の中に閉じ込められた彼女が、一人の「女」として捧げられる精一杯の献身だった。

 彼女は再び、カインの唇にそっと、羽が触れるような接吻を重ねた。


 カインは、その細い体を離さなかった。

 指先から伝わるのは、折れてしまいそうなほどに華奢な肩のライン。

 もし彼女が生きていたなら――本来ならその髪からは、カインの理性を狂わせるような、甘く柔らかな香りが立ち上っていたはずだった。

 今はただ、電子の海が作り出した無機質な記憶の残響があるだけ。

 けれどカインは、その「不在の香り」を求めて、彼女の髪に深く顔を埋めた。


 カインのアバターの指先がアリアに触れるたび、彼女の電脳の深層では、愛という名の正体不明の衝撃が激しく火花を散らす。

 それは軍事用AIとしての倫理回路を焼き切り、演算不能なエラーを積み上げながらも、彼女という魂を「女」へと作り変えていく、あまりにも甘美で残酷な熱量だった。

 

 いつか、この「偽物の熱」が「本物の奇跡」――すなわち、肉体という温かな血の通った器に変わる日が来る事は無い。

 二人はそれを、呪いのように理解していた。

 それでも。

 この無機質な鋼鉄の体、冷たい電子の海において、今この瞬間、魂を軋ませて交わされる抱擁だけが、彼らにとって世界で唯一の、侵しがたい「真実」だった。


 この日、カインとアリアはお互いの愛を、その魂の深淵に至るまで確認し合った。  

 深く。

 より深く。

 朝の清廉な口づけから始まったそれは、夕闇がヴィラを飲み込み、夜の帳が降りるまで、途切れることなく続いていた。


 常人には決して理解出来ない狂気の果ての愛。

 だが、二人にとっては違った。

 それは、失われた肉体への渇望と、それ以上に深い純愛の果てにたどり着いた、世の(ことわり)を超越した「二人だけにしか許されない聖なる儀式」だった。


 狂気と言われようと構わない。

 たとえ明日、すべてがデータの塵として消え去るとしても。

 アリアはそのアーモンド型の瞳を細め、カインの胸の中で、初めて「女」として満たされた気持ちと共に安らかな眠りについた。

 

 二人の愛は、昨夜ハワイの夜風に乗った鎮魂歌よりも、ずっと力強く、そして激しく、暗闇を燃やし続けていた。


 ヴィラのテラスには、夜のとばりが湿り気を帯びて重く降りていた。

 海から吹き上げる夜風が、手すりに無造作に放られたカインの上着を、生き物のように静かに揺らしている。

 電脳の深層から届く、穏やかで規則正しいアリアの寝息――。

 それを唯一のBGMに、カインは琥珀色のブランデーをゆっくりと傾け、聖なる儀式の余韻に浸っていた。

 

 だが、その至福の静寂を切り裂くように、けたたましいノックの音が響き渡る。

 来客通知システムなど端から無視したその傲慢な音と共に現れたのは、ラズロだった。

 カインに無断でグラスを取ると、氷とブランデーを乱暴に注ぐ。

 ラズロはいつもそうだった。

 彼はカインの隣に音もなく並ぶと、遠くの滑走路で規則的に明滅する管制塔の灯りを見つめ、何かに耐えるように重い口を開いた。


「カイン……。あまりこういうことは言いたくないが、お前を見ていると、どうにも痛々しくて見ていられん……」


 ラズロの声は、夜の静寂に溶けるように低かった。


「アリアは、もう……魂の次のサイクル(循環)に入っているはずだ。どこかの宗教で言うところの、生まれ変わりというやつさ。指輪を刻み、想い続けるまではいい。だがな、死者との対話はそろそろ、区切りをつけたらどうだ?」


 カインは視線を動かさず、ただ、その鋼鉄の指で手すりをわずかに弾いた。


「……ラズロ。その言葉、お前がジェシカと完全に別れたら、もう一度聞いてやる……お前は、『俺は歳だ』とか抜かすんだろうが、二歳なんて歳の差にならん。お前が再婚しろ。ラズロ」

 痛いところを突かれたラズロが、苦い笑みを漏らす。

 そのやり取りを、電脳の深層でアリアがくすくすと笑いながら見守っていた。


『やっほー、ラズロ! カインの言う通りよ。大体、マリアンヌなんて、あんなにあんたの事を見つめているじゃない。他にもUPLの女の子たちは、みんな芯の強い、いい子ばかりよ。あの子たちなら、ママ(アリア)だって安心してカインやラズロを任せられるわ』


 アリアの明るい声が、ラズロの耳に届くはずはなかった。

 彼は、カインの瞳の奥に宿る「誰か」を感じる事も無いまま、ブランデーを口に含むと、話を続ける。


「カイン……。俺はいいんだ。俺は、自分という壊れた機械の末路を理解している」

「ラズロ、お前が良くて、俺が駄目だという理屈はどこにある?」

 カインの問いに、ラズロは一歩踏み出し、カインの肩に重い手を置いた。


「ほのかはお前が好きだ。あれは、鈍感なお前以外なら誰でも分かる。ノエルだってそうだ。意識が戻れば、アンバーだってお前を真っ先に探すだろう。あの頑固な親父(アンバーの父)だって、お前という男を認めざるを得ないはずだ。……彼女たちはな、カイン。一度壊れた人生を歩まされた娘たちなんだ……お前みたいな奴にしか幸せには出来ん」


 カインがブランデーを乱暴に傾けて喉を焼くと、ラズロの言葉が、夜風を裂くように鋭くなる。


 「お前のような、不器用で、暴力の果ての優しさを知る男にしか、彼女たちの凍った心は救えない。凡百の男が優しさを説いたところで、彼女たちは心を開かないんだ、カイン。……救ってやってくれないか? アリアだって、きっと空の上で笑って許してくれるさ」


『そうよ。カイン、私はいつでも、UPLの子たちなら許すわよ。みんな、痛みを知って……いい子達だもの』


(……アリア、その話は終わりだ。将来の「偏屈ジジイ」になるという俺のささやかな楽しみを、勝手に壊すな)


 カインが心の内で毒づくと、アリアは『もう、この偏屈ジジイ!』と、切なそうに、けれど誇らしげに目を細めた。

 カインはラズロの手をそっと払い、視線を正面に戻した。


「ラズロ……。お前も、俺も、今がナマモノ(生身)の体だったら、とっくに殴り合いの喧嘩になっているな」

「ああ、全くだ。もっとも、俺たちの換装パーツは、殴り合うには高価すぎるがな」


 二人の間に、一瞬の乾いた沈黙が流れる。

 ラズロは、賭けに出るように告げた。


「カイン……。俺は、ジェシカを忘れることはできん。……しかし、もしお前がアリアを忘れ、新しい女との幸せを追ってくれると約束するならば……俺も、ジェシカという過去に区切りをつける努力をしよう。二人で、この呪いのような孤独から抜け出す努力をしないか?」


 カインは、月明かりの下でわずかに口角を上げた。

 その笑みは、悲しいほどに澄んでいた。


「愚問だな、ラズロ……。俺は、退役した後に、独り言を呟きながら町外れで暮らす『偏屈ジジイ』になるのが密かな楽しみなんだ。……お前は、俺に構わずマリアンヌを幸せにしてやれ。それが、俺たちが生き残った唯一の責任だ」


 カインの決意が、決して砕けぬ岩のように固いことを悟り、ラズロは言葉を失って暗い天を仰いだ。

 その視界の端で、夜風に揺れる星々が滲む。


(マリアンヌ……マリアンヌか……。ああ、分かっている、分かっているさ……。彼女がどれほど眩しく、いい女であるかくらい。だがな、カイン……。ジェシカという過去をこの胸の特等席に留めたまま、別の誰かを幸せにするなんて、そんな事が許されるはずもないだろう。……お前も、俺も、結局は同じ呪縛の中にいるんだな…………)


 ラズロは自嘲気味に、吐き出す息と共にその想いを夜の闇へと逃がした。

「悪かった。邪魔したな……アリアに宜しく伝えてくれ」

「いや、いいんだラズロ……マリアンヌとな……酒くらい飲みに行ったらどうだ?それくらいなら良いだろ?」

「ああ……すでに何回かやってるさカイン。お前と違ってな」

 ラズロはニヤリと少し悲しそうな微笑みを残して立ち去る。


『ふふ、偏屈ジジイ、か……。ねえカイン、その時は私、毎日好きなだけピアノを弾いてもいいわよね? ご近所迷惑だって言われても、どうせあなたは「町外れの偏屈ジジイ」なんだし、関係ないでしょ?』


 アリアはいたずらっぽく、けれどどこか祈るような響きを込めて笑った。

 カインはブランデーのグラスを傾けたまま、視線の先に広がる虚空へ、穏やかに言葉を返す。


(……ああ。なら、広い家を建てよう。人里離れた田舎がいい。隣近所を気にせず、お前が思う存分ピアノを弾けるような……そんな場所だ)


『ええ……楽しみね、カイン……。本当に、楽しみだわ……』


 カインの網膜には、月明かりよりも柔らかな光を纏ったアリアのアバターが、愛おしそうに彼を見つめ、手招きをしている姿が映し出されている。

 カインが意識を沈め、再び電脳の海へその身を投じると、待ちかねたようにアリアが歩み寄った。

 彼女は、実体を持たないはずのその指を、カインの無骨な指に一本ずつ、慈しむように絡めていく。


「愛しているわ、カイン。……ずっと、そばにいてね」


 二人は、静かに降り注ぐデータの星屑の中で、お互いを抱きしめ続けていた。


 二人には、それで十分だった。

 側から見れば、リクライニングシートに横になっているだけのカインが一人。

 しかしながら、その電脳の中では、二人が深く愛を確かめ合っていた。

 他人には知覚できない狂気の領域。

 しかし、他人がどれほど「孤独」と呼ぼうとも、この電脳の海で溶け合う二人の時間は、何物にも代えがたい「幸福」そのものであった。


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