第14話_カムイ
戦いを終えたステラは、ゆっくりと川へ視線を
戻した。
「……そうだった」
そこには今も、白く巨大な身体を半分ほど水へ
沈めたまま、カムイが横たわっている。
「カムイ!」
ステラは慌てて駆け寄った。
いくら魔物とはいえ、このまま川の中へ放置して
おけば溺れてしまうかもしれない。
「よいしょ……っと!」
巨大な前脚を掴む。
見上げるほど大きな身体。
ステラとは比べものにならないほど重い。
それでも。
「んんんんっ……!」
全身へ魔気力を巡らせる。
腕。
脚。
腰。
身体全体の力を使い――。
ズズズズッ……。
カムイの巨体を、少しずつ川岸へ引き上げていく。
河原の石が押し退けられ。
やがて。
ドスンッ。
巨大な身体が完全に岸へ上がった。
「ふぅ……重かったぁ」
額を拭いながら、ステラはカムイの傍へしゃがみ
込む。
「生きてる……よね?」
胸元へ耳を近づける。
ゆっくりと規則的に大きな胸が上下している。
「……よかった」
呼吸はある。
どうやら生きてはいるらしい。
けれど。
「…………」
改めて見るとその身体は酷い状態だった。
真っ白な毛並みのあちこちが血で赤く染まっている。
鋭い爪で裂かれたような傷。
大きく抉られた箇所。
白虎との戦いで負ったのだろう、出血もかなり多い。
川の水へ流れ出ていた血の量を考えれば、このまま
放っておくのは危険そうだった。
「どうしよう……」
ステラは困ったように眉を寄せる。
そして、カムイの大きな身体を見つめた。
「魔物を回復するって……どうなんだろう」
お師匠様からは、魔物は危険な存在だと教えられ
てきた。
人を襲う。
命を奪う。
だから、必要であれば倒さなければならない。
それは何度も聞かされている。
「でも……」
回復させてはいけない。
そう教えられた覚えはなかった。
「…………」
カムイを見る。
以前全力で戦った相手。
今でもいつかもう一度戦いたいと思っている相手。
そして、ついさっきまで白虎から守ろうとしていた
相手。
「うーん……」
腕を組み、少しだけ悩む。
魔物だから助けてはいけないのか。
それとも。
助けたいと思ったなら、助けてもいいのか。
「…………」
しばらく考えたあとステラは小さく頷いた。
「うん」
答えはとても単純だった。
「ここは――私の気持ちで!」
そう決めた。
助けたい。
なら、助ける。
それでいい。
◇
「とは言っても……」
ステラはカムイの傷を見つめる。
「回復魔法って、使ったことないんだよね」
正確には、まだお師匠様から教えてもらって
いなかった。
そして、教わる必要もなかった。
ステラ自身、これまでほとんど怪我をしたことが
なかったからだ。
魔気力によって身体は常に守られ、転んでも、
魔物に攻撃されても、傷らしい傷を負ったことなど
ない。
つい先ほど、白虎に蹴り飛ばされた時が生まれて
初めて、まともに傷を負った瞬間だったくらいだ。
「回復魔法かぁ……」
お師匠様が使っているところなら、何度も見たこと
はある。
けれど。
どうやっているのかまでは分からない。
「…………」
それでも、なんとなく…。
できるような気がした。
傷付いた身体へ自分の力を分け与える。
そうすれば少しくらいは元気になるのではないか。
「……やってみよ」
ステラはカムイの大きな身体へ手を置いた。
「ちょっとだけ我慢してね」
眠っている相手へ声を掛け。
目を閉じる。
そして、自分の中を流れている魔気力をゆっくり
とカムイの身体へ流し込んだ。
「…………!」
その瞬間。
ぐんっ――。
想像していた以上の勢いで魔気力が吸い込まれて
いった。
「えっ」
まるで乾いた大地へ水を流し込んでいるようだった。
流しても。
流しても。
巨大な身体が次々と魔気力を飲み込んでいく。
(これ……どこまで吸うんだろう)
少しだけ不安になる。
けれど手を離すことはしなかった。
魔気力を流し続ける。
すると。
「あ……」
変化が現れ始めた。
先ほどまで止まらなかった出血が少しずつ、本当に
少しずつ弱くなっていく。
「効いてる……?」
さらに流す。
すると、傷口から溢れていた血が目に見えて減って
いった。
「すごい……」
どういう仕組みなのか。
自分でも分からない。
魔気力そのものが傷を治しているのか。
カムイ自身の生命力を高めているのか。
それとも。
身体が自分で治ろうとする力を、魔気力が助けて
いるのか。
今のステラには判断できない。
ただ、確かなことは一つ。
効いている。
「もう少し……」
さらに魔気力を流し続けた。
大量の力が、カムイの巨体へ吸い込まれていく。
しばらくすると――。
「……あれ?」
突然。
吸収が止まった。
流そうとしても。
先ほどまでのようには入っていかない。
「もういいのかな?」
ステラは手を離した。
「ふぅ……」
小さく息を吐く。
思っていた以上に、かなり持っていかれた。
自分の中に残っている魔気力を確認する。
「……五分の一くらいかな」
総量のおよそ五分の一。
普通の魔法使いであれば、それだけでもとてつも
ない量なのだろう。
けれど、ステラにとってはまだ十分余裕がある。
「まあ……この大きさだもんね」
目の前の巨体を見上げる。
自分の何倍あるのか分からない。
これだけ大きければ、それだけ力が必要なのも当然
なのかもしれない。
「…………」
カムイは。
まだ眠っている。
呼吸は先ほどよりも少しだけ落ち着いているよう
に感じた。
少なくとも出血はほとんど止まった。
「これなら、大丈夫かな」
ステラはほっと息を吐いた。
とはいえ。
「……このまま置いていくのもなぁ」
周囲を見る。
先ほど二匹の白虎が逃げていった森。
今は姿が見えない。
けれどまた戻ってこないとも限らない。
あるいは白虎以外の魔物が血の匂いにつられて
現れるかもしれない。
「せっかく治したのに、また襲われたら意味ない
もんね」
少し考えて。
「うん」
決めた。
「起きるまで、一緒にいてあげよ」
カムイのすぐ近くへ腰を下ろす。
「…………」
巨大な白い熊。
以前は宿敵…そんなふうに思っていた。
いつか倒したい。
いつか勝ちたい。
自分の強さを確かめる相手。
そういう存在だった。
「…………」
眠り続けるカムイの顔を眺める。
「こうして見ると……」
少しだけ可愛いような気もする。
もちろん目を覚ませば、森の王と呼ばれるほど凶暴
で強大な魔物なのだろう。
それでも。
「なんか……放っておけないなぁ」
自分でも少し不思議だった。
あれほどもう一度戦いたいと思っていた相手なのに。
傷付いている姿を見ると助けたいと思ってしまった。
「……変なの」
ステラは小さく笑った。
そして、カムイの白い毛へそっと手を置く。
ふわふわとして少しだけ温かい。
「ちゃんと起きてよね」
返事はない。
規則正しい呼吸だけが聞こえる。
「まだ――」
ステラはほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「もう一回、戦ってもらわないと困るんだから」
宿敵だったはずのカムイ。
いつの間にかその存在へ――。
ほんの少しだけ愛着を感じ始めている。
そんな自分にステラはまだ気付いていなかった。
◇
「…………」
カムイが目を覚ますまで。
特にすることもなくなってしまった。
ステラはしばらく河原へ座り込んでいたが、ふと
先ほど倒した白虎へ目を向ける。
「そうだ。今のうちにやっちゃお」
このまま放っておくのも勿体ない。
ステラは立ち上がると、白虎の解体を始めること
にした。
まずは――心臓。
巨大な身体を切り開き、奥へ手を入れていく。
そして。
「あった」
取り出したものを見て。
「……ん?」
ステラは首を傾げた。
手の中にあるのは、白虎の魔石。
だが――。
「白い……?」
これまで魔物から取り出してきた魔石とは、明らか
に違っていた。
赤。
青。
今まで見てきたものには、それぞれ何かしらの色が
あった。
しかし、白虎の心臓から取り出した魔石は――純白。
しかも――。
「おっきい……」
今まで手に入れてきたものより、明らかに大きい。
陽の光へ翳してみれば、白い輝きが内部から微かに
揺らめいている。
「やっぱり、普通の魔物とは違うのかなぁ」
先ほどの異常な強さを思い出す。
魔法をほとんど受け付けない毛皮。
ステラの全力の打撃を受けても傷一つ付かない肉体。
そして――。
仲間を強化する能力と、三匹での高度な連携。
普通の魔物と同じではない。
そう考える方が自然だった。
「これは取っておこ」
白い魔石を指輪へ収納する。
次に目を付けたのは――。
「やっぱり、これだよね」
真っ白な毛皮。
手を触れてみる。
「ふわふわ……」
柔らかく、滑らかで、手触りもいい。
けれど、この毛皮が持つ本当の価値は、そんなもの
ではない。
「私の魔法、ほとんど効かなかったもんね」
水穿を何発撃ち込んでも、水刃を直撃させても、
傷一つ付かなかった。
「これ、絶対すごいやつだよ」
魔法をほとんど受け付けない毛皮。
そんなものが希少でないはずがない。
ステラは傷つけないよう慎重に、白虎から毛皮を
剥ぎ取っていった。
そして、解体を続けている途中。
「…………あれ?」
もう一つ。
奇妙なものを見つけた。
「目が……?」
白虎の眼球。
生きていた時には、確かに黄金色の瞳だった。
普通の目にしか見えなかったはずなのに。
今は違う。
「これ……魔石?」
取り出してみる。
硬い。
間違いない。
魔石へ変わっている。
「心臓だけじゃないんだ……」
ステラは興味深そうに手の中のそれを眺める。
しかも、こちらは心臓から取り出した白い魔石とも
違う。
赤でもない。
青でもない。
白ですらない。
ステラが今まで見てきたどの色にも属して
いなかった。
「会った時は普通の目だったよね……?」
戦っていた時。
白虎の目は確かに魔石ではなかった。
ならば。
「死んだら魔石になる……とか?」
今のステラには、それ以上のことは分からない。
ただ、これも普通の魔物には見られなかった特徴だ。
「これも持っていこ」
心臓の白い魔石。
特殊な瞳の魔石。
そして、魔法をほとんど受け付けない白い毛皮。
採取できるものをすべて回収し。
ステラは指輪の中へ大切に収納していった。
◇
「さてと……」
素材の回収が終わると。
今度は残った白虎の身体を処理していく。
肉を削ぎ落とし。
食べられそうな部分を切り分けて――。
その時だった。
ぐぅぅぅぅぅぅぅ~~~~。
「…………」
河原に随分と盛大な音が響いた。
ステラの手が止まる。
「……お腹減った」
考えてみれば白虎三匹との戦闘。
さらに。
その直後には、瀕死のカムイへ大量の魔気力を
分け与えた。
自分ではまだ余裕があるつもりでも。身体の方はしっかりと消耗を感じていたらしい。
「じゃあ……」
ちらり。
目の前の肉を見る。
「食べてみよっかな」
白虎の肉。
今まで一度も食べたことがない。
というより、白虎そのものを見たのが今日初めて
なのだ。
「どんな味なんだろう……」
想像しただけでまたお腹が鳴りそうになる。
ステラは指輪へ魔力を流し込み、料理道具一式を
取り出した。
金属プレートを用意し、熱を加える。
そして、切り分けた白虎の肉をその上へ並べて
いった。
ジューッ!
ジューッ!
途端に肉の焼ける香ばしい音が響き始める。
「おぉ……」
脂が溶け。
表面が少しずつ焼けていく。
それと同時に食欲を刺激する香りが辺りへ広がった。
「このお肉、どんな味がするんだろう……じゅるり」
思わず口元へ手を当てる。
危ない。
普通によだれが出そうだった。
「まだ、まだ……」
食べたい気持ちを抑えながら。
ステラは肉をひっくり返す。
ジューッ!
再び美味しそうな音。
「…………」
焼き上がるのを待ちながら、ステラは先ほど肉を
切り分けた時の感触を思い出していた。
(でも……不思議だなぁ)
白虎の肉は思っていた以上に――柔らかかった。
ステラは最初、あれほど打撃が効かなかったの
だから、全身がとてつもなく硬い筋肉で覆われている
のだと思っていた。
だが実際に解体してみれば、特別に筋肉質という
わけでもない。
肉そのものも、普通に刃を入れられるほど柔らかい。
「魔法は毛皮が防いでたとして……」
水穿。
水刃。
あれらを防いでいたのは、おそらく白い毛皮。
「じゃあ、私の掌底とか蹴りは……?」
あれだけの力で殴った。
蹴った。
それでも白虎の身体には傷一つ付かなかった。
「…………」
ステラは少し考えて一つの可能性へ辿り着く。
「もしかして……私と同じ?」
魔気力。
ステラ自身も戦う時には魔気力を全身へ巡らせ、
肉体を強化している。
そのおかげで今まで魔物の攻撃を受けても、
ほとんど傷を負ったことがなかった。
なら。
「白虎も、魔気力で身体を強くしてた……?」
そう考えれば――。
柔らかな肉体でありながら、ステラの打撃を無傷で
受けられたことにも説明がつく。
「うーん……」
確証はない。
今のところは、ただの予想。
それでも。
「たぶん、そんな気がする」
この森にはまだまだ自分の知らないことがある。
そんなことを考えているうちに――。
ふわり。
「……!」
焼けた肉の香りが鼻へ届いた。
ステラの思考は一瞬ですべて食事へ持っていかれた。
「焼けた!」
金属プレートの上では白虎の肉が美味しそうな
焼き色をつけている。
「いっただきまーす!」
一切れ取って。
ぱくっ。
「…………」
噛んだ――。
その瞬間。
トロッ。
「んっ!?」
柔らかい。
驚くほど柔らかい。
噛み締めるというより、口の中でとろけていく
ような感触。
程よく乗った脂から濃厚な旨味が広がり、噛む
たびに今まで食べたどの肉とも違う味が口いっぱい
に溢れてくる。
「…………!」
ステラの目が見開かれた。
そして。
「うまっ!」
次の一切れへ手が伸びる。
ぱくっ。
「ん~~!」
もう一切れ。
ぱくっ。
さらに。
ぱくっ。
ぱくっ。
ぱくっ。
「おいひい……!」
止まらない。
白虎との死闘が嘘だったかのように、先ほどまで
敵だった魔物の肉をステラは次々と口へ運んでいく。
そして、しばらくして。
「ふぅ~~……」
ようやく手が止まった。
お腹はいっぱい。
ステラは満足そうに身体を後ろへ倒し。
ぽんぽん。
膨れたお腹を優しくさする。
「はぁ~……しあわせ~」
うっとり。
完全に幸せそうな表情だった。
だが。
「…………」
視線を横へ向ける。
「まだ、こんなにあるんだよねぇ」
当然だ。
白虎は巨大だった。
ステラ一人が満腹になるまで食べたところで、肉はまだ大量に残っている。
「どうしようかなぁ……」
今まで通り水分を抜いて干し肉へ加工すれば保存は
できる。
けれど。
「これ、干し肉にするの……もったいないなぁ」
せっかくこれほど柔らかくて美味しい肉なのだ。
できることなら生の状態のまま、今の品質を
落とさずに保存したい。
「うーん……」
腕を組む。
指輪の中へそのまま入れても時間が止まるわけ
ではない。
生肉なら腐ってしまうだろう。
何か方法はないか。
冷たくする?
凍らせる?
別の魔法を使う?
「…………」
しばらく考えてみる。
だが。
「思いつかない……」
今のステラには良い方法を見つけることができな
かった。
「…………」
美味しかった肉を見つめる。
その時。
ふと頭に一人の顔が浮かんだ。
「……お師匠様にも、食べさせてあげたかったなぁ」
ぽつり。
小さな声が漏れる。
もし、お師匠様がここにいたらどんな顔をした
だろう。
『ほぉ、これは美味いのぉ』
なんて言いながら。
一緒に食べてくれただろうか。
「…………」
少しだけ。
胸の奥が寂しくなる。
けれど――。
その感傷は突然強制的に打ち切られた。
ズシンッ!!
「――っ!?」
地面が揺れた。
ステラは反射的に振り返る。
「……あ」
先ほどまで河原へ横たわっていた巨大な白い身体。
カムイが――。
起き上がっていた。
「お、起きた?」
四本の脚で地面を踏み締め、ゆっくりと巨大な頭が
ステラへ向く。
「…………」
その瞳がステラを捉えた。
次の瞬間。
「グルルルルル……!」
低い唸り声。
「…………え?」
カムイが。
牙を――剥き出しにした。
「グルルルルル……!」
低い唸り声が、河原へ響く。
カムイは鋭い牙を剥き出しにしたまま、その巨大な
身体を低く構え、真っ直ぐステラを睨みつけていた。
「…………」
どう見ても友好的な態度ではない。
明らかな――戦闘態勢。
「えぇ……」
ステラは少しだけ肩を落とした。
(助けてあげたけど……やっぱり魔物は魔物なの
かなぁ)
お師匠様から教わったことを思い出す。
魔物を人に従わせる。
いわゆる、テイム。
そんなことに成功した者は、歴史上存在しない
らしい。
魔物は獣とは違う。
人と共に生きる存在ではなく。
人間にとっては、基本的に敵対する存在。
だから助けたからといって、懐いてくれるとは
限らない。
「…………」
それでも。
ステラは目の前のカムイを見つめる。
(でも……)
なんとなく普通の魔物とは違う気がする。
初めて戦った時からどこか、他の魔物とは違うもの
を感じていた。
それが何なのかは、ステラ自身にも分からない。
ただ――。
「……あっ」
ステラの視線が隣へ向いた。
そこには、先ほど処理したばかりの白虎の肉。
「そうだ!」
ぽんっと手を叩く。
そして肉の塊を一つ掴んだ。
「やっぱり動物と仲良くなるなら――」
カムイへ向かって。
ぽーん。
肉を放り投げる。
「餌付けだよね!」
随分と単純な結論だった。
「…………」
カムイの目が。
宙を飛ぶ肉を追う。
ドサッ。
目の前へ白虎の肉が落ちた。
「グル……」
カムイはステラを警戒したまま。
ゆっくりと肉へ鼻先を近づける。
ふん。
ふん。
匂いを嗅いで。
そして。
ぱくっ。
「あ、食べた」
そのまま、むしゃむしゃと肉を食べ始めた。
「…………」
ステラはじっと見守る。
やがて肉を食べ終えたカムイは、自分の身体へ顔を
向けた。
「クマ……?」
ぺろ。
ぺろ。
白い毛を舐める。
一ヶ所。
また一ヶ所。
何度も。
まるで何かを確認するように。
「…………」
そこは白虎との戦いで傷を負っていた場所だった。
だが先ほどまで流れていた血は、すでに止まって
いる。
痛みも。
身体の状態も。
戦いの直後とは明らかに違うのだろう。
「グル……」
カムイがもう一度、ステラを見る。
「…………」
しばらく。
一人と一匹の視線が重なった。
カムイは覚えている。
三匹の白虎と戦っていたことを。
自分が敗れ川へ倒れたことを。
そして今、自分が――生きていることを。
しかも身体にあったはずの傷まで治っている。
「…………」
剥き出しになっていた牙が、ゆっくりと口の中へ
戻っていく。
そしてカムイはその場へ。
ドスン。
と腰を下ろした。
「……お?」
どうやら少しだけ警戒を解いてくれたらしい。
「…………」
ならば。
今度はステラの番。
そっと右手を差し出す。
そして、手のひらを上へ向け指先をくいくいと
動かした。
「おいでー」
くいくい。
「おいでー」
「…………」
カムイは動かない。
「ほらほら」
くいくい。
「怖くないよー」
果たしてどちらが言う台詞なのだろうか。
それでも。
「グル……」
カムイはゆっくりと立ち上がった。
「おっ!」
一歩。
また一歩。
巨大な身体がステラへ近づいてくる。
ステラは逃げない。
差し出した手も引っ込めない。
やがて巨大な鼻先が小さな手のすぐ近くまでやって
きた。
「…………」
ふん。
ふん。
カムイが匂いを嗅ぐ。
手。
腕。
そして。
ステラ自身から漂う――魔気力。
「…………!」
カムイの様子が変わった。
もう一度。
ステラの手へ鼻先を近づける。
ふん。
ふん。
「……?」
ステラは首を傾げる。
カムイには分かったのかもしれない。
今、自分の身体の中に残っている力。
傷付いた身体へ流れ込み、失われた力を補ったもの。
その魔気力と目の前にいる少女から感じる魔気力
が――、同じものだと。
「…………」
カムイはようやく理解した。
自分はこの小さな少女に――助けられたのだと。
「クマ……」
巨体がゆっくりと低くなる。
「……え?」
カムイは大きな頭を地面近くまで下げると。
そのままステラへ向かって差し出した。
「…………」
ステラの桃色の瞳がぱぁっと輝いた。
「おおぉ……!」
これはどう考えても。
触っていいということだ。
「よーし、よーし!」
すかさず両手で頭を撫でる。
わしゃわしゃ。
「うわっ……!」
そして触った瞬間、ステラの表情が変わった。
「なにこれ……!」
ふわっ。
もふっ。
真っ白に輝く毛並み。
あれほど魔法を寄せ付けなかった毛とは思えない
ほど――。
柔らかい。
「すっごいモフモフ……!」
わしゃわしゃ。
もふもふ。
「…………」
さらに撫でる。
「これ……」
もふもふ。
「やみつきになりそう……」
「クマ……」
カムイは嫌がる様子もなく。
大人しく撫でられている。
「えへへ……」
ステラの顔に。
自然と笑みが浮かんだ。
人間と魔物。
本来なら決して交わることのない二つの存在。
それでもこの日、ステラとカムイは――。
主従でもなく。
人と、その使い魔でもなく。
ただ、少し変わった――友達になった。
◇
「はい、これもあげる!」
ドサッ。
ステラは残っていた白虎の肉を、カムイの前へ
置いた。
量は――およそ半分。
「どうせ私一人じゃ食べ切れないしね」
保存できる分については今まで通り、水分を抜いて
干し肉にするつもりだ。
だがせっかくこれほど美味しい肉なのに、全部を
干し肉にしてしまうのは勿体ない。
かといって、生のまま品質を落とさず保存する方法
も思いつかなかった。
「だったら、カムイに食べてもらった方がいいよね」
「クマッ」
カムイはそんなステラの悩みなど知る由もなく、
目の前へ置かれた肉を嬉しそうに食べ始める。
むしゃ。
むしゃ。
「おいしいでしょ?」
「クマッ」
「だよねー。私もびっくりしたもん」
「…………」
当然、会話が成立しているのかは分からない。
けれどなんとなく通じているような気がした。
そして、幸せそうに肉を食べるカムイを眺めて
いた時。
「…………あ!」
ステラが突然立ち上がった。
「そうだ!」
「クマ?」
「せっかくだから、名前付けよう!」
ステラは。
名前を付けることが好きだった。
というよりかなり好きだった。
新しく作った魔法。
新しく編み出した技。
何か思いつけばすぐに名前を付けたくなる。
そんなステラがせっかく友達になった相手をいつ
までも魔物の種類である『カムイ』と呼び続けられるはずがない。
「うーん……」
カムイの前へ座り込む。
「カムイだから……」
じーっ。
巨大な顔を見つめる。
「カー君?」
「…………」
「うーん……」
首を傾げる。
「でも、オスかメスか分かんないんだよねぇ」
「クマ」
「ムー君……」
「…………」
「ムーちゃん……?」
「…………」
「う~~ん……」
腕を組む。
「なんか味気ないなぁ」
もう一度カムイを見る。
真っ白な毛。
陽の光を受け柔らかく輝いている。
「真っ白……」
その姿を見て。
ふと頭の中に浮かんだ。
「……お月様みたい」
ステラの表情が明るくなる。
「よし!」
立ち上がる。
そして。
ビシッ!
カムイへ人差し指を向けた。
「決めた!」
「クマ?」
「ルナちゃん!」
「…………」
「君の名前は、今日から――ルナちゃんだ!」
びしっと宣言する。
「…………」
しばしの沈黙。
そして。
「クマッ、クマッ」
カムイ――改め。
ルナが二度鳴いた。
「…………」
ステラは首を傾げる。
「いいの?」
「…………」
「ダメなの?」
「…………」
返事はない。
「まあいっか!」
ステラは笑う。
「もう決めたから!」
本人の了承についてはどうやら必要ないらしい。
「ルナちゃーん!」
「クマッ!?」
勢いよく巨大な身体へ飛びついた。
ぼふっ。
「ん~~~~!」
顔が真っ白な毛の中へ埋まる。
「やっぱりふわふわぁ……!」
もふもふ。
ふかふか。
そして、ほんのり温かい。
「最高……」
ステラは完全に気に入ってしまった。
宿敵だったはずのカムイはいつの間にか名前まで
付けられ、ステラに抱きつかれる存在へと変わって
いた。
◇
けれど。
楽しい時間の中で。
ステラはふと自分が旅の途中だったことを思い
出した。
「…………」
ルナの身体から離れ、森の先へ視線を向ける。
目指しているのは遥か西にある山脈。
そして、そのさらに先。
ステラは――。
この『死の森』を出なければならない。
「……私、行かなきゃ」
せっかく初めて友達になれた。
お師匠様以外に初めてできた――旅立ってからの
出会い。
けれどルナにもこの森での暮らしがある。
縄張りだってあるのだろう。
無理やり連れていくことはできない。
「…………」
ステラは真っ白な巨体を見上げる。
一緒に来てくれたら、きっと。
旅は今までよりずっと楽しくなる。
もう一人で歩かなくてもいい。
けれどそれを決めるのは――。ステラではない。
ルナ自身だった。
◇
「よしっと!」
使い終わった金属プレート。
包丁。
器。
その他の細かな道具。
ステラは河原へ広げていたものを一つずつ片付け、
すべて指輪の中へ収納していった。
「忘れ物……ないよね」
ぐるりと周囲を見回す。
大丈夫そうだ。
残った白虎の肉も、保存する分は処理を済ませて
ある。
「それじゃ――行こっか」
ステラは立ち上がった。
まず目指すのは、第一目標である山の麓。
地図によれば、この川沿いを進んでいけば辿り着け
るはずだ。
「…………」
そして。
ちらり。
後ろを振り返る。
そこには――。
「…………」
真っ白な巨体。
ルナが座っていた。
「じゃあね、ルナちゃん」
ステラは小さく手を振る。
「私、行くから」
「…………」
返事はない。
ステラは少しだけ名残惜しそうにルナを見つめて
から。
くるり。
前を向いた。
そして、一人川沿いを歩き始める。
ざっ。
ざっ。
河原の小石を踏みながら進んでいく。
「…………」
十歩。
二十歩。
それくらい歩いたところで、背後から。
ノシッ。
ノシッ。
「……ん?」
重たい足音が聞こえてきた。
ステラは歩きながら。
そーっと後ろを見る。
「…………!」
ルナがついてきていた。
ノシ。
ノシ。
大きな身体を揺らしながら。
当たり前のような顔をしてステラの後ろを歩いて
いる。
「…………」
ステラは何も言わなかった。
前へ向き直る。
けれど。
(よしっ!)
心の中ではぐっと拳を握っていた。
(よしっ、よしっ!)
口元がどうしても緩んでしまう。
朝家を出た時は一人だった。
九年間ずっと一緒にいてくれたお師匠様はいない。
初めて見る世界へたった一人で歩き出した。
河原へ着いた時にはまだ一日も経っていないのに、一人で旅をするのは寂しいなぁ――。
そんなことを考えていた。
それが今は。
ノシッ。
ノシッ。
後ろから大きな足音が聞こえてくる。
「…………えへへ」
相手は人間ではない。
魔物。
しかも、少し前まで宿敵だと思っていたカムイ。
それでも自分の後ろを誰かが一緒に歩いてくれて
いる。
それだけで不思議なくらい嬉しかった。
「ルナちゃーん」
歩きながら少しだけ後ろへ下がる。
「…………」
もふっ。
真っ白な毛へ手を埋める。
「ん~~……」
もふもふ。
「やっぱり気持ちいい……」
「クマ……」
少しだけ迷惑そうな声が聞こえた気もするが。
ステラは気にしない。
満足するとまた歩き出す。
しばらく進んでまた触る。
歩いて触る。
そんなことを繰り返しながら、一人と一匹は
川沿いをゆっくりと進んでいった。
◇
「…………」
しばらく歩いた頃。
ステラは隣を歩くルナをじっと見つめていた。
ノシ。
ノシ。
四本の脚で巨大な身体が一定の速度で進んでいく。
「…………」
その姿を見ながら、ステラの頭の中にふと一つの
考えが浮かんだ。
(これ……)
じーっ。
ルナを見る。
(もしかして、乗れるのでは?)
ルナは五メートル以上はありそうな巨体をしている。
対してステラは九歳の少女。
身体も小さい。
体重だってルナからすれば大したものではない
だろう。
(私一人くらい乗っても……全然平気そう)
「…………」
ステラは少し考えた。
そして。
「よし!」
決めた。
「ルナちゃん」
まず頭を撫でる。
「ちょっと失礼するね」
「クマ?」
ルナが振り返るより先にステラは地面を蹴った。
ぴょんっ!
「とうっ!」
その小さな身体が軽々と宙へ舞い。
ぽふっ。
ルナの背中へ着地した。
「……!」
ビクッ!
突然背中へ何かが乗ったことでルナの巨体が僅かに
跳ねる。
「あっ」
ステラはすぐに身構えた。
嫌がるようなら降りるつもりだった。
「…………」
「…………」
しかし、ルナは少しだけ後ろを気にしたものの、
暴れることも振り落とそうとすることもなかった。
そのまま。
ノシッ。
再び歩き始める。
「おおお……!」
ステラの瞳が輝いた。
「乗れた!」
そして改めて周囲を見る。
「わぁ……」
高い。
当然だ。
五メートルを超える巨体。
その背中へ乗っているのだから。
先ほどまで自分の足で歩いていた時とは目線の高さ
がまるで違う。
川。
河原。
木々。
いつもなら見上げていた景色が、今は少し高い
ところから見渡せる。
「なんか……全然違って見える」
同じ場所なのに。
視点が変わっただけでまるで別の世界を歩いている
ようだった。
そして、何より――。
「…………」
ステラはルナの背中へ両手をつく。
もふっ。
「…………!」
そのまま身体を倒した。
ぼふっ。
「はぁ~~……ふかふかぁ……」
顔を埋める。
背中の毛も頭と同じ。
いや。
面積が広い分こちらの方が凄いかもしれない。
「なにこれ……最高……」
ぎゅうっ。
ルナの背中へ抱きつく。
真っ白な毛がステラの身体を優しく包み込む。
ノシッ。
ノシッ。
ルナはそんなステラを背中へ乗せたまま川沿いを
真っ直ぐ進んでいく。
「…………」
一定の揺れ。
柔らかな毛。
身体から伝わってくる温かさ。
「…………ふぁ」
ステラの瞼が少しずつ重くなっていく。
ノシ。
ノシ。
「…………」
ゆら。
ゆら。
「……これ……」
目を細める。
「寝ちゃいそう……」
あまりにも気持ちが良すぎた。
このまま背中へ顔を埋めていれば数分もしないうち
に眠ってしまいそうだ。
「…………」
だがステラははっと目を開いた。
「だめだめ!」
勢いよく身体を起こす。
「ここ、死の森だった!」
今いる場所は安全な道などではない。
数多くの魔物が生息する『死の森』。
先ほどだって白虎三匹と戦ったばかりだ。
「寝ちゃ駄目だよね……」
それにいつものように簡易結界を張ることもでき
ない。
あの結界は中へ侵入しようとする魔物を防ぐため
のもの。
ルナ自身が魔物である以上、一緒に入ることは
できない。
「ルナちゃんだけ外っていうのも嫌だし……」
「クマ?」
「ううん、なんでもない」
ステラは小さく笑った。
「ちゃんと起きてる!」
とは言ったものの。
「…………」
歩かなくていい。
景色はゆっくり流れていく。
そして、何より暇だった。
「うーん……」
ルナの背中へ寝転びながら考える。
「歩かなくなったら、やることないなぁ……」
その時。
「……あ」
一つ思いついた。
「そうだ!」
ステラはルナの背中へ抱きつく。
「ルナちゃんが歩いてくれてるんだから――」
もふっ。
「お礼に、私の力を分けてあげよう!」
「クマ?」
もちろん、ルナに意味が伝わったのかは分からない。
ステラは目を閉じる。
そして――。
自分の身体を巡っている魔気力を意識した。
「少しずつ……」
自分からルナへ。
先ほど傷を治した時と同じように。
ゆっくり。
ゆっくりと。
魔気力を流し始める。
「…………」
これはこれで良い修行になるかもしれない。
ステラが普段魔気力を使う対象は自分自身、
あるいは刀などの武器。
自分の身体を強化する。
物へ流し込み、その強度や性能を引き上げる。
そういった使い方には、すでにかなり慣れている。
けれど。
(生きてるものに流すのは……あんまりやったこと
ないんだよね)
先ほどカムイ――ルナへ大量の魔気力を流し込めた
のも。
瀕死の状態だったことが大きい。
意識を失いこちらの力へ抵抗することもなかった。
だからステラの魔気力をそのまま身体へ受け入れて
くれた。
だが今は違う。
ルナは起きている。
自分の意思で動いている。
そんな生き物へ自分とは違う魔気力を流し込む。
「…………」
慎重に。
少しずつ。
その瞬間。
ビクンッ!!
「わっ!?」
ルナの巨体が大きく震えた。
ノシノシと続いていた足音も。
ぴたり。
止まる。
「ルナちゃん?」
ステラは慌てて身体を起こした。
「嫌だった?」
背中から頭の方へ移動し顔を覗き込む。
「…………」
ルナは目を細めていた。
そして、今にもその場へ座り込んでしまいそうな
ほど身体から力が抜けている。
「…………?」
少なくとも苦しんでいるようには見えない。
「嫌……ではなさそう?」
「クマァ……」
「…………」
どちらかといえば気持ち良さそうにすら見える。
「なら、大丈夫かな」
ステラは再び元いた背中へ戻る。
そして先ほどよりも慎重に、ほんの少しずつ魔気力
を流し始めた。
「…………」
流すこと自体はできる。
けれど。
まだ。
お師匠様のようにはいかない。
相手の魔気力へ自分の魔気力を自然に重ね、まるで
最初から一つの力だったかのように馴染ませる。
そんな繊細な同調は今のステラにはできなかった。
(ちゃんと受け取れてるのかなぁ……)
ルナが自分の魔気力をどう感じているのか。
身体の中でその力がどうなっているのか。
まだ分からない。
「…………」
それでも、焦る必要はない。
今日初めてやったばかりなのだから。
「まあ――」
ステラはルナの背中へ身体を預ける。
そして真っ白な毛をもふっと掴んだ。
「そのうち、できるようになるよね」
しばらくすると。
ルナも、ステラから流れ込んでくる魔気力に
少しずつ慣れてきたらしい。
最初は身体を震わせ、その場へ座り込みそうに
なっていたものの。
やがて。
ノシッ。
ノシッ。
再び、ゆっくりと歩き始めた。
「お、動いた」
背中に乗ったステラは、少し嬉しそうに笑う。
そのまま魔気力を流し続けながら今度は、ルナの
身体の中を流れる力へ意識を向けてみた。
「…………」
そこで一つ気付く。
(やっぱり……)
自分の魔気力が思っていた以上に、すんなりと
ルナの身体へ馴染んでいる。
無理やり押し込んでいるような感覚ではない。
流した力がそのまま体内へ巡り自然に受け入れら
れていく。
(これって……)
ステラは眉を寄せた。
以前、お師匠様から教わった魔力と気力。
そして、その二つが自分の中で混ざり合って
生まれた――魔気力。
普通なら魔力と気力は互いに干渉し合い簡単に一つ
にはならない。
けれど、ルナの身体はステラの魔気力を拒絶して
いない。
(白虎と……私と同じ?)
おそらく、ルナも魔力と気力、両方を扱える身体を
持っている。
そう考えれば、魔気力がこれほどすんなり通ること
にも納得できた。
「…………」
そしてもう一つ。
少し嫌な考えが浮かぶ。
(ってことは……)
ルナが本気で魔力と気力を同時に使って身体を強化
したら。
(私の魔法も、打撃も……)
おそらく白虎と同じようにほとんど通らなくなる。
「…………」
背中へ顔を埋めていたステラの表情がほんの少し
だけ引きつった。
「あんまり考えたくないなぁ……」
今は一緒に歩いてくれている。
頭を撫でても嫌がらない。
背中へ乗せてもくれる。
きっとこちらを敵だとは思っていない。
それでもルナは魔物だ。
何がきっかけでどうなるかまでは分からない。
(何かあった時のために……)
やっぱり。
対策は考えておいた方がいい。
そう思った。
友達だから。
信じない。
というわけではない。
でももしもの時に何もできないのは違う。
それはお師匠様から何度も教わってきたことだった。
◇
「…………?」
そんなことを考えていた時。
ステラは。
もう一つの違和感に気付いた。
「……あれ?」
まだ吸われている。
魔気力を流し始めてから結構な時間が経っている。
倒れていた時はある程度流したところで自然に吸収
が止まった。
けれど今は違う。
「…………」
流せば流すだけルナの身体が受け取っていく。
(これ……どこまで吸うの?)
ステラは少し不安になる。
しかも、なんとなくだが先ほどよりも吸収する勢い
が増している気さえする。
「ルナちゃん……」
じーっ。
背中から顔の方を覗く。
「…………」
嫌そうではない。
むしろ機嫌が良さそうに見える。
(これ……好きで吸ってない?)
そんな疑問が浮かんだ。
そしてその証拠のように。
ノシッ。
ノシッ。
ノシッ。
「…………ん?」
歩く速度が少しずつ上がっている。
最初はゆっくりだった。
けれど今は明らかに力強い。
足取りそのものが変わっている。
背中から伝わってくる身体の動きも先ほどより
ずっと力強かった。
(私の魔気力が……)
少しずつルナの身体へ馴染んできた。
そして、ただ吸収されているだけではなく身体強化
として働き始めている。
そういうことなのだろう。
「…………」
ステラは自分の中に残っている力を確かめる。
まだ――、余裕はある。
これまで何年もかけて魔力も気力も総量を増やし
続けてきた。
だからすぐに尽きることはない。
ただ――。
「このままずっと吸われたら……」
さすがにいつかはなくなる。
魔力は大気中のマナを取り込み自分の中へ還元する
ことができる。
けれど気力は違う。
自分自身、身体の中に内包している生命力。
無限に外から補えるものではない。
「…………」
つまり魔気力を与え続けるということは、自分の
気力も少しずつ消費しているということだ。
「私も……まだまだだなぁ……」
ぽつり。
そんな言葉が漏れる。
ルナ一匹へ力を分けているだけでこんなことまで
考えなければならない。
もっと気力も増やさなければ。
「……よし!」
ステラはルナの背中の上でぎゅっと拳を握った。
久しぶりのいつもの頑張るポーズ。
「くそー!」
そして。
「ルナちゃんに負けてなるものか!」
「クマ?」
突然気合を入れ始めたステラにルナが不思議そう
に鳴く。
「もっと強くなるからね!」
「クマッ」
「ふふっ」
何を言われたのか。
分かっているのか。
分かっていないのか。
それでもステラは少しだけ楽しくなっていた。
◇
それから、さらに時間は流れ――。
空が少しずつ赤く染まり始めた。
「もう夕方かぁ……」
ルナの背中から遠くの空を眺める。
太陽は山の向こうへ沈み始めている。
今日家を出たのは朝。
それから森を歩き、インビジブルラビットと戦い、
河原へ辿り着き、白虎と戦い。
カムイ――ルナと再会して。
そして、一緒に旅を始めた。
「……なんか、すごく長い一日だったなぁ」
まだ旅立ってから一日目。
それなのにもう何日も経ったような気がする。
ただルナのおかげで移動そのものはかなり楽に
なった。
「地図だと……」
指輪から地図を取り出す。
今いる位置を周囲の景色と照らし合わせてみる。
「うん」
正確ではないが、目算では山の麓までだいたい半分
くらい。
「すごいね、ルナちゃん」
首元を撫でる。
「一日でここまで来ちゃった」
「クマ」
途中、何度か魔物とも遭遇した。
けれどステラが戦う必要すらなかった。
「グルァッ!」
ルナが一度腕を振れば魔物は吹き飛び。
もう一度振ればそれで終わる。
「……ほんと強いなぁ」
以前、自分が苦戦したのも納得できる。
もっとも倒した魔物はそのままにはしなかった。
「いただけるものは、いただきます」
肉を回収し今晩の夕食にする。
旅では食料を無駄にしないことも大事なのだ。
◇
日が沈みきる前に、ステラは河原の少し開けた場所
で野営をすることにした。
「よし。今日はここ!」
ルナの背中から降りる。
そして、荷物を次々と指輪から取り出していく。
「えーっと……」
まずは今日手に入れた魔物の肉を処理する。
食べる分。
保存する分。
ルナにあげる分。
それぞれに分ける。
「ルナちゃん、これね」
「クマッ」
大きな肉の塊を置くとルナは嬉しそうに食べ始める。
「いっぱい食べるなぁ……」
巨体だから当然と言えば当然なのだが。
これから一緒に旅をするなら、食料の量も今まで
よりずっと多く必要になるかもしれない。
「…………」
少しだけ旅の大変さが増えた気もする。
けれど。
「まあ、いっか」
一人よりずっといい。
自分のご飯も用意する。
明日のための保存食も作る。
食器も出す。
寝る場所も考える。
「意外とやること多いなぁ……」
旅へ出る前は歩いて、食べて、寝るくらいだと
思っていた。
でも実際には一日を終える準備だけでも結構忙しい。
◇
「……あ」
ステラはふと空を見上げる。
夕焼けの中、雲がいくつか流れていた。
「雨降ったら困るなぁ」
寝ている途中で急に雨に降られるのは嫌だ。
それなら。
「先にどけちゃお」
ステラは上空へ手を向ける。
魔気力を流し空間へ干渉する。
すると――。
自分たちの真上にあった雲だけがゆっくりと左右へ
押し退けられていった。
「よし」
これで少なくともしばらく雨の心配はない。
そして、次。
「汗もかいたし……」
自分の身体を見る。
今日はかなり動いた。
白虎とも全力で戦った。
河原を歩き、ルナの背中に乗っていたとはいえ汗
もかいている。
「やっぱり……」
ステラはにこっと笑った。
「お風呂だよね!」
一日の疲れを癒やす。
それならお風呂しかない。
旅先でもそこだけは妥協したくなかった。
◇
「えーっと……ここかな」
ステラは少し平らな地面を選ぶ。
そして魔気力で土を操作し、地面を掘り始めた。
ごごごっ。
土がゆっくりと押し退けられていく。
人一人がゆったり入れるくらい十分な深さまで掘る。
次に周囲から岩を集める。
大きさを整え、掘った穴の内側へ隙間なく敷き詰め
ていく。
「こんな感じかな」
即席の浴槽。
そこへ今度は水。
大量の水を生み出し、穴の中へ流し込む。
そして、火魔法でほどよい温度まで温めれば――。
「完成!」
あっという間に簡易的なお風呂が出来上がった。
「ふぅ……こんなところかな」
周囲を確認する。
ルナは少し離れた場所で、腹を地面へつけて休んで
いる。
「…………」
大丈夫そうだ。
ユリを脱ぎ。
足袋も脱いで。
足先からゆっくりと湯へ入っていく。
「……あつ」
一瞬身体を縮める。
けれどすぐに慣れた。
腰。
胸。
そして、肩までゆっくりとお湯へ沈む。
「はぁぁぁぁ~~……」
大きな大きなため息。
「疲れたぁ……」
全身から一気に力が抜けた。
温かい湯が疲れた身体へ染み込んでいく。
「…………」
ステラは浴槽の縁へ頭を預ける。
ぼんやりと今日一日のことを思い返す。
家を出た。
一人で。
初めての旅へ出た。
朝、少し寂しかった。
河原へ着いた時も、一人で歩く旅は思っていたより
ずっと寂しいと思った。
でも。
「…………」
少し離れた場所を見る。
そこには真っ白な巨体。
ルナ。
「まさか……」
小さく笑う。
「一緒に来てくれるなんてね」
再会できただけでも嬉しかった。
それなのに今は友達になって。
名前まで付けて。
背中へ乗せてもらって。
一緒に旅をしている。
「…………」
こんなことになるなんて。
朝の自分には想像もできなかった。
「でも……」
ステラは少しだけ嬉しそうに目を細める。
「よかった」
一人じゃない。
それだけで、心細さはずっと小さくなっていた。
この先、何が待っているのか分からない。
山を越え。
森を抜け。
町へ行き。
学校へ向かう。
まだまだ、先は長い。
きっと今日以上に大変なこともある。
それでも。
「ルナちゃんもいるし……」
お湯の中で身体を伸ばす。
「頑張れそう」
春に家を出て初めて迎える旅先での夜。
ステラは温かな湯に身体を沈めながら、これから
先に広がっているまだ見ぬ世界へ静かに思いを馳せる
のだった。




