第三八譚 ラストダンス〈3〉
「ごめんね。私って、結局『人でなし(こう)』なの」
少年の胸、真一文字。ザックリと一閃。
接近して斬り付けたから大量の返り血がびちゃびちゃと楓を濡す。気持ち悪い。だがそれを含めて楓は嗤っていた。
「か、……」
ふらふらと少年は後退して、一本残っている右手を傷口に当てる。刀の柄を血がジットリと侵食していく様子がはっきりと見えた。溢れ出す鮮血が彼の足下のドロに溶け、奇妙なマーブル模様が浮かび上がっている。
「ホントは、今ので終わりにするつもりだったんだけど」
感心していた。
楓は、先程の一撃で決めるつもりでいた。両断するつもりだった。
「さすがは、って感じ」
必殺の一撃を少年は避けた。咄嗟の行動だったのだろう。
(少し甘く見てたかな……)
嗤いながら、いい気味だと嘲笑しながらも楓は少年を観察する。
(まだ、うん。来れる)
顔面蒼白、出血も甚だしい。左腕もまるまる一本失っている。常人なら気を失ってもいいような気がするが、少年は斃れなかった。恐らく医学的にも有り得ないことなんだろうが、彼は残念なことに『常人』というカテゴリーにカテゴライズできない。楓だって同類ではあるのだがこの際そんなことはどうだっていい。何にせよ、斃れなかったと言うことは、この少年ならまだやれるだろう。傷口を残った右手で押さえているが、それでも刀を振れる。それだけでも十分楓にとっては脅威だ。
流石に、今の楓の戦闘技術では一撃では仕留められない。が、連続攻撃に耐えられるほど彼の体力は残されていないだろう。
(いい加減、雨も酷くなってきたな)
そろそろ、潮時だろう。
ゆっくりと少年の元に歩み寄り、そして大鎌を目一杯振り上げた。
「バイバイ。オヤスミナサイなんて言ってあげない」
終わった。
振り下ろす。
身体の芯から歓喜に振るえていた。
今までに感じたこともないような力が沸き上がってくる。
そして、完璧に目の前の満身創痍の『追捕使』を上回っていたという自覚があった。
思えば、少年は最初から間違っていたのだ。
楓を殺す気など無かった。終始、防戦に徹していた。それが仇となった。初めから全力で楓を潰しにかかっていたら少年は間違いなく楓を瞬殺していただろう。これは別に変な負け惜しみなどではない。紛れもない事実だ。そこには感情が入る余地は一切無い。
そう。少年は自ら勝利を楓に渡したようなモノだ。自分はそれを確実に生かしただけ。
勝った。勝った。これは勝った。いくら『追捕使』でも眼前で大鎌を振り下ろされたら生きていられるはずがない。縦に両断された死体が次の瞬間に拝むことが出来る。素直に楓はそう思っていたのだが、
ザシュッと。
灼熱したいくつもの痛みが楓を貫いた。
何が起こったか分からなかった。
「が……ッ?!」
続いてあちこちの皮膚繊維がブチブチと千切れるような鈍い感触。
それは聴覚ではなく、身体の芯に訴えてくる直接的な激痛。左袖が弾け飛び、同時に鮮血が吹き出す。両足に深い刀傷。眩暈がする。身体を揺さぶる激痛に立っていられないが後ろ足で踏ん張る。
少年は動いていない。
口の端から血の糸を垂らしながら、刀を握っている右腕も未だ傷口に当てたまま。
「―――それが、オレの罪だって言うのなら」
激痛で視界が歪む。これは精神力でどうこうできる範疇を超えていた。
「オレはいいよ。もう一度、斬ってあげる。罪を上塗りするよ」
傷口から右手が離れ、少年は握る刀をバトンのように回す。刀に付着していた鮮血が点々と地面に血玉を付け、雨に混じって流されていき、―――ここでようやく楓は察した。
刀に付着している鮮血。あれは、少年の物ではない。
あれは自分のだ、と。
「それが望みなら、オレは容赦しないよ。それが望みならね」
ガクンッと視界が揺れた。
足、足だ。やられた。深い。痛い。両足を一閃された。斬撃の軌道を捉えるどころか見えなかった。痺れ、足の感覚がない。傷口を少しで動かせば痛みが楓の脳内に収縮され、次々と炸裂していく。これではまともに大鎌を振るえない。それ以前に動けない。戦局を、ひっくり返された。
「死体でもいいよ。オレの想いは死体になっても大丈夫だから」
一歩一歩、少年が近付いてくる。
莫然と、終わってしまう、そう思った。
出血は止まりそうにない。それどころか酷くなっているような気さえしてくる。
刀を手に、少年は靴音を聞かせるようにゆっくりと間合いを詰める。
一歩一歩がカウントダウンだ。楓の命が狩り取られるまでの。
そう感じていたとき、少年は最後の一歩を踏み込んでいた。
「愛してるよ」
楓は答えない。
振り下ろされた。
◇◆
楓は目を丸くしていた。
「まだ、足掻くんだ。まだ、オレとの別れを惜しんでくれてるんだ」
鳴り響いた甲高い金属音。
気が付いたら、絶叫を噛み殺し、大鎌の柄を盾にして何とか斬撃を防いでいた。咄嗟の判断ではない。咄嗟の判断などと片付けてしまえるほど生半可なモノではなかった。きっと原始に刻まれた生存本能がボロボロの身体を動かしたのだ。楓は最後の力を振り絞るように、そのまま刀と盾にしている柄の作用点をずらして少年の勢いを外に逃がし、身体を捻って前方へと踏み出す。楓と少年が擦れ違い、斬撃が楓の肩口を抜ける。楓は激痛に気を飛ばしそうになりながらも片足を軸に九〇度回転し、即座に迎撃態勢を整えれば、岩をも破壊しかねない、突き出される切っ先。その軌道を湾曲した刃で何とか軌道を逸らし、僅かに崩れた少年の体勢、その隙を付き、後退、距離を取った。
「かー、はー……ッ!!」
たった数秒間動いただけなのに、全身から悲鳴が上がる。
少し少年の斬撃を受けただけでもうこのザマだった。少年の斬撃がいくら超人だろうと、常識に当てはまる物ではないだろうと、いくら何でも早過ぎる。
視線の向こうには、ゆっくり歩いてくる少年。
アレを近づけては、いけない。
大鎌を必死になって構える。
「愛してるよ」
語尾が脳に溶けた刹那の間。
少年は楓の間合いにいた。
目の前の光景に動揺する間もない。先程までとは比べようがないスピードで斬撃、刺突のコンビネーションが繰り出される。何とか斬撃を受け止め、刺突を躱していくが、すぐ回避が間に合わなくなる。かまいたちのように身体に細かい傷が走り、血が飛ぶ。身体が悲鳴を上げる。
限界だった。
そう認識した直後だった。
ギュウジャッ! と。
大鎌を握っていた五指が裂けて吹き飛んだ。
「ぃ、―――にァ……」
大鎌が泥水の中に落ちた。あまりの痛みで脳が麻痺、絶叫すら出来ない。痛いことすらよく分からない。本当に痛いのかどうかも分からない。だが、それでも痛かった。訳が分からない。楓は斬られた五指に左手を被せ、崩れ落ちた。熱い、焼けるようだ。激痛が襲う。痛い、痛すぎる。痛いとすら理解しかねているのに、痛い。
「愛してる」
耳を、そんな言葉が打ったような気がした。
「ああああああああああああああああああああああああああああ―――ッ!!!!」
最期の叫喚が土砂降りの中を突き裂いた。
頭が真っ白になる。
―――頭が、―――真っ白に、―――なった。
その瞬間、全てが吹き飛ぶ。
指のない右手で拳を作った。
絶叫しながら少年の顔面に向かって突き出せば、右腕は斬り落とされ、そして―――
それは終わりでもあり、始まりでもあった。