第二話 共鳴訓練
翌日。
一般授業を終えた午後、ルーク達四人はミレイアに呼び出されていた。
午前中の授業は、正直かなり眠かった。
魔力学、属性理論、基礎術式構築。どれも重要だとは分かっている。けれど、昨日の戦闘と帰還後の報告を終えた身体では、さすがに集中力が続かなかった。
それに、頭の奥にはまだ、あの説明できない感覚が残っている。
カレンは何度か机に突っ伏しそうになっていた。気づくたびに顔を上げてはいたが、そのたびに不機嫌そうに眉を寄せている。
フィアも、授業中に小さく欠伸を噛み殺していた。本人は隠しているつもりなのだろうが、肩がわずかに揺れているので分かりやすい。
そんな中で、シエルだけは少し違っていた。
授業を聞いているのか、いないのか。表情はいつも通り淡々としているのに、手元の紙にはずっと何かを書き続けている。
細かな線。重なる術式の構造。何度も消して、また書き直す。
おそらく、昨日の氷術式を頭の中で再構築しているのだろう。
シエルは術式を組めていた。構造も、発動までの流れも、彼女の中では見えていたはずだ。
けれど、これまでは最後の一線に届かなかった。
その術式が、昨日は形になった。
シエルにとって、あの感覚が簡単に忘れられるものではないことくらい、ルークにも分かった。
そして、それはルークも同じだった。
教師の声を聞きながら、ノートへ形だけ文字を書きつつ、意識は何度も昨日へ戻っていく。
灰銀色の魔力。
カレンの炎へ馴染んだ感覚。
シエルの術式に触れた時の、奇妙な手応え。
説明はできない。
何が起きたのかも分からない。
それでも、昨日、確かに何かが起きていた。
偶然だったのか。それとも、もう一度できるものなのか。
その答えを知るために、ルーク達は今、ミレイアのもとへ向かっている。
「ここよ」
ミレイアに案内された先は、学園校舎の奥だった。
普段の授業で使う教室棟からは少し離れている。廊下を歩く生徒の姿もほとんどなく、窓から差し込む午後の光だけが、静かな床を淡く照らしていた。
足音が、やけに大きく響く。
カレンが周囲を見回しながら眉を寄せた。
「……こんな場所あったのね」
「一般生徒が使う場所じゃないもの」
ミレイアは軽く答えると、廊下の突き当たりにある重そうな扉の前で足を止めた。
金属製の扉だった。表面には細かな術式線が刻まれており、ただの訓練室ではないことが一目で分かる。
ミレイアが扉に手をかざす。
低い魔力音が鳴り、刻まれた術式線が淡く光った。次の瞬間、重い金属音とともに扉が開く。
中へ入った瞬間、少しひんやりした空気が肌を撫でた。
「……広」
カレンが小さく呟く。
そこは、少人数向けの個別訓練室だった。
広さは通常の教室よりもずっとある。天井も高く、魔法を発動しても十分に距離を取れる作りになっていた。
壁面には魔力強化処理が施され、床には魔力吸収用の刻印が幾重にも走っている。天井付近には、防御用の魔道具らしきものも埋め込まれていた。
少なくとも、普通の基礎授業で使う場所ではない。
シエルが静かに床へ視線を落とす。
「魔力吸収刻印」
それから、壁面へ目を向けた。
「……高い」
「詳しいな」
ルークが思わず言うと、シエルは淡々と答えた。
「本で読んだことある」
短い返事だったが、妙にシエルらしかった。実物を見てすぐに分かるあたり、ただ読んだだけではなく、かなり細かいところまで覚えているのだろう。
一方で、フィアは落ち着かなさそうに訓練室内を見回していた。
「あ、あの……ここって、普通に使っていい場所なんですか……?」
恐る恐るという言葉がぴったりの声だった。
ミレイアは即答する。
「駄目」
「駄目なんですか!?」
「職権濫用で取ってきたわ」
堂々と言い切ったミレイアに、カレンが呆れたように額を押さえた。
「堂々と言うなっての……」
「学科主任の権限は使える時に使うものよ」
「悪びれなさすぎでしょ」
そんなやり取りに、フィアが困ったように笑う。シエルは特に表情を変えず、床の刻印を観察していた。
ルークも小さく息を吐く。
昨日までなら、こんな軽口も少し遠く感じていたかもしれない。けれど今は、同じ部屋にいることが不思議と自然だった。
ミレイアは訓練室の中央へ歩きながら、四人を振り返る。
「さて」
その一言で、空気が少し変わった。
軽かった会話が収まり、全員の視線がミレイアへ向く。
「昨日の報告だけじゃ、正直まだ分からないのよ」
ミレイアの声は、先ほどまでとは違っていた。
教師として。
そして、魔法士として。
目の前で起きた異常を見逃さない者の声だった。
「まずは、本当に再現できるか確認するわ」
ルークは無意識に、昨日の感覚を思い出していた。
灰銀色の魔力が、自分の中から伸びていく感覚。カレンの炎へ触れ、シエルの氷術式へ混ざり込んだ、あの奇妙な手応え。
確かに起きた。
けれど、それをもう一度できるのかと聞かれると、すぐには頷けない。
自分が何をしたのか。
どうして成立したのか。
まだ、何も分かっていなかった。
ミレイアはそんなルークの表情を見ていたのか、少しだけ声を落とす。
「先に言っておくけど、本来、術式干渉は危険行為よ」
その言葉に、カレンがわずかに眉を動かした。シエルは黙ったままミレイアを見ている。フィアも緊張したように背筋を伸ばした。
「術式っていうのは、基本的に本人の魔力制御で成り立ってる。そこへ別人の魔力を混ぜれば、普通は制御が乱れるわ」
ミレイアは指先を軽く振る。
それだけで、空中に小さな火の術式が浮かんだ。
深紅の線で描かれた簡易術式。
しかし、その横からミレイアが別の魔力をわずかに触れさせた瞬間、術式線がぶれ、火は形になる前に散った。
「特に発動途中の術式は不安定よ。そこへ無理に干渉すれば、支援どころか妨害になる」
火の残滓が空気に溶ける。
訓練室が静かになった。
「だから、昨日アンタ達に起きた現象は異常なの」
異常。
その言葉は、昨日の戦闘後にも聞いた。けれど、こうして改めて言われると、背筋に薄い緊張が走る。
ルークは小さく息を呑んだ。
自分の無属性魔力が、他人の術式に入り込む。
それが普通なら妨害になるのだとしたら、昨日自分がしたことは、かなり危うい行為だったのかもしれない。
「でも」
ミレイアはそこで、わずかに口元を緩めた。
「もし再現できるなら、話は変わる」
彼女の視線が、ルークからカレン、シエルへ順に移る。
「カレンの暴れやすい火力を安定させる。シエルの届かなかった術式を成立させる。少なくとも、昨日見えた範囲ではその可能性があるわ」
その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。
カレンは腕を組み、どこか落ち着かない様子で視線を逸らしている。シエルは表情こそ変えないが、いつもより明らかに集中していた。
フィアは二人の様子を見比べながら、胸の前で小さく手を握っている。
ルークは、自分の右手を見下ろした。
何の属性も持たない魔力。
ずっと、そう言われてきた。
けれど昨日、その魔力は誰かの魔法に混ざり、確かに形を変えた。
もし、もう一度できるなら。
もし、それを仲間の力にできるなら。
「……やってみます」
ルークがそう言うと、ミレイアは満足そうに頷いた。
「ええ。まずは一つずつ確認していきましょう」
そして、最初に視線を向けたのはカレンだった。
「最初はカレン。アンタからよ」
ミレイアに指名され、カレンは露骨に顔をしかめた。
「なんで最初が私なのよ」
「シエルは昨日の消耗が大きかったって聞いたからね。まずは比較的安全そうな方から確認するの」
「比較的って何よ、比較的って……」
不満げに言いながらも、カレンは訓練室の中央へ歩いていく。
文句は言う。
けれど、逃げるつもりはない。
それがカレンらしいと言えば、カレンらしかった。
訓練室の中央で足を止めたカレンは、深く息を吸った。さっきまでの不満そうな表情が消え、目つきが変わる。
術式を組む瞬間の、魔法士の顔。
カレンの前方に、緋紅色の術式が展開された。
複雑な術式線が空中に走り、その中心で炎が圧縮されていく。緋紅色の魔力が渦を巻き、熱気が訓練室の空気を押し広げた。
肌を刺すような熱。
胸の奥へ響く圧力。
ただの火ではない。高濃度の火属性魔力が、術式の中で無理やり形を保っている。
それだけで、カレンの火力が普通ではないことは分かった。
だが同時に、危うさもある。
術式の縁が、わずかに揺れていた。
昨日ほどではない。あの洞窟で見た時ほど、暴れかけているわけではない。
それでも、緋紅炎は術式の内側で唸るように脈動している。少しでも制御を誤れば、形が崩れる。そんな不安定さが残っていた。
ミレイアが壁際から目を細める。
「出力は十分。けど、やっぱり制御が荒いわね」
「分かってるわよ……」
カレンが不機嫌そうに返す。
言われ慣れているのだろう。
けれど、その声にはいつもの強気だけではなく、少しだけ悔しさも混じっていた。
ミレイアはそれ以上カレンに言わず、今度はルークへ視線を向けた。
「ルーク。昨日と同じようにやってみなさい。ただし、無理に押し込まないこと。相手の術式を壊したら意味がないわ」
「はい」
ルークは小さく頷き、カレンの少し横へ立った。
緋紅色の術式が目の前にある。
熱が近い。
魔力の圧が、肌越しに伝わってくる。
ルークは右手を上げ、カレンの術式へかざした。
触れるわけではない。
手のひらを、術式の外側へ向ける。
昨日の感覚を思い出す。
押し込むんじゃない。
無理に混ぜるんじゃない。
合わせる。
馴染ませる。
ルークの掌から、灰銀色の魔力が細く伸びた。
それは糸のように空気を渡り、カレンの術式へ近づいていく。
緋紅色の術式線へ、灰銀色の魔力が触れた。
次の瞬間。
「っ……!」
弾かれた。
術式が大きくぶれ、緋紅炎が一瞬だけ形を乱す。熱が横へ漏れ、カレンが反射的に術式を押さえ込んだ。
「ちょ、急に入れんなっての……!」
「悪い」
ルークはすぐに魔力を引いた。
心臓が一つ、大きく鳴る。
失敗した。
ほんの少し触れただけのつもりだった。それでも、カレンの術式は明確に拒絶した。
訓練室に、わずかな沈黙が落ちる。
偶然だったのではないか。
昨日だけ、たまたま噛み合っただけではないのか。
そんな空気が、一瞬だけ流れた。
けれど、ルークは右手を下ろさなかった。
「もう一回、いいか」
カレンがちらりとルークを見る。
その顔には不満も警戒も残っていたが、すぐに小さく息を吐いた。
「……次、変に暴れさせたら怒るから」
「分かった」
ルークはもう一度、カレンの術式へ手をかざした。
今度はさらに出力を落とす。
灰銀色の魔力を細く、薄く、慎重に伸ばす。
障壁術式を扱う時と同じだ。
力任せでは意味がない。強ければいいわけでもない。必要なのは、壊れない位置を見つけること。
灰銀色魔力が、再び緋紅色の術式へ触れる。
術式がわずかに揺れた。
だが、今度は崩れない。
ルークは息を止めるようにして、魔力の流れを追った。
カレンの炎は、強い。
ただ強いだけではなく、前へ前へと押し出そうとする。術式の中で圧力が膨らみ、形を破ろうとしている。
そこへ灰銀色の魔力を押し込めば、また弾かれる。
だから、押し込まない。
炎の流れに沿わせる。
緋紅色の魔力が巡る隙間へ、灰銀色魔力を薄く重ねる。荒れた波を押さえつけるのではなく、流れの向きを少しだけ整えるように。
灰銀色の魔力が、術式の表面から少しずつ内側へ入り込んでいく。
術式の向こうで、カレンが目を細めた。
ルークの灰銀色魔力は、無理に入り込んでこない。ほんの少しずつ、崩れない位置を探りながら、緋紅色の術式へ馴染んでいく。
ルークの呼吸は浅く、額には汗が浮かび始めていた。それでも、手はぶれない。
(……どれだけ、魔力制御を叩き込んできたのよ)
カレンは思わず、そんなことを考えていた。
その瞬間。
灰銀色の魔力が、緋紅炎の中へ溶け込んだ。
拒絶感が薄れる。
暴れていた熱が収まり、術式の揺れが静まっていく。
緋紅色の炎に、銀が差した。
炎の色が、緋銀色へ変わる。
「……っ」
カレンが息を呑んだ。
カレンは術式を前へ押し出した。
「――行くわよ」
訓練室奥の標的に、防御用の魔道具が淡く光る。
「――《紅蓮砲》」
放たれた緋銀色の炎が、訓練室奥の標的へ一直線に走った。
轟音。
標的を包んだ防御光が大きく揺れ、床の魔力吸収刻印が淡く光った。
けれど、炎は横へ散らない。
暴れるような余波も、制御を外れた熱もなかった。
威力そのものが爆発的に跳ね上がったわけではない。
だが、明らかに違った。
散っていた熱が逃げず、術式の内側で暴れていた炎が、まっすぐ標的へ収束している。
扱いやすい。
それが、カレン自身にもはっきり分かった。
「……制御しやすい」
思わずこぼれた言葉に、ミレイアが小さく頷いた。
「なるほどね」
ミレイアは緋銀色の炎が消えた標的を見つめながら、淡々と分析する。
「カレンへの作用は、火力を無理に上乗せするというより、暴れやすい火力を収束させて、術式と弾道を安定させる方向ね」
緋銀色の炎は、標的の前で静かに消えていた。
さっきまでのような不安定な揺れはない。
「主効果は、制御補助と術式安定化。カレンの炎とは相性がいいわ」
成功した。
偶然ではなかった。
その事実が、訓練室の空気を少しだけ変える。
ルークは自分の右手を見下ろした。
まだ感覚は曖昧だ。
完全に掴めたわけではない。
けれど、確かにもう一度できた。
「……再現できた」
誰に言うでもなく呟いたルークの声に、カレンが軽く鼻を鳴らす。
「一回失敗してたけどね」
「それは悪かったって」
「別に。次から気をつければいいわよ」
言い方は相変わらず素っ気ない。
けれど、カレンの視線はさっきまでと少し違っていた。
警戒だけではない。
自分の炎を支えた相手を見る目だった。
次に前へ出たのは、シエルだった。
カレンが訓練室の中央から戻るより先に、シエルは一歩前へ出ていた。いつも通り表情は淡々としている。けれど、その動きには昨日までよりもわずかな積極性があった。
「昨日と同じ条件で試したい」
シエルが静かに言う。
カレンが横目でシエルを見る。
「アンタ、かなり消耗させるでしょ」
「規模は落とす」
即答だった。
「検証用」
それだけ言うと、シエルは訓練室の中央へ向かった。
シエルの氷蒼色の術式。
細く、緻密で、恐ろしく速い構築。
ただ、いつも魔力が最後まで行き渡っていなかった。
本来なら、中心部の術式だけでなく、その外側に展開される補助術式まで含めて一つの魔法になる。けれど、これまでのシエルはそこまで魔力が届かず、中心部だけで発動させるのが限界だった。
形にはなる。
だが、それはシエルが頭の中で描いていた完成形ではない。
足りない出力のせいで、外部の補助術式が機能しないまま発動した、不完全な魔法だった。
シエルは訓練室の中央で足を止めると、静かに息を整えた。
そして、片手を前へ出す。
次の瞬間、氷蒼色の術式が空中に展開された。
規模は、昨日より小さい。
検証用に抑えられた術式。
けれど、密度は変わらなかった。
細い術式線が幾重にも重なり、槍の輪郭を描くように組み上がっていく。氷蒼色の魔力が流れ、中心部の術式が満たされる。
だが、そこで魔力の流れが細った。
中心部には届いている。しかし、その外側へ広がる補助術式へは、十分に魔力が行き渡らない。
氷蒼色の光が、外縁に近づくほど薄くなる。
シエルの眉が、ほんの少しだけ動く。
悔しさではない。
焦りでもない。
ただ、自分の限界を知っている者の反応だった。
「ルーク」
ミレイアが視線を向ける。
「昨日と同じ感覚を探ってみなさい。」
「はい」
ルークは頷き、シエルの術式へ近づいた。
冷気が肌を撫でる。
カレンの炎とはまったく違う圧だった。
熱ではない。
鋭く、静かで、触れたものを凍らせるような冷たい魔力。
ルークは右手を上げ、シエルの氷蒼色の術式へ手をかざした。
掌から、灰銀色魔力が細く伸びる。
カレンの時と同じように、押し込まない。まずは術式の流れを確かめる。灰銀色魔力を、氷蒼色の術式線へ沿わせるように近づけていく。
カレンの術式は、強い火力が暴れていた。
だが、シエルの術式は違う。
荒れているわけではない。
むしろ、整いすぎている。
中心部から外部補助術式へ、魔力の流れ道はきちんと作られている。足りないのは、そこを満たすだけの魔力だった。
ルークは深く息を吸った。
流し込むだけでは駄目だ。
乱暴に補おうとすれば、術式を壊す。
必要なのは、足りない場所を見つけること。
外側まで届かずに細っている術式へ、余計な歪みを作らずに魔力を補うこと。
灰銀色魔力が、氷蒼色の術式の表面へ触れる。
術式がわずかに揺れた。
ルークはすぐに出力を落とす。
中心部から外側へ。
氷蒼色の魔力が細くなり、補助術式へ届ききらない場所へ。
薄く、慎重に、灰銀色魔力を沿わせていく。
やがて、外部補助術式へ伸びる線の手前に辿り着いた。
そこだけ、氷蒼色の光が薄い。
術式は組まれている。
だが、魔力が足りず、その先へ流れが届いていない。
ルークはそこへ、灰銀色魔力を流し込んだ。
乱暴に押し込むのではなく、足りない部分を満たすように。
氷蒼色の術式内へ、灰銀色魔力が薄く入り込む。
不足していた魔力が補われ、外側へ伸びる術式線に光が戻る。
氷蒼色の光に、灰銀色が混ざる。
それは銀氷色へと変わり、中心部だけで止まりかけていた術式を、外部補助術式まで一気に繋げていく。
今度は、満たされていた。
「――」
シエルの目が、わずかに見開かれた。
「――《氷槍》」
槍身を真っ直ぐ整える形状補正。
表面を固める表面固定。
命中後に冷気を広げる氷結拡散。
すべてが繋がった。
それはもう、不完全な氷の塊ではない。
シエルが本来組み上げようとしていた、完成形の《氷槍》だった。
氷槍は淡い銀氷色の光を帯びながら、訓練室の空気を静かに冷やしていく。
シエルはそれを見上げたまま、小さく呟いた。
「……できた」
声は小さい。
けれど、そこには確かな震えがあった。
(これが、私の魔法……)
頭の中でしか届かなかった形が、今は目の前にある。
ルークは術式から魔力を引き、一歩だけ後ろへ下がった。
「……っ」
深く息を吐く。
額に汗が浮かんでいた。
昨日より規模を落とした検証用の術式だったため、負荷は抑えられている。
それでも、カレンの時より明らかに重い。
カレンの術式では、暴れていた火力の流れを整え、術式を安定させた。
けれどシエルの場合は違う。
術式そのものは組めている。だからこそ、足りない魔力を補わなければ外部補助術式まで届かない。灰銀色魔力で不足分を補填している以上、その消耗はカレンの時より大きくなる。
ミレイアも同じ結論に至ったのだろう。
銀氷色の氷槍を見つめながら、静かに頷いた。
「シエルへの作用は、不足している魔力の補填ね。組めている術式に魔力を行き渡らせて、魔法を完成形まで持っていく」
それから、ルークを見る。
「カレンの時は、暴れる術式を整える方向だった。でもシエルの場合は、術式に不足している魔力を補ってる。その分、ルーク側の負担は重くなる」
ルークは軽く息を整えながら頷いた。
「……昨日よりは、ずっと楽です」
「規模を落としてるからね。検証なら問題ない。でも、実戦で大規模術式を連続して支えるなら注意が必要よ」
ミレイアの言葉に、シエルの視線がルークへ向いた。
その表情は大きく変わらない。
けれど、先ほど氷槍を見上げていた時の静かな高揚は、少しだけ落ち着いていた。
ルークに頼れば、自分の術式は完成形へ近づく。
だが、それはルークに負担をかけるということでもある。
シエルは、銀氷色の光が空気に溶けていくのを見届けた。
「……分かった」
短い言葉。
けれど、その中には多くのものが含まれていた。
ミレイアが小さく息を吐く。
「同じ共鳴でも、出方は相手によって違うわね。カレンは制御を安定させる。シエルは足りない魔力を補って、魔法を完成させる」
そこで、ミレイアは少しだけ目を細めた。
「やっぱり、偶然ではないわね」
その言葉が、訓練室の空気をさらに変えた。
カレンの炎。
シエルの氷。
どちらも違う形で、ルークの灰銀色魔力と噛み合った。
未完成で、危うくて、分からないことだらけ。
それでも、確かに再現できている。
その事実だけは、もう疑えなかった。
その沈黙の中で、フィアが小さく息を吸った。
カレンの炎は安定した。
シエルの氷は、完成形になった。
どちらも、目に見えて変化があった。
それを見ていたフィアは、胸の前で握っていた手に少しだけ力を込める。
自分にも、同じように何か起きるのだろうか。
カレンのような火力はない。
シエルの氷槍のように、目に見える完成形があるわけでもない。
それでも、ここで見ているだけでは終わりたくなかった。
「……あの」
小さな声に、全員の視線が向く。
フィアは一瞬だけ肩を揺らしたが、すぐに顔を上げた。
「私も、試してみたいです」
強い言葉ではなかった。
けれど、逃げるための声でもなかった。
自分の力で、何ができるのかを確かめたい。そんな控えめな前向きさが、その声にはあった。
ミレイアはまず、ルークへ視線を向ける。
「ルーク、いける?」
「はい。大丈夫です」
ルークはそう答えた。
カレンの時より、シエルの方が消耗は大きかった。額にはまだ薄く汗が残っている。それでも、身体が重く動かないほどではない。
ミレイアは頷き、今度はフィアを見た。
「なら、フィアは《風読》で試しましょう」
「《風読》……ですか?」
フィアが少し驚いたように目を瞬かせる。
攻撃魔法ではない。
そう思ったのだろう。
ミレイアは軽く肩をすくめた。
「アンタの場合、見るべきは火力じゃないわ。強みは、風で周りを読むこと。なら、試すべきはそっちよ」
「……はい」
フィアは小さく頷き、訓練室の中央へ進んだ。
緊張しているのは分かる。
けれど、その足取りは止まらなかった。
カレンが壁際で腕を組む。シエルは静かにフィアの術式を見る準備をしていた。ルークは、少し距離を取ってフィアの隣に立つ。
フィアは目を伏せ、深く息を吸った。
「――《風読》」
胸の前に、翠風色の術式が展開された。
そこから薄い風が広がっていく。
それは強い風ではない。
何かを斬る風でも、押し飛ばす風でもない。
ただ静かに、訓練室の空気へ溶け込んでいく。
円を描くように、ゆっくりと。
床を撫で、壁際へ届き、天井付近の防御用魔道具へ触れる。カレンの周囲を通り、シエルの足元を流れ、ミレイアの立つ位置まで広がっていく。
風が拾うのは、人の気配、呼吸、衣擦れ、魔力反応。床や壁に残る魔道具の微かな揺らぎまで、細かな情報がフィアへ返っていく。
カレンの熱。
シエルの周囲に残る冷気。
ミレイアの抑えた魔力。
ルークの灰銀色魔力。
訓練室そのものに残った魔力の反応。
共鳴前の《風読》は、基本的にフィアを中心として風を広げ、触れた情報を拾い上げる魔法だった。
拾える情報は多い。
だがその分、必要な情報だけを選ぶには集中がいる。
ミレイアは、翠風色の風が訓練室全体へ広がったのを確認してから、ルークへ合図した。
「ルーク」
「はい」
ルークは右手を上げ、フィアの胸の前に展開された《風読》の術式へ手をかざした。
触れるのはフィアではない。
翠風色の術式。
そこから広がる風の流れへ向けて、灰銀色魔力を伸ばす。
掌から細い魔力が流れ出し、空気を渡る。
灰銀色の魔力が、翠風色の術式に触れた。
その瞬間、風が一度だけ乱れた。
「っ……」
フィアが小さく息を呑む。
普段通り広がっていた《風読》に、別の魔力が触れたからだ。
ルークもすぐに出力を落とした。
風を押さえつけない。
広がっていく流れに、灰銀色の魔力をそっと乗せる。
灰銀色魔力が、《風読》の術式内へ少しずつ流れ込んでいく。
翠風色の魔力と、灰銀色の魔力。
二つの色が、術式の中で混ざり合った。
胸の前に浮かぶ翠風色の術式に、銀が差す。
そこから広がる風もまた、淡い銀を帯びていく。
翠銀色。
淡い銀を帯びた風が、フィアを中心に静かに揺れた。
その瞬間、フィアの表情が変わった。
驚いたように、目を見開く。
今まで、風は広がるものだった。
フィアを中心に全体へ流れ、触れた情報を拾い、まとめて返してくるものだった。
けれど今は違う。
広がった風が、自分の指先の延長のように感じられる。
ただ全体へ流れていくのではない。
向けられる。
絞れる。
薄くできる。
濃くできる。
翠銀色の風が、フィアの意志に応じて静かに動いた。
床を撫でるように低く流れ、そこからふわりと持ち上がる。天井近くへ広がったかと思えば、すぐに細くまとまり、壁際を沿うように回り込む。
カレンの周囲に残る熱を避けるように流れ、シエルの足元へ細く伸びる。
もう、ただ広がっているだけではない。
フィアが望んだ場所へ。
望んだ濃さで。
風が吹いている。
「……風が、動きます」
フィアが呟いた。
その声には、驚きが混じっていた。
ミレイアが目を細める。
「どう違うの?」
フィアは翠銀色の風を感じながら、言葉を探す。
「今までは、広げるだけでした」
ゆっくりと、確かめるように言う。
「広がった風が拾ったものを、全部受け取ってる感じで……でも今は、こっちに向けるとか、少しだけ薄くするとか、できます」
翠銀色の風が、フィアの言葉に合わせるように細く流れを変える。
「全部が一度に返ってくるんじゃなくて、見たいところを選べる感じです。余計な音とか、魔力の揺れが……少し遠くなるというか」
シエルが、術式を見ながら短く呟いた。
「風の流れを、制御してる」
翠銀色の風を目で追う。
「なるほどね」
ミレイアが頷いた。
「必要な情報を選べるようになってるってこと。ノイズを減らして、焦点を合わせてるのね」
ミレイアはフィアを見る。
その視線は、評価するものだった。
けれど、完成したと認めるものではない。
まだ先があると見ている目だ。
「フィア。アンタの《風読》は、もう戦力になってる」
フィアが、小さく目を見開いた。
ミレイアは続ける。
「初めてのクエストでも、アンタはちゃんと風で周りを読んで、仲間のために使えてた。そこは疑わなくていい」
「……はい」
「でも今のままだと、拾う情報が多すぎる時に振り回される。これから磨くべきなのは、どこを見るか、何を拾うかを選ぶ力よ」
フィアは、翠銀色の風を見つめた。
自分を中心に広がっていた風。
ただ、周りの情報を運んでくるだけだった風。
その風が今、自分の意志で動いている。
仲間のために、必要な情報を探しに行ける。
そう思えた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
フィアはゆっくりと《風読》を解いた。
胸の前に浮かんでいた翠銀色の術式がほどけ、訓練室に広がっていた風も空気に溶けるように薄れていく。
派手な攻撃ではない。
カレンの炎のように、目に見えて火力が変わったわけでもない。シエルの氷のように、完成形が形になったわけでもない。
それでも、フィアには確かな手応えが残っていた。
今まで受け取るだけだった風を、自分の意志で動かせた。
その手応えが、確かに胸の奥へ残っていた。
「……もう少し、試してみたいです」
小さな声だった。
けれど、最初に「試してみたい」と言った時より、少しだけ芯があった。
ミレイアは軽く笑う。
「ええ。そこを伸ばしなさい」
カレンが肩をすくめた。
「地味だけど、戦闘中にそれやれたらかなり助かるわね」
シエルも小さく頷く。
「指示がより正確になる」
フィアは少し驚いたように二人を見た。
それから、照れたように小さく笑う。
自分の力が、仲間の役に立つかもしれない。
その手応えが、確かに胸の奥へ残っていた。
◇
訓練が終わる頃には、全員がそれなりに疲れていた。
カレンは壁際に背を預け、腕を組んだまま息を吐く。シエルは無言で自分の手元を見下ろし、何かを確かめるように指先を動かしていた。
フィアはまだ少し落ち着かない様子だったが、表情は悪くない。
そしてルークも、右手を軽く握っては開いていた。
三人それぞれの術式に、自分の灰銀色魔力が混ざった感覚が、まだ手のひらに残っている。
カレンの炎は、強く、荒く、前へ押し出す力だった。
シエルの氷は、精密で、静かで、足りない魔力を待っているようだった。
フィアの風は、広がり、流れ、掴もうとすれば指の間を抜けていくようで、それでいて共鳴した瞬間、確かに形を変えた。
同じ共鳴でも、同じではない。
相手によって、触れ方も、支え方も、ルークに返ってくる重さも違う。
ルークはそのことを、ようやく少しだけ理解し始めていた。
少し離れた壁際で、カレンがぽつりと呟いた。
「……変なパーティー」
呆れているようで、突き放しているわけではない。むしろ、その声にはどこか納得に近い響きがあった。
シエルが小さく頷く。
「でも、昨日より繋がり方は分かった」
フィアも、少しだけ笑った。
「はい。少しだけ……私にも、分かった気がします」
ミレイアは四人を見ながら、腕を組んでいた。
「まだまだよ」
その声に、三人の視線が向く。
「再現できたのは大きい。でも、安定して使えるかは別問題。戦闘中に同じことができるかも分からないし、相手ごとに作用も負荷も違う」
ミレイアは、ルークを見る。
「特にルーク。アンタは支える側だからこそ、無理をすれば一番先に崩れるわ」
「……はい」
ルークは素直に頷いた。
今日の検証だけでも分かった。
カレンの時は、荒れる炎の流れを整えた。
シエルの時は、不足している魔力を補った分、消耗が大きかった。
フィアの時は、広がる風の流れに合わせる必要があった。
同じやり方では駄目だ。
同じ力の使い方でもない。
けれど、それでも。
昨日まで偶然だったものに、少しだけ輪郭が見えた。
分からないことは多い。
危険性もある。
まだ未完成で、実戦で自由に使えるようなものではない。
それでも、確かに前へ進んでいる。
「……もっと、強くなれる気がする」
ルークの口から、自然とそんな言葉がこぼれた。
自分だけではない。
四人で、だ。
(四人なら、まだ先に行けるかもしれない)
カレンが横目で見る。
シエルも静かに顔を上げる。
フィアは、少し嬉しそうに目を細めた。
同じ訓練室。
同じ空間。
けれど、昨日までより四人の距離は少しだけ近かった。




