第34話 フォックス・ハント
ロサンゼルスの暴力的な日差しに焼かれたSUVへ戻った直後、エンジンをかける前、電脳にロドスの緊急通信が割り込んだ。
その声は、地下通信室で別れた時よりも一段と低く、殺気立っている。
「……二人とも、今すぐ戻れ。事態が変わった」
再び電磁シールドの施された通信室へ足を踏み入れると、ホログラムのロドスが苦虫を噛み潰したような顔で、いくつかのデータウィンドウを空中に弾き出した。
「3日前だ。お前達がワンの画廊で採取した『アンノウン』の足跡や鑑識データ……あれが、本部のサーバーから消された。記録上は『システム事故』だが、そんな偶然があるか。……きな臭すぎる」
カインの右眼のフォーカスが、怒りで細く絞られる。
「なんだって! あれは大事な物証だ。……偽物のワン(カシアン)を殺した、23.5センチの靴を履いた女。クロエ・フォン・ヴァレンティーヌのデータと完璧に一致していた、あの重要証拠を消したというのか」
「……いや、待てカイン。画廊の足跡なんざ、今はもう重要じゃねえ」
隣でラズロが、愛銃のシリンダーを重々しく弾きながら遮った。
「足跡を消してまで隠したい何かが本部にあるって証拠だ。だが、今は目の前のクソ野郎を仕留めるのが先決だ。証拠隠滅をするような余裕を、ストライカーに与えちゃいけねえ」
「ラズロの言う通りだ」
ロドスが頷き、新たな座標を提示する。
「新たなストライカーの足取りを掴んだ。ヤツはロサンゼルス郊外、人跡未踏の山林にある隠し倉庫へ向かっている。……そこには『赤い蠍』の戦力も集結しているかも知れん。車での接近は避けろ。検問や伏兵の餌食になるだけだ」
「じゃあ、どうやってあのアスファルトの地獄を越えろってんだ、警部?歩くのか?」
カインの問いに、ロドスは不敵な笑みを浮かべた。
「Van Nuys Airport(ヴァン・ナイズ空港)のプライベート・ターミナルに、民間機に偽装した『AH-99J "ヴェノム・ワイバーン・ストライカー"』を用意させた。……こいつはただのヘリじゃない。参謀本部が極秘に運用している、対サイボーグ制圧用の『毒蛇』だ」
「すげえヤツを用意してくれたな……分かった。ロドスチーフ……全部終わったら、奢らせてくれ」
「奢るのは俺の方だ。死ぬなよ、俺の奢りを受けるまでは死ぬのは許さんぞ」
カインとラズロは背中で応えると廊下を弾かれたように走り出した。
背後で重厚な扉が閉まる音が響く。
それは、これまでの「捜査官」としての日常が完全に遮断され、戦場へと放り出された合図でもあった。
地下駐車場へ向かうエレベーターの中で、二人は無言だった。
カインは網膜上のウィンドウを高速でフリックし、ヴァン・ナイズ空港までのルートをSUVのナビに叩き込む。
ラズロは、自身の左腕の駆動系を微かに鳴らした。
妻を思い出すたびにねっとりと絡みつく、暗黒の澱のような絶望が、今は鋭利な殺意へと精製されている。
「……カイン、ロドスがここまで大掛かりな手配をするってことは、警察の腐乱は相当根が深いぞ」
エレベーターの照明が、ラズロの不敵な横顔を青白く照らす。
「ああ。俺たちが画廊で掴んだクロエの足跡……あの『不自然に残された証拠』を消した奴が、本部のサーバー室にまで手を伸ばしている。ストライカーだけじゃない。毒は組織の深部まで回っている」
カインの声は、氷点下まで冷え切っていた。
「だが、今はいい。空からストライカーの喉元を喰いちぎれば、膿が内部から出てくるはずだ……動かないわけがない」
地下階に到着した瞬間、二人はSUVへと飛び乗った。
タイヤがアスファルトを激しく削り、運転制御AIすらもラズロの怒りを含んでいるように地上へと飛び出す。
ロサンゼルスの暴力的な陽光が再びフロントガラスを灼いたが、二人の視界は既に、その熱気の向こう側にある「獲物」だけを捉えていた。
ハイウェイを猛烈な速度で駆け抜ける。
405号線を北上し、サンフェルナンド・バレーへと向かう道中、カインはロドスから送られてきたリンクを開き、USPAの機密ネットワークから『AH-99J』の運用マニュアルを電脳へとダウンロードしていた。
「……八門のレーザーキャノン、射線補正率は最新型だな。ラズロ、これは乗るだけだ。AIに任せればいいらしい」
「了解だ。ストライカーの周囲に群がる蠍どもは任せられるな…」
SUVはヴァン・ナイズ空港の裏門に設置された検問所を、緊急車両コードでスムーズに突破した。
プライベート・ターミナルの最奥、一般の利用客からは完全に隔離された非公開の格納庫群。
車を横付けし、カインが力任せにドアを開ける。
重いシャッターがゆっくりと上昇し、内部の冷気が外の熱気と混ざり合う。
そこには、陽光を拒絶するような漆黒の静寂が横たわっていた。
ヴァン・ナイズ空港の格納庫。
そこに鎮座していたのは、艶消しのダークグレーに塗られた、凶悪なフォルムの回転翼機だった。
角度によっては漆黒になる。
全幅14.2メートル、全長16.8メートル。
二重反転ローターが静かに獲物を待つように止まっている。
「……ほう。八門の半誘導レーザーキャノンっていうのはこれか。内蔵してやがる。外見からじゃ、装甲にスリット状の穴が開いているくらいにしか分からんな」
ラズロが機体を見上げ、感心したように、それでいて戦慄を隠しきれない様子で口笛を吹いた。
「機体重量5.4トンに対して、最大離陸重量は9.2トン。……こいつは重武装のサイボーグを小隊規模で運んだまま、ダイブ時には時速580キロまで叩き出す化け物だぜ。ロドスの旦那、とんでもない死神を引っ張り出してきやがった」
「こいつを使う理由は、機動力だけじゃない」
カインがタラップを駆け上がり、操縦席のコンソールに自身の端子をダイレクト・リンクさせながら言った。
電脳を通じて機体と意識が直結し、ワイバーンの各部センサーが彼の神経の延長となって覚醒していく。
「ヴェノム・ワイバーンは、森林の樹冠ギリギリでのホバリング(完全停止)が可能だ。風速20メートル以下なら、高度10メートルで静止し続けられる。……つまり、森の影から音もなく現れ、ストライカーの頭上から『死』を降らせるってわけだ」
「操縦はAIに任せな。俺たちは火器管制と降下準備に集中するぜ。……ん?」
ラズロが後部ハッチのロックを確認しようとしたその時、コクピットの奥から一人の女性が姿を現した。
野戦服を完璧に着こなし、流れる赤い髪をタイトにまとめ上げた女性だ。
その肩には憲兵曹長の階級章が鈍く光っている。
「……お久しぶりね、ラズロ。相変わらず、物騒な玩具を品定めするのが好きなようで」
ラズロの動きが、凍りついたように止まった。
その表情から余裕が消え、深い驚愕と、それ以上の負い目が入り混じった複雑な色が浮かぶ。
「……マリアンヌ、曹長……。なぜ、あなたがここに」
「この機体は憲兵隊の管轄よ。国家の癌細胞『赤い蠍』の残党を処理するために、わざわざニューヨークからこの機体を飛ばしてきたわ」
彼女の声は、低く落ち着いていたが、その眼差しには深い慈愛が込められていた。
マリアンヌ・ルフェーヴル。
かつてラズロの妻、ジェシカの無二の親友だった女性だ。
あの日、ジェシカが殺された後。
軍内部で「不運な事故」として処理されようとしていた真実――それが『赤い蠍』による周到な暗殺であったことを、軍規を破り、ラズロにリークしたのは彼女だった。
風聞では、彼女はその一件で出世街道から完全に外れ、閑職に追いやられたと聞いていた。
だが、彼女は今、戦場の空気を纏ってここに立っている。
「……マリアンヌ。あんたの出世は、俺への密告で絶たれたと聞いていた」
ラズロが絞り出すように言った。
マリアンヌは微かに口角を上げ、自嘲気味に、しかし力強く首を振った。
「出世? そんなものは、友人の魂を売ってまで手に入れる価値のあるものじゃないわ。私は自分のルールに従っただけよ。……それよりラズロ。ジェシカの『遺品』は、まだ自宅に安置してあるの?」
ラズロは言葉を失い、ただ自身の義手を強く握りしめた。
「どちらかと言えば、あの『腕』が上層部の不興を買ったみたいよ。でもね……彼女の腕は兵器ではない。持つのを許されるのは夫である、あなただけよ。ラズロ……。そしてストライカー……あいつはジェシカを直接手にかけてはいないけれど、あの組織の腐った歯車の一つ。彼女を、そして多くの家族を壊した元凶よ。……この『ワイバーン』が、あいつの罪を焼き尽くす牙になるわ」
彼女はカインとラズロの顔を交互に見つめると、操縦席のマスターレバーに手をかけた。
「操縦は基本AIが行うけれど、森の複雑な気流を読むのは私の仕事。あなたたちは、後ろで最高の仕事をなさい。ジェシカが見ているわよ」
「……分かった。頼む、マリアンヌ」
ラズロが短く、重みのある声で応えると、機体全体が咆哮を上げるように振動し始めた。
二重反転ローターが、猛烈な勢いで大気を切り裂き始める。
格納庫内に渦巻く熱風を押し退け、漆黒の機体は、滑走路を滑るように浮き上がった。
ヴェノム・ワイバーンは、いくつかの街の灯りを眼下に、獲物の潜む暗い森へとその機首を向けた。
ヴェノム・ワイバーンの二重反転ローターが、重厚な低音を響かせながら空を切り裂く。
機内は電子機器の冷却ファンと、油圧システムの微かな駆動音に支配されていた。
操縦席に身を委ねたマリアンヌ曹長は、ヘッドセットのコンソールを操作し、背後のラズロだけに繋がる秘匿回線を開く。
機体はAIによって安定した巡航に入っていたが、彼女の視線は計器の向こう側、かつて友と笑い合った遠い記憶を追っているようだった。
「……ねえ、ラズロ」
インカム越しに届いた彼女の声は、戦場へ向かう軍人のそれではなく、一人の古い友人としての湿度を帯びていた。
「ラズロ……再婚は、考えないの?」
後部座席で火器管制モニターに意識を向けていたラズロの指先が、目に見えて止まる。
彼は一瞬、隣で夜空を見ているカインを盗み見たが、秘匿回線であることを察し、深く、重苦しい溜息をついた。
音声ではなく、マリアンヌのヘッドセット向けに音声メッセージを送る。
「……バカを言え。ジェシカを裏切れるわけがない。俺はあいつの元に……あいつのところへ行くことだけが、唯一の望みなんだ」
その声は、夜空よりも冷たく、そして壊れそうに震えていた。
復讐という名の燃料を燃やし尽くした先にあるラズロの希望は、ただ静かな自身の終焉。
彼にとって、ジェシカ以外の誰かと人生を重ねるなど、想像の範疇にすら存在しなかった。
マリアンヌは操縦桿を握る手に力を込め、前方の雲海を見つめたまま言葉を紡ぐ。
「ラズロ……ジェシカはもう、戻らないわ。あの子のことだもの、きっとあなたの幸せを願っている。再婚だって、笑って許してくれるはずよ。……今すぐじゃなくていい。この戦いが終わった後の、いつかでも」
「ああ、言いたいことは分かるさ。マリアンヌ、あんたの優しさはな」
ラズロは背もたれに体を預け、天井の配線剥き出しの隔壁を睨みつけた。
視界の端には、ジェシカが手料理を持って笑っているような気がした。
「だがな、俺には生涯二人目なんて器用な真似はできやしない。……俺のナマモノの心臓(本当の心)は、あの日ジェシカと一緒に、死んだんだよ」
沈黙が機内を支配する。
マリアンヌはそれ以上、ジェシカの事は何も言えなかった。
彼女には分かっていた。ラズロにとっての「再婚」とは、ジェシカを忘れることではなく、彼女がいない現実を永遠に肯定してしまう、耐え難い儀式なのだということが。
「ラズロ……分かった。私も独身なの。ガールフレンドにしてなんて話じゃないわ。独身同士、終わったら飲みましょう?これから……機会があったら、たまに会って食事でもしましょうよ。…………まあ、こんなオバさんで良ければ……貴方が望むなら、ガールフレンドになってあげてもいいわよ?」
「ハッ、それはいいな。ガールフレンドはお断りだが、酒は大歓迎だ!ジェシカも、アンタとオレが飲むって言ったら喜ぶだろうな。マリアンヌ……アンタはいい女だ。『壊れた死神』なんかと恋愛なんて冗談は二度としないでくれ。ちゃんとしたナマモノ(普通の男)でも探せ」
マリアンヌは心の中でしか答えなかった。
「…………着くわよ。獲物の巣まで、あと三分」
彼女の声が再び、氷のような軍人のそれに切り替わる。
ヴェノム・ワイバーンの機首が鋭く下がり、森林の深い闇へとダイブを開始した。
ラズロは感情を消し去り、サーチライトを点灯する。
ストライカーは今や、警察のバッジを捨てた「赤い蠍」の尖兵だ。
中佐一家を惨殺し、生きたまま証拠を溶かした冷酷な男。
現場は山林。
逃げ場のないグリーン・ヘル(緑の地獄)。
「座標確認。……ストライカーは即逮捕、抵抗すれば……分かっているな?」
カインの言葉に、ラズロが短く応じた。
「ああ。……蠍の幹部様だ。たっぷりと『お礼』を言ってやるさ」
ヴェノム・ワイバーンの二重反転ローターが、低く、ピッチを変えて重厚な唸りを上げ始めた。
漆黒の機体は、深い霧の煙る暗い森にある「その場所」の上空に間も無く到達しようとしていた。
その場所に生者の……鋼鉄の暴力の反応は未だに感じる事は出来なかった。




