第69話 虐殺の終焉
空調循環室を支配していた凄まじい轟音と戦闘熱気が、嘘のように凪いでいく。
破壊されたパイプからドボドボと溢れ出す汚水の音だけが、静まり返った銀色の迷宮に空虚に響いていた。
「……はぁ。やれやれ、流石に少し疲れたわね」
ランは、チャイナドレスの裾に付着した青黒い生体組織の飛沫を忌々しげに一瞥すると、深く長い溜息を吐いた。
単チタン結晶化アクチュエーターのキィィィィンという高周波の駆動音も、今はもう静寂の中に眠っている。
彼女は、消えつつある『ギルタブリル』に合図をしてエネルギー体を霧散させた。
隣では、コンラートが愛銃『ティアマット』のスライドを一度引き、薬室の異常がないかを確認してから、満足げにホルスターへ収めた。
「同感だ。美貌の『虫』と追いかけっこをするには、この地下室は少々湿気が多すぎるし、何より空気が悪い。……次はもっとマシな場所でデート(戦闘)を申し込みたいものだね」
コンラートが軽口を叩きながら、乱れたネクタイを指で整える。
その軽薄な振る舞いは、過酷な戦闘で張り詰めた神経を弛緩させるための、彼なりの儀式だった。
「いつまでも浸っている暇はないぞ。……証拠を中尉に報告しよう」
ラズロの声は低く、重い。
彼は禍々しく変形していた左腕『ハデス・クロウ』はすでに精巧な生体皮膚で覆われた「普通の腕」へと戻っている。
だが、原子レベルで物質を粉砕した際の鋭い残光が、その瞳にはまだ消えずに宿っている。
四人は崩落した隔壁を抜け、駐屯地内のセキュアな予備通信室へと移動した。
秘匿回線の青い灯がなぜか安堵を与えていた。
通信室の重厚な防音扉が閉まる。
現代において、単なる音声や映像の通信など、電脳一つあればどこからでも可能だ。
しかし、彼らが対峙しているのは「赤い蠍」という巨大な影。
発信と受信の座標を特定される可能性がある通常回線で報告を行うなど、自殺行為に等しい。
コンラートがコンソールのスイッチを叩くと、数秒のノイズののち、空間に青白い光の粒子が結実した。
軍事用ホログラム通信の幾重もの暗号障壁クリプト・ウォール(暗号障壁)を潜り抜け、UPLの指揮を執る中尉の、険しくも信頼に満ちたホログラム像が投影される。
「中尉、カインです。……作戦終了。生物兵器のサンプルと、決定的な物的証拠を確保した」
カインが短く告げると、中尉は深く頷き、共有された司令部の隠しログと現場の解析データを鋭い眼光でスキャンし始めた。
「良くやってくれた。……完璧な証拠だ。アレハンドロ・ファンが待機室で卵のカプセルを装着する姿……これほどの『黒』はあるまい」
中尉の声には、戦場の硝煙とは別の、捜査とメディア、そして政治闘争という戦場以外の特有の苦悩が混じっていた。
「……だが、待て。これをこのまま公表して『赤い蠍』を正面から糾弾するのは、現時点では得策とは言えんな。奴らの根は我々が想像する以上に深い。今ここで性急に動けば、巨大な政治的圧力によって、すべての証拠が闇に葬られる隙を与えるだけだ」
中尉のホログラムが、忌々しげに空中の一点を指し示した。
「まずは、アレハンドロが『A-アポトーシス』を過信して犯した、あの致命的な証拠隠滅のミス……そこ一点を徹底的に突く。組織の関与は伏せ、あくまで『アレハンドロ個人の狂行』という形を作って奴を包囲し、テロ首謀者として身柄を確保する。巨大な組織の喉元に刃を届かせるのは、奴の口を割らせ、逃げ場を無くしてからだ」
中尉は一度言葉を切り、沈痛な面持ちでカインたちの共有視界を見つめた。
「完全な科学的裏付け、奴の犯行当日の足取り、そして法廷で確実に有罪を勝ち取るための証拠……それらを完璧に揃えるには、まだ相応の時間を要するだろう。だが、それを成すのは我々UPLの仕事ではない。我々は『剣』だ。証拠を精査し、法の裁壇へ奴を立たせるのは、検察と捜査当局の領分だからな」
中尉は一度言葉を切り、空間に新たな編成図を投影した。
「さて、戦況は変わる。現在UPLの実働部隊は2チームしかない。改めて、チームを再編させてもらう。……ブラックチームにラズロとカイン。ブルーチームにコンラートとランだ。カイン、お前たちは引き続きハワイ海軍基地を拠点としてもらいたい。世界を睨むには、ここが最適だ」
「中尉、一ついいかしら?」
ランがチャイナドレスのスリットから覗く、美しくも暴力を秘めた脚を一歩進めるとホログラム像を見据えた。
「うちのブルーチームに、アレハンドロを追わせてくれません? あの『地獄』をバラ撒いて、私の東京観光を邪魔してくれたオヤジを直接叩き潰したいのよ」
彼女の瞳には、捜査官としての静かな怒りが燃えていた。
目の前で救い切れずこぼれ落ちていった命が、今、彼女の電脳に浮かんでいるのだ。
「アレハンドロは間違いなく『蠍』の幹部クラスだ。……いや、それだけではない。『ゾディアック(十二宮)』である可能性も浮上している。奴は危険だぞ?」
「『十二宮』……」
コンラートが低く呟く。
それは世界に12人しか存在しないと言われる、超高度改造を施されたテロリストの頂点。
伝説上の化け物たちだ。
「そうだ。アレハンドロの知名度は高い、居場所はすぐに割れるだろう。だが、今は二チームとも一時帰還だ。生物兵器のログもこちらで本データを精査したい。まずはUSCIB(統一国家刑事局)に打診して、法的に奴を逃げ場のない『テロ首謀者』として追い詰めてもらおう。……どこまで奴らが『もみ消し』を画策できるか、楽しみだ。USCIBのクロエ・フォン・ヴァレンティーヌ警視に連絡するつもりだ。彼女は信頼できる。逮捕状は年内には取れるだろう」
「了解しました」
カインが短く応じる。
『カイン……クロエ……大丈夫だよね?』
(ああ……今のところ不審点は全くなかった。中尉が「信頼できる」と言っている以上問題はないだろう)
『そうね……そうだよね?私の自慢の親友だもん……』
カインもアリアも自分の捜査官としての野生的な感覚よりも、現実的な事実を優先していた。
二人の『クロエに対する、何となく感じる不信感』は、これ以上議論されることは無かった。
戦いはまだ、終わったわけではないのだ。
「さて、事務的な確認だ。諸君、私物や予備パーツはどこに置いてある?」
「ブルー(チーム)は東伏見宇宙軍サイボーグ駐屯地ですわ。……着替えも、あちらのメンテ室に置いてきてしまいましたもの」
ランが少し困ったように、破れたチャイナドレスの肩を気にする仕草を見せた。
「ブラックはハワイですから問題はありませんよ。身一つでどこへでも行けます」
ラズロが淡々と答えると、中尉は視線をカインへ向けた。
「東伏見か。今のコンディションで行けるか?」
「まぁ……。右腕の冷却ユニットが少し悲鳴を上げていますが、無理をすれば。あそこに行くまでの鉄道は復旧未定なのと、エアカーは戦時使用禁止エリア……車を使おうにも青梅街道も新青梅街道も戦車と遺体とひしゃげた車で埋まってる……何とかできなくは無いですがね」
コンラートがサングラスを指で押し上げる。
その言葉とは裏腹に、彼の体からはまだ微かに、過負荷に耐えた機械特有の熱気が立ち上り、冷却ガスがかすかに漏れていた。
「無理はするな。工作部隊を回収に向かわせる。君たちはまず横田基地へ向かえ。……ああ、それから。今回、市民から申請があったバイクは、横田から持ち主へ返還させる手続きをとっておいた」
中尉は少しだけ表情を和らげ、ランとカインを見た。
「『市民英雄章』の上申は忘れるなよ。証拠を確保できたのもバイクのお陰だろう?諸君が今日救った命の数は、計り知れないのだから」
「はっ」
四人は一斉に、軍人としての完璧な敬礼を捧げた。
ホログラムが消え、静寂が戻った通信室。
カインは窓からわずかに白み始めた冬の夜空をじっと見つめた。
アレハンドロ・ファン。
追わなければならない大災厄の名を、四人の電脳は消えることのないターゲット・ログとして深く刻んでいた。
(アリア。……白ワインは、少し先になりそうだ)
『……いいわよ。その代わり、最高に高いヴィンテージを用意しておきなさいよね……うそよ……冷えてる奴ならいいわ』
電脳の奥で響く、鈴を転がすようなアリアの声。
カインはわずかに口角を上げ、夜明けの冷たい風を、熱を持った皮膚で受け止めた。




