3- 25 幽霊より中年男を選ぶ理由
可南は黒い影の涼子に怒りをぶつけると、県道へと続く林道を駆け上がった。
(涼子のバカ! 私が親友を失ってどんなに辛かったか、わかってないんだから!)
可南は走りながら指先で涙を拭った。林道をしばらく駆けていくと、傷んだアスファルトの県道までたどり着いた。
可南は立ち止まると、つい感情的になって結羽を残し、離れてしまったことを後悔した。
(気持ちを落ち着かせたら、結羽さんのところに戻ろう)
可南は県道と林道が交わるT字路で、白樺の森を覆う青空を見上げた。
「可南ー!」
林道の方から可南を呼ぶ声が聞こえてきた。可南が反射的に林道に顔を向けると、林道の坂道を黒い影の涼子が可南の名前を呼びながら近づいてくるのが見えた。
(悪霊みたいな涼子に会いたくない!)
可南は、黒い影の涼子に見つからないよう、県道の下り坂を駆け始めた。
呼吸が荒くなるほど下り坂を急いで駆けている可南は、走りながら振り返った。黒い影の涼子の姿は見えない。
可南は立ち止まると、額の汗を拭った。
そのとき、いつのまにか県道は白樺の森を抜けて広葉樹林に入っていた。可南は広葉樹林の木陰に入ると、呼吸を整えながら周辺を見渡した。
可南がいる県道は薄暗い広葉樹林に囲まれている。突然のように吹き始めた柔らかな風が森をざわめつかせ、遠くからはセミの控えめな鳴き声が耳に届く。
可南は、森の中にひとり取り残されたような寂しさを感じて不安になった。
(そうだった。今の私は、結羽さんの力で幽霊が見える状態だったんだ······)
可南は怖気つきながら、もう一度、周辺を見渡した。そのとき、薄暗い森の中を歩く人の姿が見えた。よく見ると、長い黒髪の若い女性で、半袖とロングスカートを身につけている。その全身は透き通っており、まるで木々と重なるようにして歩いているように見える。
(幽霊だ!)
可南は恐怖を感じて、長い黒髪の幽霊に見つからないよう身を屈めた。
長い黒髪の幽霊は、可南に気づくことなく去っていった。
(怖いよ。誰か助けて······)
可南は、身を屈めながら両手で顔を覆った。
そのときだった。遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。それはトンネルとは反対の方角から徐々に可南に近づいてくる。可南は車の接近に気がつくと立ち上がった。
(良かった! 誰か来る!)
見知らぬ幽霊に怯えていた可南にとって、人の接近は、それが見知らぬ他人であっても嬉しいものだった。
やがて、白い小型車が車体を揺らしながら、立ち尽くしている可南に近づいてきた。
白い小型車の運転席には黒いタンクトップを着た中年男が乗っている。中年男は、県道脇に若い女性が立っていることに気がつくと驚いて目を見開いた。その直後、アクセルを踏み込んでスピードを上げた。
可南は、目の前を走り去っていく小型車に向かって手を振った。
「待って、待ってよー!」
すると、小型車は数十メートル走ってから停止した。可南は、すぐに小型車に駆け寄った。一方の中年男も、後方から“人間の女性”が近づいてくることが分かると、車から降りた。そして、近づいてくる可南の顔を見ると安心したように微笑んだ。
「こんなところで立ってるから幽霊かと思ったじゃねーか」
「驚かせてすみません。散歩していたら遠くまで来ちゃったんです」
中年男の笑みに誘われるようにして可南も安堵の笑みを浮かべた。
「散歩してた? どこから?」
怪訝そうな表情で中年男が可南に尋ねた。
「女井戸トンネルです」
「なんでまた、こんな所に?」
「ちょっと、いろいろあって······。でも、これから自分の車に戻るところです」
可南よりも背が高くて筋肉質な中年男は、可南の表情や服装を一瞥すると真顔になった。
「この辺りは物騒だから若い女の子がひとりで歩くところじゃないよ。何年か前に殺人事件もあったしな」
「そうですね······」
中年男の言葉に対して可南はうつむき、声を落としながら答えた。
可南は、中年男が口にした殺人事件の被害者が自分の友人であることを口にしなかった。見知らぬ中年男にそれを伝える必要はないからだ。
中年男は、うつむく可南を見つめたあと口を開いた。
「車は、どこに置いてある?」
「トンネルの向こう側です」
「じゃあ、そこまで送るから乗りなよ」
中年男からの親切に対して可南は一瞬警戒したが、すぐに「はい」と承諾した。
(幽霊がさまよう山奥でひとり残されるくらいなら、この人の車に乗せてもらおう。私の車は、すぐ近くなんだし)
可南は、そう判断しながらも中年男への警戒は緩めなかった。
可南は中年男に誘われるままに小型車の助手席に乗り込むと、運転席に乗り込んだ中年男を一瞥した。タンクトップからのびる鍛えられた上腕部は見栄えがあったが、中年男の汗臭さは不快な気持ちにさせた。しかし、顔には出さない。中年男を警戒しているとは言え、可南は中年男の親切を受け入れたのだ。もしかしたら、本当に親切な人であるかもしれない中年男に無礼な態度をとることはできない。
中年男は、小型車を発進させた。
2人が乗る小型車は、傷んだアスファルトの上り坂をゴトゴトと揺れながら進んでいく。可南は小型車が動き始めると、フロントガラスや助手席の窓から絶えず周辺を窺った。
(涼子······)
可南は、県道を取り囲む森が広葉樹林から白樺に変わっていく景色を見つめながら、まさにこの辺りで殺害された親友の名前を心の中でつぶやいた。
(つづく)




