第44話 海の民として
半年が過ぎた。
嚴島の裁きの場から数えて、ちょうど半年。春が夏に変わり、夏が秋に変わり、秋が——また冬の入口に差しかかっている。
鷲羽の高台から海を見ている。朝の日課になった。毎朝ここに来て、瀬都内海を眺めてから書斎に向かう。
海の色が変わった。
一年前に比べて、船が増えた。帆船の数が目に見えて増えている。飛島回廊の封鎖が解かれてから、東西の物流が戻った。それだけではない。光の過所旗が全島に設置されたことで、夜間の航行が可能になった。これまで夜は港に泊まるしかなかった船が、光を頼りに夜も走れるようになった。交易量は——暁の計算では、封鎖前の1.5倍に増えている。
島の間を走る小舟も増えた。小舟航路の新設は、七家の宴で棚上げにされた提案だった。あのとき潰された提案が、裁きの場の後に——形を変えて、動き始めている。海守衆が小舟用の簡易航路を設定し、通行料を荷量に応じた段階制に変えた。小さな荷を小さな船で運ぶ商人が増えて、島と島の間の物のやりとりが活発になっている。
汐音の薬草も、その恩恵を受けている。鞆ノ津から小豆島までの薬草の仕入れが、以前より安く速くなった。汐音が先月の文で「保命酒の味が変わりました。仕入れが早くなって、鮮度のいい根を使えるようになったから」と書いてきた。制度が変わると、酒の味が変わる。面白い。
五十年の裁きの調査は、まだ続いている。
颯が約束した通り、國主家として調査を行っている。紫雲山の文書を軸に、過去100年の裁きの記録を洗い直している。調査の結果が出るまでには、もう少しかかる。颯は——慎重だ。拙速に結論を出さない。制度の中から制度を変えるには、手順を踏まなければならない。それは颯のやり方であって、わたしのやり方ではない。でも——颯のやり方がなければ、制度は壊れても別の制度に置き換わるだけだ。壊す者と変える者、両方が要る。
颯からの文は、月に一度届く。形式的な報告が多い。でも時々、末尾に一行だけ——形式を外した言葉が添えてある。先月は「桜が散った」とだけ書いてあった。嚴島の桜。あの弥山の桜が散ったのだろう。それだけの一行に、何が込められているのか。わたしには読めない。読めなくていい。
「お嬢様。お客様です」
千歳が高台まで呼びに来た。
振り返ると、港の桟橋に見覚えのある船が着いている。帆に薬草の紋。汐音の船だ。
石段を駆け降りた。走るのは令嬢の作法に反する。千歳が後ろで「お嬢様、お足元が——」と言っているのが聞こえるが、足が止まらない。
汐音が桟橋に立っていた。
薬箱を肩に提げて。藍色の着物を着て。髪を一つに結んで。
——変わらない。半年前と変わらない。裁きの場で14人の名前を読み上げた汐音と、鞆ノ津で保命酒を差し出してくれた汐音と、小豆島の潮の道を一緒に歩いた汐音が、同じ顔でここに立っている。
「瀬名さん」
汐音が笑った。目が三日月になる。
「保命酒、持ってきました。新しいの」
薬箱の蓋を開けて、小さな壺を取り出す。封がしてある。
「今年の夏に仕込んだものです。小豆島の根を使って。——味見してもらえますか」
「もちろん」
二人で屋敷に上がった。書斎に膳を出して、千歳が盃を並べてくれる。汐音が壺の封を切って、保命酒を注いだ。琥珀色の液体。薬草の匂いが広がる。甘くて、少しだけ苦い。鞆ノ津の常夜燈のそばで初めて飲んだときと同じ匂い。
一口飲んだ。
甘い。舌の上で薬草の風味が広がって、喉の奥で苦みに変わる。体の芯に落ちていく。温かい。
「……おいしい」
「でしょう。小豆島の根の鮮度がいいから、苦みの角が取れてるんです」
汐音が嬉しそうに説明する。薬草の話になると早口になる癖は、一年経っても変わらない。
盃を重ねながら、半年のことを話した。
鞆ノ津の商人組合が正式に「自由港宣言」を出したこと。過所旗の段階制が導入されて、小規模商人が増えたこと。因ノ島の宗海が——ようやく表に出てきたこと。
「宗海さん、もう隠れていないんです。因ノ島の港で、若い漁師たちに潮の読み方を教えているそうですよ」
「宗海殿が? あの人が?」
「暁さんが言ってました。『老人が動いた。これで三家が揃った』って」
汐音が保命酒を一口飲んで、ふっと息を吐いた。
「祖母も——少しだけ、変わりました」
「変わった?」
「名前を。因ノ島の名前を、口にするようになったんです。少しだけ。わたしの前では」
汐音の目が光っている。灯りの反射ではない。
「50年間隠してきた名前を、少しずつ。まだ外では言わないけれど。家の中で、わたしに向かって。『因ノ島ではこうしていた』『因ノ島の海はもっと青かった』って」
50年の沈黙が、少しずつ溶けている。全部が一度に溶けるわけではない。少しずつ。祖母の速度で。
*
午後、汐音と一緒に來嶋ノ瀬戸に行った。
凪の船ではなく、小さな渡し船。二人だけで。千歳は屋敷に残した。
海峡に着くと、潮が動いている。白い波頭が走って、海面が割れている。一年前、初めてここに来たときの記憶が蘇る。凪に「目を閉じろ」と言われて、何もわからなかった日。
船の上で、目を閉じた。
潮のリズムが——聞こえる。聞こえるという表現は正確ではない。体で感じる。膝の下の船底を通して、海の鼓動が伝わってくる。強い、弱い、強い、弱い。潮の呼吸。一年前は一瞬だけ感じて消えたものが、今は——ずっと感じている。消えない。目を開けても消えない。
「瀬名さん、何してるんですか」
汐音が不思議そうにわたしを見ている。
「潮を感じてる」
「感じてる?」
「海のリズムが——ここから聞こえるの」膝を指した。「船底を通して」
汐音が目を丸くした。
「潮術……ですか」
「まだ入口。凪さんに言わせれば、入口にやっと立っただけ」
「でも——すごい。瀬名さん、海の人になっていますね」
海の人。
千尋は海が好きな大学生だった。瀬名は海を見る令嬢だった。今のわたしは——海の上に立っている。潮を感じて、光を灯して、この海の道を走る船に乗っている。
「汐音さんのおかげでもある」
「わたし?」
「鞆ノ津で保命酒をもらった日。あの日、汐音さんが『海は怖いですか』って聞いてくれた。覚えてる?」
汐音が首を傾げた。覚えていないのかもしれない。汐音にとっては何気ない一言だったのだろう。でもわたしにとっては、この海に向き合うきっかけだった。
「怖いですか、って聞かれて——怖くない、と思った。この海は怖くない。この海と暮らしたい、って」
汐音が黙ってわたしを見ている。三日月の目ではない。まっすぐに開いた目。
「……瀬名さん」
「うん」
「わたしも、同じことを思っていました。瀬名さんに会った日に」
風が吹いた。海峡の潮風が、二人の髪を揺らしている。
「この人と一緒に海を見たい、って。——薬師として。友達として」
汐音の声が少し震えた。初めてだ。汐音が声を震わせるのは。泣くのではなく、震える。言葉の重さに、声が耐えきれなくなっている。
わたしも何か言おうとした。でも喉が詰まって、言葉が出ない。代わりに——汐音の手を取った。薬草で荒れた手。保命酒を煎じる手。14人の名前を読み上げた手。
握った。汐音が握り返した。
來嶋ノ瀬戸の潮が、二人の乗った船を揺らしている。
一年前と同じ海。同じ潮。でも——船の上にいる人間が変わった。一人だったのが二人になり、二人だったのが五人になり、五人だったのが——もっと多くなった。
海は変わらない。
海の上を渡る人間が、変わる。
*
夕暮れ。鷲羽の高台。
汐音は明日の朝、鞆ノ津に帰ると言った。薬草の仕入れがある。
今夜は鷲羽に泊まる。千歳が客間を整えている。
二人で高台に立って、夕日を見ている。瀬都内海が橙色に染まっていく。島々の影が黒く浮かんで、その間を帆船が行き交っている。光の過所旗を載せた船もある。まだ日が高いから光は見えないが、日が落ちれば——あの船の上で、鏡が回り始める。
「瀬名さん」
「うん」
「来年の春に——小豆島に行きませんか。潮の道を、もう一度」
あの砂の道。干潮のときだけ現れる、海の中の道。
「消えても、なくならない道」
汐音がわたしの言葉を覚えていた。いや、あれは汐音が言った言葉だ。わたしが覚えていて、汐音も覚えている。同じ言葉を、二人で持っている。
「行きましょう」
夕日が沈んでいく。海面が赤から紫に、紫から藍に変わっていく。
父の目と同じ色だ——と思ったのは、一年前のことだ。今はもう少し正確にわかる。これは父の目の色でもあり、母の目の色でもあり、潮守の姫の目の色でもあり——わたしの目の色だ。藍。海の底の色。
汐音が隣にいる。千歳が屋敷の中で夕餉の支度をしている。暁が能島で潮を読んでいる。凪が來嶋ノ瀬戸で船を走らせている。颯が嚴島で書類と向き合っている。
この海は、広い。まだやることが残っている。
過所旗の開放は始まったばかりだ。光の過所旗を全ての船に載せる——亀老翁が描いた未来は、まだ形になっていない。暁はそれを進めている。凪はそのために新しい船乗りを育てている。汐音は鞆ノ津で薬草の流通を変え始めている。
わたしは何をする。
鷲羽の高台から海を見下ろして、その問いが浮かぶ。この一年で多くのものを動かした。でも動かしただけだ。潮は変わり始めたが、まだ変わりきっていない。
足元の草を踏んで、屋敷に向かって歩き出した。夕餉の匂いがする。千歳が魚を焼いている。汐音が台所で何か手伝っているらしく、笑い声が聞こえる。
明日も、海を見る。明日も、潮を感じる。明日も——この海で、やれることをやる。




