視線
ゴブリンエンペラーの視線から逃げたい。だけど、体が動かない。
視界は、視界の端から暗く塗りつぶされていく。
「なにこれ」
ゴブリンエンペラーの瞳だけに集中していく。目は逸らせない。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」
ただ、怖い。
それ以外の言葉なんて浮かんでこない。
心臓はバクバクと激しく動く、そしてぎゅっと握りつぶされているように痛い。
滝みたいに汗が噴き出して、膝がガクガクと笑い、歯がガチガチと鳴る。
私の視界をゴブリンエンペラーの瞳が大半を占めると、喉を何かが塞いだ。息を吸おうとしても肺に空気が入ってこない。
呼吸ができない。
「くる……しぃ……」
口を開けているのに、音が声にならない。
息が漏れるたびに視界の色が抜けていく。
激しかったはずの心臓の鼓動がどんどんと遅くなっていった。
体が痛く、全身が痺れてくる。
これは。
『死ぬ』
掠れる視界では、赤いものが滲んでいった。
【『スキル:鬼ごっこ』を獲得しました】
私の視界にシステムウィンドウが表示された。「パンパカパーン」と、誰かの可愛らしい声が響き渡る。
【『スキル:鬼ごっこ』を発動します】
次の瞬間には、体がふっと軽くなる。
喉を塞いでいた何かが消え、空気が一気に肺に流れ込む。
「はぁっ、はぁっ……ッ!?」
【『威圧』が無効化されました】
【『持久力』が無限化されました】
視界が一気に広がり、世界に色が戻る。
荒い息を吐きながら、私は膝から崩れ落ちた。
「スキル?」
スキルの威圧無効化と持久力無限化は【発動中】と視界の隅に追いやられていた。
「このスキルのおかげ助かったみたい。鬼ごっこって言う名前はダサいけど最高だね」
ハハッと、元気の無い笑いが漏れる。
でも、悠長に考えている暇なんてない。
「それよりも……逃げないと」
地面に両手をついて、足に力を込めた瞬間。
「アグァオォォォォオオオオオッッッ!!!」
洞窟全体が揺れる。鼓膜を破るような怒号。耳がキーンと鳴り、岩肌がビリビリと震えた。
この声はゴブリンエンペラーの物だと直感する。
下を見ると、ゴブリンエンペラーは私を睨んでいた。沢山いたゴブリンは四方の穴に向かって走っていく。
走るゴブリンたちの目的が『私』なのは察しが着いた。ドッドッドッド、と、上からも下からも洞窟中から足音がしてきて、洞窟全体が揺れている。
「やっぱり私が狙いだよね。捕まれば何をされるか分からない。食べられるのは嫌だけど、一番嫌なのは監禁されてゴブリンに生かされること……」
手錠をされて、牢屋で吊るされている所を想像して、ぶるりと全身が震える。
「嫌だな」
捕まらないという意思を固めて私は巾着袋を拾い上げた。そして空中に浮かぶ小さな光の玉を睨む。
「こんなモンスターの居る所じゃなくて、沢山の人が居るところにしてよ」
そう言い捨て、小さな洞窟を飛び出す。
ひたすら上へ。
壁伝いの道は螺旋を描いて渦を巻き、天井へと続いている。まず天井へと向かう。
ここがどこか分からないが、ゴブリンエンペラーから物理的に離れた方がいいだろう。
沢山ある壁の穴からは続々とゴブリンが顔を出している。
「グェッ!?」
近くの壁の穴から顔を出したゴブリンは私が通り過ぎると、驚きの声を上げて、途端に追ってくる。
「追いかけてくるゴブリンたちの速度はあんまり速くない。……いや、私が速くなっているのかも」
後ろを確認する度にゴブリンと私との距離が空いていく。
私は息も切れないし、体も軽い。地面を蹴るたびに、どんどんと速度が上がっている気さえする。
「【スキル:鬼ごっこ】の『持久力無限化』はチートでしょ」
また下を見ると、ゴブリンエンペラーが視線が鋭くなる。
その視線だけで、体が一瞬ビクッと震える。
「こわ」
スっと視線を切って、上に向ける。
「でも遊び人のレアランクはF。最弱な職業のはずなのに、こんなチートスキルあるのかな? メリットが大きすぎる。『鬼ごっこ』と言うからにはゴブリンに捕まった瞬間に大きなデメリットを追う形になるのかな? 例えば……触れられた瞬間に死ぬ?」
スキルのことを考えて、死まで連想できた。
「それぐらいないとバランスが取れないと思う……私のスキル、ピーキーすぎない?」
走る速度には、まだ余裕がある。
「まぁ捕まらなければいいんだ。ギアを上げちゃおっかな」
そう楽観的に思って、速度を急激に上げた。
体感的にさっきまでの倍のスピードで道を駆ける。
「これならすぐ天井に行けるね」
ズドォォォン!!!
地面が揺れ、背後で大きく何かが崩れる音が鳴る。
思わず振り返ると、さっきまで私が走っていた道が砕けていた。
土煙が薄くなると砕けた道の隙間から巨大な腕が突き出ている。爪の一本一本が私の胴ほどもあって、全身は見ないでも分かる。これがゴブリンエンペラーの腕だ。
「洒落にならない」
瞬間、体が勝手に動く。
ゆっくりと三歩、後ろへ。
電車が通り過ぎていくかように、目と鼻の先に大きな腕が通過した。
「……やば」
風が私を巻き込み、腕に吸い寄せられた。
再度の死を体験したからだろうか。
視界の情報が勝手に整理されていく。
道の段差、影、風の流れ。ゴブリンの位置。そして逃げるためのルートが直感的に視界に浮かんでくる。
「スキルも言っている逃げろって!」
立ち止まっていた私は、振り返り、全力で駆け出した。
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