第一話「最底辺の狂犬」
その日、空はどこまでも灰色だった。
「兄ちゃん、お米……もうないの」
妹・興弟の声に、俺は何も答えられなかった。
握りしめた銅銭はわずか三枚。昨夜、賭場でスってきたことを悟られぬよう、無理に笑ってみせる。
「明日には兵隊に行く。そうすりゃ借金も帳消しだ。飯も食える」
母は布団の中で咳き込みながら泣き、興弟は俺の破れた袖を掴んで離さなかった。
——それでも行くしかなかった。
何も持たない男が、何かを掴むには、命を賭けるしかない。
これは、そんなクズの物語だ。
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建康の片隅、京口と呼ばれる貧民街。
ここは北方からの避難民が流れ着く吹き溜まりで、俺・劉裕も例に漏れず、曾祖父の代にこの地へ逃れてきた難民の末裔だった。
家柄など欠片もない。
あるのは死にかけの母と、まだ十歳の妹、そして俺の両腕だけ。
臨時の徴兵所に着くと、同じような身なりの男たちが並んでいた。農民、流れ者、元盗賊。誰もが目だけはギラつかせているが、体は痩せ細っている。
「次、お前」
軍吏がだるそうに俺の顔を見た。名を名乗ると、木簡に適当な字を走らせる。
「劉裕。年齢は二十。……お前、字は読めるのか?」
「いえ」
「だろうな。装備はあっちだ。次!」
支給されたのは、刃こぼれした直刀一振りと、革と呼ぶのもおこがましい粗末な鎧。武器をまともに持ったのはこれが初めてだったが、妙に手に馴染んだのを覚えている。
訓練らしい訓練もないまま、数日後には初陣の命が下った。
孫恩の乱——南方で起きた宗教反乱。数万規模の叛徒を鎮圧するため、俺たち新兵も駆り出されたのだ。
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「お、おい……あれ、見ろよ……」
前線に着いた俺たちを待っていたのは、地獄だった。
味方の部隊が次々と潰走し、指揮官は真っ先に逃げ出している。
「撤退だ! 総撤退!!」
叫び声と悲鳴が入り混じる中、俺は逃げ遅れた数名と共に、完全に敵中に取り残されていた。
——死ぬ。
頭のどこかで冷静な自分が囁く。
十数人で、数千を相手にできるわけがない。
だが、なぜか足は震えなかった。
「お前ら、ちょっとそこで見てろ」
気がつけば、俺は笑っていた。
敵の斥候がこちらに気づき、槍を構えて突っ込んでくる。
一人、二人、三人——全部で五人はいるか。
——ああ、そうだ。
子どもの頃、生きるために野犬を素手で絞め殺したことがある。
あの時の匂いが、ふいに蘇った。
最初の敵が槍を突き出してくる。俺は身をかわすと同時に、その穂先を掴み、力任せに引き寄せた。
ガツン。
鍔で相手のこめかみを打ち抜く。崩れ落ちる体から槍を奪い、二人目の喉笛に突き立てた。
血飛沫が顔に降りかかる。生温かい。
三発目の矢が頬をかすめる中、俺は倒したばかりの死体を盾にし、残る三人との距離を一気に詰めた。
——俺は狂っているのかもしれない。
だが、不思議と心は凪いでいた。刀を振るうたび、何かが体の奥から溢れ出してくる。
三分後。周囲に立っているのは俺だけだった。
「……おい。生きてるか」
振り返ると、仲間たちは腰を抜かし、俺を幽霊でも見るような目で見つめていた。
「な、なんでお前……たった一人で……」
「さあな。体が勝手に動いた」
これが、俺の初陣だった。
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後日、この戦の生き残りが語り継いだ話が、いつしか軍中に広まった。
「京口に狂犬あり。一人で数十を屠り、笑いながら血を啜る」
真実は誇張され、脚色され、俺はいつしか 「一人で数百を殺した狂人」 として知られるようになる。
もちろん、全部が事実というわけじゃない。
数百はさすがに盛りすぎだ。数十だ。
だが、俺の人生はこの日、確かに動き出した。
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陣営に戻った俺を待っていたのは、初めて出会うタイプの人間だった。
「君が劉裕か」
天幕から現れたのは、年の頃は三十代前半。痩身で青白い顔の文官だった。官服は煤けてはいるが、一目で只者ではないとわかる鋭い目をしている。
「俺は劉穆之。この軍の書記官だ。君の戦いぶり、見ていたよ」
「はあ……それで、何か用ですか」
俺は面倒くさそうに答えた。貴族風情と関わってもろくなことがないのを、すでに身に染みて知っていたからだ。
だが、劉穆之は気を悪くした様子もなく、むしろ口元を歪めて笑った。
「単刀直入に言おう。君はここで終わる器じゃない。 私と手を組まないか」
「手を組む?」
「この国は腐っている。生まれで全てが決まる貴族制。能力のない者が上に立ち、有能な者は這い上がれない。君もそれは痛感しているはずだ」
図星だった。俺が黙っていると、劉穆之はさらに続けた。
「私はね、劉裕。この秩序を破壊したいのだ。そして、君にはその 『力』 がある」
「俺に何をしろと?」
「まずは生き残ることだ。そして武功を重ね、のし上がれ。その過程で、君の邪魔をする愚かな貴族は——」
劉穆之は、手に持った筆をパキリと折った。
「——排除すればいい」
俺はしばし考え込み、やがてニヤリと笑った。
「面白い。乗ってやる。ただし条件がある」
「なんだ」
「出世したら、妹と母にたらふく飯を食わせること。それだけは約束しろ」
劉穆之は一瞬きょとんとしてから、声を上げて笑った。
「はは……! いいだろう。最高の料理人を雇ってやる」
「よし。じゃあ決まりだ」
こうして俺の、本当の意味での戦いが始まった。
この時はまだ、この選択が歴史を変えることになるとは、もちろん知る由もなかった。
——最底辺の狂犬が、天下を喰らう日まで、あと少し。




