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食い逃げ妖精、指名手配中

食い逃げ妖精、「おいしー!」と祝福をこぼしてしまう。~異世界スイーツ紀行~

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/16

 青鈴街道の朝は、まだ眠たそうだった。


 その道を、一頭の大きな亀がゆっくり歩いていた。


 名をタルムという。


 苔むした甲羅には、赤茶色の屋根を載せた小さな家が建っている。丸窓が二つ。煙突が一本。軒下には洗ったばかりの布巾と、片方だけの靴下が揺れていた。


 その屋根で、妖精のリリィが羽を絞っていた。


 朝露を吸った羽は重く、薄い水色に曇っている。リリィは雨水桶の縁に腰を下ろし、両手で羽を挟んだ。雑巾でも絞るように力を入れると、雫が屋根板へぽたりと落ちた。


 道の両脇には、銀色の葉をつけた低木が続いている。風が通るたび、葉の裏側に並んだ小さな実が触れ合い、ちりん、ちりんと澄んだ音を立てた。


「今日、晴れるかな」


「晴れるんじゃないかねえ」


 タルムは歩きながら答えた。


「その言い方、雨の日にも使うよね」


「降り始めるまでは晴れだからねえ」


 リリィは少し考えたが、よく分からなかったので考えるのをやめた。


 代わりに、煙突の根元へ干してあった羽布を取り、濡れた羽先を拭いた。昨夜、ネル豆を煮た鍋はまだ台所に出しっぱなしだったし、窓辺には欠けた匙が置かれていたが、どちらも急いで片づけるほどのことではない。


 街道の先から、風が来た。


 湿った土。青鈴の実。遠くの薪の煙。


 その奥に、ひどく甘い匂いが混じっていた。


 蜜より軽く、焼いた粉より香ばしく、花のようでいて花ではない。温かいのに、どこか涼しい香りだった。


 リリィの羽が、ぴんと立った。


「タルム」


「行かないよ」


「まだ何も言ってない」


「甘い匂いがするときの声だったからねえ」


 リリィは屋根の端へ走り、つま先立ちになった。


 街道の先には、坂に沿って小さな町が広がっている。


 白い壁。群青色の屋根。窓辺には色硝子を編んだ飾りが吊られ、朝日を細かく砕いていた。坂の両側には細い水路が流れ、その上を、小さな木橋が何本も渡っている。


 町の名はカルネラ。


 入口の石標には、青い塗料で翼のような印が描かれていた。意味は分からなかったが、端が剥げていたので、ずいぶん前からそこにあるらしい。


「見るだけだからね」


 リリィは言った。


「まだ店も見えていないよ」


「先に言っておくの」


「自分にかい」


 返事をせず、リリィは飛び立った。


 長く飛ぶのは得意ではない。けれど、坂を一つ越えるくらいなら問題なかった。


 カルネラの朝市では、透明な籠がいくつも並べられていた。


 籠の中には、薄紫色の丸い実が、底へ触れないままふわふわと浮かんでいる。熟した実同士がぶつかるたび、かすかな光が中で揺れた。


 浮果、ルミエである。


 熟すと枝から離れ、木の周りを漂い始める。収穫には長い柄の網を使う。日が高くなると風に乗ってどこかへ飛んでしまうため、採るのは夜明け前と決まっていた。


 市場の端では、背の低い男が網の破れを繕っていた。向かいでは、角の生えた女が籠の重しを一つずつ確かめている。通りを歩く子供は、逃げ出した小さなルミエを追いかけ、母親に襟首をつかまれていた。


 その騒ぎの向こうに、水色の庇を張り出した菓子店があった。


 開け放たれた窓から、甘い匂いが流れている。


 リリィは庇の上へ降りた。


 窓枠は何度も塗り直され、木目の間に古い青色が残っていた。内側には粉が薄く積もり、角の一部が蜜で黒ずんでいる。


 店の奥では、太い腕をした女主人が、ルミエの皮を剥いていた。


 薄紫色の皮へ小刀を入れると、中から乳白色の果肉が現れる。切り分けられた果肉は鉢の中でもわずかに浮き、女主人はそれを銀の匙で一つずつ押さえながら潰していった。


 壁には大小の銅鍋が並び、天井からは乾燥させた香草の束が下がっている。石窯の周りには白い粉が積もり、何度も踏まれて薄い板のように固まっていた。


 女主人は潰したルミエへ淡金色の蜜を混ぜ、青みがかった粉を少しずつ加えた。


 生地は練るたびに軽くなった。最後には鉢の底から浮き上がろうとするので、女主人は片肘で押さえ、もう片方の手で細長く延ばしていく。


 薄く延ばした生地で果肉を包み、貝殻型の焼き型へ入れる。


 窯の扉が閉まった。


 火が鳴った。


 しばらくすると、石窯の隙間から青白い湯気が漏れ始めた。


 リリィは窓の外へ張りついたまま動かなかった。


「見るだけだよ」


 背後から、タルムの声がした。


 ようやく坂を下り、店の前まで来たらしい。


「うん」


「本当に見るだけだね」


「もちろん」


 リリィは答え、少しだけ開いていた窓の隙間から店内へ入った。


 タルムは目を閉じた。


 窯から出てきた菓子は、淡い青に透けていた。


 表面には細かな気泡が閉じ込められ、光を受けるたび、内側で小さな星が瞬く。焼けた生地の縁は薄く反り、貝殻の筋に沿って、銀色の蜜が細く滲んでいた。


 正式には、ルミエ菓フィラネージュという。


 カルネラの者は、ただ青星と呼んでいた。


 女主人は青星を木皿へ移し、窓辺の棚に並べた。


 一つひとつは、リリィの頭より大きい。


 表面から立つ湯気は青白く、甘い香りをまとって天井へ昇っていく。皿の縁へ降り立ったリリィには、焼けた生地の割れ目が小さな谷のように見えた。


 見るだけだった。


 少なくとも、窓から入ったときまでは。


 リリィは青星へ近づいた。


 表面の亀裂から、透明な蜜が丸く膨らんでいる。蜜の一滴だけで、両手のひらがいっぱいになりそうだった。


 ほんの少し。


 端をひとかけらだけ。


 ひとかけらなら、値段もひとかけら分のはずだった。ひとかけら分なら、たぶんあとで何とかなる。何で払うかは、食べてから考えればいい。


 リリィは両手で青星を抱え、かじりついた。


 薄い皮が、ぱり、と鳴った。


 次の瞬間、温かい果汁が口いっぱいに広がった。


 甘い。


 けれど重くない。


 舌の上でふわりとほどけ、青鈴街道の朝風のような香りが鼻へ抜ける。噛むたびに、遠くで小さな鈴が鳴るようだった。


 焼けた生地は軽く、内側だけがしっとりしている。蜜にはかすかな苦みがあり、そのおかげでルミエの甘さがもう一度戻ってきた。


 リリィの頬がゆるんだ。


 羽が大きく開き、細かく震えた。


「おいしー!」


 羽の縁から、薄い金色の粉が勝手にほどけ落ちた。


 リリィは頬を押さえたまま、気づきもしない。


 粉は窓から差す光を受け、店中へ広がった。銅鍋の縁へ、窯の扉へ、積み重ねた皿へ、床の古い焦げ跡へ。細かな光が、静かに降り積もっていく。


 女主人が振り返った。


 リリィは青星を抱えたまま固まった。


 女主人の視線が、かじられた青星へ落ちる。


 それから、リリィの腰袋へ移った。


「それ、五リグだよ」


 リリィも自分の腰袋を見た。


 中には、乾いた木の実が二つ、穴の開いたボタンが一つ、どこのものか分からない小さな鍵が入っていた。


 五リグは入っていなかった。


「あとで払います」


「今払いな」


「では、ごちそうさまでした!」


 リリィは窓へ飛んだ。


 女主人が投げた布巾が背後をかすめる。窓枠を抜けたところで風に煽られ、店先の籠へ頭から突っ込んだ。


 浮かんでいたルミエが三つ、驚いたように跳ね上がる。


「待ちな、食い逃げ妖精!」


 リリィは籠から飛び出した。


「タルムー!」


「聞こえているよ」


 タルムは相変わらず、ゆっくり歩いていた。


 その背中の家は、まだ店の前を通り過ぎたばかりだった。


 リリィは屋根へ着地し、勢いのまま煙突へ飛び込んだ。煤を巻き上げながら台所へ落ち、床の上を二度転がる。


 直後、女主人が店から飛び出してきた。


 しかし、タルムはもう坂の下へ向かっている。


 亀の歩みは遅い。


 けれど、怒りながら追い続けるには、微妙に遠かった。


「止まりな!」


「止まったほうがいいかねえ」


 煙突の中から、リリィが叫んだ。


「だめ!」


「だそうだよ」


 タルムは歩き続けた。


 女主人はしばらく追ってきたが、坂の半ばで足を止めた。片手には布巾、もう片方には木匙を握っている。


 その前へ、水色の羽が降りた。


 濃紺の制服を着た妖精が、帳面を片手にタルムを追ってくる。花冠府巡察官のセリスだった。


「止まってください」


 タルムは止まった。


 煙突から、リリィがそっと目だけを出す。


「さあ、店主に払ってください」


「タルム」


「家の戸棚の中にあるよ」


 リリィは煙突の中へ消え、ほどなく布袋を抱えて戻ってきた。中から五リグを数え、女主人へ差し出す。


 女主人は硬貨を確かめると、木匙を下ろした。


 セリスは帳面へ短く書き込み、閉じた。


「これで結構です」


 やがてカルネラが坂の向こうへ小さくなった頃、リリィは丸窓から顔を出した。


 髪にも頬にも煤がついている。手には、かじりかけの青星が残っていた。


「怒ってたね」


「怒っていたねえ」


「でも、すごくおいしかった」


「それは分かるよ」


 リリィが青星をかじるたび、屋根の後ろへ金色の粉が細くこぼれた。


 タルムの背中の家は、昼を過ぎても青鈴街道を進み続けた。


 リリィは屋根で残りの青星を食べ、その包み紙を丁寧に伸ばした。薄青い紙には、貝殻と星の印が刷られている。


 家へ戻ると、食器棚の横の空いた場所へ貼った。


 少し曲がったが、貼り直すほどではなかった。


 屋根の向こうで、カルネラの群青色が少しずつ小さくなっていった。


 翌朝。


 菓子店の女主人が窯へ火を入れると、いつもより早く温度が上がった。


 薪は昨日と同じだった。


 炉石も、火掻き棒も、窯の中に残った煤も変わらない。


 それでも火は穏やかに回り、焼き型の隅まで均等に熱が届いた。


 焼き上がった青星は、昨日より明るく透けていた。


 女主人が一つを窯から出す。


 ちりん。


 表面で、小さな鈴の音が鳴った。


 もう一つ出す。


 ちりん。


 窓の外を歩いていた子供が足を止めた。向かいの籠屋が顔を上げた。市場へ向かう途中の旅人が、匂いに気づいて振り返った。


 一人が店へ入った。


 その後ろから、もう一人。


 昼前には、店の外まで列ができた。


 女主人は休む暇もなく生地を練り、ルミエを潰し、焼き型へ詰めた。古い窯は一度も焼きむらを出さなかった。


 夕方、最後の青星を売り終えると、女主人はようやく窓辺へ腰を下ろした。


 朝から続いた列を思い返し、昨日、窓から逃げていった小さな背中を見るように目を細める。


「あの食い逃げ妖精が来てから、なんだよねえ……」


 しばらくして、女主人は一人で笑った。


「まさかね」


 その日のうちに、青星を買った旅人が、薄青い包みを提げてカルネラを発った。


 旅人は道々、亀の背の家から来た妖精が青星を食べると、店じゅうに金色の粉が降ったらしい、と話した。


 タルムが一日かけて進む道を、旅人は半日で歩いていった。



 ◇


 カルネラを離れて三日目、街道の脇に黒い布を張った小さな店があった。


 古い地図と、乾いた果実と、どこへ続くのか分からない細い鍵が並んでいる。


 店番はオルドだった。


 リリィは並んだ品の中に、淡い傘の形をした茸石を見つけた。


「それ、いくら?」


「その鍵と交換します」


 オルドは、リリィの腰袋から覗いていた小さな鍵を指した。


「これ、何の鍵か分からないよ」


「分からない鍵を集めています」


 リリィは鍵を渡し、代わりに茸石を腰袋へ入れた。


「この先に、菓子屋の多い街はある?」


 リリィが尋ねると、オルドは地図の端を指した。


「金環通り」


「近い?」


「タルムなら、夕方には着く」


 タルムは地図を覗き込んだ。


 道は一本しか描かれていなかった。


 セリスは帳面を抱え直した。カルネラから先、しばらく同じ道を巡察するらしい。


「オルドは来ないの?」


「先で店を開けています」


 リリィはそれ以上聞かなかった。


 夕方、金色に光る通りへ入ると、曲がり角に黒い布の店が出ていた。


 オルドは何事もなかったように、古い地図を畳んでいた。



 ◇


 金環通りは、どこを見ても光っていた。


 店の軒には金箔。


 窓枠には金線。


 石畳の目地にまで細かな金砂が埋められている。


 夕日が差すと、通り全体が目を細めたくなるほど明るくなった。


 タルムは、家の丸窓へ布をかけた。


「まぶしいねえ」


「全部きらきらしてる」


 リリィは屋根の上で両手をかざした。


 羽にも金色の光が映り、いつもより少し立派に見える。


 通りの中央には、大きな菓子店があった。


 三階建て。


 正面には金色の冠。


 扉の左右には、水晶でできた鳥が並んでいる。


 鳥は客が近づくたび、声を揃えて鳴いた。


「祝福歓迎」


「妖精歓迎」


「金粉歓迎」


 リリィは足を止めた。


「わたしのこと?」


「そうかもしれないねえ」


 店の前には、大きな看板が出ていた。


 祝福菓空冠。


 妖精の祝福を受けた店。


 幸福と繁栄を呼ぶ一品。


 下のほうに小さく、予定と書いてあった。


「予定だって」


「ずいぶん先に書いたねえ」


 店主は、幅広の衣を着た大柄な男だった。


 帽子の上に、さらに小さな冠を載せている。


 店主は店先へ出ると、通りを見回した。


 そして、タルムの屋根にいるリリィを見つけた。


 顔が明るくなる。


「お待ちしておりました!」


「誰を?」


「もちろん、祝福の妖精さまを!」


 店主は深く頭を下げた。


 扉の水晶鳥も一緒に頭を下げる。


「本日は特別に、当店最高の空冠を無料でご試食いただけます!」


 リリィはタルムを見た。


「無料だって」


「聞こえたよ」


 セリスも看板を確かめる。


「どうぞ」


 リリィは屋根から飛び降りた。


 店内は外よりも明るかった。


 天井から金色の灯り。


 壁には鏡。


 棚には透明な皿。


 床には細かな光が走り、歩くたび足元へ花の模様が浮かぶ。


 中央の台に、空冠が置かれていた。


 名前の通り、冠の形をしている。


 薄い生地を高く積み上げ、金色の飴で固めてある。


 先端には水晶糖。


 側面には光る蜜。


 周りには小さな羽根飾り。


 リリィよりはるかに大きく、食べ物というより建物に近かった。


「すごいね」


「味も格別でございます」


 店主が胸を張る。


「妖精さまが一口召し上がれば、きっと黄金の祝福が店中へ!」


 最後の言葉だけ、少し大きかった。


 奥の従業員たちが、一斉にこちらを見る。


「食べるところ、見たいの?」


「ぜひ!」


 リリィは空冠へ近づいた。


 甘い匂いはする。


 けれど、少し強すぎる。


 蜜。


 香料。


 焦がし砂糖。


 花。


 果実。


 全部が同時に来る。


「どこから食べればいい?」


「最上部をおすすめします」


 店主が小さな梯子を用意した。


 リリィは冠の上まで登った。


 水晶糖を少し割る。


 硬い。


 さらに力を入れる。


 ぱき、と欠けた。


 口へ入れる。


 甘い。


 ひどく甘い。


 次に、金色の飴をかじる。


 もっと甘い。


 生地へ進む。


 香りは強い。


 けれど、噛むたび同じ味がする。


 蜜も果実も花も、どれがどれなのか分からない。


 最後に、水晶糖のざらつきだけが舌へ残った。


 店主は両手を広げて待っている。


 従業員たちも息を詰めて見守っている。


 リリィはもう一口食べた。


 変わらない。


 もう一口。


 やっぱり変わらない。


「どうです?」


 店主が聞いた。


「甘い」


「それはもう、最高級の蜜を七種類も!」


「すごく甘い」


「花露も五種、果汁も九種、香り油も三種!」


「何味なの?」


 店主の笑顔が止まった。


「空冠味でございます」


 リリィはもう一度かじった。


 羽は開かなかった。


 店内は静かなままだった。


 店主が目を泳がせる。


「妖精さま、もう少し中央を」


 リリィは中央を食べた。


 同じだった。


「では、こちらの水晶糖を」


 食べた。


 硬かった。


「蜜を追加しましょう」


「もう甘いよ」


 店主は従業員へ合図した。


 大きな壺から蜜が注がれる。


 空冠の上を金色の蜜が流れ落ちる。


 甘い匂いがさらに強くなった。


 リリィは一歩下がった。


「もういいかな」


「もう一口だけ!」


「いらない」


「無料ですよ!」


「無料でもいらない」


 その言葉は、思ったより大きく店内へ響いた。


 従業員たちが目を伏せる。


 店主の顔が赤くなった。


「妖精の舌など、当てになるものか!」


 リリィは目を丸くした。


「食べてって言ったの、そっちだよ」


「当店の空冠は、王都でも評判の菓子だ!」


「じゃあ、王都の人が食べればいいよ」


 リリィは梯子を下り、そのまま店を出た。


 通りの向かいに、小さな露店があった。


 古い木台。


 布は日焼けしている。


 看板には、円を一つ描いただけ。


 店番は、背の曲がった老人だった。


 皿の上には、平たい輪の菓子が並んでいる。


 飾りはない。


 蜜も光っていない。


 薄茶色の焼き色だけ。


 リリィは近づいた。


「これは?」


「輪焼きだよ」


 老人が答えた。


「それだけ?」


「それだけだね」


「何が入ってるの?」


「粉と乳と、少しの蜜」


「少ないね」


「多ければいいわけでもないからね」


 老人は一つを割った。


 中は白い。


 湯気が細く上がる。


 外側はさくり。


 内側は柔らかそうだった。


 香りは強くない。


 けれど、焼いた粉と乳の匂いが、まっすぐ届く。


「いくら?」


「一リグ」


 リリィは腰袋を開いた。


 木の実が二つ。


 穴の開いたボタン。


 茸石。


 金はない。


「見るだけにする」


 老人はリリィを見た。


 向かいの派手な店も見た。


 それから、輪焼きを半分に割る。


「形が崩れたから、売り物にならない」


「ほんと?」


「見れば分かるだろう」


 割ったのは老人だった。


 けれど、リリィはそこへ触れなかった。


 半分を受け取る。


 まだ温かい。


 一口かじった。


 外側が軽く割れる。


 中はしっとりしている。


 乳の甘さ。


 粉の香ばしさ。


 蜜はほんの少し。


 だから、噛むたび味がはっきり分かる。


 飾り気はない。けれど、もう一口食べたくなる。


 朝の台所。


 焼けた布巾。


 湯気の立つ小さな鍋。


 そういうものに近い味だった。


 リリィの頬がゆるむ。


 羽が大きく開く。


「おいしー!」


 金色の粉が、羽の縁から勝手にほどけ落ちた。


 粉は露店の古い布へ。


 木台へ。


 焼き型へ。


 老人の皺の深い手へ。


 静かに降りた。


 向かいの空冠の店から、店主が見ていた。


 顔だけが固まっている。


 セリスは帳面を開きかけ、何も書かずに閉じた。


 リリィは輪焼きを食べ終えた。


「これ、もっと食べたい」


「一リグだよ」


「やっぱり?」


「商売だからね」


「タルム」


「まだ一リグなら残ってるよ」


 リリィは丸窓から家へ入り、小さな銅貨を持って戻ってきた。


 老人へ渡す。


 リリィは二つ目の輪焼きを抱えた。


 タルムの屋根へ戻る。


 通りを離れる前に、派手な店を振り返った。


 店主はまだ空冠の前に立っていた。


 その夜。


 空冠の店主は、店を閉めた。


 派手な空冠を一つ、台の上へ置き、自分で食べた。


 一口目は甘かった。


 二口目も甘かった。


 三口目で、水を飲んだ。


 店主は厨房の奥から、古い帳面を取り出した。


 まだ店が小さかった頃の配合が残っている。


 粉。乳。蜜。


 頁の端には、指で何度もなぞった跡があった。


 翌朝、店主は金の飾りを半分だけ外した。


 古い焼き型へ生地を流し、小さな焼き菓子を一つ焼く。


 焼き上がりは少し傾き、王冠には見えなかった。


 店主は端を割って口へ入れた。


 まだ甘い。


 けれど、小麦の味がした。


 店主はもう一度、蜜の壺へ手を伸ばした。


 今度は、匙を半分だけ戻した。


 向かいの露店では、輪焼きを買う者が列を作っていた。


 日焼けした布の隅は、朝になるとほんの少しだけ色を取り戻していた。


 老人は気づかず、いつもと同じ数だけ焼いた。


 輪焼きの名は、少しずつ通りの外へ伝わっていった。


 そして数か月後。


 大きな店の片隅にも、飾りのない小さな焼き菓子が並んだ。


 まだ少し甘かった。


 けれど、以前よりずっと、何の味か分かる菓子になっていた。


 その頃、タルムの背中の家は、もう金環通りからいくつもの町を越えていた。


 食器棚の横には、貝殻と星の印が刷られた薄青い紙が貼ってある。


 その隣に、リリィは木炭で小さな円を描いていた。



 少し歪んだが、描き直すほどではなかった。


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