登場人物の来歴その一
物語の進行とは関係がありません。
なお、Wikipediaの記事を参考にし、省略など編集しただけのモノです。
主な登場人物の来歴
小西行長:本編の主人公で、アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名。
1558年、和泉国堺の商人、小西隆佐の次男として京都に生まれる。
備前国の魚屋の養子となるが、出入りしていた宇喜多家当主直家に見いだされて武士となり、家臣になる。
直家の使者として羽柴秀吉に遣わされ、そこで秀吉に気に入られて臣下となった。
舟奉行に任命されて水軍を率い、紀州征伐では負けたものの、太田城の水攻めでは安宅船や大砲を使い、城を攻撃して功績を上げた。
1585年に小豆島1万石を与えられる。
その頃、高山右近に勧められてキリシタンとなり、小豆島にグレゴリオ・デ・セスペダスを招いてキリスト教の布教を行った。
1587年に出された伴天連追放令の際、改易された右近を島に匿って秀吉を諫めた。
1587年の九州平定、1588年の肥後国人一揆の討伐に功績を上げ、肥後国の南半分である宇土、益城、八代20万石を与えられた。
1589年に宇土城を築城したが、普請に従わなかった天草五人衆と戦となり、肥後国の北半分を拝していた加藤清正と共に平定した。
その際、天草はキリシタンの多い地域であったので、行長はまずは説得をするべく動いていたが、清正は出兵を強行し、瞬く間に鎮圧した。
これにより二人は確執を深めていく。
なお、この頃の天草は人口3万のうち2万3千人余りがキリシタンであり、60人の神父、30の教会があったという。
志岐氏の所領である志岐にはイタリア人修道士であるジョバンニ・ニコラオが派遣されて聖像学校が作られていた。
そこでは油絵、水彩画、銅版画が教えられ、パイプオルガン、時計の製作が
為されていた。
これらイエズス会の活動には行長が援助を与えている。
加藤清正:地震加藤、鬼将軍、肥後の虎と渾名された猛将で、賤ケ岳七本槍の一人。
1562年、刀鍛冶である加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村)に生まれる。
清正が3歳の時に父が死去したため、母伊都と共に津島に移る。
羽柴秀吉の母である大政所と伊都が従姉妹という縁から、当時近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕えた。
清正は秀吉の親戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。
清正もその期待に応え、忠義を尽くして仕えた。
1582年、中国経略中の秀吉が冠山城を攻めた際、清正は城に一番乗りを果たし、竹井将監という豪の者を討ち取った。
1582年に本能寺の変が起こると、秀吉に従い山崎の戦いに参加する。
1583年の賤ケ岳の戦いでは敵将山路正国を討ち取り、秀吉より「賤ケ岳の七本槍」の一人と評された。
1586年、秀吉の九州平定に従い、肥後国領主となっていた佐々成政が失政により改易されると、それに替わって肥後国の北半分19万5千石を与えられた。
1591年、隈本城を改築し、熊本城とした。
秀吉が清正に期待していたのは、豊臣政権下での財務官僚的な役割である。
成り上がりの秀吉には一門がいないと言ってよく、また、他の大名家の様に長年仕えてきた家臣団という存在が無い。
その中にあって親戚である清正は貴重な存在であり、戦で軽々しく命を落とす事があってはならない。
後方支援に充て、政権の安定に努めさせた。
清正もその役割を十分に理解していたのか、播磨国や和泉国にあった蔵入地の代官、九州平定後の上使としての戦後処理、讃岐国の臨時代官業務を良く務めた。
肥後における統治は良好で、田麦を特産化して南蛮貿易の決済に当てるなど、治水以外の商業政策でも優れた手腕を発揮した。
宗義智:対馬領主宗氏の20代当主で、行長の娘妙(洗礼名マリア)を正室とした。
1568年、宗家15代当主将盛の4男として生まれる。
18代当主となった長兄茂尚が早世し、その後を継いだ次兄義純も早世した為、17代当主義調の養子となって家督を継ぎ、宗家の当主となった。
1587年、隠居していた養父義調が当主として復帰した為、家督を返上する事となる。
これは同年に始まった秀吉による九州征伐に際し、恭順する為であった。
この頃、秀吉から李氏朝鮮を服属させるようにと命を受け、養父である義調や舅の小西行長、島井宗室らと共に交渉に尽力した。
宗氏が交渉役に選ばれたのは、対馬の領主として代々朝鮮半島と交易を行っており、言葉に不自由しないと考えたからであろう。
1588年に義調が死去するなどの悪条件もあり、交渉は思う様には進まなかった。
1590年、李氏朝鮮から来日した使節を服属使と称し、秀吉に謁見させた。
秀吉はこれを以て朝鮮が服属したものと受け止め、明の征服事業の先導役を使節に命じる。
しかし、この使節団の実態は、秀吉による全国統一を祝って欲しいと偽り、義智や行長が朝鮮側に要請してようやく実現したモノであった。
李氏朝鮮は建国以来、明の冊封国である。
そんな朝鮮が明を征服する先導役を担うなどあり得ず、窮した義智らは朝鮮に伝えるべき明征服の先導命令を、明への道を貸すようにと再び偽り、要請したがこれも実現せず、遂に1592年の文禄の役を迎える。
九鬼嘉隆:織田信長、豊臣秀吉に仕え、九鬼水軍を率いた水軍武将であり、海賊大名の異称がある。
1542年、九鬼定隆の3男として生まれる。
滝川一益の仲介により、桶狭間の戦いを制した織田信長に仕えた。
1569年、信長が北畠具教を攻めた時、水軍を率いて大淀城を陥落させるなど活躍した為、正式に織田家の家臣団の一員になった。
その後、志摩の地頭を次々と倒した嘉隆に対し、信長が志摩国の領有を認めた。
1574年、信長が伊勢長島の一向一揆を鎮圧する際、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護し、敵陣攻略に活躍した。
1576年、石山本願寺についた毛利水軍600隻に対し、織田水軍は300隻であった為、摂津木津川沖で戦ったものの大敗を喫した。
この敗戦に激怒した信長は、嘉隆に命じて燃えない船の建造を命じた。
嘉隆が辿り着いた答えは船に鉄を貼った鉄甲船で、莫大な資金をかけて完成させた。
1578年、嘉隆の率いる6隻の鉄甲船と、滝川一益の大船が石山本願寺の抵抗を物ともせず、堺の港に入ってその力を見せた。
これに対して石山本願寺は再び毛利水軍に援軍を頼み、第二次木津川口の戦いが起きる。
鉄甲船の威力は凄まじく、嘉隆は毛利水軍600隻の撃破に成功した。
この戦功によって加増され、3万5千石の大名となった。
1582年に起きた本能寺の変の後には織田信雄に仕えたが、1584年の小牧・長久手の戦いでは滝川一益の誘いによって羽柴秀吉に寝返った。
松ヶ島城の海上封鎖、三河国沿岸の襲撃、蟹江城合戦に参加し、蒲生氏郷が南伊勢に入部されると氏郷の与力として配属された。
しかし秀吉にも信長同様水軍の頭領として重用され、1587年の九州平定、1590年の小田原征伐に参陣しているが、奥州仕置での氏郷の会津転封には随行しなかった。
1592年、文禄の役に参加する。
宇喜多秀家:豊臣政権末期の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用された。
通称は備前宰相。
1572年、謀聖と渾名された備前国岡山城主宇喜多直家の次男として生まれる。
1581年、直家の病死に伴い、宇喜多家が従属していた織田信長により本領を安堵され、家督を継ぐ。
直家の死後、宇喜多軍は信長の命によって中国遠征を進めていた羽柴秀吉の遠征軍に組み込まれ、備中高松城攻めに協力した。
ただし、この時の秀家は幼少の為、叔父の宇喜多忠家が代理として軍を率いている。
翌年に起きた本能寺の変によって信長が死去し、秀吉と毛利輝元は和睦する事となり、秀家は本領を安堵されて備中、美作、備前57万石を拝する大名となり、毛利家の監視役となった。
秀吉の寵愛を受けて猶子となり、秀吉の養女(前田利家の娘)であった豪姫を正室とし、外様ではあるが秀吉一門衆としての扱いを受けた。
1584年の小牧・長久手の戦いでは大坂城を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退した。
1585年、紀州征伐に参加した後、四国攻めでは讃岐に上陸した後に阿波戦線に加わった。
1586年の九州征伐には豊臣秀長の下、毛利輝元や宮部継潤、藤堂高虎と共に日向戦線に参加した。
1590年、小田原征伐にも参加している。
1592年の文禄の役には総大将に任命された。




