第三四譚 I don't want the future.
I don't want the future.(≒未来なんて欲しくない)
日はとっくに落ちていた。
ぐいぐいと引っ張られ、ハンバーガーショップから雑踏に入る。
クリスマスイヴの遊園地ということで、周囲は殆どカップルだった。だけれど、そんなことに構っているほど悠長な事態ではなかった。
腕が引っ張られて痛い。
神田は衆人環境なのに、怖い表情を崩さずに、引っ張る。
時より楓が上げる抗議の声を完璧に無視し、周囲から向けられる怪訝そうな眼差しをも堂々と無視して。
「ちょ……」
男の力がここまで強烈だとは思わなかった。
腕の痛みや、何が起こっているのか把握できない不安から、涙が出てきた。
涙で曇った目に景色は歪み、自分がどこに連れて行かれようとしているのかさえ分からない。
「かん―――」
だ。
そう声が出る前に、ガンッと衝撃が背中に走る。
慌てて目を見開けば回りは灰色の壁。取り囲まれている。ここが何処なのか分からないが、どうやらビルとビルとの間の路地らしい。暗い。
「姫……」
背には冷たい壁。
いつの間にか両手首を神田が掴んでいる。動けない。
「嫌っ、……」
無意識に拒絶する。
壁に押し付けられ、神田は楓に覆い被さるような体勢で楓を射抜いていた。楓の視界には神田以外何も見えない。怖い。殺されるあの恐怖とはまた別物の、恐怖。気迫に圧倒される。恐くてぎゅっと目を瞑った。
「嫌っ、放して!」
「落ち付けって」
怖い。
神田が神田じゃないような気がして、何が何だか分からない。もう嫌だ。
「はな、放してって!」
「嫌だ」
「嫌っ」
どんなに抵抗しても、暴れても。神田は楓の手首を放そうとしない。身体を捻ってもすぐ対応される。ならばとばかりに楓は蹴り上げようとするが、神田が一枚上手だった。身体を強引に楓にねじ込んで、押さえ付けられ、
―――どくん、と心臓が脈打った。
「あ―――」
身体を暖かさが包む。
抱きしめられた、と理解したときはもう身体が動かなかった。
巻き込むように囚われたまま、急速に楓の力は抜けて行く。
「泣くなよ」
暖かい。
抱き締められて、驚いて顔を上げる楓の顎に、ひんやりとした神田の指がそっと添えられて。
息が止まる。
優しさと温もりが同居しているような、そんな瞳から目が離せない。
「放して、よ」
「いやだ。姫が泣いてる理由教えてくれれば放しても良いけど?」
楓は押し黙る。
言うべきか、言わぬべきか。
言ったところで神田は信じてくれないだろう。
言ったところで神田は楓を見限るかもしれない。
それは、嫌だ。
信じてくれないのはまだいい。耐えられる。だけど見限られるのは、嫌だ。
「―――、死神だから」
直接告げるのは躊躇われた。
何よりも、神田に見限られたくなかった。
「みんな、不幸になる。みんな、殺しちゃう」
あの大鎌が、どす黒い北沢楓の本性が無性に忌まわしい。
「だから……」
「だから?」
次の言葉が出てこない。今度こそ神田を突き放すような言葉は、何一つとして出てこなかった。
頬が冷たい。
「だからどうしたって?」
神田は毅然と言った。
「死神だったらどうするんだよ?」
視線が交錯する。いろいろな感情が一気に溢れかえって、言葉が出ない。
胸が痛いくらいにいっぱいだった。
「―――己惚れるからな」
「嫌だって、……言ったら?」
「却下だ」
神田のシナリオ通りに動かされている気がして、だからせめて意地悪を、と思っての一言だったけれども簡単に打ち砕かれた。そう言われてしまえばもう何も言えない。
楓は傍若無人だなあと思いながらも、答えの代わりに目を閉じる。
すると、何だかんだで把握されていたのか、神田が苦笑する気配がする。
(むかつく)
蹴ってやろうかと思った瞬間、
「蹴ってもやめねぇからな」
優しい響きが楓の鼓膜を打った瞬間、優しく唇が触れ合った。
◇◆
パレードはまもなく始まった。
無数の輝きが踊る。
「あ、あのな……」
「うん」
「あれは」
「うん」
「だから」
「うん」
「やっぱりな」
「うん」
「いや、そーゆーわけでもなくて」
「うん」
「いやな、別に……」
「うん」
面白いな、と楓は思った。
あの時はあんなに自信満々だったのに、少し時間をおいて場所を広場に変え、ベンチに座った途端にこれだ。別に言い訳とか必要ないんだけれどな、そう楓は微笑む。
「―――姫?」
「なんでもない」
気分が良い。
ここまで晴れやかなのはきっと生まれて初めてだ。
「あ、そうだ」
「ん?」
「忘れてた」
神田は懐から何かを取り出して、
「クリスマスプレゼント」
小箱だった。
「クリスマスプレゼント?」
「メリークリスマス」
ポイッとあろう事か神田は放り投げた。慌てて楓は、その小箱を落とすまいと必死でキャッチする。
「……何これ?」
「開けてみ」
「―――ネックレス?」
「それがリングに見えるか?」
戯けたように神田は言う。
小箱に入っていたのは銀のネックレス。三日月を象ったものだ。
「昔喚いただろ? 『月が欲しい』って」
「そんな昔のこと……」
「忘れるかよ」
神田は悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、楓からネックレスを優しく奪うと、楓の首にそれをかけた。
「男って意外と執念深いんだぜ。まあ、大分小さくなっちゃったけど」
「ありがと」
「こんなんで良いならな」
「十分だよ」
我ながら、素直な反応が出来たと少し満足する。
「ありがと」
「さっき聞いた」
幸せだなあと、柄にもなく思って、
「どした?」
「あ、いや……プレゼントが、ない」
申し訳なくて、語尾になればなるほど小さくなってしまう。
「別に気にしなくても」
「でも……あ」
目に入ったのは母の形見のシルバーリング。
楓は左人差し指の飾り気のないそのシルバーリングをためらいなく抜いて、
「あげる。女物だけど我慢して」
神田に差し出せば、慌てたようにリングと楓の顔を交互に見て、
「え、これ?」
「いや?」
「そういう意味じゃなくてさ、これって……」
「いいの。持っててよ」
「でもな」
「うるさい」
一喝して、
「あげる。持ってなさい」
睨んだ。
神田はしばらく当惑顔だったけれど、やがて諦めたように溜め息を付く。
「じゃあ、ありがたく頂戴しますよ」
神田は楓の頭を撫でる。
「うん」
心地よかった。
紛れもなく、幸せだった。
◇◆
帰りは各停だった。
もう一〇分早く改札を抜ければ急行に間に合ったのだが、まあそんなことはどうでもいい。ゆっくりカタカタと、普段停まったことのないような駅にも停まるというのはなかなか新鮮だし、何よりも神田と少しでも長く一緒にいられて嬉しかった。
ホームに降り立ち、改札を抜ける。
「じゃあな。また今度」
「うん。メールするよ」
「俺は電話がいいんだけど……」
「じゃあ電話にする」
楓は優しく笑っていた。
「おう」
笑う。
笑い方は秘密基地を造って遊んでいたころと変わらなかった。
「じゃ、俺は帰るけど、送るか?」
「良い大丈夫。ちょっと買いたい物あるから」
「付き合うって」
「いいよ。買い物って言ってもコンビニで済ませられるし」
「コンビニじゃなくて夜道だよ。夜道の一人歩きは危ないって」
「大丈夫だって。私を襲うような人なんていないし」
「―――俺」
「は?」
「お前を襲う人」
「ば、何言ってんの!」
顔を真っ赤にして楓は叫ぶ。
「ははは。冗談じゃねぇから」
「ええ!?」
豪快に神田は笑って、
「じゃあ俺は帰るからな、気を付けろよ?」
「うん。バイバイ、ユウちゃん」
勇気を出して呼んだその呼び名が妙に懐かしい。
「あ」
「なに?」
「お前、そのカッコ似合ってる」
「え、あ」
慌てる楓に、神田は笑っていた。
それは優しく、見る者を和ませるような微笑み。そして―――
「じゃ、バイバイ」
それは、他愛のない別れの挨拶。
何の変哲もない、普通の、有り触れた。
楓の『バイバイ』を捩ったような、神田には相応しくない挨拶。
楓はと言うと、答えることが出来ないでいた。
あまりに遅い『似合ってる』の一言。
気付くのが遅い。
そう罵ってやりたかったけれど、楓は言葉を発することが出来なかった。
(未練がましいな)
やがて神田の姿が闇に熔け、ぼんやり思う。
そして、気付く。
(雪、か)
チラチラと舞っている。
ホワイトクリスマスとはよく言ったのもだ。
(っと、時間は―――)
携帯を取り出し、時間を確認すると、九時三四分。
クリスマスイヴのデートとしてはかなり清きお付き合いだったと思う。自分も人のこと言えた口ではないが、神田は意外と奥手なのかも知れない。まあ楓も初めてなんてあんなモノかなあと楓は思うから特に気にしない。段階を踏めばいい。機会はいくらでもあるのだから。
(さてっと)
楓は『コンビニに背を向けて』駅へと踵を返し、コインロッカーにバッグを突っ込んで鍵を閉めた。
「横浜だったっけ……」
自分に言い聞かせるよう、呟く。
(ここから人目に付かないように『飛んで』いけば、丁度良いかな)
楓は人気のない場所に赴くと、闇に紛れ、飛ぶ。
ここからは、世界が違う。
そうだった。私は世界に刻まれていなかった。やっぱり私は邪魔者だったのだ。