エピローグ 水鏡のむこう
父母ヶ浜に来たのは、汐音と一緒だった。
鷲羽から西へ、船で一日。瀬都内海の南岸に面した、弓なりの砂浜。干潮のとき、砂の上に薄く海水が残って、空を映す。天空の鏡。
——ここに来るのは、二度目だ。
一度目は千尋として来た。
大学3年の夏。卒論のフィールドワークで瀬戸内を一人旅して、最終日にこの浜に立った。干潮の夕暮れ。砂の上に張った海水が空を映して、水平線が消えていた。スマートフォンを構える観光客たちの間で、わたしは裸足になって水に入った。冷たかった。足の裏に砂が吸いつく感覚。そして——水鏡の中に、帆船が映った。振り返っても何もなかった。水面の中にだけ、帆船があった。
あの瞬間に落ちた。色の中を落ちて、意識が途切れて、目を覚ましたら——鷲羽の屋敷にいた。
今、同じ浜に立っている。
裸足ではない。草履を履いている。着物を着ている。髪を結っている。隣に汐音がいる。
干潮の夕暮れ。砂の上に海水が薄く残っている。空が映っている。雲が映っている。島影が映っている。
同じだ。あの日と同じ光景。
でもわたしの目が違う。千尋の目で見たあの日の水鏡と、今の目で見ている水鏡。同じ場所で、違う人間が立っている。——いや。同じ人間が、変わった目で立っている。
「きれいですね」
汐音が言った。草履を脱いで、裸足で水に入っている。足首まで浸かった海水が、汐音の足元に小さな波紋を広げている。
「瀬名さんも入りません?」
草履を脱いだ。
足の裏に砂が触れた。冷たい。あの日と同じ冷たさ。海水が足の甲を覆って、薄い水の膜の向こうに砂の粒が見える。
水鏡を覗き込んだ。
顔が映っている。藍色の目。黒い髪。鷲羽家の令嬢の顔。千尋が初めて鏡で見たとき「わたし……誰?」と思った顔。
今は——わかっている。
この顔はわたしだ。千尋であり、瀬名であり、その二つが重なった——新しいわたし。
水面が揺れた。
汐音が足を動かしたせいだ。波紋が広がって、映っていた顔が崩れる。崩れて、また集まる。水が静まると、顔が戻る。でもさっきとは少し違う角度で。光の当たり方が変わって、目の色が深くなって見える。
——あの日、水鏡の中に見えた帆船はもういない。振り返っても、水面を覗いても、帆船はない。あの船はわたしをここに連れてくるためだけに現れて、役目を終えて消えたのだろう。
「瀬名さん」
汐音がわたしのそばに来た。足元の水が合流して、二人分の波紋が重なっている。
「ここが——瀬名さんが来た場所ですか」
汐音には話してある。全部。千尋のこと。水鏡のこと。意識の転移のこと。瀬名の意識がずっと体の中にいたこと。二人で一つになったこと。裁きの場の後、ある夜、全部を話した。汐音は長い間黙っていた。それから「信じます」とだけ言った。理由は聞かなかった。汐音はそういう人だ。
「ここです」
「前世の瀬名さんは——千尋さんは、ここで何を思っていたんですか。落ちる前に」
落ちる前。水鏡を覗き込んで、帆船が映って、落ちる直前の千尋。
——覚えている。覚えているというより、体が覚えている。千尋と瀬名の意識が一つになった今、千尋の記憶も瀬名の記憶も、同じ場所に格納されている。あの瞬間の記憶に手を伸ばすと、触れられる。
この海と暮らしたい。
それだけだった。瀬戸内を歩いて、島を巡って、港を見て、潮を感じて。7日間の旅の最後に思ったこと。この海が好きだ。この海のそばで暮らしたい。分析でも計算でもない。ただの——願い。
それが瀬名を呼んだ。同じ海を愛する者同士が、水鏡を通して手を伸ばした。
「この海と暮らしたい、って思っていました」
汐音が微笑んだ。三日月ではない、静かな笑み。
「暮らしていますね。今」
「うん」
暮らしている。この海で。この人たちと。
*
夕日が沈んでいく。
水鏡が赤く染まっている。空も海も砂も、全部が橙色に溶けていく。水平線が消えている。あの日と同じだ。空と海の境界がなくなって、世界の端が溶けている。
足元の水が冷たくなってきた。潮が変わる。干潮が終わって、満潮に向かっている。水鏡の水が、少しずつ深くなっていく。
「そろそろ戻りましょうか」
汐音が言った。
「もう少しだけ」
水面を見ている。
千尋の記憶の中にある父母ヶ浜と、今ここにある父母ヶ浜が、重なっている。あの日はこの重なりが恐ろしかった。牛窓のオリーブ畑で前世の記憶が暴れたときのように。二つの世界の境界が溶ける恐怖。
今は——怖くない。
二つの世界は、もう重なっている。わたしの中で。千尋の記憶と瀬名の記憶が、同じ目の奥に入っている。水鏡を覗き込めば、一つの顔が映る。二人分の記憶を持った、一人の人間の顔。
水面が光った。
夕日の反射ではない。もっと深いところから——水の底から、光が滲み出してきた。水鏡の向こうに、何かが映っている。
息が止まった。
アスファルトの道路。ガードレール。自動販売機の青白い光。砂浜の向こうに駐車場があって、車が何台か止まっている。スマートフォンを構えた人影が、水際に立っている。
——前世の父母ヶ浜だ。
水鏡の中に、千尋がいた世界が映っている。あの日の夕暮れ。干潮の砂浜。天空の鏡を撮影する観光客たち。その中に——一人、裸足で水に入っている女がいる。髪を風に揺らして、水面を覗き込んでいる。
千尋だ。
あの日の千尋。水鏡に帆船を見つける直前の、21歳の園部千尋。建築学科の3年生。卒論のフィールドワークの最終日。
水面が揺れている。向こう側の千尋も、こちらの水面を覗いている。目が合った——ような気がする。あの日と同じだ。水鏡を通じて、二つの世界が重なっている。
帰れる。
その直感が、体の中心を貫いた。
あの日は落ちた。水鏡が砕けて、こちら側に落ちた。今度は——逆に、向こう側に戻れる。水面に手を入れれば。この水鏡を通って、千尋に戻れる。大学に戻れる。美桜に会える。研究室のパソコンの前に座って、卒論の続きを書ける。コンビニのコーヒーを買って、スマートフォンで写真を撮って、普通の人生に——
足元の水が揺れた。水鏡の中の千尋の輪郭がぼやける。
今しかない。水が深くなれば、鏡は消える。潮が満ちれば、水面は波立って、もう向こう側は見えなくなる。
手を伸ばしかけた。
指先が水面に近づいて——
体の奥で、声がした。
「千尋」
瀬名の声。あの夜と同じ声。体の奥底から響いてくる、わたしと同じ音で違う人間の声。
「帰れるの?」
問いかけた。声に出さず、内側に向かって。
「わからない。でも——向こうが見えている。今なら」
沈黙。体の中の沈黙は外の沈黙とは質が違う。密度がある。瀬名が言葉を探している。
「帰りたい?」
瀬名が聞いた。千尋に。
帰りたいか。大学に。研究室に。美桜に。卒論に。コンビニのコーヒーに。スマートフォンに。アスファルトの道に。——あの世界に。
答えを探した。体の中を。胸の奥を。千尋の記憶が入っている場所を。
「……帰りたくないと言ったら、嘘になる」
嘘にはしたくない。瀬名にも、自分にも。あの世界が好きだった。あの世界の海が好きだった。美桜の笑い声が好きだった。研究室のコーヒーの匂いが好きだった。
「でも」
瀬名の声が返ってきた。
「帰ったら、わたしは一人に戻る」
声が震えていた。瀬名の声が。体の中で、小さく。
一人に戻る。千尋が去れば、この体には瀬名だけが残る。半年前まで一人だった。千尋が来る前の瀬名は——海を見ない令嬢だった。閉じた目をしていた。父がそう言った。
千尋がいなくなれば、瀬名は海を見る目を失うのか。潮を感じる感覚を失うのか。——いや、それはわからない。千尋が教えたのではなく、二人で覚えたものだから。千尋が去っても残るかもしれない。残らないかもしれない。
「瀬名」
今度はわたしが呼んだ。
「帰らない」
声に出していない。水面に指は触れていない。汐音は隣に立っている。何も知らない。体の中で、千尋と瀬名の二つの意識が向き合っている。
「帰らないよ。——わたしはここにいる」
瀬名が黙った。
長い沈黙。それから——
「……いいの?」
小さな声。優しい声。千尋を責めているのではない。心配しているのだ。千尋の人生を。千尋が持っていたものを。大学。友達。卒論。将来。全部を置いていくことを。
「あなたの世界には、あなたの人生があるのに」
胸の奥が痛い。瀬名は自分のことではなく、千尋のことを案じている。一人に戻るのが怖いと言ったのに、それでも千尋の幸せを先に考えている。この人は——こういう人だった。閉じた目をしていた令嬢。海を見なかった令嬢。でもその目の奥に、この優しさがあった。
「捨てるわけじゃないよ」
声が出た。体の中で。
「ここにいたいの。この海で。この人たちと。——あなたと」
向こうの世界が嫌だったんじゃない。あの世界も好きだった。美桜も研究室も、海沿いを歩いた7日間も。全部好きだった。でも——ここにいたい。ここにいる自分の方が、本当だと感じる。潮の匂いを嗅いで、汐音と肩を並べて、千歳に「お嬢様」と呼ばれて、凪に「お嬢」と叱られて、暁に「鷲羽」と呼ばれて。この一年で積もったものの重さが、21年分の前世より——重い。
「瀬名。わたしはここがいいの」
体の奥の温度が変わった。冷たくなるのではない。温かくなるのでもない。溶けていく。境界が。千尋と瀬名の間にあった最後の壁が、薄く、薄くなって——
「——ありがとう」
瀬名の声が小さい。消えかけているのではない。近すぎるのだ。声が聞こえる距離ではなく、声そのものになる距離。千尋の声と瀬名の声が重なって、もう、どちらがどちらかわからない。
二人の声が一つになっていく。壁が消える。境界が溶ける。千尋でもなく瀬名でもなく——両方であるもの。二人分の記憶と、二人分の願いを持った、一人の人間。
わたし。
新しい、わたし。
指先を引いた。
水面に触れなかった。
汐音の肩が、わたしの肩に触れている。さっきからずっと。汐音はわたしが何を見ていたか知らない。体の中で何が起きていたか知らない。ただ隣に立って、夕日を見ている。
水鏡の中の千尋が——笑った。ように見えた。水面が揺れていて、表情は定かではない。笑ったのか、泣いたのか。でも——手を振った。小さく。それから背を向けて、駐車場の方に歩いていった。スマートフォンをポケットに入れて、サンダルを引っかけて。
水面が波立った。潮が満ち始めている。波紋が広がって、向こう側の景色が崩れていく。アスファルトが溶ける。自動販売機の光が消える。車の影がぼやける。千尋の後ろ姿が、水の中に沈んでいく。
消えた。
水鏡には、夕焼けの空だけが映っている。わたしの顔。藍色の目。この世界の、この体の、この顔。
体の奥で、瀬名の気配が温かくなった。ここにいる、という温度。ずっと一緒にいた人間の、静かな肯定。
——行かなかった。
行けたのに、行かなかった。
目の奥が熱い。泣いているのかもしれない。泣いていないのかもしれない。夕日が眩しくて、よくわからない。
汐音がわたしの手を取った。
「瀬名さん。大丈夫ですか」
「……大丈夫」
大丈夫だ。大丈夫。
「帰りましょう。鷲羽に」
汐音が頷いた。
二人で水から上がった。砂が足にまとわりつく。草履を履いて、浜辺を歩く。振り返ると、水鏡はまだ夕日を映している。赤い空と赤い海が一枚の絵になって、その中をわたしたちの足跡が二筋、水際から浜の奥へ続いている。
足跡はすぐに消えるだろう。潮が満ちれば、砂が平らに戻る。
でも——消えても、なくならない。
浜の奥に、船が待っている。小さな帆船。千歳が船の上で毛布を用意している。夜風が冷えるから、と。
「お嬢様。お帰りですか」
「帰ります」
船に乗り込んだ。汐音が続く。千歳が帆を上げてくれる。風が帆を膨らませて、船が動き出す。
父母ヶ浜が遠ざかっていく。水鏡の赤い光が小さくなって、やがて浜の輪郭だけが残る。
東へ向かう。鷲羽へ。
瀬都内海が夕暮れの中に広がっている。島々が黒い影になって、その間を——小さな光が、いくつも灯り始めている。光の過所旗だ。日が落ちて、海守衆の島々で鏡が回り始めている。能島。來嶋。因ノ島。そしてもっと遠く、目には見えないけれど——鞆ノ津の常夜燈のそばにも、塩飽の造船場にも、竹原の港にも。
光が瀬都内海を繋いでいる。
わたしが設計した鏡と蝋燭が、亀老翁が考えた自動回転の仕組みが、暁が配置した信号網が、凪が教えた潮の道が、汐音が守った薬師の記録が——全部、この海の上で一つになっている。
船が波を切る音。帆が風を受ける音。千歳が毛布をかけてくれる手の温かさ。汐音が隣で海を見ている気配。
瀬都内海は、今日も穏やかだ。
潮が満ちて、潮が引いて、また満ちる。光が灯って、光が消えて、また灯る。
この海で、わたしは生きていく。




