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第十四話 答え合わせ

 夏祭り。

 そう聞いて連想するものは何だろうか。


 通りを埋め尽くす人混みと屋台。

 楽しそうに並ぶ赤ちょうちん。

 行き交う浴衣姿の人々。夜空に咲き乱れる大きな花火……まあ、人それぞれ色々あるだろうが、幼い頃の俺ならば、食べ物系屋台での食べ歩きや、金魚すくいに射的、ヨーヨーすくいみたいな遊戯系屋台。


 それら祭りという催しそのものにココロオドルアンコールわかすダンスダンスダーンスしていた事だろう。

 ちょうど、ついさっきまでの俺と翔みたいに。


 とはいえ、俺とて思春期を乗り越えた立派な男子大学生。

 俺くらいの年頃の若者にとって、祭りというイベントが持つ大きな意味を失念していた訳ではない。

 むしろその逆、意図的に小学生的なアホで馬鹿なノリを取り戻して、必死に忘れようとしていただけで……。


「……くそ、翔のヤツ。ハメやがったな。それに、彩夏まで……」

「コーイチ? 何か言ったか?」

「いや、何でもないんだ。なんでも」


 思わず漏れてしまった心の声に反応され、俺は取り繕うようにブンブンと首を振る。


「そうか。なんでもないか」


 俺のすぐ隣を歩くシオンがどこか気まずそうに頷いて、進行方向斜め前に視線を戻す。

 俺が横目にシオンの表情をこっそり伺うと、頬に■が差してどこか色っぽい彼女と目が合ってしまい、お互い大慌てで視線を逸らした。


 どうも俺と同じタイミングでシオンもこちらを見ていたらしい。……何なんだこの空気。


「そ、それにしても、二人は見つからないな。コーイチ」

「まあ、この人混みだからな、近くにいても気付かないって事もあるだろ。それにぶっちゃけ、向こうに隠れられたらもうお手上げだ」

「? コーイチ、ショウもアヤカも迷子なのだろう? かくれんぼをしている訳ではないが?」

「……あー、そうだったな。変なこと言った。忘れてくれ」


 現在、俺とシオンは翔と彩夏の二人と別行動をとっている。

 と言うのも、飲み物の買い出しを申し出た二人がそのまま雲隠れを決め込んだからだ。どうやら俺とシオンに気を使って二人っきりにしてやろうという魂胆らしいが、いい迷惑以外の何ものでもない。


 だってそうだろう。こんな状況になれば、嫌でも意識してしまう。

 浴衣姿の女の子と二人っきりでお祭りを回る。

 それをデートと呼ばず何と呼べと言うのか。


 自分の連想にうんざりしながらスマホを開く。

 二人と別れた時点から一向に既読の付かないメッセアプリには『後は若い二人に任せた!』などという翔からのふざけたメッセが遺言の如く残っているだけで、それ以来反応はない。


 ……これはもう、合流は諦めるしかなさそうだ。


「仕方ない、か……」

「コーイチ?」


 大きく息を吐き出した俺に首を傾げるシオン。俺は、そんなシオンの手を、


「――っ、」


 □く、すべすべした小さな手を握った瞬間。シオンの小さく薄い唇から吐息めいた驚きが零れる。

 それは心地の良い音色となって俺の耳朶をくすぐり、体温と気持ちとを高揚させる。


 シオンは、その口調にほのかな焦りを滲ませながら。


「コーイチ、その……手。……どうかしたか?」

「いや、お前にまで迷子になられたらコトだからな。これなら、はぐれようがないだろ」

「……うん。そうだな、コーイチが迷子になるのは、わたしも困る」

「そうだ。迷子は困るからな」

「……うん、迷子は困る。独りぼっちにするのは、約束破りだ」

「ああ、約束は守らないとな」


 馬鹿みたいなやり取りだと我ながら思う。

 分かり切っていることをいちいち否定して。そのやり取りを繰り返す。


 お互いの気持ちを迂遠な手段を用いて確認するのは直接触れる事への恐れからか。

 それとも、こんな遠回りなやり取りに、人の心の温もりを感じてしまうからなのか。


 顔が熱い。

 身体の中で太鼓の音が鳴り止まない。

 俺は、頬の熱を誤魔化すように一歩前へ。シオンの手を少し強く引いて、人混みをかき分けるように前に進みだす。


「コーイチ? どこへ――?」

「いつまでも人探ししてても仕方ないだろ。あっちはあっちで勝手にやってるみたいだしな、折角の祭りなんだ。俺らも楽しまなきゃ損だろ」

「……っ! うん!」


 背後。シオンの顔がぱぁっと喜色に輝くのが確認せずとも分かってしまい、俺は自分で自分に苦笑する。


「まずは……そうだな、口直しからだな」


 わたあめを分けて貰ったり、りんご飴を食べたりもしたのだが、未だに激辛たこ焼きの後遺症で口の中がビリビリしている俺が目をつけたのは、とある飲み物を売っている屋台だった。


 こういう縁日で売られているペットボトル飲料は、通常の倍の値段だったりするのでまず買う気にならない。

 どうせ高い金を払って飲み物を買うのなら、普段はまず飲まないであろう飲み物をチョイスすべきだろう。

 最近話題になっている事もあってか、同じものを扱っている屋台がちらほらと散見され、人が分散しているのも好都合。

 普段であればそれなりの時間列に並ぶ必要があるだろうソレをものの五分程度で購入することが出来た。

 笑顔の店員さんからソレを手渡されたシオンは、目を丸くしたり細めたりと、忙しく中身を観察している。


「……コーイチ、これは何か?」

「タピオカミルクティー。今、女子高生に大人気の飲み物なんだと」


 シオンが訝しむのも無理はない。容器を満たす香り豊かなミルクティー、その□色の液体の底に直径一センチほどの■い球体が山ほど沈んでいるビジュアルは中々に奇怪なものがある。


「これが女子高生に……コーイチ、今はゲテモノが流行しているか? まるでカエルのたま」

「よせ馬鹿っ、思っても口にするな! 俺らもこれから飲むんだぞ、自爆する気か!?」 


 間一髪のところでシオンが口にしかけたとある禁句を遮ることに成功し、ほっと胸を撫でおろす。店の目の前であんなことを口走れば、下手したら営業妨害で訴えられかねないからな。

 まあ見た目がゲテモノ枠なのは俺も完全に同意だ。

 最近の女子はこれが可愛くてインスタ映えすると大喜びらしいので若者の感性は分からん……。


「まあ、こんな時じゃないとこんなモン一生飲まないだろうからな、シオンも道連れだ」

「なるほど。旅は道連れ世は情けと言う。結婚生活という人生の旅路を共に歩む以上、これも妻の務め……ッ」

「タピオカ一つで重いわアホ」


 今となってはお約束となりつつある軽口を叩きつつ、俺とシオンは恐る恐る普通より太めのストローに口を付けて――


 ――なるほど。

 そこそこ良い値段してるだけあってミルクティーとして普通にうまいな。

 喉を突き抜け鼻孔に達する茶葉の香り、牛乳のまろやかさ。

 そして控えめな甘みが口の中に優しく広がり、激辛たこ焼きで傷ついた俺の咥内を癒していく。

 そして問題のタピオカがストローの中から飛び出して来たのだが……うん、悪くない。


 もちもちとした触感は、白玉にも似ているがより弾力に富んでいて一噛み二噛み程度では形が崩れない。

 甘さ控えめなミルクティーに合わせてか、タピオカにしっかりと甘味が染み込んでいて、噛む度に甘味が染み出してくる。

 それがミルクティー特有の苦みのある後味といい具合に調和して――……と、最初のうちは良かったんだ。


「……いや、タピオカ多くねえか?」


 不味くはない。

 むしろ一口目は美味しかった。

 だが、予想以上にタピオカが長く口の中に残る。


 噛んでも噛んでもモチモチモチモ粘り強く口の中に留まり続け、ようやく飲み込めたかと思えば次のタピオカがストローより流れ込んでくる。

 なのに底に沈む多量の球体は一向に減る気配がない。

 タピオカがミルクティーの苦味とバランスを取るためにかなり甘めに味付けされている事。

 その弾力故にかなりのボリューム感があり、思ったよりタピオカが腹に溜まる事。それらの要因もあって、ぶっちゃけ飽きるのだ。

 中盤に来てタピオカ一つ一つが重い……。


「うぇ、甘ったる、もういらねぇ……。なんつうか、インスタ映え目的の奴らがタピオカ捨てる理由の一端が見えちまったな。シオン、お前は大丈夫――」


 ――か。と、俺の言葉は最後まで続かなかった。


「もぐあぐ、――んぬ。ほんはひはひ、ほーひひは、ほふひははひほは?」


 タピオカから顔を上げた俺が目にしたのは、タピオカを口の中に詰め込み過ぎてリスみたいに頬を膨らませてもぐもぐしている幸せそうなシオンの姿だった。


「……、」

「?」


 その姿にちょっとしたイタズラ心が働いた俺は、リスみたいなシオンを凝視したまま横に回り込む。先の缶ジュースによる奇襲の仕返し……という訳でもないが、俺の視線に首を傾げるシオンの膨らんだ頬袋を、衝動のままに人差し指で突っついてみた。えい。


 ……ぬぽんっ。

 シオンの唇からタピオカが一粒、俺の指に押された勢いで飛び出した。カメの産卵みたいに。


「……」

「……」


 俺の行動に目を見開き、驚愕に今まで見たことのような顔で固まるシオン。

 次第にその認識が現実に追いついてきたのか、俺と地面に落下したタピオカとを交互に見比べながら、その整った顔が下から上へ、湯気が立ち昇るように真っ■に染まっていき――


「んんーっ、んんんんーッッ!?」

「あははははははははは! ぷっ、あははははははははッ!! シオン、お前っ、今のリアクション最っ高―ッ!」


 腕を振り回して全力で怒りを表現するシオンから逃げ惑いながら、俺はこれだけ様々なシオンの表情を見れたことを、甘ったるいタピオカに感謝するのだった。



☆ ☆ ☆ ☆



 タピオカ騒動でへそを曲げてしまったシオンに謝り倒し、どうにか許しを得た俺は、その後もシオンを色んな屋台に連れ回した。

 醬油の香りが香ばしい焼きとうもろこしに、ふわふわする触感が楽しいかき氷。神社が出している出張おみくじ所に、キャラものの仮面を打っている店。スイカ割りチャレンジをやっている屋台まであった。


「けっこう色々回ったな」

「うん。とても楽しかった。コーイチも、楽しかったか?」

「……ああ、楽しかったよ。久しぶりに来たけど悪くないモンだな、祭り。てか、さっきから俺ばっか連れまわしちまったけど、シオンは何かやりたい事とか食べたい物とかないのか?」


 ここまでで立ち並ぶ屋台は既に一通り眺めているはず。俺がリクエストを求めるとシオンは少し考えて、ある屋台を指さす。


「コーイチ、アレがやりたい」

「……金魚すくいか。よし、やってみるか」


 言わずと知れたお祭りの定番。遊戯系の中では屈指の人気を誇る屋台だ。

 先ほどの勝負の際には小さな子供の行列が出来ていて種目から外されたのだが、今は空いているようだ。


 縁日では別段珍しくもないのだが、シオンにとっては今日が初めての夏祭り。

 子供用ビニールプールも、その中で元気に泳ぐ金魚も、まるきり未知の存在なのだろう。

 小走りで駆けてプールの傍にしゃがみ込み、瞳をきらきら幼子みたいに輝かせているシオンを見てそう思った。


「おっちゃん、二人分頼む」

「……ん」


 代金を払うと、強面で無愛想なおやじが二人分のポイを投げて寄越してくる。……なんだコイツ、感じ悪いな。

 シオンは金魚に釘付けで特に気にしてないみたいだからいいけどさ。


「コーイチ、これで金魚を?」


 円形の枠に和紙を張ったお馴染みのアレだが、当然シオンは見るのも触るのも初めて。

 渡されたポイをしげしげと観察する様子は見ていて微笑ましいのだが、やけにその視線に熱が籠っている気がするのは気のせいか? 


「コーイチ、これは紙だぞ。こんなもので、囚われの金魚たちを本当に救えるのか?」


 何故か決意と使命に燃えた表情でそんなことを尋ねてくるシオン。

 何か、金魚すくいを誤字もとい誤解してそうな感じがひしひしと伝わってくる。


 果たして金魚を掬ってやることが金魚の救いとなるのか……真剣に考え始めると人のエゴとか業とか傲慢とかそういう話に行きつきそうで怖いので俺は考えることを辞めた。


「向こうも商売だからな。わざと水に弱い紙で作ってるんだよ。金魚を取らせない為にな」

「くっ、なんて卑怯……怖い顔をしていると思った。やはりアレは、悪の親玉か……」

「悪ってお前な……まあ見てろ。雑に扱えばポイはすぐ破けちまうけど、うまくやれば……」


 ここ最近は夏祭りから離れていたとはいえ、小学生の頃はそれこそ祭りに全力投球していた身だ。

 金魚すくいのコツだって、小夜や翔と競う間に身に付けている。

 ポイを浸水させる際は丁寧にそして迅速に、水面に対して斜めに入るのがベスト。

 狙うは水面付近を漂う酸欠気味の個体で、極力ポイは動かさずに向こうから射程圏内にやって来るのを待ち伏せて……


「……おお、金魚の方から救いを求めに来た……!」


 しゃがみ込む俺の隣で水面を凝視しているシオンが期待に目を見開く。

 ターゲットは既に沈めたポイの射程内。後は水面に浮かべたお椀目掛け、鋭くそして優しく掬いあげるだけ――


「――よっと!」

「おおっ! コーイチ、すごい! 金魚を救った! 英雄! かっこいい!!」


 金魚が暴れてポイを破いてしまわないよう、枠の縁もうまく利用して素早く金魚を掬いあげると、シオンが大袈裟な歓声をあげ拍手をする。

 嬉しいような照れくさいような、むずがゆい気分になりながらも、俺は喜ぶシオンに応えるように連続で金魚を掬っていく。


 お椀の中の金魚が十匹を超えた頃、ついにポイに限界が訪れた……というか、目の前のオヤジの視線がだんだん険しくなってきたのでわざと破れるような掬い方をしたのだ。

 面倒事は面倒が起こる前に回避するのが鉄則。にしても本当に態度悪いなコイツ、流石に腹が立ってくる。


 と、そんな裏の駆け引きがあった事を知らないシオンは、破けたポイにがっくり項垂れる。


「ああ、コーイチのポイが……」

「ま、久しぶりだしこんなモンか。よし、じゃあ次はシオンの番だな」

「う、うん。任せてほしい。金魚たちは必ずわたしが救ってみせる……っ」

「おう、ま。頑張ってこい」


 グッと拳を握りこみ、尋常ではない意気込みを見せるシオンを苦笑交じりに見送る。

 一通りやり方は見せたので、俺からは何も口出ししない。

 もちろん聞かれたらアドバイスはするが、そっちの方が面白そうだ。

 さて、シオンはどんな金魚すくいを見せてくれるのか。


「ふぅ……」


 目を瞑り、精神統一をするように長く浅く呼気を吐き出すシオン。

 その凛々しくも儚げな横顔は一つの芸術作品のようでもある。……片手にポイを持っていなければの話ではあるが。


 やがてシオンは目をカッと見開くと、握ったポイを目にも止まらぬ速さで水面へと突き刺して、「やあー」というやけに間延びした気合いが入ってるんだか入ってないんだか分からない微妙な掛け声と共にその細腕を勢いよく天空目掛けて振り抜いた。


 ……は? 振り抜いた?


 目を疑う俺をよそに、立ち昇る水飛沫。

 やけにスローモーションで宙を舞う金魚たち。

 それらは全て、一直線に水面に浮かぶシオンのお椀へと落ちていく――訳もなく、どぼどぼと水音を立ててビニールプールに着水し見事元鞘となる。


 そこまではいい。そこまでは。

 ただ問題なのは、シオンが勢いよく振りあげたポイが宙へと舞い上げたのは金魚だけではなく、ビニールプールを満たしていた相当量の水もがっつり中空へと巻き上げられていたという事。


 そして、俺たちの正面に座っていた無愛想な強面のおやじ目掛け、その多量の水が頭から降り注いだという面白……もとい最悪の事態の方で――


「……あ」


 ばしゃばしゃ。バケツをひっくり返したような水音に、周囲の視線が一斉に集まる。

 皆の視線の先。そしてビニールプールを挟んだ俺とシオンの対面に、ずぶ濡れになった強面のオヤジが座っていて――


「――、テメェ、何しやがんだぁあああ!?」

「おおっ、金魚を捕える悪の親玉の髪が怒りで横にズレた!?」

「馬鹿っ、なにクリティカルなとこ煽ってんだ! 水被ってヅラがズレたんだよッ。逃げるぞ!」


 驚くところがややずれているシオンの腕を引っ張り、俺は人混みに飛び込んだ。

 瞼に焼き付いた鬼の形相。轟く怒号を背に浴衣姿のシオンの手を引き走って、走って、走り続ける。


 脇腹が痛い。身体中に響き渡る太鼓の音はどこまでも加速して、鳴り止もうとしない。


 人々の喧騒を縫い、現実から逃げるように、俺はどこまでもどこまでも走る。走る。走って、


「――ぷっ、く……」


 そうして走っているうちに、先の光景が頭の中に浮かんできて、


「コーイチ……?」

「ぷはっ、あっははははははははははは!」


 気づけば俺は、人目も憚らずに大声で笑っていた。

 笑いながらも足を止める事はない。夜を駆け抜け続ける。シオンと共に。この星空の下を。大声で笑いながら。


 追手なんてもうとっくにいない事なんて分かっていて、それでも止まりたくなかった。

 終わらせたくなかったんだ。この時間を。

 だって、楽しかったから。本当に。


 そうだ。俺はもう、確信を得てしまった。

 この『感情』に。


 無視できないんだ。

 この『願い』を


 例え、そんな『夢』には必ず終わりが訪れると、そう分かっていても。今だけは――



 ――今この瞬間だけは、抱いていたかったんだ。


 どこまでも遠くまで行けるような気がしたから。


 このモノクロの世界を、もう一度鮮やかに色づけられるような、そんな予感があったから。



☆ ☆ ☆ ☆



「はぁ、はぁっ、はあ――、ふぅ。ここまで。来れば……はぁ、大丈夫、だろ……」


 きりきりと痛む脇腹に半ば強制的に足が止まり、膝に手を突き荒い呼吸を繰り返す。

 肩で息をしながら周囲を見渡す。

 塗装の剝がれかけたブランコと、小さな■い滑り台。水を吸ってボロボロになっている木製のベンチが二つ、手入れが行き届かず雑草が生い茂る敷地の端に並んでいるのが見えた。


 目的も、理由もない刹那の逃避行の終着点。

 俺とシオンが辿り着いたのは、商店街近くの小さな児童公園。少し廃れた気配を漂わせる、祭りの喧騒から切り離された静かな場所だった。


「……にしても凄かったな。さっきの。……まさか、あんなおっかねえ面してヅラだとは思わなかった……ははっ、こんな馬鹿みたいに走り回ったの、いつ以来だよ、ホント」


 膝に手を突いて、砂利の地面を見つめたままシオンとたった今共有した思い出を語る。


「……ああ、そうだな。コーイチ、いっぱい。いっぱい笑ってた。馬鹿みたいに、走って、笑ってた……」

「馬鹿みたいって、一番馬鹿なのはシオンだったけどな。金魚すくいでプールの水ぶちまけるヤツなんて初めて見たぜ。流石『星喰い』。どんな筋力してんだよ」

「うん。ちょっと、加減を……間違えてしまったか」


 時の流れは不可逆で抗い難い。

 時間は常に過去から未来へ流れていて、永遠に変わらないものなんてありはしない。

 そんなこの世の摂理を理解しておきながら、俺はこの時間が永遠に続けばいいと思っている。矛盾する感情がどんどん大きくなっていく自覚がある。


「まあ俺的にはナイスプレイだったけどな。あの野郎、俺が金魚すくってる間、ずっと睨んできやがってさ……」

「……悪の親玉、だからな。仕方ない」

「頭から水被った瞬間のあのオヤジの顔、傑作だったなぁ……くっくく、あー、今思い出しても笑える。翔と彩夏にも見せてやりたかったくらいだ」


 けれど、今この瞬間に抱く感情は、俺の想いは、今この瞬間の俺だけのものだから。


 誰にも、俺自身にさえもそれを奪われるのはごめんで、いつかガラクタになるタカラモノだと分かっていながら、未来の苦しみ共々、俺はその矛盾を抱きかかえようとしていた。


 だから。


「そう、だな……ううん。わたしは――そうでもないか?」

「――シオン?」


 ……今顔をあげたらダメだ。致命的な傷を、きっと俺は負ってしまう。そう分かっていても、抗えない。

 だって、俺は。


「わたしは、コーイチとわたしだけの思い出が出来て、嬉しかった。コーイチは、どうか?」


 ――色褪せたモノクロの世界。

 価値を、生きる意味を喪失した俺の視界に、色彩を失って尚、輝くような柔らかな微笑みが、あった。


「――シオン……」


 □と■のモノクロの世界において、さならが彼女はブラックホールのような引力でもって、俺を惹きつけ離さない。

 少女の笑みから目が逸らせない。

 まるで夢遊病者のようなフラフラした足取りで、一歩。気づけば俺は『星喰い』の少女との距離を縮めようとする。

 なのにシオンは、俺が詰めた分の距離だけスッとその身を後ろに引いて、


「コーイチ、覚えているか? 『裏山』で、わたしと、願いの話をした時のことを」


 感情がよく分からないと嘆いていた『星喰い』の少女は、この共同生活を通してようやく人並みに自身の想いを表現する術を見つけることが出来た。

 手に入れた、ではない。だってそれは、最初から彼女の中にあったもので――だから、見つけたと表現するのがきっと正しいのだ。


「コーイチは、『願い』が見つかるといいなとわたしに言ってくれた。きっとわたしは、それが嬉しかったんだ。だからあの時、わたしはもう……わたしの『願い』はもう、見つけて貰っていたんだ」


 俺は、脳内でいくらでも自由にシオンの表情を思い描ける。

 まだ見たことのない表情だって、無数に。

 それは、彼女が俺との生活の中で見つけたタカラモノであり、俺はそれらを自分が抱いているタカラモノと同じくらい尊いと感じている。

 彼女のことを思うと胸が高鳴って、この色褪せた世界の中でさえ、明日を思うことが出来るような気がするんだ。


 それは何故なのか。


「待て、シオン。待ってくれ。お前、何を言おうとしてる……?」

 

 ずっと、ずっと考えないように、見ないようにしてきた解答がそこにある。


 理性で否定し、理屈で拒絶し、倫理と道徳で遠ざけた、俺が俺を守るためにも、この逃避は必要だった。


 けれど、この身体とそこに宿る感情がそれを許さなかった。


 噓偽りのない俺の気持ち。

 シオンに対して抱く想い。

 だって、その二つもまた、モノクロの世界にとらわれた俺を守るために絶対に必要なモノだったから。


 俺を守り、俺を殺すその『矛盾』こそが、俺にとっての『夢』なんだよ。


「……コーイチ、わたしは。わたしはね?」


 俺が下半身だけで生きているような酷い節操なしの、顔だけで女の子の価値を判断するようなろくでなしに思えてしまう、そんな単純明快な答え――すなわち、シオンに向ける『感情』の正体。


 だからこそ抱いてしまった、絶対に叶えてはならない高良光一の『願い』。 


「辞めろ……まだダメだ、まだ六日目だぞ、あと一日ある。俺たちの共同生活は……この『日常』を終わらせるには、まだ一日早いだろッ。だから、それ以上は――」


 感情を理解し、想いを表現する術を見つけ、願いを得たのだとシオンは言った。


 ならきっと、今のシオンは分かっている。

 高良光一の『夢』。俺の答えを、何もかも。


 それでいながら、七日目に行われるはずの答え合わせを、今、やろうとしている。


「――わたしは『願う』よ」


 ……ついさっきなんだよ。

 ようやく俺はお前と――『星喰い』シオンと、まっさらなままに向き合う事が出来て、ようやく見つける事が出来たんだ。


 でも俺は、高良光一は。

 ようやく見つけたその『願い』と『感情』を、絶対に裏切らなければならないから。

 こんな『夢』は叶えられない。

 だからせめて、俺とシオンが共に在る最後の日が訪れるその時までは、潰える泡沫の『夢』を見させて欲しいと、そう思っていたのに――


「コーイチには、生きていて欲しいと」

 

 なのに、シオン。

 お前は――こんな大事なことを相談もなしに、大事な約束を破って勝手に決めようとして。

 そんなの……俺と。俺がシオンにやっていた事と、同じじゃないか……ッ!


「だって、わたしは。コーイチが――」

「やめろッ、シオン! 俺はお前が――」


 俺も彼女も噓をついた。

 大事な事を相談して決める、そんな『約束』を破っていた。


 昨日の今日だというのに、互いに何事もなかったかのように振る舞って。


 俺は結末の分かり切ったこの茶番劇をシオンの為だと言い聞かせ、その実俺の為に消費しようとしていた。俺の自己満足に彼女を付き合わせ、全てが終わった後に傲慢にも彼女を救える気でいたのだ。


 シオンはそんな茶番劇の果てに俺が求めるであろう末路を知っていて、だから俺の為に俺に一言も告げず全てに幕を下ろそうとしている。


 だから、報いを受けるのだ。


 噓つきの『約束』破りの言葉なんて、届く訳がないのだから。




「「――好きだ」」



 俺は、その儚げな笑顔を、死後の世界でさえ忘れないだろう。

 想いを伝え、想いを受け取り、その刹那色彩を取り戻した鮮やかな世界の中。悲しみと喜びと、切なさと幸福と、感謝と謝意とを優しく抱き包み込むような、その表情を。

 宝石のような黒瞳の端に浮かべた、涙の煌めきを。 

 

 だってそれは、『星喰い』シオンが、俺の前に現れてから今日までを共に生きた何よりの証で――


「――シオンッッ!」

 

 人ならざる少女の華奢な身体が、折れるように脱力する。

 生命力という支えを失ったかのように地面へと崩れ落ちる少女へと伸ばしたこの手は、けれど、呆れるほどに届かなくて。


 俺は、俺が好きな子が目の前で倒れていく様を、無様に眺めている事しかできなかった。


 高良光一には、何も出来ない。

 同じくらい綺麗な星空だった、いつかの夜と同じように。

 

 取り戻したはずの色をすぐさま失った俺の視界は、■く。■く。どこまでも真っ■に染まっていく。


 時計の針を止め、過去に立ち止まったまま歩き出せずにいる俺は、あの頃と何も変わらない。


 俺は、好きな女の子一人助けられない無力なクソ野郎だった。



☆ ☆ ☆ ☆



 俺は、『星喰い』シオンが好きだ。

 シオンとの日常がこの先もずっと永遠に続けばいいと『願って』いる。


 けれど彼女は『星喰い』で、人々の願いから生まれた地球を滅ぼす存在で。


 俺に、俺以外の人々の命を背負って地球を滅ぼす覚悟なんてあるわけがないから、彼女との日々には、俺の『願い』には、必ず終わりが訪れる。


 だから彼女は『願って』くれたんだ。


 『裏山』でシオンと出会ったあの日。

 小夜に、夜空の星に近づきたいが故に、俺という一つの世界の終焉をぼんやり望んでいた俺が、シオンの為に『全人類を道連れにした地球との無理心中』なんて馬鹿げた選択をしないで済むように。

 例えそこまでの愚行に至らなくても、シオンが『星喰い』の力を取り戻せるよう自ら命を絶つ事がないように。


 俺に生きろと。

 『星喰い』シオンを見殺しにしろと、俺なんかの事を好きだと言ってくれた彼女はそう『願った』のだ。


 シオンは『星喰い』だ。


 人々の願いから生まれた、惑星に終焉を齎す存在だ。


 惑星の捕食は、彼女の存在価値そのものだ。


 そんなシオンが、『星喰い』である事を放棄したときに何が起こるのか。俺は、もっと真剣に考えるべきだったのだ。



 あと一日。

 八月八日が終わるその時までに『星喰い』としての存在意義を果たせなかった場合、シオンはこの宇宙から消滅する。


 眼前に突き付けられた選択の天秤。

 一方を揺らす錘は、地球とそこに暮らす全生命。もう一方は、人ですらない人々の願いの結晶、少女の形をした祈り。

 重さはあまりにも釣り合わず、故に思案する意味すらないと、少女の形をした祈り自ら、選択肢を取り上げた。


 


 それは、誰にも覆すことの出来ない、不可逆の結末だった。


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