182.続・母ちゃんの小説 第59話「川嶌の子」(前)
手を離れた丸太が、足元で鈍い音を立てた。
ふう。
透は手の甲で額の汗を拭うと両腕を振り、首の関節がぽきりと音を立てるまで肩を揺すった。
どうもうまくいかない。
おおよその目方ではあるが、この丸太は大人一人に相当する。
だからこれを担ぐことができれば人間も担げるだろうと思った。
だが堅い丸太を持ち上げるのは容易ではない。
手が滑り、何度もしくじってきた。
そして。
試行錯誤の末、ようやく担げるようになったが、今度は次の段階に進めず焦っている。
何がダメなんだろう。
透は丸太を持ったまま跳躍しようとしていた。
あの晩。
雄司たちは、肉体を離れたまま帰れなくなった律子の精神を、空間を強引に捻じ曲げ東京のアパートの一室とシマの社殿を繋げることによってどうにか元の場所に戻したが、以来、律子は奥座敷で臥せっており、拝殿での祭祀も延期されている。
よく巫女殿に尽くしてくれた。
神社からは透宛に礼状と表に薄謝と書かれた封筒が届いた。
封筒の中には新札の1万円が入っていた。
単純に1回きりのバイトと考えれば、高校生に1万円は破格の臨時収入である。
だが。
通常、一族の人間がその能力を以って行う「仕事」に対し金銭の授受は発生しない。
表向きは「神社の名代として行う一種の神事であるから」といったもっともらしい理由があるものの、その奥には既に存在する血統による家の格付けを金銭がもたらす価値観で歪めさせてはならないとする一族の本意がある。
今回、透に特別に「小遣い」が与えられたのは、まだ正式に御役目についていない子供が、しかも島邑の私事から生じた仕事に使役されたためであるが、受け取る側には複雑な気持ちが残った。
あのとき。
僕が御身体を東京に運んでいたら、巫女様はあんなことには。
自分ひとりで跳ぶのが精いっぱいで、他には僅かな物しか携行できない能力の限界が悔やまれてならなかった。
よし、もう一度だ。
透が気を取り直して丸太に手をかけると、その途端、汗があごを伝って首すじからシャツに染みた。
無理もない。
雲ひとつない空から射す陽光が透の体をまんべんなく焦がしている。
跳躍し損なったときに備えて草原が広がる土手に来たが、周りに木がないため涼を取る木陰もなく、透は太陽に投げつけられる熱と自身の体内から湧き上がる熱の両方にひたすら耐えていた。
体が汗ばんでいるときは跳ぼうとするな。
落ち着け。
落ち着いて、汗が引くまで待て。
今まさに跳躍しようとしていた全身の筋肉を緩め、透は辺りを見回した。
微風が、吹いている。
熱に捕らわれていて今の今まで全く気づかなかった。
そして。
ふらふらと揺れる膝丈の草の向こうで人影がこちらの様子をうかがっていた。
「こんなところにいたの。探したよ!」
「ねえちゃん」
半袖のセーラー服姿の真澄を見て透は弾かれたように立ち上がった。
「今日、登校日だったんだ!?」
あの晩からシマの任務が頭から離れず、学校の存在すら忘れかけていた。
「ちがうよ」
真澄が吹き出した。
「今日は私だけ学校に呼ばれたの。制服着て保護者と一緒に来なさいって。それで帰ったら、あんたがいないでしょ。どこ行ったかと思ったよ」
「保護者って、兄さん?」
「うん、そう、兄さんのこと」
透と真澄は自分たちの父、川嶌浄を村の外では「兄さん」と呼んでいる。
二人が小学校・中学校に通う間は、一族の中のそれらしい年格好の男女が彼らの両親に扮して父兄参観をはじめとする学校の主だった行事に出席していたが、その後彼らが相次いで世を去ったため、今の学校では最初から長兄の浄が保護者代わりだと説明している。
保護者と聞いて、透は三者面談という言葉を連想した。
真澄は高3なので、たぶん進路についてだろう。
夏休みまで呼び出しがあるとは知らなかったが。
「あんたが朝、寝てたから出かけたけど、お昼は食べたの?」
「残ってたご飯に味噌のせて、水かけて食べた」
真澄は露骨にいやな顔をした。
「またそんないいかげんな食べ方。みそ汁、置いといたのに。冷蔵庫にも昨夜の残り、あったでしょ?」
「麦味噌で食べるほうが好きなんだよ」
そう答えてから、透は心の中で舌打ちした。
インターハイが終わり、朝練がなくなった分、最近は真澄が家事のほとんどを引き受け朝晩の食事も作るようになった。
陸上部に所属し、食事の管理にも神経をつかっている真澄の料理は栄養的には申し分ない。しかし父が長年作った料理と比べるとどこか味も形もよそよそしく、気がつくと、おかわりをしないまま箸を置いてしまう。
作ってくれる真澄にすまないとは思いつつ、こればかりはどうしようもできずにいる。
しかし、目の前の真澄は今の透の言葉を聞いても気分を害した風でもない。
「ところで、おやつ、あるんだけど」
片頬に当てた手を丸め、メガホンのようにして言った。
「おやつ? 何?」
「学校でね、もらったんだ。たまようかんっていうの」
「たま、ようかん?」
聞き返す透に強く頷き返す。
「そう。ゴムの中にようかんが入ってて、丸い玉みたいになったやつ。楊枝でゴム刺すと、ぷりっと中身が出てくるんだって」
「……玉羊羹、かぁ」
透の頭の中で、ようやく言葉がイメージを伴ってかちりと嵌った。
「面白そうだよ、やってみたくない?」
同時に、真澄の声が不自然に弾んでいるのにも気づいた。
「先生がくれたの? そのようかん」
「学校にね、大学の人が来たの。それでお土産で……」
「えっ。それって、ねえちゃんに会いに?」
胸元で結んだスカーフの先を指に巻きつけながら真澄がうなずいた。
「推薦出すから、陸上部に来ないかって。まあ、スカウト、だね」
ほんと!?
おめでとう!!
やったな!!
「それであんたは何、やってたのよ。木、投げてるの?」
喉まで来た言葉が形となるより先に、真澄が声を発した。
「……跳ぶ練習してた」
「遠くまでは行けるけど、ひとりで跳べるだけだから。……もし、大きい荷物や人も一緒に運べたら、もっと便利だろうと思って」
「あのさ。昔は、どのぐらい昔かよく知らないけど、川嶌はもっと強かったっていうじゃない? だから、訓練したらできるようになるかもしれないって……」
真澄が何を言おうと聞かずに一方的に喋った。
言えば言うほど、自分がやっていることが馬鹿らしく思えてくる。
「で、木とは一緒に跳べたの?」
「それが、難しいんだよな。何だかタイミングが合わないというか」
透は靴の爪先で丸太を小突いた。
ねえちゃんが大学のスカウトの人と話しているころ、僕は丸太ひとつ持ち上げられずにいたんだ。
「じゃあさ」
がさりと音がして、真澄が草をかき分けるようにして近づいてきた。
「私が練習台になろうか? 私なら、途中で何か起きても自分で跳べるし……たぶん、その木よりは、軽いと思う」
足元の丸太を指さして言った。
真澄が本格的に陸上を始めたのは中学に入ってからである。
それ以前から足は速かったのだろうが、競技のために専門の練習をして走るようになってからめきめきとタイムを上げ、順調に地区大会、地方大会と出場していった。
そして高校も陸上競技の盛んな学校を選んで行った。村から離れており、毎朝の練習に参加するためには早朝一番のバスに乗らなければならなかったが、弱音ひとつ吐かず、3年の実質的な引退となるインターハイが終わるまで通い切った。
一族の伝令役を務めているからとはいえ、村から一番近い高校に通い、特定の部活動に入らず放課後真っ直ぐ家に帰ってくる透とは対照的な高校生活といえる。
「いいの?」
「うん。でも、やるのは1回だけね。終わったら、さっさと帰ってゴム羊羹やろうよ」
「玉羊羹って言ってなかったっけ?」
「あ、そっか。ま、何でもいいよ」
真澄が笑うと真新しく見える学生靴がきゅっきゅと音を立てた。
学生靴がすり減る余裕もないほど運動靴ばかり履いているのだ。
「あ、あのさ」
これを言うと絶対に真澄の機嫌を損ねると分かっているが、実際に跳ぶ前に、透にはひとつ、確かめておかなければならないことがあった。
「えっと。……今日、大丈夫? その、アレには」
「なってない! 大丈夫じゃなかったら、やるって言わないから!」
透が予想したどおり、殴りつけんばかりの勢いで返事が飛んできた。
二人は草原の真ん中で向かい合った。
「跳ぶとき、抱っこしようか? それともおんぶ?」
「そんな変な格好で跳べるわけないでしょ。私がしがみついてあげるから、あんたは跳ぶことに集中しなさい」
確かにそうだ。
体調の変化と感情の激しい起伏は跳躍の妨げになる。
透は真澄の申し出に従うことにし、目を閉じた。
その腰に真澄の手が添えられる。
「…………える」
透の耳に真澄の呟きが聞こえた。
「水は凍り……血は燃える…水は凍り、血は燃える」
それは、初めて跳躍を習ったときに教わった言葉だった。
シマの子供たちは物心つくと遊びながら能力に応じた訓練を受ける。
早くから跳躍の素質を見出された真澄と透は、集められた年長の他の家の子供たちに混じって、週に一度、神社の境内で「缶蹴り」をした。
それは缶蹴りと呼ばれてはいたが、その実体は近接戦だった。
子供たちは境内の中央に置かれた缶に近づき、鬼の隙をついてそれを、蹴る。
そこまでは普通の缶蹴りとなんら変わりない。
だがシマの「缶蹴り」は、物陰に隠れる代わりに限界まで気配を消し、ごく短い距離の跳躍を何度も繰り返して鬼が守る缶に近づいていく。
過酷な遊びだった。
殴るといった暴力行為は厳禁だが、跳躍の目測を誤り竹藪に墜落して体中を擦りむく者、空中で互いにぶつかり合う者、缶ぎりぎりのところで鬼に捕まって悔し泣きする者で、開始早々に境内は子供たちの叫び声に満ちる。
『泣いてる子、汗かいてる子、ケガして血ぃ出てる子は退け。次の回は入んないで、ちゃんと静かに座って見学すること!』
そして、審判となった最年長の子供が参加する子供たちをその都度仔細に調べ、開始前だろうが最中だろうが構わずどんどんふるい落としていく。
その選別には温情は介在しなかった。
これらの子供を参加させられないはっきりした理由があるからだ。
『後について言う。水は凍り、血は燃える。唱和!』
『水は凍り、血は燃える』
『じゃあ、始める。缶蹴り、2回目、開始!』
思えば、真澄たちが一族の次期当主となる島邑雄司に初めて会ったのも缶蹴りの場面だった。跳躍の他にも訓練すべき数々の能力を持つ雄司は滅多に境内には現れず、来ても、缶蹴りに参加する代わりに脱落した年下の子供たちとござの上に一緒に座って、静かに目の前で繰り広げられる戦いを眺めていた。
もしそのときがきっかけだとすると、真澄の片思いは10年以上続いていることになる。
だが、あのころの真澄は跳躍をこなす一族の子供の中でも一番の跳び手で、ござの上に座ることは滅多になかった。
「ねえちゃんが最後に跳んだのはいつ?」
透は自分の腰を抱く腕のほうに意識を集中し、丸い膨らみがみぞおち辺りに当っているのをどうにか無視しながら聞いた。
「寝坊して朝練に遅れそうになったときだから、夏休みに入る前かな?」
その返事に、跳躍がほぼ日課となっている透はちょっと驚いた。
「しばらく跳んでないんだな」
「平気。練習してなくても衰えてないって。私の瞬発力、覚えてるでしょ」
覚えている。
そして。
大人と子供で彼女の能力を褒める声に違いがあったことも。
驚き、感嘆、妬っかみで真っ直ぐな絶叫となる子供の声に対し、大人のそれは薄甘く、それでいて不自然に弾んでいた。
ちょうどさっきの真澄の声のように。
「じゃあ、跳ぶよ」
「うん」
透の腰に回した真澄の手に力がこもった。




