第12話 鷲羽の日々
鷲羽に帰って、日常が戻ってきた。
——というより、日常というものを初めて持った。
この世界に来てからずっと走り続けていた。鞆ノ津、仙酔島、尾ノ道、來嶋、亀老山、能島、因島、大三島。3週間で8つの場所を回った。海守衆に会い、過所旗の仕組みを知り、第八の家の痕跡を見つけ、暁に交易の話をし、連歌を詠んだ。
でも——わたしはまだ、この家で朝を迎えることに慣れていない。
朝は蚊帳の中で目が覚める。潮の匂い。い草の香り。障子の向こうが白く光っている。
千歳が朝餉を運んでくる。白飯と焼き魚と漬物。味噌汁の具が毎日少しずつ違う。今日は蜆。瀬戸内の蜆は小粒で、汁に旨みが濃く出る。
「お嬢様、本日のご予定は」
千歳がいつもの調子で聞く。
「午前は書の稽古。午後は——」
「潮術のお稽古でございますか」
千歳の声に、わずかに苦みが混じる。鷲羽のお嬢様が毎日のように來嶋ノ瀬戸に通うのは、家中でも噂になっているらしい。
「今日は行きません。書斎にこもります」
千歳の表情が少し和らいだ。
*
書斎は、鷲羽の館の1階にある小部屋だった。
瀬名の――元の瀬名の部屋だ。棚に書物が並んでいる。歴史書、歌集、地誌。背表紙の墨書きを見ると、どれも丁寧に整理されている。元の瀬名は、ここで一人で本を読んでいたのだろう。
ゲームでは「傲慢な令嬢」。現実の瀬名は、書斎に籠もる読書家。
棚の一角に、手習い帳が積まれていた。瀬名の筆跡だ。文字は整っているが、少し力が強い。筆圧が高い人間の字。
手習い帳の端に、小さな絵が描いてあった。島の絵。海の絵。帆船の絵。
——この子も、海を見ていたんだ。
高台の館から見下ろす瀬都内海を、元の瀬名も描いていた。わたしが前世の旅で写真を撮ったように、瀬名は筆で海を写し取っていた。
手習い帳をめくっていく。日付が入っている。最後の日付は——わたしがこの体に来る2日前。
最後のページに、一行だけ書かれていた。
「海の向こうに、誰かがいる」
背筋が冷えた。
瀬名は——知っていたのか。水鏡の向こうに、千尋がいることを。
*
午後、刺繍のお稽古をサボって庭に出た。
鷲羽の館の庭は、瀬都内海を見下ろす崖の上にある。松が数本と、低い生垣。庭の端に石の腰掛けがあって、そこに座ると海が一望できる。
この世界に来て初めて、何の予定もない午後だった。
海を見ている。帆船が行き交っている。過所旗の赤い旗が、点々と海の上に散らばっている。あの旗一枚一枚の裏に、命の契約がある。
「瀬名」
振り返ると、父がいた。
鷲羽隼人。書院から出てきたらしく、手に巻物を持っている。わたしの隣の石に、黙って座った。
しばらく、二人で海を見ていた。
「大三島では、何を見てきた」
父の声は低くて平坦だ。問い詰めているのではない。聞いている。
「連歌を詠みました。御神木に触れました」
「楠は、どうだった」
——知っているのだろうか。あの木に触れて体が震えたことを。暁から聞いたのか、それとも父自身が知っている理由があるのか。
「……体が、震えました。理由はわかりません」
父が海を見たまま、小さく頷いた。
「お前の母も、同じことを言っていた」
母。
瀬名の母。千歳に聞いたことがある——瀬名が幼い頃に亡くなったと。ゲームでは母の存在は描かれていなかった。
「母上は……大三島に行かれたことがあるのですか」
「婚礼の前に一度。國主家への挨拶の帰りに寄った。あの楠に触れて、震えたと。——わしは震えなかった」
父の横顔に、何かの感情が走った。懐かしさか、悔いか。すぐに消えた。
「母上のことを、もっと聞いてもいいですか」
「いずれ話す。今はまだ——早い」
それだけ言って、父は立ち上がった。巻物を持って、書院に戻っていく。
——「いずれ話す」。
父は何かを知っている。母のこと。楠のこと。そしておそらく——瀬名の血筋のこと。
でも「今はまだ早い」と言った。早いということは、いつか話すつもりがあるということだ。
待とう。
潮待ちの港で学んだことがある。待つことには意味がある。
*
夕暮れ。庭の石に座ったまま、夕日を見ていた。
瀬都内海が橙色に染まっている。島々のシルエットが夕空に浮かんでいる。帆船が港に帰っていく。常夜燈にぽつりぽつりと火が入り始める。鷲羽の高台から見下ろすと、港の灯りが海面に映って揺れている。
千歳がお茶を持ってきてくれた。
「お嬢様。お夕食の支度ができておりますが」
「もう少しだけ」
千歳がわたしの隣に立って、同じ方向を見た。
「千歳。わたしは——前のわたしと、どう違いますか」
唐突な質問だった。でも聞きたかった。
千歳がしばらく黙っていた。
「以前のお嬢様は……海を見ておいでではありませんでした」
「海を?」
「この庭にいらしても、本を読んでおいでで。海には目をお向けにならなかった。でもこの頃のお嬢様は、ずっと海を見ていらっしゃる」
——元の瀬名は、海を見なかった。
手習い帳には海の絵を描いていたのに。
「それと……」千歳が少し笑った。「以前のお嬢様は、千歳に『さん』をつけたりなさいませんでした」
——ああ。最初の日にやらかしたやつだ。
「すみません」
「いいえ。悪いお変わりではございません」
千歳の目が、夕日に照らされて柔らかく光っている。
この家に、根を張り始めている。
海守衆の世界に飛び込んで、島を巡って、真相を追いかけて。でもわたしが帰ってくる場所は、ここだ。鷲羽の館。千歳がお茶を持ってくる庭。父が黙って隣に座る石の腰掛け。
この場所を——守りたい、と思い始めている。




