後編
「リヒード様、お茶の用意ができました」
「ありがとう、マーマレード……いやぁ、優秀な助手がいてくれて助かるなぁ。今日はとても天気が良いから、外でお茶会をしようか」
マーマレードが西地区の教会に移り住んでから1週間。何事も無く、穏やかに暮らすことが出来ていた。儀式という聖女としての仕事が無くなったことに違和感もあったが、1週間もすればこの生活も悪くないと思うようになっていた。むしろ、今の方がマーマレードにとってはご褒美のような日常だ。
「それにしても、本当にマーマレードと暮らすことができるなんて……やはり貴族の奴らは嫌いだが、そこだけは感謝しないとね」
「リヒード様ったらそればっかり……でも、またリヒード様と暮らせて私も嬉しいです」
ここに来てからのマーマレードの仕事は、教会の掃除と司祭室の整理整頓、そしてリヒードとお茶会をすることだった。
「しかし、君の歌が聞けなくなるっていうのは……味気ないね。きっと国民たちも寂しがっているだろうさ」
「そう……だといいのですが。私には、歌うことしかできませんから。やはり、ほかの聖女のほうが、この国にとっては必要ですし」
「マーマレード……そう思うのも無理はない。しかしね、目に見えることだけが大切ではないんだよ」
目に見えることだけが、大切ではない。
マーマレードはゆっくりと咀嚼してみたが、いまいちよく分からなかった。だって、目に見える形で役に立たなければ、マーマレードのように捨てられてしまうのだから。
「これから学んでいこう、マーマレード」
「……はい」
「だからさ、やっぱりたまにでいいから、前みたいに儀式をしないかい?」
「え!?でも、私はもう聖女じゃ」
「聖女じゃなくても、教会で歌うくらいいいだろう?きっとこの街のみんなは、喜んで来てくれるさ」
この街のみんな……マーマレードは、はっと気づく。いつも儀式を行う時には、必ず訪れてくれていた彼。
(そうだわ、儀式がないということは……彼にももう、会えないのね……)
なんとなく、世界から少し温度が消えたように感じる。聖女から嫌味を言われても、神殿を追い出されても、こんな気持ちにはならなかったのに。
しかし、教会で歌うとなれば、彼もまた来てくれるのではないか?
「マーマレードはまだ17歳だ。これからなんだってできるよ」
「……はい、考えてみます」
「そうこなくっちゃ!でもまあ、まずはゆっくりと」
「神父様!」
「……あぁ、しまった」
突如聞こえてきた大きな声に、リヒードが片眉を歪める。人嫌いなリヒードがするにしては、なんだか珍しい表情だった。貴族に対しては言わずもがな、市民たち相手でさえ言葉少なになるが、このような顔は初めて見る。
声の主を確認しようとするも、リヒードに止められて叶わなかったが、リヒードがそんな反応をするなんて……相手が気になって仕方ない。
ティーカップを置いてため息をひとつ。億劫そうに立ち上がったリヒードは、やや疲れたような顔をマーマレードに向けた。
「すまないね、マーマレード。少し待っていてくれるかい?」
「はい、もちろん……大丈夫ですか?」
「あぁいや、問題ないよ、君はまだ知らなくていい」
「ま、マーマレード……!?神父様、もしかして、そちらのお方は……!」
「違うよ、彼女はマスタード。マーマレードはここにはいないよ?分かるだろう?さぁ、見ての通り僕は立て込んでいるんだ、今すぐ立ち去りたまえ」
リヒードはマーマレードの真後ろに立ち、相手からもマーマレードが見えないようにしているらしかった。それにしてもマスタードとは……リヒードの剣呑な空気を他所に、マーマレードはくすりと笑いを漏らす。
「いーや、確実に言いましたねマーマレードって!」
「だから彼女はここにはいないよ。いたとしても、まだ君に会わせるわけにはいかない」
「なんでですか!」
「なんでもなにも。僕は楽しいお茶会の途中なんだ、早く帰ってくれるかい?」
「じゃあ、次はいつここにいらっしゃるんですか!」
「彼女はもう聖女じゃないからねぇ……儀式をすることはないよ」
「……えっ」
先程まで賑やかだったのに、リヒードの言葉で一瞬で空気が凍る。そのあまりの気まずさと寒さに、暖かい紅茶を一口。
姿は分からないが、きっと後ろにいるのは、金髪の彼なのだろう。喋ったこともないし、どんな人なのかも分からない、だがなんとなく、そんな気がしたのだ。
マーマレードはティーカップを静かに置き、立ち上がる。なぜリヒードが嘘をついているのかは分からないが、一目、彼の姿を見てみたいと思った。
「……リヒード様」
「……」
「リヒード様!」
「……マーマレードまで興味を持っているんじゃあ、どうしようもない」
しぶしぶ、といった様子を隠さないリヒードが少しだけ位置をずらす。……ほぼ見えていない。
「まぁ、リヒード様ったら」
リヒードにもこんなに幼い一面があったとは。マーマレードは新鮮な気持ちになったが、これでは埒が明かない。思い切ってリヒードの影から、顔をひょこりと、はみ出してみた。
「……あっ、えっと、あの、…………〜〜〜〜!!!!」
顔を真っ赤にしてそこに立っていたのは、やはり、彼で間違いなかった。太陽の光を反射してきらきら輝く金の髪と、空のような青い瞳。いつも教会の影から覗いていた、その人だ。ただ、教会で見た時とは違う、エプロンや少しよれたシャツを着ていたりと、初めて見る姿だった。
(彼の金色の髪は……マリアドンナ様より綺麗だわ、なんて、グリーンリハインの太陽様に怒られちゃうわね)
くすくすと笑うマーマレードに、思わず目の前のリヒードも笑みを漏らす。
「お、おおおおれ!!ティガーって、いいます!聖女マーマレード様の、歌が、大好きで、俺、俺……!!」
「……あら、まぁ」
遠くから見ていた時は、少し近寄り難いような、真面目な雰囲気を想像していたものだが、いざ話してみればなんというか。
(……随分と、可愛らしいお方なのね)
林檎よりも真っ赤に染った頬と、エプロンをぎゅっと握りしめるその姿は、マーマレードの胸になにやらとすん、と突き刺さったように感じた。
「ティガー様、私はマーマレードです。今はもう聖女ではないのです……すみません」
「いいいいやいや!そんなっ、マーマレード様が謝ることじゃ……!!」
「さぁ、もういいだろう。僕たちはお茶会の途中なんだ、君もお仕事があるだろう?早く帰ったらどうだい」
「あ、そうでした……今日も綺麗なお花が咲いたので、また持ってきますね!……そっ、それではマーマレード様、し、失礼しますっ!」
ティガーは腰を直角に曲げたかと思えば、目にも止まらぬ早さで帰ってしまった。あまりゆっくり話すことはできなかったが、マーマレードはなんだか、少しふわふわしたような、胸が少し暖かくなる様な気がした。
「……リヒード様、彼は……」
「……」
振り向いたリヒードは、不機嫌そうな顔を隠す気もないようで、のっそりと椅子まで移動する。そして紅茶をひとくち。
「……あーあ、やだやだ、娘を持った父親の気持ちだよまったく」
「リヒード様が父親なら、私、とても嬉しいですわ」
「嬉しいことを言ってくれるね。……彼は、ティガー。街の花屋の息子さ。たまにだが、ここにも花を届けに来るよ」
その花なら、マーマレードも知っていた。教会の中や、リヒードの机にも飾ってあったのを見たことがある。あの男は、あんなに美しい花たちを育てているのか。
「……でもねマーマレード、簡単に気を許してはいけないよ。僕以外の男なんて、何を考えてるか分かりゃしない。守ってあげれる時ならいいけど、守ってあげられないときもある。……まぁ、ティガーにそんな度胸もないだろうけど、ね」
「わかり、ました」
「いい子だ、マーマレード。さぁ、お茶会を続けようか」
人の恐ろしさなら、マーマレードもよく知っていた。他人を信じれなくなることや、怖いと思うこと、誰にも関わらないで生きていきたいと思うこと、マーマレードの短い人生でも、何度も経験している。もっと長い人生を生きてきたリヒードにも、人嫌いになってしまった理由がきっと、あるのだろう。
それでも。
(……また、会えたら)
まずは好きな花でも、聞いてみることにしよう。
それから3ヶ月の間、ティガーはほぼ日を空けずに教会を訪れていた。教会内の花が枯れているやら、お茶会をするのにもう少し花があるといいやら、どうせなら庭園を造ってどうか、やら……。
これにはさすがのリヒードも、その熱意を認める他なかった。
「マーマレード様!今日は珍しい花の種を入荷したんです!この庭園に植えてみようと思うんですが……」
「あら!それは素敵ね、どんなお花が咲くのかしら」
「教えたい気持ちもあるんですが……驚かせたい気持ちもあって……」
「ふふ、ティガーったら」
庭園は、ちょうど司祭室から見える位置にあった。それはティガーの案であり、いつでもリヒードとマーマレードがお茶会を楽しめるように、との事らしい。そんなこんなで、リヒードが司祭室で仕事をしている時はマーマレードとティガーのふたりで庭をいじることが、最近の日常になっていた。
(あの子もだいぶ……笑顔が増えてきた)
リヒードの記憶には、いつもやせ細った子供がいた。栗色の髪は短く切られ、着ているものは薄汚れた肌着。本来なら美しい色をしているだろうに、劣悪な環境下から澱んでしまった真っ黒な瞳。年齢が比較的上だったのと、12年という長い年月をそこで過ごしたが故に、ほかの子供のお世話係のように扱き使われていた少女。
リヒードはその光景に、衝撃を受けた。
元々人は嫌いだ。家族でも、友人でも、簡単に裏切ってしまう生き物だと知っているから。その醜さを知っているから。
だからリヒードは、神父という役割を選んだ。
人間が醜い生き物になってしまったことを、神に詫びるために。
もう二度と、人と関わらなくて済むように。
そんな時に出会った子供が、マーマレードだった。
本来であれば聖女として、国の宝として大切に大切にされるべき彼女は、人間の薄汚い欲の犠牲になっていた。
だからリヒードが彼女を助けたのは、慈悲の心があったからではない。
神に、懺悔するためだった。
それでも、マーマレードの心に触れていくうちに、本当の娘のように思うようになったのは確かだ。たった半年。されど半年。マーマレードは、見事リヒードの荒んだ心の隙間に入り込んできたのだ。
(もう彼女は、これ以上傷つく必要はないんだ。彼女には、幸福だけが訪れればいい……)
もう一度、賑やかになった庭を眺める。
(……潮時か)
きっと、マーマレードにいちばんの幸福を与えられるのは、それは彼なのであろう。
さて、そんなマーマレードの日常は平和に終わるかと思われたが。
異変が起こったのは、マーマレードが聖女でなくなった日から、半年ほど経ったときだった。
その間にマーマレードとティガーは友人のように仲良くなり、今ではリヒードも含め三人でお茶会をするようになった。もちろんリヒードはとても嫌がっているが。
1ヶ月に一度は儀式を行えるようになり、こっそりとマーマレードの歌を披露したりしている。もう聖女ではないので、マーマレードも街の住人と交流を楽しんでいるし、儀式と呼んではいるが実際は小さなパーティーのようなものだった。
いつもと変わらず、笑顔と緑が溢れる国――そのはずだった。
行商人は、西地区から一歩足を踏み出したときに、その空気の変わりように驚いたという。国や人の活気というか、エネルギーというか、そういうものが感じられなくったというのだ。西地区に入ってしまえば、いつもの変わらない風景であるはずなのに、一歩外に出るとまるで雰囲気はがらりと変わり、全く違う国にいるようだ、と話していた。
「……やれやれ、やっと気付き始めたようだね」
「え?」
噂を聞いたリヒードは、肩を竦めながらそう言った。その顔にははっきりと呆れの色が浮かんでおり、どういうことなのかとマーマレードは問う。
「マーマレードはさ、自分がただ歌うだけの聖女だって、本当に思っていた?」
「……うーん、そう、ですね」
「まぁそうだろうね。でもね、それが間違いだったんだよ」
「え?」
リヒードは、庭園に続く扉をぴしゃりと閉めて、マーマレードの向かいに腰を下ろした。どうやら真面目な話だと、マーマレードの背筋も少し伸びる。
「花を咲かせたり、風を起こしたりはどうでもいいんだけどね。問題はマリアドンナの、『癒す』力。」
それは、かつてのマーマレードが、喉から手が出るほどに憧れた力だった。
「例えば兵士の身体の傷をさ、癒したとして……その後はまた戦いだろう?休む間もなく、次の戦場へと送り出される。あとはご老人とかね。その時の痛みを消せたとしても、病気自体を治せる万能な力ではないんだ」
そこで一旦言葉を切ると、リヒードは真剣な瞳でこちらを見つめてくる。何かを探っているようなその視線に居心地が悪くなりながらも、マーマレードは逸らすことはしなかった。
「休む間もなく戦場に送り続けられる兵士や、病気は治らないまま苦しくもがきながら生き延びるご老人――ねぇ、マーマレードだったら、どう思うかな?」
もし、マーマレードがその兵士だったり、ご老人だったとき、どう思うか。
口の中で一度咀嚼して、考えてみる。
戦っても戦っても、キリがない戦い。傷は治せても、疲弊する心を治すことはできない。
病に耐えながら、死ぬこともできずに生き延びる人生。苦しみながら寿命を待つのは、どれほど疲れるだろう。
「……こころが、疲れてしまいます」
「そう、心。どんな外傷を治せたとしても、すり減る心は癒せないんだ。……そこで君さ、マーマレード」
「わ、私ですか?」
「あぁ、君の力は誤解されている。君の本当の力は」
――心を癒す力。
「歌を聴いた人の心を癒す。それが君の本来の力」
「こころを、癒す……」
まさか、自分にそんな力があったなんて。マーマレードは信じられない思いで、自分の手のひらを見つめる。
「リヒード様は、どうしてそのことを……?」
「うーん、ちょっと信じられないかもしれないんだけど……僕ね、マーマレードと出会って一緒に暮らすことになった時、神に祈ったんだ。色々願ったけど……一番強く願ったのは、二度と酷い目にあわないようにって感じかな」
リヒードからの愛は感じていたが、まさか神にまで祈ってくれていたとは。マーマレードは嬉しいやらなんやらで、知らないうちに目の前が滲んでしまった。ぼやけた視界の中でリヒードが困ったように笑い、そして細い指先で涙を拭いとってくれる。
「そしたら、その夜にね、神が僕の夢に現れたんだ。お告げってやつさ。神は、色々教えてくれた。マリアドンナの力や、マーマレードの力、それを併せて国の繁栄のため活かしていくように、と」
なんだか信じられない話ばかりだ。
リヒード本人もそれは思っているようで、ため息混じりに話を続ける。
「もちろん僕は国王に進言した。本当の力は言わないようにとの事だったから、それを伏せてそれ以外……まぁ、結果は予想通り、聞き入れてもらえなかったんだけどね」
「……」
「そんな不安そうな顔をしないで、マーマレード。破滅の道を選んだのは、あいつら自身さ」
つまりいま異変が起きてるのは、そういうこと。
リヒードは、話をそう締めくくった。
「マーマレードは優しいからね、気にしてしまうのも分かるよ。ただね、あいつらは一度思い知るべきなんだ。どれだけ自分たちが傲慢だったのかを……ね」
その日の夜、マーマレードは上手く眠れなかった。現実離れしたリヒードの話と、今起こっている異変のこと。過去に自分がされてきたことと、儀式で見た人々の笑顔。色んなことが頭に浮かんでは消えて、浮かんでは消えて――答えなんて出すこともできないのに、考える頭は止まらなかったのだった。
「……マーマレード様……いかがされましたか?」
「あ、いえ……なんでも、ないの。ごめんなさい、心配かけてしまったわね」
「いや!マーマレード様に何もないのであれば良いんですが……」
寝不足のマーマレードは、ティガーと街に来ていた。少し肌寒い季節に移り変わるので、新しい服を少しと、あとはリヒードに頼まれたおつかいの数々。最初こそティガーのことを邪険に扱っていた彼だが、今では遠慮なく扱き使うようになっていた。
「さて、そろそろ帰りましょうか。雨も降りそうですし……マーマレード様?」
「あ、ごめんなさい、そうね、帰りましょうか」
荷物はあらかたティガーが持ってくれている。マーマレードは有難く思いながら、その後ろを静かについていく。そんな時だった。目の前に急にお城の兵士が現れたのは。
「マーマレード様ですね。ご同行願いたい」
「え!?」
「国王があなたをお待ちです。さぁ、こちらに来なさい」
「いや、やめて!」
いきなり伸びてきた兵士の手に驚いたマーマレードは、思わずその手を叩いてしまう。しまった、と思った時にはもう遅い、兵士たちは腰を落とし、警戒体制を整えていた。
「拒否権はございません。さぁ、こちらに――ぶっ!」
「マーマレード!こっち!」
目の前にいた兵士が横に飛んで行ったと思ったら、次の瞬間にはティガーに手を引かれていた。どうやら、手に持っていた荷物を兵士に投げつけたようだ。上手く兵士の隙をつけたみたいで、何とか逃げ出すことに成功する。
しかし、マーマレードはこれまでまともに運動をしたことがなかった。足がもつれそうになりながらも必死に走って、しかしこれでは兵士にすぐに追いつかれてしまう、せめてティガーだけでも――そこではっとする。
(兵士が……追いかけてこない?)
ちらりと後ろを振り返れば、すぐに理由が分かった。
「おーい!みんなぁ、こっちだ!こいつら抑え込めー!」
「マーマレード様を逃がせ!」
「頼んだぞティガー坊や!」
体格のいい男たちを中心に、街の人々が兵士を止めてくれているのが見えた。次から次へと人が現れて、兵士の足止めをする。
(なんて危険なことを……!)
「ティガー、戻りましょう!みんなが傷ついてしまう……!私が狙いですから、今から戻れば」
「戻りません!あなたを守ると、誓ったんです!」
ティガーの手は、緩まない。壊れてしまいそうなほど強く、強く握りしめられ、マーマレードは泣きそうになってしまった。
さっき、兵士たちは国王が待っていると言っていた。賢い国王のことだ、この異変にはマーマレードが絡んでいると予測を立てたのだろう、まさか捕まえに来るとは!
「もう少しだけ、我慢してください!」
気づけば、雨が降り出していた。地面に溜まる水を蹴り上げながら、無我夢中で街を走り抜ける。
「マーマレード様、早くこの中へ!」
「え、えぇ!」
やがて辿り着いたのは、裏路地の中にある小さな家だった。ティガーは勝手知ったるようで、棚から1枚タオルを取り出すと、優しくマーマレードを包み込んだ。
「ここで少し休憩しましょう。……少し待っていてください」
ティガーは入口の鍵を閉め、そして奥の戸棚へ向かう。なにやらカタカタと音を立て作業しているようだが――数秒して、今度は戸棚自体がガタガタと動き出した。
「え、ティガー!?」
「安心してください、隠し部屋です。……この裏路地にはボスのオヤジがいるんですが、大変なカラクリ好きでして……有事の際には使っていいと。ここなら、絶対に見つかりません」
マーマレードは誰がどう見ても世間知らずであるが、まさかこんなに面白いことをまだ知らなかっただなんて!
こんな状況ではあるものの、少しだけ心が浮ついてしまったことはマーマレードだけの秘密だ。
今となっては、リヒードの次に信頼できる人物、ティガーがいたのも大きいだろう。
「助けるのが遅くなってしまい、申し訳ありません……お怪我はありませんか?」
「えぇ、大丈夫よ、ありがとう」
隠し部屋の中は少し狭かったが、マーマレードにとっては落ち着く空間だった。薄暗い雰囲気と、少し湿った空気。部屋の真ん中には柔らかいソファと長いテーブルがひとつ、置いてあるだけだ。
「座って休んでいてください。俺は少し外の様子を」
「あ、待って、ティガー!」
「はい!」
「……あの、少しでいいから、傍にいてくれるかしら……?」
「も、ちろんです!」
マーマレードはまずソファに座り、そしてティガーにも座るように促す。一瞬悩んだような素振りを見せたものの、大人しく、少し離れてティガーも腰を下ろした。
「……私を、探してたのよね。巻き込んでしまって、ごめんなさい」
「そんな!マーマレード様のせいじゃ……!むしろ、俺がいる時で良かったです、本当に……」
「ありがとう……ねぇ、ティガー、私の話を聞いてくれる?」
「も、もちろん!俺で良ければ」
マーマレードは、ぽつぽつと話し始める。
自分が過ごしてきた孤児院の話、リヒードに引き取られてからの話、聖女として暮らしていた時の話、そして、先日リヒードから聞いた、聖女の力の話――。
取り留めのない、ぐちゃぐちゃの話をティガーは黙って聞いてくれていた。
やがて話が終わると、ティガーはそっとマーマレードの手を握りしめる。自分では気づかなかったが、とても指先が冷えていたようだ。それに……震えが止まらなくなっていた。
「マーマレード様……今度は、俺の話を聞いてもらってもいいですか?」
「ティガーの?えぇ、もちろん、聞かせてちょうだい」
ティガーの手の温もりに、心まで暖かくなるのを感じた。
そうして、彼は、ゆっくりと話し始める。
「俺は……昔、小さな女の子に出会いました。西地区にある孤児院の近くです。俺はその頃から家の手伝いをしていて、その日も花の配達の帰りでした。
その子は、もう一人小さな子を連れて歩いていて……俺は思わず、声をかけました。心配になるくらい細くて、今にも消えちゃうんじゃないかって思って。
大丈夫?って聞いたら、大丈夫って言うんです。
迷子?って聞くと、迷子じゃないって。
じゃあ、どこに行くの?そう聞くと、その子は言いました。……分からない、と」
そこまで聞いて、マーマレードはふと、思い当たった。
西地区、孤児院の近く、小さな子と歩く迷子のような子供。
「……ティガー、それって」
思わず横を見上げると、そこにはなんとも優しい顔をしたティガーがいた。今までに見たことの無いその表情に、マーマレードは口を噤む。
「俺はどうしたらいいのか分からずに困り果てました。小さな子供を2人、そこに置いて帰る訳にもいかなかったし……そんな時、その女の子がふと俺を見て……いや、俺の抱えた花を見て、少しだけ驚いた顔をしたんです。それで、笑いました。とても嬉しそうに、綺麗に。だから俺は、その子に内緒で花を一輪あげました。もう一人の子にも、もちろん。すぐに知らない大人が来て2人を連れて行ってしまいましたが……あの笑顔が、俺はずっと忘れられませんでした」
マーマレードの手を握る力が、少しだけ強くなる。
「……後から知りました。あの子達が、どういう子供なのかを。それで、その後リヒード様があの孤児院の大人たちを全員入れ替えたって聞いて、驚きました。まさかあの時会った子供たちが、そんな酷い目にあってると思っていなくて……。
それから少しして、新しい聖女様が現れて、その聖女様の儀式を見て……すぐに分かりました、あの時の子だって。俺、安心したんです。あぁ、あの子は、聖女として幸せに暮らせているんだって。美味しいものをいっぱい食べて、たくさん寝て、好きなことして、そうやって暮らせて居るんだって。
なのに、それなのに……!」
繋がれた手が力強く引っ張られ、マーマレードが抵抗する暇もなく、その体は簡単にティガーに包み込まれてしまった。マーマレードは突然の行動に驚きはしたが……嫌な気は全くしない。恐る恐る、腕をティガーの背中に回し、そして気づく。
(……ティガー……震えているの?)
「俺、マーマレード様の幸せだけを祈っていたんです。ずっと、ずっと……今度こそ幸せに、あの時見せてくれた笑顔を、いつでも安心してできるように……!」
そこでマーマレードは思い当たる。
ティガーが儀式の度に訪れ、マーマレードの歌を聴きながら瞳を濡らしていたのは……。
思わずマーマレードの目にも涙が浮かぶ。まさか、リヒードの他に、こんなに自分を大切に思ってくれる人がいただなんて。
(……私、幸せ者ね)
幸せとは、こういう気持ちを言うんだ。初めて、幸せだと思えた瞬間だった。
「……マーマレード様、逃げましょう」
「え……?」
「こんな国捨てて、俺と逃げてはくれませんか?……苦労させるかもしれません。嫌なこともあるかもしれません。……でも、これ以上、マーマレード様が傷つけられることは、許せない」
「ティガー……」
抱きしめられていた腕が離れ、今度は真正面から向き合う。マーマレードの手は再びティガーに捉えられ、その熱を如実に伝えてくる。
青い瞳は決意に満ちていて、本気でマーマレードを連れて逃げようとしていた。
「……ティガー、私ね」
その時だった。
遠くから大きな物音がして、すぐに気づく。カラクリを起動させた時の音だ。まさか追っ手が来たのではと、ティガーは慌ててマーマレードを後ろに隠す。
「……俺から、絶対に離れないでください」
足音が近づいてくる。もうこれ以上逃げ場はなく、まさに袋のねずみだ。それでもティガーは考えていた、せめてマーマレードだけでも、無事に逃がさねばと。
「マーマレード!無事かい!?」
「……っ!リヒード様!!」
しかし、壁の向こうから現れたのは、息を切らしたリヒードだった。その後ろには裏路地のボスもおり、どうやらリヒードを案内してきたらしい。マーマレードも安心したようで、リヒードに飛びつき涙を流していた。
「……よかった、マーマレード様……」
ティガーの胸に広がるのは、安堵と……守りきれなかったかもしれないという、苦味。どうやったって、花屋の息子である自分には、できないことの方が多いのだ。
「マーマレード、本当に無事でよかった……話を聞いた時、どれだけ心配したか」
「ティガーが、私を守ってくれたのです。街の人たちも……私のために……」
「聞いたよ。……今も、城の兵士はマーマレードを探している。まさかここまで行動が早いとは、僕も想定外だった」
「やはり、狙いは私……なのですね」
歌うことで、人の心を癒す聖女。
国王はその力を取り戻したいがために、こうして兵士を差し向けたのだ。身寄りのないマーマレードが行く先は、リヒードのいる西地区しかない。それを分かっていて、探しに来たのだ。
「マーマレードは……どうしたい?神殿に、戻りたいかい?」
「私、は……」
「マーマレード様」
ティガーに名を呼ばれ、はっとする。
自分が戻ることで、国の人々の心が救われるのであれば。自分一人が頑張れば、多くの人を癒すことができる。その力を持っている。それならば――。
その考えが、ティガーにはきっと見透かされている。危険を犯してでも自分を連れて逃げようとしてくれた、ティガーに。
「俺は……できればあなたに、神殿に戻って欲しくない……でも、もしそこで、あなたが幸せになれるのなら」
「ティガー。君も聞いたのではないかい?あそこがどんな所だったのか……今更戻ったって一緒さ。今度は死ぬまでこき使われるだろうね」
「……」
「リヒード様……私は」
もう一度ティガーを見る。青色の瞳が不安げに揺れていて、まるで迷子のようだった。
「私は、戻りたくありません。リヒード様と、ティガーと、この街のみんなと一緒にいたい……!」
「……うん、いい子だ」
頭を優しく撫でてくれるその手は、昔と変わらなかった。大きくて暖かい、きっとこれがお父さんの手。マーマレードは、この優しい手が一等好きなのだ。
「それじゃあ、いこうか」
「行くって、どこに……?」
リヒードはにっこり笑って言った。
「あの馬鹿国王のところさ」
「……まさか、お主の方からやって来るとはな、リヒード」
「僕だってこんなところ来たくなかったですよ。それでも大切な娘のためです」
「娘とな。そなたに娘などおらなんだはずじゃが」
あの後すぐにマーマレードたちは兵士の所へ行き、捕えられるように城へと連れて来られた。一般市民であるティガーは同行を許されず、最後まで不安げな瞳でマーマレードを見つめていた。
そしていま、マーマレードとリヒードは国王その人と対峙している。
「まどろっこしい話はやめましょう。……マーマレードをここから追い出したのはあなた方ですよね?それが今になって……どういう了見です」
「ここ最近、嫌な空気を感じておる。生命のいぶきを感じぬ……まるで死者の国へと変わりつつあるようじゃ。お主はその理由を、知ってるおるのじゃろう?」
「……」
「そこのマーマレードが関わっておることは確かじゃ。わしが思うに……マーマレードの本来の力は、心を癒すことなのではないか?」
「今更それを知ってどうするんです?」
「マーマレードを再び聖女として任命する。各地を巡り儀式を行うのじゃ」
一触即発の空気に、マーマレードは思わず一歩、後ずさる。それに、リヒードは自分のことを司祭の末端だというが、それにしては国王に対する態度がおかしいような。
「国王……元々聖女は、我ら教会の管轄のはずですが?」
「……」
「神のお声を聴き、聖女の力を借りこの国を豊かに保つことが、我々の使命。……それを、さも自分たちの力のように他国に誇示し、戦いのために人を駒のように使い、聖女すら道具のように扱うなどとは、言語道断。我々が何も知らないとでもお思いで?」
いつになく険しい表情をしたリヒードが、懐から古めかしい鏡を取り出した。両手のひらを合わせたときより少し大きめの、美しい鏡。
「リヒード!それは、まさか……!」
「神代の鏡……さすが、国王ともあればご存じか」
「おぬし、それでなにをするつもりじゃ!」
「分かりませんか?……本来、聖女の力は、この国の人々が豊かに暮らすための力。決して戦いに使う力などではないのですよ」
「……リヒード、やめないか」
「いいえ、やめませんよ。このような力の使われ方など、神は望んでいない……ですから、お返ししましょう。我々人間には、過ぎた力なのです」
「や、やめてくれ……!」
マーマレードは、空いた口を塞ぐのも忘れて国王を見つめる。片手で足りるほどしか会ったことはないが、ここまで焦っている国王を見るなど初めてのことだった。
リヒードはまるで国王の言葉など聞こえていないように、右手を大きく振り上げる。そしてマーマレードが、国王が、周りの兵士が止める間もなく「神代の鏡」と呼ばれたその鏡を、叩き割った。
その瞬間、鏡から光が溢れ出し、部屋全体を包み込む。
マーマレードは眩しいそれに思わず目を瞑り……視界が開けた時には、なにやら身体の一部がないような、そんな不思議な感覚に囚われていた。
「……これで、聖女の力は神へと還った」
「あ、ああぁ……そんな……」
「もうこれで、マーマレードに用はないですね。……言っておきますが、マーマレードは元聖女として教会が保護します。不可侵条約をお忘れなく……他の元聖女は好きにしてくださって結構です。それでは」
これで話は終わりらしい。リヒードはマーマレードの手を引いて出口へと向かう。分からない事ばかりだが、リヒードが無理やり解決させたことだけは分かった。
国王はというと、項垂れ床にひれ伏し、どこか放心状態のように見える。その様子が気になったが、マーマレードにはどうすることもできないのだろう。
そうして教会所有の馬車を借り、共に西地区へと帰ることになった。
二人になったリヒードは、少しずつ事の顛末を話し始める。
まずこの国は、国と教会で不可侵条約を結んでいるということ。
リヒードは西地区を担当する司祭と言うことになっているが、実際は大司教という役職であること。
中でもリヒードは神の声を聴く力が強く、教皇のもと神の声を聴き、国のために力を活かしてきたこと。
本来は聖女は教会側の管轄であり、国王側は手出しができないこと。
しかし今回は国と教会の統一に向けて、聖女の力を国側に貸し出したこと。
そこには複数の条件があり、それが破られれば聖女の力を神に返還すること。
リヒードの話すことはかなり難しい内容だったが、それでもマーマレードは少しずつ咀嚼し、理解に変えていく。
「あいつらは、本来であれば神の怒りに触れることをした。ただそれは、僕たちの責任でもある……。神は僕たち人間のために力を分け与えてくださったが、人間が使うには、早すぎたんだ」
「神様の力……」
「そうだよ。神はね、力を5つに分けて、人間に貸してくださってたんだ」
リヒードはひとつ伸びをして、遠くを眺める。つられて見た先には、賑やかに行き交う人々。母と手を繋いで歩く子供や、若い夫婦。お店の者は活気よく呼び込みを繰り返している。小さな広場では陽気な曲を演奏する集団と、曲に合わせて楽しそうに踊る人たちがいた。
「君に、もう聖女としての力はない。あの時割った鏡……あれは、神が大昔の人間に託したもの。鏡がある限り、力は人間のものである。しかし、人間には扱いきれない力となった時、鏡を割れば力は神の元へと還る……そういう代物さ」
「扱いきれない力」
「今まではね、教会側が聖女の力を制御し、この国のためにと尽力してきた。だが、国王にとっては面白くないことだからね、今回は初の試みで、聖女を託してみたんだ。結果はご覧の通り……やはり、貴族連中にまともなやつはいないね」
やれやれと肩を竦め、今度はマーマレードを見つめる。その真剣さに思わず背筋が伸びるのを感じた。
リヒードの大きな手がマーマレードの小さな手を包み込み、安心させるようにトントンと軽く叩く。
「マーマレード、君はもう自由だ。これから何をしたっていい」
「自由……」
「君の人生はまだ長い。好きなように生きたらいいさ」
「それは……リヒード様のところで、今までのように暮らしても良いということですか……?」
「うーん、なんとも魅力的な相談だ。……だがしかし、もう1つ、幸せな道があるかもしれない」
「え?」
「はは、じきに分かるよ。さぁ、もうそろそろ着きそうだ」
西地区の教会が近づいてきた。道行く人々は馬車に乗るのがマーマレードとリヒードだと気づくと、笑顔で手を振ってくれている。
やがて教会の前に辿り着き、やっと安心する空気に心を落ち着かせていると……なにやら外が騒がしくなってきた。
「ま、マーマレード様!ご無事ですか!?」
「やかましいぞティガー」
外にいたのはどうやらティガーで、馬車の話を聞いて花屋からすっ飛んできたようだった。一足先に降りたリヒードの、鋭い声が飛んでいる。その応酬がなんだかとても懐かしく感じ、マーマレードはひとり、くすりと笑いを漏らす。
「さぁおいで、マーマレード。まずはゆっくり休まないとね」
「はい、ありがとうございます、リヒード様」
リヒードの手を借り降り立った目の前には、目の下にこっくりとしたクマを作ったティガーが。
「ティガー……心配を……っ!」
「っ!!」
「ティ、ティガー……?」
ティガーはマーマレードの姿を認めた途端、まるでかき抱くようにその腕に閉じ込めてしまった。その腕はやはり震えていて、耳元からは少し嗚咽も聞こえるような。
相当な心配をかけてしまったらしい。マーマレードもその細い腕を持ち上げ、硬い背中にぐっと回した。
「俺、俺、マーマレード様に何かあったらと思うと……!本当に、無事で、よかった……!!」
「ティガー……ありがとう……」
「はーい、そこまで。僕はまだ認めてないからね」
あろうことか、リヒードがティガーの顔面を掴み、マーマレードからがぱりと引き離してしまった。ティガーは引っ張られた力のまま、よたよたと数歩下がったが、その場でぐすぐすと本格的に泣き始めてしまう。
「さぁマーマレード、あの泣き虫は放っておいて、ゆっくり休もう」
「え、えぇ……あ、少し待って、リヒード様。……ねえ、ティガー」
「は、はいっ!」
「あの、私、聖女じゃなくなってしまったのだけど……それでも、私の幸せを願ってくれるかしら……?」
きっと、ティガーが一番幸せを願っていたのは、「聖女マーマレード」であり、今の自分はもしかしたら、彼にとって気にも留めない存在になってしまったのでないか……そんな不安が、マーマレードの胸に押し寄せた。
「……おおおお俺!聖女マーマレード様の幸せを願ってましたが、えーと、今は、その……おおおお俺が幸せにしたいって……思ってます!!」
「……まぁ」
「やれやれ」
想像以上の答えが返ってきてしまった。マーマレードは初めて感じる胸のムズムズをどうしていいか分からず、教会に向かって駆け出した。ただ、一度だけ振り返って、少しはしたないが、せっかくだから大きい声を出してみる。
「……また、お花を持って、会いに来てね!」
「も!もちろん!」
マーマレードの人生はまだ長い。
もう1つの幸せな道が何かはまだ分からないが……これから歩いていく道の先に、あの人がいてくれたら、なんて素敵なんだろうと、思う。
今度こそマーマレードは教会に飛び込んで、逸る胸を抑えるのに必死だった。
一方、リヒードは。
「……僕はまだ、認めていないからね」
惚けた顔のムカつく青年に向かって悪態を一つ。
彼女の幸せを一番に願っているのは目の前の男ではなく、この自分なのだ。
娘の幸せは喜ばしいが、暫くは父親として邪魔をしたって、許されるだろう?
――ティガーの一途な愛が実を結ぶのは、もう少し先の話のようだ。




