食い逃げ妖精、「おいしー!」と祝福をこぼしてしまう。~異世界スイーツ紀行~
青鈴街道の朝は、まだ眠たそうだった。
その道を、一頭の大きな亀がゆっくり歩いていた。
名をタルムという。
苔むした甲羅には、赤茶色の屋根を載せた小さな家が建っている。丸窓が二つ。煙突が一本。軒下には洗ったばかりの布巾と、片方だけの靴下が揺れていた。
その屋根で、妖精のリリィが羽を絞っていた。
朝露を吸った羽は重く、薄い水色に曇っている。リリィは雨水桶の縁に腰を下ろし、両手で羽を挟んだ。雑巾でも絞るように力を入れると、雫が屋根板へぽたりと落ちた。
道の両脇には、銀色の葉をつけた低木が続いている。風が通るたび、葉の裏側に並んだ小さな実が触れ合い、ちりん、ちりんと澄んだ音を立てた。
「今日、晴れるかな」
「晴れるんじゃないかねえ」
タルムは歩きながら答えた。
「その言い方、雨の日にも使うよね」
「降り始めるまでは晴れだからねえ」
リリィは少し考えたが、よく分からなかったので考えるのをやめた。
代わりに、煙突の根元へ干してあった羽布を取り、濡れた羽先を拭いた。昨夜、ネル豆を煮た鍋はまだ台所に出しっぱなしだったし、窓辺には欠けた匙が置かれていたが、どちらも急いで片づけるほどのことではない。
街道の先から、風が来た。
湿った土。青鈴の実。遠くの薪の煙。
その奥に、ひどく甘い匂いが混じっていた。
蜜より軽く、焼いた粉より香ばしく、花のようでいて花ではない。温かいのに、どこか涼しい香りだった。
リリィの羽が、ぴんと立った。
「タルム」
「行かないよ」
「まだ何も言ってない」
「甘い匂いがするときの声だったからねえ」
リリィは屋根の端へ走り、つま先立ちになった。
街道の先には、坂に沿って小さな町が広がっている。
白い壁。群青色の屋根。窓辺には色硝子を編んだ飾りが吊られ、朝日を細かく砕いていた。坂の両側には細い水路が流れ、その上を、小さな木橋が何本も渡っている。
町の名はカルネラ。
入口の石標には、青い塗料で翼のような印が描かれていた。意味は分からなかったが、端が剥げていたので、ずいぶん前からそこにあるらしい。
「見るだけだからね」
リリィは言った。
「まだ店も見えていないよ」
「先に言っておくの」
「自分にかい」
返事をせず、リリィは飛び立った。
長く飛ぶのは得意ではない。けれど、坂を一つ越えるくらいなら問題なかった。
カルネラの朝市では、透明な籠がいくつも並べられていた。
籠の中には、薄紫色の丸い実が、底へ触れないままふわふわと浮かんでいる。熟した実同士がぶつかるたび、かすかな光が中で揺れた。
浮果、ルミエである。
熟すと枝から離れ、木の周りを漂い始める。収穫には長い柄の網を使う。日が高くなると風に乗ってどこかへ飛んでしまうため、採るのは夜明け前と決まっていた。
市場の端では、背の低い男が網の破れを繕っていた。向かいでは、角の生えた女が籠の重しを一つずつ確かめている。通りを歩く子供は、逃げ出した小さなルミエを追いかけ、母親に襟首をつかまれていた。
その騒ぎの向こうに、水色の庇を張り出した菓子店があった。
開け放たれた窓から、甘い匂いが流れている。
リリィは庇の上へ降りた。
窓枠は何度も塗り直され、木目の間に古い青色が残っていた。内側には粉が薄く積もり、角の一部が蜜で黒ずんでいる。
店の奥では、太い腕をした女主人が、ルミエの皮を剥いていた。
薄紫色の皮へ小刀を入れると、中から乳白色の果肉が現れる。切り分けられた果肉は鉢の中でもわずかに浮き、女主人はそれを銀の匙で一つずつ押さえながら潰していった。
壁には大小の銅鍋が並び、天井からは乾燥させた香草の束が下がっている。石窯の周りには白い粉が積もり、何度も踏まれて薄い板のように固まっていた。
女主人は潰したルミエへ淡金色の蜜を混ぜ、青みがかった粉を少しずつ加えた。
生地は練るたびに軽くなった。最後には鉢の底から浮き上がろうとするので、女主人は片肘で押さえ、もう片方の手で細長く延ばしていく。
薄く延ばした生地で果肉を包み、貝殻型の焼き型へ入れる。
窯の扉が閉まった。
火が鳴った。
しばらくすると、石窯の隙間から青白い湯気が漏れ始めた。
リリィは窓の外へ張りついたまま動かなかった。
「見るだけだよ」
背後から、タルムの声がした。
ようやく坂を下り、店の前まで来たらしい。
「うん」
「本当に見るだけだね」
「もちろん」
リリィは答え、少しだけ開いていた窓の隙間から店内へ入った。
タルムは目を閉じた。
窯から出てきた菓子は、淡い青に透けていた。
表面には細かな気泡が閉じ込められ、光を受けるたび、内側で小さな星が瞬く。焼けた生地の縁は薄く反り、貝殻の筋に沿って、銀色の蜜が細く滲んでいた。
正式には、ルミエ菓フィラネージュという。
カルネラの者は、ただ青星と呼んでいた。
女主人は青星を木皿へ移し、窓辺の棚に並べた。
一つひとつは、リリィの頭より大きい。
表面から立つ湯気は青白く、甘い香りをまとって天井へ昇っていく。皿の縁へ降り立ったリリィには、焼けた生地の割れ目が小さな谷のように見えた。
見るだけだった。
少なくとも、窓から入ったときまでは。
リリィは青星へ近づいた。
表面の亀裂から、透明な蜜が丸く膨らんでいる。蜜の一滴だけで、両手のひらがいっぱいになりそうだった。
ほんの少し。
端をひとかけらだけ。
ひとかけらなら、値段もひとかけら分のはずだった。ひとかけら分なら、たぶんあとで何とかなる。何で払うかは、食べてから考えればいい。
リリィは両手で青星を抱え、かじりついた。
薄い皮が、ぱり、と鳴った。
次の瞬間、温かい果汁が口いっぱいに広がった。
甘い。
けれど重くない。
舌の上でふわりとほどけ、青鈴街道の朝風のような香りが鼻へ抜ける。噛むたびに、遠くで小さな鈴が鳴るようだった。
焼けた生地は軽く、内側だけがしっとりしている。蜜にはかすかな苦みがあり、そのおかげでルミエの甘さがもう一度戻ってきた。
リリィの頬がゆるんだ。
羽が大きく開き、細かく震えた。
「おいしー!」
羽の縁から、薄い金色の粉が勝手にほどけ落ちた。
リリィは頬を押さえたまま、気づきもしない。
粉は窓から差す光を受け、店中へ広がった。銅鍋の縁へ、窯の扉へ、積み重ねた皿へ、床の古い焦げ跡へ。細かな光が、静かに降り積もっていく。
女主人が振り返った。
リリィは青星を抱えたまま固まった。
女主人の視線が、かじられた青星へ落ちる。
それから、リリィの腰袋へ移った。
「それ、五リグだよ」
リリィも自分の腰袋を見た。
中には、乾いた木の実が二つ、穴の開いたボタンが一つ、どこのものか分からない小さな鍵が入っていた。
五リグは入っていなかった。
「あとで払います」
「今払いな」
「では、ごちそうさまでした!」
リリィは窓へ飛んだ。
女主人が投げた布巾が背後をかすめる。窓枠を抜けたところで風に煽られ、店先の籠へ頭から突っ込んだ。
浮かんでいたルミエが三つ、驚いたように跳ね上がる。
「待ちな、食い逃げ妖精!」
リリィは籠から飛び出した。
「タルムー!」
「聞こえているよ」
タルムは相変わらず、ゆっくり歩いていた。
その背中の家は、まだ店の前を通り過ぎたばかりだった。
リリィは屋根へ着地し、勢いのまま煙突へ飛び込んだ。煤を巻き上げながら台所へ落ち、床の上を二度転がる。
直後、女主人が店から飛び出してきた。
しかし、タルムはもう坂の下へ向かっている。
亀の歩みは遅い。
けれど、怒りながら追い続けるには、微妙に遠かった。
「止まりな!」
「止まったほうがいいかねえ」
煙突の中から、リリィが叫んだ。
「だめ!」
「だそうだよ」
タルムは歩き続けた。
女主人はしばらく追ってきたが、坂の半ばで足を止めた。片手には布巾、もう片方には木匙を握っている。
その前へ、水色の羽が降りた。
濃紺の制服を着た妖精が、帳面を片手にタルムを追ってくる。花冠府巡察官のセリスだった。
「止まってください」
タルムは止まった。
煙突から、リリィがそっと目だけを出す。
「さあ、店主に払ってください」
「タルム」
「家の戸棚の中にあるよ」
リリィは煙突の中へ消え、ほどなく布袋を抱えて戻ってきた。中から五リグを数え、女主人へ差し出す。
女主人は硬貨を確かめると、木匙を下ろした。
セリスは帳面へ短く書き込み、閉じた。
「これで結構です」
やがてカルネラが坂の向こうへ小さくなった頃、リリィは丸窓から顔を出した。
髪にも頬にも煤がついている。手には、かじりかけの青星が残っていた。
「怒ってたね」
「怒っていたねえ」
「でも、すごくおいしかった」
「それは分かるよ」
リリィが青星をかじるたび、屋根の後ろへ金色の粉が細くこぼれた。
タルムの背中の家は、昼を過ぎても青鈴街道を進み続けた。
リリィは屋根で残りの青星を食べ、その包み紙を丁寧に伸ばした。薄青い紙には、貝殻と星の印が刷られている。
家へ戻ると、食器棚の横の空いた場所へ貼った。
少し曲がったが、貼り直すほどではなかった。
屋根の向こうで、カルネラの群青色が少しずつ小さくなっていった。
翌朝。
菓子店の女主人が窯へ火を入れると、いつもより早く温度が上がった。
薪は昨日と同じだった。
炉石も、火掻き棒も、窯の中に残った煤も変わらない。
それでも火は穏やかに回り、焼き型の隅まで均等に熱が届いた。
焼き上がった青星は、昨日より明るく透けていた。
女主人が一つを窯から出す。
ちりん。
表面で、小さな鈴の音が鳴った。
もう一つ出す。
ちりん。
窓の外を歩いていた子供が足を止めた。向かいの籠屋が顔を上げた。市場へ向かう途中の旅人が、匂いに気づいて振り返った。
一人が店へ入った。
その後ろから、もう一人。
昼前には、店の外まで列ができた。
女主人は休む暇もなく生地を練り、ルミエを潰し、焼き型へ詰めた。古い窯は一度も焼きむらを出さなかった。
夕方、最後の青星を売り終えると、女主人はようやく窓辺へ腰を下ろした。
朝から続いた列を思い返し、昨日、窓から逃げていった小さな背中を見るように目を細める。
「あの食い逃げ妖精が来てから、なんだよねえ……」
しばらくして、女主人は一人で笑った。
「まさかね」
その日のうちに、青星を買った旅人が、薄青い包みを提げてカルネラを発った。
旅人は道々、亀の背の家から来た妖精が青星を食べると、店じゅうに金色の粉が降ったらしい、と話した。
タルムが一日かけて進む道を、旅人は半日で歩いていった。
◇
カルネラを離れて三日目、街道の脇に黒い布を張った小さな店があった。
古い地図と、乾いた果実と、どこへ続くのか分からない細い鍵が並んでいる。
店番はオルドだった。
リリィは並んだ品の中に、淡い傘の形をした茸石を見つけた。
「それ、いくら?」
「その鍵と交換します」
オルドは、リリィの腰袋から覗いていた小さな鍵を指した。
「これ、何の鍵か分からないよ」
「分からない鍵を集めています」
リリィは鍵を渡し、代わりに茸石を腰袋へ入れた。
「この先に、菓子屋の多い街はある?」
リリィが尋ねると、オルドは地図の端を指した。
「金環通り」
「近い?」
「タルムなら、夕方には着く」
タルムは地図を覗き込んだ。
道は一本しか描かれていなかった。
セリスは帳面を抱え直した。カルネラから先、しばらく同じ道を巡察するらしい。
「オルドは来ないの?」
「先で店を開けています」
リリィはそれ以上聞かなかった。
夕方、金色に光る通りへ入ると、曲がり角に黒い布の店が出ていた。
オルドは何事もなかったように、古い地図を畳んでいた。
◇
金環通りは、どこを見ても光っていた。
店の軒には金箔。
窓枠には金線。
石畳の目地にまで細かな金砂が埋められている。
夕日が差すと、通り全体が目を細めたくなるほど明るくなった。
タルムは、家の丸窓へ布をかけた。
「まぶしいねえ」
「全部きらきらしてる」
リリィは屋根の上で両手をかざした。
羽にも金色の光が映り、いつもより少し立派に見える。
通りの中央には、大きな菓子店があった。
三階建て。
正面には金色の冠。
扉の左右には、水晶でできた鳥が並んでいる。
鳥は客が近づくたび、声を揃えて鳴いた。
「祝福歓迎」
「妖精歓迎」
「金粉歓迎」
リリィは足を止めた。
「わたしのこと?」
「そうかもしれないねえ」
店の前には、大きな看板が出ていた。
祝福菓空冠。
妖精の祝福を受けた店。
幸福と繁栄を呼ぶ一品。
下のほうに小さく、予定と書いてあった。
「予定だって」
「ずいぶん先に書いたねえ」
店主は、幅広の衣を着た大柄な男だった。
帽子の上に、さらに小さな冠を載せている。
店主は店先へ出ると、通りを見回した。
そして、タルムの屋根にいるリリィを見つけた。
顔が明るくなる。
「お待ちしておりました!」
「誰を?」
「もちろん、祝福の妖精さまを!」
店主は深く頭を下げた。
扉の水晶鳥も一緒に頭を下げる。
「本日は特別に、当店最高の空冠を無料でご試食いただけます!」
リリィはタルムを見た。
「無料だって」
「聞こえたよ」
セリスも看板を確かめる。
「どうぞ」
リリィは屋根から飛び降りた。
店内は外よりも明るかった。
天井から金色の灯り。
壁には鏡。
棚には透明な皿。
床には細かな光が走り、歩くたび足元へ花の模様が浮かぶ。
中央の台に、空冠が置かれていた。
名前の通り、冠の形をしている。
薄い生地を高く積み上げ、金色の飴で固めてある。
先端には水晶糖。
側面には光る蜜。
周りには小さな羽根飾り。
リリィよりはるかに大きく、食べ物というより建物に近かった。
「すごいね」
「味も格別でございます」
店主が胸を張る。
「妖精さまが一口召し上がれば、きっと黄金の祝福が店中へ!」
最後の言葉だけ、少し大きかった。
奥の従業員たちが、一斉にこちらを見る。
「食べるところ、見たいの?」
「ぜひ!」
リリィは空冠へ近づいた。
甘い匂いはする。
けれど、少し強すぎる。
蜜。
香料。
焦がし砂糖。
花。
果実。
全部が同時に来る。
「どこから食べればいい?」
「最上部をおすすめします」
店主が小さな梯子を用意した。
リリィは冠の上まで登った。
水晶糖を少し割る。
硬い。
さらに力を入れる。
ぱき、と欠けた。
口へ入れる。
甘い。
ひどく甘い。
次に、金色の飴をかじる。
もっと甘い。
生地へ進む。
香りは強い。
けれど、噛むたび同じ味がする。
蜜も果実も花も、どれがどれなのか分からない。
最後に、水晶糖のざらつきだけが舌へ残った。
店主は両手を広げて待っている。
従業員たちも息を詰めて見守っている。
リリィはもう一口食べた。
変わらない。
もう一口。
やっぱり変わらない。
「どうです?」
店主が聞いた。
「甘い」
「それはもう、最高級の蜜を七種類も!」
「すごく甘い」
「花露も五種、果汁も九種、香り油も三種!」
「何味なの?」
店主の笑顔が止まった。
「空冠味でございます」
リリィはもう一度かじった。
羽は開かなかった。
店内は静かなままだった。
店主が目を泳がせる。
「妖精さま、もう少し中央を」
リリィは中央を食べた。
同じだった。
「では、こちらの水晶糖を」
食べた。
硬かった。
「蜜を追加しましょう」
「もう甘いよ」
店主は従業員へ合図した。
大きな壺から蜜が注がれる。
空冠の上を金色の蜜が流れ落ちる。
甘い匂いがさらに強くなった。
リリィは一歩下がった。
「もういいかな」
「もう一口だけ!」
「いらない」
「無料ですよ!」
「無料でもいらない」
その言葉は、思ったより大きく店内へ響いた。
従業員たちが目を伏せる。
店主の顔が赤くなった。
「妖精の舌など、当てになるものか!」
リリィは目を丸くした。
「食べてって言ったの、そっちだよ」
「当店の空冠は、王都でも評判の菓子だ!」
「じゃあ、王都の人が食べればいいよ」
リリィは梯子を下り、そのまま店を出た。
通りの向かいに、小さな露店があった。
古い木台。
布は日焼けしている。
看板には、円を一つ描いただけ。
店番は、背の曲がった老人だった。
皿の上には、平たい輪の菓子が並んでいる。
飾りはない。
蜜も光っていない。
薄茶色の焼き色だけ。
リリィは近づいた。
「これは?」
「輪焼きだよ」
老人が答えた。
「それだけ?」
「それだけだね」
「何が入ってるの?」
「粉と乳と、少しの蜜」
「少ないね」
「多ければいいわけでもないからね」
老人は一つを割った。
中は白い。
湯気が細く上がる。
外側はさくり。
内側は柔らかそうだった。
香りは強くない。
けれど、焼いた粉と乳の匂いが、まっすぐ届く。
「いくら?」
「一リグ」
リリィは腰袋を開いた。
木の実が二つ。
穴の開いたボタン。
茸石。
金はない。
「見るだけにする」
老人はリリィを見た。
向かいの派手な店も見た。
それから、輪焼きを半分に割る。
「形が崩れたから、売り物にならない」
「ほんと?」
「見れば分かるだろう」
割ったのは老人だった。
けれど、リリィはそこへ触れなかった。
半分を受け取る。
まだ温かい。
一口かじった。
外側が軽く割れる。
中はしっとりしている。
乳の甘さ。
粉の香ばしさ。
蜜はほんの少し。
だから、噛むたび味がはっきり分かる。
飾り気はない。けれど、もう一口食べたくなる。
朝の台所。
焼けた布巾。
湯気の立つ小さな鍋。
そういうものに近い味だった。
リリィの頬がゆるむ。
羽が大きく開く。
「おいしー!」
金色の粉が、羽の縁から勝手にほどけ落ちた。
粉は露店の古い布へ。
木台へ。
焼き型へ。
老人の皺の深い手へ。
静かに降りた。
向かいの空冠の店から、店主が見ていた。
顔だけが固まっている。
セリスは帳面を開きかけ、何も書かずに閉じた。
リリィは輪焼きを食べ終えた。
「これ、もっと食べたい」
「一リグだよ」
「やっぱり?」
「商売だからね」
「タルム」
「まだ一リグなら残ってるよ」
リリィは丸窓から家へ入り、小さな銅貨を持って戻ってきた。
老人へ渡す。
リリィは二つ目の輪焼きを抱えた。
タルムの屋根へ戻る。
通りを離れる前に、派手な店を振り返った。
店主はまだ空冠の前に立っていた。
その夜。
空冠の店主は、店を閉めた。
派手な空冠を一つ、台の上へ置き、自分で食べた。
一口目は甘かった。
二口目も甘かった。
三口目で、水を飲んだ。
店主は厨房の奥から、古い帳面を取り出した。
まだ店が小さかった頃の配合が残っている。
粉。乳。蜜。
頁の端には、指で何度もなぞった跡があった。
翌朝、店主は金の飾りを半分だけ外した。
古い焼き型へ生地を流し、小さな焼き菓子を一つ焼く。
焼き上がりは少し傾き、王冠には見えなかった。
店主は端を割って口へ入れた。
まだ甘い。
けれど、小麦の味がした。
店主はもう一度、蜜の壺へ手を伸ばした。
今度は、匙を半分だけ戻した。
向かいの露店では、輪焼きを買う者が列を作っていた。
日焼けした布の隅は、朝になるとほんの少しだけ色を取り戻していた。
老人は気づかず、いつもと同じ数だけ焼いた。
輪焼きの名は、少しずつ通りの外へ伝わっていった。
そして数か月後。
大きな店の片隅にも、飾りのない小さな焼き菓子が並んだ。
まだ少し甘かった。
けれど、以前よりずっと、何の味か分かる菓子になっていた。
その頃、タルムの背中の家は、もう金環通りからいくつもの町を越えていた。
食器棚の横には、貝殻と星の印が刷られた薄青い紙が貼ってある。
その隣に、リリィは木炭で小さな円を描いていた。
少し歪んだが、描き直すほどではなかった。
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