第65話 ホルスカイト共和国へ
いよいよ本格的に夏になろうとしている、今日この頃。
俺たちは汗だくで山を登っていた。
ネプストル帝国とホルスカイト共和国の、国境に跨がる山脈。
今登っている山は、そこまで標高が高いわけでも険しいわけでもない。
赤茶けた乾いた土の山で、樹木もポツポツある程度だ。
山道などは特になく、どこからでも登ろうと思えば登れる。
その程度の山だった。
この山の東西には、遥かに高い山が連なっている。
険しい山脈の中で、この付近の山だけが比較的登りやすい。
俺たちは情報屋ギルドのマシークから教えてもらったルートを使い、すでに共和国に入っていた。
いくつかの山を越え、国境は二つほど後ろの山だ。
今登っている山を越えれば、その向こうは平地となっていて、いくつかの町や村が見えるはずだった。
「はぁ…………さすがに遠いな。」
俺は頬を流れる汗を拭い、まだ少し先にある山頂を見上げる。
連日の登山に少々うんざりしながら、思わず愚痴を零してしまう。
俺たちがルースオマの街を出たのは、もう二週間も前のことだ。
十日ほど帝国内を移動し、この山脈に到着。
そして、山脈を縦断しようと、すでに四日も山の中をひたすら南下していた。
この山脈を越え、俺たちが目指すのは交易都市ヌスポだ。
山脈を越えた辺りから、南西に三週間ほど行った場所にある街。
ホルスカイト共和国とロズテアーダ修王国の、重要な交易路上にある街だ。
ここに、マシークに手紙を用意してもらった人物がいるらしい。
厳密には、マシークの上役が用意した紹介状、ということのようだが。
マダム・エルミアルダ。
帝国の情報屋ギルドが送り込んでいる人物で、共和国の情報屋ギルドの内部情報を横流ししている。
つまり、帝国の情報屋ギルドが送り込んだ間者だ。
マシークがそうと明言したわけではないが、帝国との繋がりが周りにバレないように気をつけてくれ、と釘を刺された。
もし俺が下手を打って、それが原因でエルミアルダの立場を危うくした場合、俺への特別待遇はなくなると思ってくれ、と言われた。
それほどにエルミアルダは重要な人物であり、その人物を紹介することは特別な対応なのだ。
これらを教えずに、俺が好き勝手にやると何が起こるか分からないため、リスクを承知でマシークは俺に情報を開示した。
このマシークの信頼を裏切る行為は、今後情報屋ギルドと良好な関係を築くことが不可能になることを意味する。
もっとも、マシークからすれば信頼ではなく、仕方なく、かもしれないが。
俺たちは山頂に着くと、眼下に広がる共和国の広大な地を眺める。
といっても、高所から見下ろす風景は、帝国も共和国も然程変わりはない。
山を越えたら「高層ビルが並んでた!」なんて、とんでも展開はなかった。
まあ、当たり前だが。
空を見上げると、青空に白い鳥が優雅に飛んでいる。
ピイは頭上から、俺たちの周囲を警戒してくれているのだ。
俺が手を振って合図を送ると、ピイがゆっくりと旋回する。
そうして徐々に高度を落とし、その姿がはっきりと見えるようになった。
十分近づいたところで、俺が左腕を横に突き出すと、ピイは器用に腕に止まる。
「周囲に人影はあった、ピイちゃん?」
「ピィピィ。」
レインが尋ねると、ピイは俯いて二回鳴いた。
どうやら、人影は見当たらないらしい。
特に仕込んだわけではないのだが、ピイはここに来るまでに数回、俺たちに人影の有無を伝えてきた。
最初は、帝国内の辺境伯領を移動していた時だ。
領主軍は、山脈を勝手に越え、帝国を出て行ったり、入って来たりする者を見回っている。
その巡回の兵のことを知らせてくれた。
そんなことが二回ほど続いた時、簡単な合図を決めた。
人影を見つけたら、空で二度続けて鳴く。これが警戒しろ、の合図。
あとは、問いかけに一度鳴けばイエス、二度鳴けばノーだ。
俺は手のひらに豆を乗せると、ピイに差し出す。
ピイは嬉しそうに豆を啄んだ。
そんなピイに水を用意しながら、ベリローゼが考える。
「どうやら、共和国はあまり山脈越えを警戒していないようですね。」
「……そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。」
俺はベリローゼの考えに、疑問を挟む。
「帝国と共和国じゃ、元々の兵数に差があるんだ。帝国と国境を接している場所が、共和国にどれだけある? オランジェス方面やヨッテンソーム方面にも兵を置き、帝国軍と睨み合っているんだろう。警戒はしていても、単純に手が足りないのかもしれない。」
そこで俺は、ピイを見る。
「兵士だけじゃなく、普通の恰好した奴もしっかり警戒してくれよ。」
「ピイ!」
元気に返事をするピイの頭を撫でてやる。
レインは水袋を呷って水をがぶ飲みすると、大きく息をついた。
「普通の恰好って、普通にこの辺りに住んでいる人よね? 確かに見つかるのはあまり良くはないけど、そこまで警戒すること?」
兵士ではなく、一般人を警戒する俺に、レインが少し訝し気な顔になる。
「警戒したくても、兵が足りない。だけど、放っておくわけにもいかない。じゃあ、どうする?」
「それで、一般の人を使うのですか……?」
ベリローゼの考えに、俺は頷く。
「密入国者を見つけたら、軍に知らせろ、とかやってるかもな。発見すれば報奨金を出すとかすれば、熱心に報告する奴もいるだろう。」
もし発見しても、慌てて知らせたりせず、その場を自然にやり過ごす。
むしろ、自分も密入国者だ、なんて振りをするのもいいだろう。
そうして、こっそり軍の連絡所に知らせる。
軍は必要な時に必要な分だけ部隊を派遣すればいいし、密告者はお金が手に入る。
ガセを報告して報奨金を巻き上げるような不届き者もいるかもしれないが、そんなのは後から締め上げればいい。
事前に、身元のしっかりした者だけを密告者として登録する仕組みにすれば、情報の信頼度も上がるというものだ。
「近くの町や村に飛び込むようなことはせず、まずは国境から離れた大きめの街を目指そう。」
「そ、そうね……。」
一般人を監視の目として活用する案を聞き、レインが顔を引き攣らせる。
俺は、ベリローゼが持ったコップから水を飲む、ピイの首を掻いてやった。
「いいな? 人影を見つけたら、すぐに知らせろよ?」
「ピイ!」
ピイは元気に鳴くと、首を伸ばして頬擦りしてくる。
俺もピイのモフモフの羽に顔を埋めた。
(肌触りは最高なんだが…………やっぱ暑いな。)
頬を撫でる柔らかい羽の感触は気持ち良いのだが、やはり暑い。
ピイはこの暑い中、よくこんな羽毛に包まっていられるものだ。
まあ、上空はそれなりに気温が低下するし、何より風がある。
風の力を利用して滑空している分には、涼しいのかもしれない。
レインとベリローゼもピイを撫でると、羽に頬擦りする。
気持ちいいのは分かるが、見てるこっちが暑苦しいわ。
「その辺にしとけって。じゃあ、ピイ。頼むぞ。」
「ピイ!」
俺が腕を空に向けて払うと、ピイが飛び立つ。
大きく翼を羽ばたかせ、ぐんぐんと空を昇る。
名残惜しそうにしているレインとベリローゼに、俺は苦笑した。
「ほらほら、俺たちも行くぞ。」
そう言うと、俺も水袋を呷り、がぶがぶと水を喉に流し込む。
あとはこの山を下りればいいだけだが、下りは下りで足への負担が大きい。
それでも、もうすぐ山脈を抜けられるので、ここが正念場だ。
ここを無事に抜けられれば、あとは普段の街から街へ移動するのと、大して変わりがない。
マシークから簡略化された共和国の地図も、一応もらっている。
共和国の地理には疎いが、傭兵ギルドで依頼を受ける振りをして、ヌスポの街までの最短の行き方を確認すればいい。
……当然ながら、帝国で活動する傭兵であることは隠した上で、だが。
■■■■■■
そうして、たっぷりと三週間以上の時間をかけて、俺たちはヌスポの街に着いた。
目立たないように行動するため、思った以上に時間がかかってしまったが、予定よりも二~三日の誤差で到着した。
この程度の遅延で到着したなら、むしろ上出来と言ってもいいだろう。
「随分と賑わってるわね。」
もうすぐ夕方になるという時間。
忙しなく行き交う人を眺めながら、レインが呟く。
荷馬車が大量の荷物を載せ、街に入ってくる。
そして、同じだけの荷馬車が出て行く。
共和国の首都と、修王国の王都を結ぶ要衝だけあり、人も物も大量に出入りしているようだ。
そう言えば、修王国は王都ではなく、聖都と言うんだっけ?
「……柄の悪そうなのもちらほらいるな。絡まれないように注意しろよ。」
俺は街の門を潜りながら、レインとベリローゼに注意を促す。
今の俺たちなら、街のチンピラくらい何人いようが相手ではない。
だが、俺たちは目的があって、わざわざ共和国にやってきたのだ。
馬鹿みたいな連中のために、余計なトラブルを抱え、目的達成の障害になるようなことは避けたい。
ちなみに現在の共和国では、帝国の通貨は取り扱い禁止だ。
まだ開戦はしていないが、双方が国境を封鎖する緊張した状態なので、この措置は当然と言えば当然だろう。
……が、実は普通に流通していたりする。
これも当然の話ではあるが、これまで広く使われていた通貨をいきなり禁止すると言われたって、国民は困る。
そして、共和国の通貨の方が、僅かながら金や銀の含有量が多いらしいのだ。
そんな噂が流れたため、国民は共和国の通貨を仕舞い込み、むしろ帝国や修王国の通貨を普段使いするようになった。
悪貨は良貨を駆逐するではないが、皮肉なことに国が禁止することによって、却ってこれまで然程気にされなかった通貨の質を、多くの民が気にするようになったらしい。
おかげで手持ちの通貨を、共和国の通貨に両替する方法に悩まなくて済んだ。
そうして俺たちは、大通りから少し入った安めの宿を探す。
この街で情報屋ギルドとコンタクトを取り、ドワーフたちの情報を得なくてはならなかった。
宿を決めると、早速マシークに紹介された人物に会いに行く。
…………の前に、湯場で汗を流し、身だしなみを整える。
一カ月以上もひたすら移動し、少々身なりが残念なことになっていたからだ。
「それじゃあ、行こうか。」
旅の汗を流し、清潔な衣服に着替えると、俺たちは繁華街に向かった。
高級娼館。
マシークに紹介されたマダム・エルミアルダは、そこの支配人をやっているらしい。
帝国の情報屋ギルドが送り込んだ間者だが、厳密には間者はこの人物だけではない。
この娼館に勤めている者は、娼婦から料理人、用心棒に至るまで、全員がそうらしい。
少しずつ人を送り込み、ヌスポの街に一大拠点を築いた、というわけだ。
通常、客の振りをして娼館に入り、娼婦を介して情報を買う。
しかし、ただ情報が欲しいだけなら、こんな娼館で情報を買いはしない。
情報屋ギルドのシステム自体は、帝国も共和国もあまり変わりがないようで、酒場でコンタクトを取るのが一般的だ。
エルミアルダの娼館が得意とする情報は、共和国の評議員や軍の高官、大店の会長らの情報らしい。
なぜ、こうした情報を得意とするのか。
それは、そうした連中が娼館の主要顧客だからだ。
一見さんお断りの高級娼館のため、顧客のすべてがそれなりに地位のある者ばかり。
すっきりして、寝物語でうっかり漏らす情報には、かなり機密に近い情報が含まれていることがあるそうだ。
お気に入りの娼婦に、
「〇〇様、すごーい。」
「素敵です。」
なんて煽てられて、虚栄心からつい口を滑らす輩は多いらしい。
中には聞いてもいない他の評議員や商会の秘密までペラペラ口走る、あほも多いのだとか。
見栄のためか、こんなすごい仕事を俺が采配しているんだぞ、とまだ一般には公表されていないことまで、胸を張って話してくれるという。
(…………俺も気をつけよう。)
男の悲しい性に、目頭が熱くなる思いだ。
高い金を払い、自分からわざわざハニートラップに引っ掛かっているのでは、あまりに救いがない。
口は災いの元とは、よく言ったものである。
ただ、そうした情報を使い、彼らを脅迫したりするかと言えば、答えはノーだ。
そんなことをすれば、この娼館に誰も近づかなくなる。
そのため、情報を売る相手は、娼館の顧客以上に厳選しているらしい。
また、売る情報には、もっと気を使っているようだ。
情報は多すぎても、少なすぎてもいけない。
どの情報を出し、どの情報は秘匿するか。
相当に吟味した上で、情報を売っているという。
そんなことを考えながら繁華街に向かい、その手前で方向転換する。
「こっちの方だって話だったが……。」
周囲を見回しながら、住宅街を歩く。
繁華街にそこそこ近い、それなりに大きい邸宅の並ぶ地区。
そんな場所に、エルミアルダの娼館があるらしい。
この辺りは、それなりに羽振りのいい商会の会長が、邸宅を構えているそうだ。
住宅街の奥に行くほど高級住宅街になるということで、豪邸などが並ぶようになる。
高級住宅街の手前辺りに、エルミアルダの娼館があるという話だった。
「……確かに、これなら違和感もないか。」
俺は目的の建物を見つけ、呆れたように呟く。
周囲の邸宅とまったく違和感のない、よく手入れされた庭園があった。
むしろ、高級住宅街に並んでいても遜色ないレベルの屋敷だ。
敷地を囲む塀は低いが、塀沿いに植えられた樹木に遮られ、あまりしっかりとは中を確認できない。
しかし、どこぞの御大尽様の別邸とでも言われれば、納得してしまいそうな屋敷が木々の間から見えた。
「本当に、ここですか……?」
ベリローゼの疑問の声に、レインも呆けた顔で頷く。
「そういう話だ。二人は……戻って大通りで待機していてくれ。」
「でも……。」
場所が場所だけに、レインとベリローゼは流石に入れない。
俺だって、本来なら門前払いされるだろう。
だが、俺には印籠があるので、今回は何とかなる。
無理を言えばレインとベリローゼも入ることは可能だろうが、あまり先方に迷惑をかけたくなかった。
自分たちは護衛だという意識の強い二人が、俺から離れることに難色を示すが、すでにこの件は何度か話し合っている。
俺が意見を変えないと分かると、二人はしぶしぶ来た道を引き返していった。
「さてと。」
俺は改めて、屋敷から少し離れた場所に立ち止まり、周囲を眺める。
そうして、塀の先にある門に視線を向けた。
とても重厚な、立派な門扉があり、門番が二人立っている。
門を窺っていると、一台の馬車が俺の前を通り、門で止まった。
御者が対応しつつ、門番の一人が、後の客車もサッと確認する。
そうして門番が合図を送ると、重そうな門扉がゆっくりと開き、馬車が中に入って行った。
門の外に二人の門番がいるが、中にも数人いるようだ。
この警備の高さも、ここの娼館の人気の理由だろう。
「いつまでも、ただ見ててもしょうがないか。」
俺はそっと息をつき、準備を始める。
といっても、二つの物を魔法具の袋から取り出すだけだが。
一つは、俺が帝国の情報屋ギルドの上客であることを示す、指輪。
意匠が内側になるように左手の指に嵌め、握り込む。
もう一つが、マシークの用意した紹介状だ。
俺は二つの印籠を準備すると、門に向かって歩き出した。
門番は歩いてくる俺に気づくが、特に動きはない。
屋敷の前を素通りするなら、それで良し。
不逞の輩ならば、速やかに排除する。
ただ、それだけのことだからだ。
俺が門番の方に向かって歩いて行くと、僅かに緊張するのが分かった。
門番のうちの一人が、門の内側にも何事か声をかけているようだ。
「すみません。ちょっといいですか。」
五メートルほどの距離で、俺から声をかける。
何気ない風を装っているが、実は俺も内心ちょっとどきどきしていた。
マシークからは「門番に指輪と手紙を見せろ」と言われているのでその通りにするが、上手くいかなかったらどうしようとか思っていたり。
俺は門番の前に立つと、にっこりと微笑む。
門番は一人が俺の前に立ち、もう一人は門の前に立っている。
何かあれば、すぐに中に報告するためだろう。
ここはまだ高級住宅街ではないので、門番の立っていない邸宅もある。
表に出す門番をあまり増やせば、目立ち過ぎてしまう。
そんな制約の中で、ギリギリ許容できる、最大限の警戒をしているのだ。
「どうしたのかね?」
門番は、警戒を悟られなうように、意識して優し気な声で答える。
だが、その声は抑えられ、臨戦態勢であることが分かった。
(中々の練度だな。)
無闇矢鱈と威を誇示するのではなく、よく教育されているのが分かる。
エルミアルダという人物が、非常に練達で、抜け目なく、しかしそれをひけらかすことのない用心深い性格であることが、門番を見るだけで感じられた。
「こちらを。」
そう言って、俺は左手に嵌めた指輪を回す。
意匠が門番に見えるように、何気ない風に、その指でゆっくりと顎を撫でる。
門番はすぐに俺の指輪に気づき、息を飲んだ。
門番が理解したことを確認し、俺は指輪を回して意匠を隠した。
「この紹介状を、支配人に渡して欲しいのですが。…………できれば、一度面会の機会をいただきたいと思っています。」
俺がマシークからの手紙を差し出すと、門番は慎重に受け取る。
手紙は封蝋がされているが、印は押されていない。
ただ、蝋を落としただけだ。
「……少々、お待ちいただけるだろうか。」
門番は、少し戸惑っている様子だ。
それでも、帰れ、とは言われなかった。
それだけで、俺としては上々の結果と言えた。
「勿論、構いません。また、明日にでも出直しましょうか?」
「い、いえ……それには及びません。案内しますので、お部屋でお待ちいただければ。」
「ありがとうございます。」
あっさりと門を通され、少し拍子抜けする。
そこでしばらく待たされたが、品の良い老執事が門まで迎えに来てくれた。
「お待たせして申し訳ありません。どうぞ、こちらに。」
「ありがとうございます。こちらこそ、突然で申し訳ない。」
「いえいえ、構いません。ただ……主人は少々、所用が立て込んでおりまして……。」
「承知しています。突然伺ったのはこちらですから。お時間をいただけるだけでも有難いです。」
「そう言っていただけると助かります。」
老執事が軽く頭を下げ、屋敷の中に案内してくれる。
実際は、この招かれざる客の素性を、少しでも紹介状から読み取ろうとしているのだろう。
おそらく、俺が来た目的も紹介状には書かれている。
どういった情報を与え、何を隠すかなども検討しているのかもしれない。
あ、本当に忙しくしている可能性もあるけどね。
「今日は忙しいんだよ! いきなり来んじゃねえよ!」
と、この屋敷のどこかで、怒鳴り散らしている可能性もある。
俺は老執事について行きながら、エントランスに入った。
この屋敷は三階建てだが、エントランスでは二階までが吹き抜けになっているようだ。
夜行石を使用したシャンデリアが天井にあり、まるで昼間のように明るい、煌びやかなエントランス。
廊下に飾られた絵画や壺、石像など、素人目にも高級そうに見える。
もっとも、美術品の真贋など俺には分からないので、ただのガラクタの可能性もなくはないが。
そんなことを考えながら歩いていると、一階の奥まった部屋に案内された。
老執事が部屋のドアを開けると、十畳はあろうかという広い部屋だった。
上品なテーブルとソファの置かれた部屋だが、ここまでの「これでもか!」と言わんばかりに飾り立てられていたのに比べると、飾り気は薄い。
部屋の奥の壁に、横長の、大きな絵画が一枚。
やや暗めの色使いの、風景画だった。
ソファの奥の席から見て、左に絵画がある感じだ。
ちなみに、ベッドはなかった。
ここは商売のための部屋ではなく、応接室の類だろう。
「申し訳ありません。本日はこちらのお部屋しか空いていませんで……。」
「何か不足があるようには見えませんが? 立派な応接室かと。」
「ありがとうございます。今、お茶をお持ちします。」
そう言って、老執事は戻って行った。
一人残された俺は、とりあえず奥のソファに座る。
「おお、座り心地いいな。」
肌触りを確かめ、肘掛けに肘を置く。
すると、すぐにドアがノックされ、四十代くらいの執事がお茶を運んできた。
「ありがとうございます。」
テーブルにカップが置かれると、俺はお礼を言った。
一挙手一投足をさり気なくチェックし、一部の隙もないことに内心、舌を巻く。
執事は微笑むが、何も答えない。
黙ったまま、部屋を出て行った。
(余計なことはしゃべらないって?)
僅かな会話の取っ掛かりからでも、話を繋げる糸口になる。
そうして話を続けていけば、何かを得るきっかけにもなりかねない。
(全員が共和国で活動する間者たち、か……。細心の注意を払っても、警戒し足りないくらいだろう。)
そしてそれは、俺にも言えることだ。
俺はテーブルに置かれたカップを眺めてから、黙って目を閉じた。
エルミアルダからすれば、突然現れた俺は、警戒対象でしかない。
そう考えれば、このお茶に一服盛られたとしても、不思議でも何でもないと言える。
俺はお茶には手をつけず、ただじっと座って、周囲の気配を探った。
(…………一人……いや、二人か……?)
左隣の部屋に、微かに気配がするような気がした。
俺は目を閉じたまま、部屋に入ってきた時の様子を思い出す。
暗めの色使いで風景を描いた、大きな絵画が掛けられていた。
絵画に細工がされていて、隣の部屋から、この部屋を覗けるようにしているのかもしれない。
(見たけりゃ、好きなだけ見ればいい。)
俺は目を閉じたまま、じっと座っていた。
実際のところは、左隣の部屋にいる人物が、この部屋を窺っているとは限らない。
もしかしたら、俺と同じように待たされている客が、他にもいるだけの可能性もある。
どちらにしても、今ここで俺ができることはない。
大人しく、お行儀良く待つことにした。
ふと思いつき、俺は何気なくテーブルとソファに目を向けた。
(それっぽい傷は…………ないか。)
もしかしたら、この部屋は荒事専用の部屋なのかもしれない。
怪しい奴はこの部屋に通し、観察する。
場合によっては、この部屋で制圧することも考慮して。
そう考えた場合、一階の奥、という位置にも意味があるか?
他の客に悟られずに、速やかに排除しやすいように、と。
部屋の中には、本当に最低限の調度品しかない。
さすがにテーブルとソファすらない部屋に通されれば、怪しむだろう。
だから、それくらいは置いておく。
しかし、それ以外には本当に何もない。
おそらく細工の施された、大きな風景画以外には。
(門で待たされたのは、この部屋の準備をしていたからか……?)
向こうの対応を怪しもうと思えば、いくらでも怪しめる。
単なる妄想の類ではあるが、どこに目と耳があるか分からない。
エルミアルダがこちらを警戒する以上に、こちらも警戒するべきだろう。
そうして待つこと、十五分くらい。
隣の部屋の気配が消えた。
更に数分待っていると、ドアがノックされ、最初に案内してくれた老執事が現れた。
「大変お待たせして申し訳ありません、リコ様。主人がお会いになるそうです。」
「そうですか。ありがとうございます。」
老執事が俺の名前を呼んだが、特に何かを聞いたりはしない。
マシークの手紙を読めば、そこに俺の名前や簡単なプロフィールくらい書かれていても、おかしなことではない。
それにより、老執事が俺の名前を知っても、ごく当たり前のことだ。
問題は、その手紙を誰が読んだか、だが。
(ちゃんと、エルミアルダの下に届いててくれればいいんだが……。)
まあ、そこを疑っても仕方がないだろう。
今は言われた通りにするしかない。
エントランスまで戻り、階段を上がって二階へ。
そうして廊下を進み、いくつか角を曲がる。
二階は、やや入り組んだ造りになっていた。
(二階までは、普通に娼館の客が来るようになっている……?。二階から三階には、簡単に上がれないようにしているのか。)
若干不便な造りではあるが、これも何かを警戒しての構造だろう。
これを設計させた人物は、相当に用心深いようだ。
階段に着き、三階に上がると、真っ直ぐ左右に廊下が延びていた。
俺は違和感を感じて、老執事の後ろをついて行きながら一度振り返る。
「リコ様、どうかされましたか?」
前を向いたまま、老執事が尋ねる。
「いえ。とても立派なお屋敷で驚いているのです。」
「恐縮です。」
白々しい会話をしながら、俺は違和感の正体にすぐに気づいた。
(廊下が……短い?)
外から見た屋敷の長さと、今歩いている廊下の長さが合っていない。
(考えられる可能性は……、突き当たりの部屋が無駄に広い。廊下からではなく、どこかの部屋からしか行けない部屋がある? あとは……。)
三階に、専用の階段からしか上がれない部屋がある。
そんなところだろうか。
何と言うか、RPGのダンジョンのような屋敷だ。
ちょっとだけ、隅々まで屋敷の中を歩き回りたい衝動に駆られる。
そうして、廊下の中ほどの部屋で老執事が立ち止まった。
ノックをし、声をかける。
「リコ様をお連れしました。」
「いいわ。入りなさい。」
部屋の中から聞こえた声は、存外に柔らかい。
(……共和国で、帝国の情報屋ギルドの間者たちを取り仕切る、女傑。)
俺は背筋を伸ばし、一度深呼吸をした。
そうして、エルミアルダとの面会を前に、込み上げる緊張と昂ぶりを鎮めるのだった。




