画面の向こう
日曜日。午前十時。
昨日は、地下階段に潜る途中でログアウトした。
体力が限界だったし、ハルも元気になってからがいいと言っていたから。
そうして休日に早起きして、あの地下の続きを見ようとしたのだが……。
冬夜は自分の部屋で、ベッドの上に座ったまま三十分間動けなかった。
目の前に、VRゴーグルがある。
実は以前に、宮瀬にBCOのプレイ画面を見せると約束していた。「今度、そのゲームの画面を見せてよ」と言われて「考えておく」と答えてから、ずいぶん経つ。ずっと先延ばしにしてきたが──先週のカフェで「約束して」と言われて「約束する」と答えてしまった。
冬夜が約束を破ったことは、二十年の人生で一度もない。
だから今日、宮瀬が来る。このアパートに。
まず、問題がある。
一つ。部屋が汚い。カップ麺の空容器が三つ、机の上にある。洗濯物が椅子にかかっている。
二つ。宮瀬にBCOの画面を見せるということは、トワとしての自分を見せるということだ。ゲーム内の名前。セレス。仲間たち。フォーラムで騒がれている「Lv1旅人」が自分であるとバレる。
三つ。──女の子を部屋に入れたことがない。
蓮に電話した。
「助けてくれ」
『何があった。お前が助けを求めるなんて、BCO二年間で初めてじゃないか?』
「宮瀬が来る。部屋に」
電話の向こうで、ゴトンと何かが落ちる音がした。蓮がスマホを取り落としたらしい。
『……宮瀬さんが? お前の部屋に?』
「ゲーム画面を見せると約束した」
『お前の部屋で、VRゴーグルの画面を見せるのか? それって──』
「それって、何だ?」
『……いや、お前に説明しても無駄だな。──いいか、まず部屋を片付けろ。カップ麺の容器を捨てろ。窓を開けて換気しろ。あと、飲み物を買っておけ。コーヒーとお茶。菓子も一つ二つ。以上だ』
「了解した」
『あと──VRゴーグルの画面をモニターに出力できるか? ゴーグルを被ったまま宮瀬さんと話せないだろ。外部モニターに映して、一緒に見ろ』
「なるほど。それは思いつかなかった」
『……お前、他のことには天才的に頭が回るのに、なんで人間関係だけポンコツなの?』
「人間関係の経験値が足りないからだ」
『ゲームで例えるな。──まあいい。頑張れ。あ、あとお前、服──パーカーはやめとけよ』
「わかっている。シャツにする」
『学習してるな。よし。──健闘を祈る』
電話を切った。
三十分で部屋を片付けた。カップ麺を捨て、洗濯物をクローゼットに押し込み(畳む時間がない)、窓を全開にして換気。コンビニでコーヒーとお茶と、チョコレートの菓子を買ってきた。VRゴーグルの出力をPCモニターに繋いだ。
準備完了。
──緊張している。
グラオザームと戦った時も、ゼクスと戦った時も、アストレアと戦った時も、こんなに緊張しなかった。
チャイムが鳴った。
◇
宮瀬が来た。
白いニットにデニム。エコバッグを持っている。部屋を片付けるつもりだったのだろうか。
「おじゃまします。──わ、綺麗にしてる!」
「三十分前に片付けた」
「正直だね」
部屋に入る。冬夜の部屋は六畳一間のワンルーム。机とベッドとPCとVRゴーグルだけ。
「久坂くんの部屋、シンプルだね。物が少ない……」
「必要なものしか持たない主義だからな」
「あ、でも本棚は結構あるんだね。──攻略本?」
「いや。小説だ。大学に入る前に読んでいた。最近はあんまり読めていない」
「久坂くん、小説読むんだ。意外」
コーヒーを出した。宮瀬がソファ代わりのベッドの端に座り、冬夜がPC椅子に座った。
「じゃあ──見せてくれるの? ゲームの画面」
「ああ」
VRゴーグルを被った。PCモニターにBCOの画面が映る。宮瀬はモニターを見る形だ。
ログインした。
銀月の草原。月光。銀色の草の海。
「……きれい」
宮瀬が呟いた。
「すごい……これが、久坂くんが二年間歩いてきた世界なんだ」
セレスが飛んできた。
「トワ! おかえり!」
モニターにセレスの姿が映る。手のひらサイズの妖精の女の子。銀色の髪。鹿の角と尻尾。白いワンピース。
「この子……知ってる、セレスちゃんだよね! 動いて喋ってる……可愛い……!」
宮瀬が身を乗り出してモニターに顔を近づけた。
セレスが画面の中でトワの肩に乗り、首元に抱きつく。
「トワ、きょうはどこいく?」
「まだハルが来てないからな。今日は少し、散歩するだけだ」
「さんぽ! いく!」
草原を歩いた。セレスが肩の上で座っている。月光に染まった銀色の平原。
ただ世界を歩いている中で……宮瀬の鼻を啜る音が聞こえた。
「宮瀬……泣いている、のか?」
「だって……久坂くんが、こんなに綺麗な世界を歩いてるんだなって思ったら……」
「泣くことではないんじゃないか」
「泣くことだよ。──ねえ、久坂くん。ゲームの中の久坂くんって、名前はなんていうの?」
冬夜は迷った。
──ここが、境界線だ。ゲーム内の名前を教えれば、宮瀬はフォーラムを見て、全てを知ることができる。「Lv1の旅人トワ」が久坂冬夜であると、知ることになる。
「……トワ」
「トワ。──冬夜の、トワ?」
「……ああ」
「……いい名前だね。似合ってるよ」
セレスが画面の中から──まるでモニターの向こうを察知したかのように──角をぴょこぴょこ揺らした。
「トワ。だれか、みてる?」
「……友達だ」
「ともだち? おんな?」
「女だ」
セレスの目がじーっと細くなった。
「……また、おんな」
宮瀬が思わずふふっと笑みを浮かべた。
「セレスちゃん、嫉妬してるの?」
VRゴーグルのマイクが宮瀬の声を拾って、セレスに届く。
「しっと、しらない。でも、トワはセレスの」
「ふふ……大丈夫だよ、セレスちゃん。わたしは、画面のこっち側にいるから」
セレスが不思議そうに首を傾げた。「がめんのこっちがわ」が理解できないようだ。
冬夜はVRゴーグルを外した。
宮瀬が──冬夜の顔を見つめていた。
「ありがとう。見せてくれて」
「……ああ」
「久坂くんの大事な世界を、見せてもらった。なんだか……すごく、嬉しい」
「大したものじゃない。ただ歩いているだけの──」
「大したものだよ。だって、久坂くんが好きな場所を、わたしに見せてくれたんだもん」
トワは何か反論しようとしたが、今は何か言い返すような場面じゃないと気づいた。
でも、何を口にしたらいいのかも、ハッキリとしない。
「そうかもしれないな」
「うん、そうに決まってるよ」
そうして二人は、顔を合わせて笑った。冬夜は、声に出して笑った。
◇
宮瀬が帰る前に、エコバッグから何かを取り出した。
「はい。これ、お土産」
タッパーに入った手作りのサンドイッチ。卵サンドとハムチーズサンド。
「いつもカップ麺ばっかりだから。ちゃんと食べてね」
「……作ってきたのか」
「うん。朝から。──あ、セレスちゃんの分はないけど」
「セレスはゲームの中だから、現実の食べ物は──」
「わかってるよ。冗談」
宮瀬が玄関で靴を履いた。
「じゃあね、久坂くん。──また、ゲームの世界、見せてね」
「ああ」
「約束ね」
「約束だ」
宮瀬が手を振って去った。
冬夜は部屋に戻って、サンドイッチを食べた。
美味かった。カップ麺より、食堂の定食より、イタリアンのパスタより──美味かった。
なぜだろう。卵サンドとハムチーズサンドなのに。
答えはわかっている気がしたが、言葉にするのはまだ早い気がした。
VRゴーグルを手に取った。
今夜──始まりの町の地下に潜る。最後の欠片を取りに。




