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第32話 クロエとアリア

 硝煙が重く淀む倉庫内に、アリアの義体から漏れ出す冷却液がコンクリートを叩く音だけが、不気味に響いていた。

 一滴、また一滴。

 滴る液体は粘り気のあるオイルと、生身から流れた赤黒い血が混ざり合い、床の亀裂を伝って不気味な斑点となって広がっていく。

 それはまるで、アリアという存在そのものが足元から崩れ、溶け出していくかのような光景だった。

 崩れ落ちた親友を、至近距離から迷いなく射殺したクロエは、その場に彫像のように立ち尽くしていた。

 返り血を浴びたそのかおは、冷徹な支配者のそれであった。


 ふと、アリアの薄れゆく視界の端で、クロエの足元が不自然に見えた。 

 ヒールサンダルから見える足の指……綺麗…………ああ、そうかその足の指……クロエェ貴女……サイボーグだったのね……リブートもしない……気が付かなか……」


「……ッ、何を見ているのよ。バカのくせに。壊れかけの機械のくせに、そんな哀れみの目で私を見ないで……!」


 クロエは抑えきれない苛立ちをぶつけるように、アリアの顔面を蹴り飛ばすと、アリアの首は胴から外れて綺麗に壁まで飛んでいった。


 続いて傍らで目を見開いて硬直していたヘーゼルへと銃口を向けた。

 その銃口は、アリアに向けた時と同じように冷たく、迷いがない。

 素早く一発の弾を装填した。

 叫ぶ暇も、逃げる術も与えなかった。

 放たれたのは非致死性の高電圧ショック弾だ。 

 バチリという青白い電光が、咄嗟に逃げようとしたヘーゼルの華奢な背中を叩き、彼女は短い悲鳴さえ上げられず、糸の切れた人形のように前のめりに昏倒した。

 ヘーゼルは、自らの作った失禁による水溜まりの中で痙攣している。

 再び訪れる、暴力的なまでの静寂。

 クロエは荒い呼吸を何度も繰り返し、酸欠気味の肺に無理やり空気を叩き込むと、壁際に飛び跳ねていったオイルの海に沈むアリアの頭部へと近づくと、膝をついた。

 膝がオイルで汚れようとも、今の彼女にはそれを気にする余裕などない。

 彼女の細い指先が、無造作に、アリアの破壊された左眼窩の奥へと突き立てられる。

 生々しい機械部品と、まだ熱を帯びたケーブルの感触を厭うこともなく、その奥に隠された強制パージ・スイッチを「カチリ」と、事務的な音を立てて押し込んだ。


 その瞬間、アリアの右耳の後方、柔らかな黒い髪に隠れた人工皮膚の下から、極薄の透明なガラスプレートが、かすかな電子音を伴ってスライドし、露出した。

 そこには、黒いシートの表面に虹色が微光を放つ五枚の極薄シートが精密に重なっている。

 それこそが、軍用プロトタイプ『アリア・シズク・ウォーカー』の精神そのもの。

 広大な電脳の海を漂う彼女と言う存在を現世に繋ぎ止め、その「心」と「人格」を形作っている基幹メモリー・スタック――彼女の魂だった。


「……これでお別れよ、アリア。貴女のその救いようのないお節介な心も、鬱陶しい正義感も、ワインだのピザだのといった下俗な思い出も。全部ここで私自らが消してあげる。それが、せめてもの情けよ」


 クロエの指が、一枚目のシートの端に触れる。 

 パキリ。

 乾いた硬質な音が倉庫内に響き渡る。

 その瞬間、アリアの脳内で、幼い頃の記憶の断片……名もなき誰かの優しい手の温もりが、粉々に砕け散るような激しい衝撃が走った。


 二枚目。

 パキリ。

 誰かと笑い合った午後の光、誰かと行ったキャンプ場で嗅いだ香ばしい煙の匂い、ジャグジーの温もり――大切な主観データが、次々と修復不可能な暗黒に塗り潰されていく。

 アリアの意識の中で、世界が一つずつ、確実に死んでいった。


 その時だった。

 遠く、山の稜線の向こうから、空気を切り裂く鋭いローター音が急速に接近してきた。重厚なエンジン音が、静寂を物理的に削り取っていく。

 サーチライトの暴力的な光が、木々の隙間を縫うようにして倉庫の窓へと差し込み、闇を白々と暴き出した。


「……チッ。忌々しい『エクスキュショナー(処刑人)』ども。もう嗅ぎつけてきたのね。鼻が利くことだけが取り柄の猟犬どもめ。お掃除にはまだ早すぎるわよ」


 クロエの貌に明らかな焦燥が走る。

 アリアという個体の生存を完全に、物理的に絶つには、残り三枚のプレートを一枚ずつ慎重に引き抜き、論理回路を完全に焼き切る必要があった。

 もし一枚でも残れば、心ある人間に回収された際、彼女は不完全な形であっても「再起動」される可能性がある。

 それはクロエにとって、未来に残す致命的な汚点、破滅の鍵に他ならない。


 だが、猶予はもうコンマ数秒もなかった。

 ヘリの轟音はすでに倉庫の直上にまで達し、その凄まじい風圧で屋根のトタンが悲鳴を上げている。

 埃が舞い、倉庫内は暴風に包まれた。

 クロエは震える手で、残された三枚のシートを一纏めに鷲掴みにした。


「まとめて地獄へ落ちなさい、アリア……! 二度と、その不愉快な目を開けないで!」


 全身の力が込められ、三枚のガラスシートがまとめてパキリと、鈍い音を立てて握りつぶされた。

 虹色の光が粉々に弾け、アリアの残された右目の奥に灯っていた最後の光が、絶望的な暗転を迎える。

 全てのシステムが沈黙し、彼女の宇宙から色彩が消えた。


「さようなら、私の可愛いバカな子」


 クロエは粉々になったプレートの残骸を、汚物でも捨てるように投げ捨てると、失神したままのヘーゼルを乱暴に抱き上げた。 

 続いてグレネードを一つアリアに向けて投げると踵を返した。

 ヘーゼルの失禁で濡れた足はまだ小刻みに震えていたが、彼女は気にせず倉庫の裏口から、深い山の闇へと溶けるようにして、その姿を消していった。


 後に残されたのは、頭部を無残に破壊され、魂の拠り所であるメモリーを文字通り粉砕された、物言わぬ冷たい機械の残骸だけだった。

 頭上では、容赦のないサーチライトが、かつてアリアと呼ばれたモノの凄惨な最期を、冷たく照らし続けていた。

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