第十五話 かつて憧憬だったそれは今
「光一、入るぞ」
返事も待たずに玄関のドアが開け放たれ、何の躊躇もなく家に入ってきた人物に、俺はソファに座ったまま胡乱な目を向ける。
ぼやける焦点が緩慢な動作で像を結び、それが幼馴染であるとようやく理解。少し遅れて、もう一人の姿が見えない事に気づいて、
「…………翔、彩夏は……?」
「そっちの心配はしなくていい。彩ちゃんならもう帰ったよ。シオンちゃんのことも心配してたけど夏風邪か何かだと思ってるはずだ」
「……そうか」
きっと、俺たちの事情を知っている翔がうまく説明してくれたんだろうな、なんて。まるで他人事みたいに考えてしまう。
それは、俺にとって目の前の現実が既に終わった事だからなのかもしれない。
「それで、シオンちゃんは……」
「今は寝てる」
「そっか……」
シオンが倒れた後の事を、正直俺はよく覚えていない。
メッセで助けを求め、全速力でその場に駆けつけてくれた翔と彩夏の手を借りてシオンをタクシーに乗せ、俺の部屋のベッドに寝かせたのだという一連の事実がぼんやり残っているだけ。
その間あったはずの今にも泣きそうな彩夏とのやり取りも、苦々しく後悔に唇を噛む翔が掛けてくれた励ましの言葉も、どこにも引っ掛かっていない。
ただ二人の表情だけが脳裏に焼き付いて離れなくて息苦しい。まるで俺の無力を、無能を、責め立てるようで。
「……それで。シオンちゃんが倒れたのは、ただの夏風邪って訳じゃないんだよな?」
「……、」
「なあ、光一。お前の顔見りゃヤバい状況だって事くらい分かる。言えよ、今お前とシオンちゃんの事を共有出来るのは俺だけだろ。俺とお前の間に、隠し事はなしだ。そうだろ?」
確かに翔の言う通りだった。とはいえ、言ったところで意味があるとも思えない。
それでも俺は、どこか吐き出す場所が、道連れが欲しかったのかもしれない。
「……シオンの『星喰い』の力の半分が俺に移ってるのは知ってるよな」
俺もシオンも『約束』に従ってこれまであまり使う機会こそなかったが、シオンと出会った際の接触事故で、俺の身体には『星喰い』の力が宿っている。
そのせいでシオンは一人で星の捕食が出来なくなってしまい、俺を星の捕食に協力させる為の共同生活が始まったのだ……と、ここまではあくまで大前提。
本当に重要なのは俺とシオンとの間には、全く同種の『星喰いの力』というある種のパスのような繋がりがあるという事。
今まで俺がその繋がりに気付けなかったのは、おそらく力の主導権がシオンにあったからだろう。
一方的に繋がりを遮断し、俺への情報漏えいを防いでいたシオンの存在が弱まった結果、俺は繋がりを通してシオンの状態を直感的に理解することが出来るようになっている。
俺は翔に話した。
繋がりを通して俺が知ったシオンに迫るリミットの事。シオンの消滅を回避するには、地球を捕食するしかないという事。
選択肢なんてありはしない絶望的な袋小路を。
「……そんな、噓、だろ……」
そうだ。こんなの、もうどうしようもない。
世界かシオンかを選べなんて、俺には……誰にとっても重すぎる。
俺が死んで全てが解決するんだったらいくらでも死ねた。
元々、色を失ったこの世界で無為に生きていくのが辛くて、死んで星になってしまえば小夜に会えるかも――なんて馬鹿なことを考えていた救えない愚か者だ。俺一人死んでシオンが助かるのなら、それでよかった。
あるいは、種子島に戻ってきたばかりのシオンと出会う前の俺だったら選べたかもしれない。
でも、もう無理だ。
俺はあの頃の日々を取り戻してしまった。翔がいて、彩夏がいて、俺がいて、そして……シオンが笑っている。そんな日常という名のタカラモノを壊せない。
世界なんて大きなものに興味はないし、そんなものを背負えと言われた所で実感なんて湧きはしない。
けれど、こいつらとの日常があるこの世界を壊すのは、死ぬことより恐ろしい。
「何か……何かないのかよ。このまま消えてくのを見てるだけなんて、そんなの……っ」
そして、そんな大切タカラモノは、俺がこの世界を壊さない限りひとりでに壊れてしまう。
シオンの消失という最悪の結果を以てして。
「……噓だったら良かったよなー、ホント。いつもそうだよ、俺は。何もかも手遅れになってから気づくんだ。もう、意味なんてどこにもないってのに……」
だから、目の前に横たわるこのクソみたいな現実は俺にとってはもう終わった過去の話で。
あるのはいずれ過去となる覆らない結末のみ。
……もう、何もかもがどうでも良くて煩わしかった。ありもしない希望なんてものを探そうとしている親友の存在さえも。
「……おい。手遅れって、光一お前――」
「だってそうだろ? こんなのもうどうしようもない。シオンを救って地球を滅ぼす悪の大魔王にでもなれって言うのか? いいね、最高だ。さぞかしかっこいい主人公になれるだろうな、漫画の中でなら」
「おい落ち着け光一、誰もそんな極端な話はしてないだろ」
自暴自棄な俺の態度に翔が苛立ちを見せる。
だがそれはお互い様だ。無意味な正論を振りかざそうとする目の前の幼馴染の存在が、無性に俺の心を引っ掻き回す。
「そうだな、だって意味がない。こんなのはもう終わった話なんだから」
「……だからさぁ、終わったとか手遅れとか、今言う事じゃないだろ。状況分かってんのか?」
いつだって完璧なその主人公面が歪むのが、今は気持ちが良かった。
俺を見る瞳に浮かぶ怒りの感情がゾクゾクと背筋を震わせる。生じたおかしな優越感が俺を饒舌にする。
「状況? これ以上ないくらいに分かってるよ。もう夜も遅いし、そろそろ帰って寝たらどうだ、翔。俺もそうする。つまり何が言いたいかっていうと、いつまで俺の家に居るつもりなんだお前、いい加減迷惑っつうか邪魔なんだけど」
「……お前、本気で言ってんのか?」
「は? 本気って何だよ、ここは俺の家だぞ? 意味が分かんねえんだけど」
嘲笑うように鼻を鳴らした俺の胸倉を、翔が掴み上げていた。
至近で燃える怒りに吊り上がった幼馴染の瞳に、俺の虚ろな瞳が映る。まるで温度を感じない虚無が俺を覗いていた。
「お前、ふざけんのもいい加減にしろよ。このままじゃシオンちゃんは消えちまうんだろ!? 終わったとか手遅れとか、あの子が寝てる前で何のつもりだって言ってるんだよッ!」
「……別に。何のつもりもねえよ」
俺や、シオンの為に動いてくれようとしている目の前の親友が目障りで仕方なかった。
心優しく正しく眩しいこの青年を裏切って、その心をボロボロに引き裂いてやりたかった。
己の情けなさを、無力を、無能を恨むように。目の前の主人公みたいな男の諦めようとしないその真っ直ぐさが、惨めに思い出に縋り過去に止まったまま進めずにいる俺と違い未来へ前進し続けたその強さが、殺してしまいたい程に羨ましくて憎たらしくて堪らない。
……全部滅茶苦茶になればいいんだ。
俺の居場所がこの世界から無くなってしまえばいい。
そんな、衝動的な破滅願望に身を任せ、俺は狂った悦楽に浸るように笑っていた。
「良かったんだよ、コレで。俺は特別も例外も非日常も要らねえんだよ。俺の日常に『星喰い』なんて異物が混じってる方がおかしかった。あいつが消えてそれが元に戻るだけ――」
――瞬間。轟音、衝撃。
言葉が途切れ、視界が横倒しになっている事にさえ、遅れて気づく。
何が起きたか理解が追いつく前に、頬に駆け上る熱。
幼馴染に顔面をぶん殴られ、床に投げ出されたのだと分かった俺は、自分の身体を他人事みたいにゆらりと起こし、鼻から垂れ落ちる深■の鮮血を腕で拭いながら、拳を振りぬいた態勢で俺を睨む幼馴染をねめつけた。
「痛ってえな……痛えだろうが、クソ野郎ッ!」
駆け出し、握った拳を振り回すように打ち出した。
身体の中で暴れ回る暴力的な衝動を、ただただ目の前の男に吐き出そうとする。そんな俺の獣めいた一撃を、しかし翔は沈み込むような所作でいとも容易く回避。
翔を見失った俺の鳩尾に、痛烈な一撃が突き刺さる。
「がァ……っ、」
「お前さ、いい加減にしろよ」
吐き捨てるような翔の怒りに震える声が、激痛に攪拌される意識の外側から響く。
ドロリと。翔の瞳の中でヘドロのように粘つく炎が燃え上がっているのが見えた。壊れたノイズ混じりの冷笑が響く。
「……いつもそうだよ、お前は。あの日からずっとだ、いつもいつもいつもいつも自分だけが不幸みたいな辛気臭い面しやがって……ッ。なに悲劇のヒーロー気取ってんだよ、大切なモノを失くして傷付いてるのが自分だけだとでも思ってんのか? なあ、どうなんだよ光一ッ!」
吠え猛る翔の拳が、またも顔面に突き刺さる。
視界が赤く明滅し、意識が揺れる。構わず俺も拳を振るった。
狙いも何もない一撃が捉えたのは当然の如くなにもない虚空。届かない。
「小夜が死んだのは俺のせいだとかさ、うんざりなんだよこっちは。お前は小夜の何なんだよ、あの子が死んでからもあの子を縛るつもりか? そんなにあの子にとって自分は特別な存在だったって言いたいのか? みっともねえよ、光一……」
「うる、せえ……今、小夜は……関係、ねえだろッ!」
小夜の名前を出された事で、破滅的な衝動に憤激が加えられ、俺の身体を突き動かす。
喉を破壊するような咆哮と共に振るわれる暴力。それはまるで不格好な舞踏会だ。
翔の拳ばかりが綺麗に俺の肉を叩き、返す俺の拳はその悉くが空を切る。
小さな頃は喧嘩の実力だって伯仲していたのに、運動不足の今の俺と翔とではその差は歴然だった。
俺の拳撃を受け流し、手痛いカウンターを叩きこみながら翔は言う。
「……思い上がるのもいい加減にしろよ、高良光一。あの子が死んだのは俺達とは関係ない」
うるさい。黙れ。小夜が死んだのは俺のせいだ。それは、それだけは絶対に否定させない。させてはならない。
全てを滅茶苦茶にしたいと、ただ自暴自棄になって自虐的な破滅衝動にみを投じていただけのはずなのに、小夜の死だけは。俺は……。
「俺もお前も、あの子を救うことなんて出来なかった。関係なんて出来なかったんだよッ。だって、俺達は漫画の主人公じゃない。馬鹿で無知で世間知らずなガキでしかなかったんだから!」
瞼を腫らし、口端からは血を流す。
そんなボロ雑巾みたいになった俺の胸倉を再度掴み上げた佐久間翔の慟哭が、何も出来ない愚か者に突き刺さる。
……お前の言う通りだよ。小夜が死んだのは俺のせいでも、ましてやお前のせいでもない。
そんなことは知っている。分かってるんだ、翔。
だから……分かってないのは、お前なんだよ。
「……特別も例外も非日常も欲しくない、とかさ。浸りすぎだろ。正直ずっと引いてたよ、お前のそういうトコ」
靄がかって判然としない意識を抱えたまま、抵抗の意思も力も尽きた俺は、ただ黙って幼馴染の言葉に打たれ続ける。
「なあ、気付いてるのかよ、光一。お前の言ってるソレってつまりはさ、自分が特別で例外な主人公だって言ってるようなモンなんだぜ?」
佐久間翔の言葉はいつだって正しい。
だが今日は何かが違う。翔の言葉の切れ端にどす黒く醜悪な感情が見え隠れしている。
それは、粘性のある黒い炎のような執着を思わせるもので、
「……でもさ、俺は……俺にとってのお前はずっと……そういう存在だったんだぜ? なあ、光一。どうしてだよ」
俺の胸倉を掴む掌から力が抜け落ちる。
俯き、肩を震わせ、縋るように伸ばした手は何も掴めない。なぜなら、佐久間翔という支えを失った俺の身体も床に崩れ落ちているのだから。
「どうしてそんな風になっちまったんだよ、俺が憧れた幼馴染はよ……っ」
俺から主人公野郎とさえ揶揄される幼馴染は、今にも泣き出しそうな声でそんな嘆きを吐露したのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
幼い頃の俺――特に小学校入学前の佐久間翔という人間は、今思い返してみればろくでもない嫌な子供だったと思う。
裕福な家庭に、約束された将来。
父の方針で幼い頃から英才教育を受けて育った俺は、運動も勉強も周囲の子供たちより頭一つ抜きん出て優秀だった。
この子の将来が楽しみだ。佐久間家の将来は安泰だ。翔くんなら将来は何にだってなれるだろう。俺の将来とやらに勝手な夢を見る周囲の大人たちからはチヤホヤと持て囃され、友人からは尊敬と羨望の眼差しを向けられる。俗に言う神童というやつだ。
流石にその評価は大袈裟だと今は思うが、実際、この頃の自分は大抵のことは人よりうまく出来たし、自分が人より優れているという実感もあった。
というより、何で他の子たちはこんな事も出来ないんだろうなんて疑問を感じ、同世代の子を無意識に見下していたのだと思う。
そこに悪意はない。
ないからこそタチの悪い純粋無垢な選民思想。
歪に肥大化した自意識は、幼い子供特有の万能感と融合して、当時五歳だった俺の人格を少しずつ歪めていって――
『なあ、お前一人なのか? なら一緒に遊ぼうぜ。小夜が出かけちまってるから退屈でさ』
――あの日、あいつに出会っていなければ、少なくとも今の俺はここにはなかっただろう。
いきなり俺に声を掛けてきたそいつは名前も顔も知らないヤツだった。
とはいえ、幼い子供にとって、知り合ったばかりの相手と遊ぶなんてよくある事。
だから、俺はそいつの誘いに乗ってやることにした。
一人で退屈していたのは事実だったし、暇潰しくらいにはなるか、なんて事を考えていたような気がする。
『なあ、名前なんて言うの? 家この辺? 初めて見る気がするけどひっこしてきたとか? サッカー好き? ゲームとかやる? あ、俺めっちゃスマブラ強いんだぜ。あとなあとな――』
『――確かに初めましてだね。僕は佐久間翔。僕も両親もこの島の生まれだから、引っ越して来たって訳じゃないよ。よろしく、ええっと……』
『俺、光一! よろしくな、翔!』
まるで知性を感じない喋り方。
ああ、この子も今までの子と同じなんだなと、張り付けた笑顔とは裏腹に冷めた心で俺はそいつを値踏みする。そいつは、そんな俺の視線にも気づかずに、
『なあ、翔はなんで一人だったんだ? 友達いないの?』
『うーん、そういう訳じゃないけど。普段は家にいる事が多いから』
別に、友達がいなかった訳じゃない。
ただ、同じ幼稚園に通っていた子達を無意識のうちに見下していた俺にとって、休日に出掛けてまで彼らと会おうとは思わなかったというだけの話。
こうして外に出ていたのも、光一の遊びに付き合うのも、勉強の休憩がてらの気分転換。要するに気紛れだ。
『家でなにしてんの?』
『なにって……勉強とか、習い事とか、本読んだりとか……』
『ふーん、変なヤツだな、お前』
『へ、変……』
その何気ない一言は当時の俺にとってかなり衝撃的なものだった。
俺が通っていた幼稚園は小学校受験をするような親子が集まる所だったので、将来の為に休日に家で勉強や読書は当たり前で、褒められたり関心される事はあっても変なヤツ扱いされた事など一度もなかった。
だから、一言でバッサリ切り捨てた光一の価値観は、俺にとって全くの未知だったのだ。
――ほんの少し、興味が沸いた。
『じゃあ今日は冒険しようぜ冒険! 翔は新人隊員だから、俺が隊長な。行くぞ!』
……何がじゃあなのか分からないけど、新人なのは事実だし、仕方ないか。
途中で拾った木の棒片手に冒険と称して林の中にずんずん入っていく光一の後に俺も続く。
冒険、なんて遊びをするのは初めてだけど、知識には自信がある。種子島に生息する動植物にだって詳しいし、身体を動かす事だって得意だ。駆けっこで同年代に負けたことは一度もない。
幼稚園の友達と違いこちらを侮るような光一の態度に少なからずムッとしていた俺は、遊びの中で自分の凄い所を見せて驚かせてやろうなんて事を考えていた。考えていたのだが……。
結論から言って、初めての冒険は、散々だった。
知識は充分だった。
冒険の最中目にする生物たちは皆、図鑑で見たことのあるものばかりだったし、名前やその習性を諳んじる事だって出来る。体力だって光一に負けてたつもりはない。
ただ一点、実際に見て触り行動するという点において、俺は光一に全く歯が立たなかった。
『なんだよ、翔。お前バッタが怖いのか?』
『べ、べつにショウリョウバッタなんか怖くなんか……うひゃあ!?』
『なにしてんだよー翔、ほらこっち。こっちだってば』
『ちょ、ちょっと待ってくれ。そっ、そこにスズメバチがいて危な……』
『大丈夫だって、秋とかはちょっと怖いけど、ゆっくりこっちくれば平気平気ー』
『おーい、翔! 見てみろよ、コレ! めっちゃでけえイボバック見つけたー』
『うぇ、ヒキガエルだ……気持ち悪……って、ソレに素手で触っちゃダメだってば!』
……知らない。自分が知っているのは、図鑑に載っていることだけだ。
どういう風に近づけば逃げられずに捕まえられるかとか、触るとどんな感触がするかとか、どんな場所に隠れているかとか、そんな事は知らない。
だって、将来の為に知る必要がない。意味がない。だから。
『……つまんない』
『え?』
『冒険なんてつまんないって言ったんだ。僕、もう帰るよ。それじゃ』
いつもの子達みたいに、俺の凄さを認めさせてやろうと思ったのに何をやってもうまくいかなかった。
目の前のこいつには出来る事が自分にはできない。
それがどうしても納得がいかなくて、悔しくて、許せなくて。今まで感じたことのない屈辱に泣き出しそうになりながら、俺はそんな捨て台詞を残して光一から逃げ出したのだ。
初めて足を踏み入れた林の中でそんな事をすればどうなるか、少し考えれば分かる事なのに。
『――……うぅ、なんでこんな……』
迷子。遭難。
見知らぬ林の中で孤立し、来た道を完全に見失った俺の頭の中にそんな単語が幾度となく過る。
自分に限ってそんな間抜けな事態に陥るわけがない。
必死になってそう否定しようとするも、不安が恐怖が焦燥が、独りぼっちの心細さが、裏返った心臓から這い上がってきて冷静な思考を奪っていく。
自己生産の不安に押し潰されそうになっていたそんな時にこそ最悪の事態は連鎖するもので。
『――へ、蛇……っ!?』
不用意に足を踏み入れた茂みの中から出てきたその特徴的な姿には見覚えがあった。
種子島に生息する他種と比べ色鮮やかな赤や黄色の斑点模様、生で見るのは初めてだが間違いない。ヤマカガシだ。
ハブやマムシより強い毒性を持つと言われている、日本固有の毒蛇。
『……ひっ、お、怒ってる……っ』
――怖い。気持ち悪い。有毒の蛇。溶血毒。子供が噛まれたら。死の危険。どうすれば……。
コブラのように頭を持ち上げ、毒腺を有する頸部を平たく広げる威嚇の構えを取るヤマカガシ。
中途半端に知識を持っている分、その毒がどれだけ危険か知っていた俺は、ヤマカガシの迫力に、それこそ蛇に睨まれた蛙のようにその場から動けなくなってしまう。
動かない足に代わり、右手に握った木の枝の感触がやけに頼もしく感じられて、
『……く、来るなァーっ!』
不用意に刺激してはいけない。
頭では分かっているのに恐怖が理性を塗り潰し、恐怖が身体を突き動かしていた。
俺は持っていた木の枝をヤマカガシ目掛けて全力で振り下ろして――
『――待ったっ』
その寸前、枝を持つ俺の腕を掴む手があった。
『……光一? どう、して……』
『落ち着け、翔。大丈夫、こいつもビビりなだけなんだ。翔と一緒でさ』
『なっ、僕はビビりじゃー―』
『ばか、大声だすな。いいからそっと離れるぞ。あいつを刺激しないように、そーっとな』
そうしてヤマカガシからそっと距離を取った俺たちは、そのまま脇目も振らず全速力で林を駆け抜けていた。
近くの児童公園に辿り着くと危機から脱した事実に俺の足から一気に力が抜けて、その場に座り込む。
俺の手を引いていた光一も立ち止まって、笑いながら肩で息をする。
『はぁ、はぁ、はぁ――焦ったー、俺、あんな風になってるカラスヘビ初めて見た』
『……カラスヘビじゃなくてヤマカガシだよ、アレは。そっちは俗称っていうか、シマヘビとかマムシの黒化型と混同した呼び名だろ……』
『へぇ、さっきから思ってたけど、翔って物知りだよなー。あと足もけっこう速いな。俺と同じくらい……いや、多分俺のが速いけど。ま、どっちにしてもビビりだしなー、翔は!』
『だ、だから僕はビビりじゃ――……いや、そんなことより、どうして助けに来たんだよ。あんなこと言って、勝手に帰ったのに……ヤマカガシだって、噛まれたら死んじゃうかもなのに』
本当は助けてくれたお礼を言いたかったのに、ばつが悪くてつい強い口調になってしまう俺に、光一は目を点にして、
『え、だって俺、隊長だし。はぐれた仲間を見つけて無事セイカンする、ジョーシキだろ?』
『……なんだよ、ソレ。滅茶苦茶だな、光一は』
俺にはよく分からない理屈で、やはり知らない価値観だった。
光一にとって、ヤマカガシを前にした命の危機すらあったあの一幕すら、俺との冒険ごっこのワンシーンでしかなくて……
『でも、すっごい楽しかっただろ? 冒険!』
……いや。違うんだ。
きっと、光一にとってこれは本当に冒険だったんだ。ごっこなんて遊びの枠では収まらない。自分の命を懸けて挑む価値のある、正真正銘の冒険……。
心の底から楽しそうにニカっと笑う光一に、俺はそれまでの俺を縛り付けていた価値観が砕け散った音を聞いた気がした。
あるのかどうかも分からない幻影みたいな『将来』。
そんなものの為に生きる『将来』の奴隷だった俺は、今この瞬間を次訪れる未来の為に駆け抜けていく目の前の少年の猪突猛進で全力疾走な生き方に憧れ、魅せられていたのだ。
その日から、高良光一は俺のライバルであり親友であり、そして――憧れとなったのだ。
……それから俺は光一の幼馴染である月影小夜という少女とも出会い、彼女とも仲良くなっていくのだが――その出会いが迎える結末を、俺も光一も。そして月影小夜も知らずにいた。
このまま三人で、いつまでも楽しくやっていけるのだと、そんなことを無邪気にも信じていたのだ。俺たちは。
☆ ☆ ☆ ☆
高良家のリビングは、まるで嵐が通り過ぎた後のようだった。
倒れた椅子、位置のずれたソファにテーブル。床に散乱するコップや食器。男二人が加減を忘れ暴れ回った結果がコレだ。
そんな暴力の爆心地で、佐久間翔はボロボロになった俺以上にボロボロの顔をして、崩れ落ちたまま動かない俺を見下ろしていた。
嗚咽を隠そうともせず、嘆きを、弱さを翔は吐き出す。
「……なあ、教えてくれよ。光一。どうしてお前はそんな風になっちまったんだよ……どうしてそんな風になったお前のところにあの子が……小夜そっくりのあの子が現れるんだよ……」
それは、俺自身幾度も自問自答した、答えの出ない問いで。そして――
「どうして俺は、こんな風になっちまったんだよ……ッ」
それ以上に、佐久間翔が佐久間翔自身に幾度もぶつけた問いでもあった。
ずるずると。砂の城が崩れるように、翔もその場に座り込む。
互いの顔が見えない背中合わせで、けれど俺達は互いの表情が手に取るように理解出来る。俺達は、それだけの時間を過ごしてきた。
「……俺にはさ、光一を責める資格なんてないんだよ、本当は」
「……知ってた。気付かないとでも思ったかよ、俺が」
「どうだか。光一は肝心なところで鈍感だからな」
その胸に抱え続けてきた重大な秘密を告白しようとする翔。
俺は、その懺悔を矮小化させるように鼻で笑い、そんな俺の反応を知っていたとばかりに翔もぐしゃぐしゃの笑みを浮かべる。
「小夜が死んで、どんどん落ちぶれてくお前が心配だった。最初はそれだけだった。でも……いつからだったかな、悔しいくらいにカッコよくて、俺の憧れだったお前に俺しか頼れる相手がいないって状況が、俺は……気持ち良かったんだ。だって俺は、月影小夜が好きだったから」
だけど。と、翔は一度言葉を区切って、
「月影小夜は、高良光一のことが大好きだったから」
俺達の歪な関係性を表すには、それで十分だった。
けれど、翔は言葉を続けた。
それ以上はどれだけ積み重ねようと蛇足にしかならない言葉を、それでも己への戒めへとするかのように。
「思えば、最初から俺には勝ち目なんてなかったんだと思う。俺は、それを知っていて……だから少しホっとした自分がいたんだよ。……あぁ、これで小夜を取られずに済むって」
許せなかったよ、自分が。翔は、自らの腹に刃を突き立てるような昏い笑みを引き裂いて、
「罪滅ぼしがしたかった。俺が抱いた醜悪な感情を贖う為に。俺は、一生を賭けてもお前を助けようって、親友で居続けようって。小夜が大好きだったお前を、小夜の為にって……でも、結局俺は、小夜が好きだったお前に頼られ、助けて、感謝される事で、俺の価値を確認してたんだ。小夜に本当に相応しいのは、光一じゃなくて俺なんだって……」
掻っ捌いた腹から己の醜悪総てを曝け出した男は、最後にその問いへと回帰する。
「なあ、光一。俺は……俺達は、どうしてこんな風に、なっちまったんだろうなぁ……」
それは答えの出ない問いだ。
でも、だからこそ、答えが出ないという事だけは明らかで。
「……そんなの、決まってるだろ。俺も、お前も……永遠に変わらないなんて、ずっとあの頃のままでいられるだなんて、無理があったんだ、最初から。例え、小夜が生きてたって……」
「そっか……それも、そうかもな」
頷き鼻を啜る光一の表情は、こうして殴り合うさっきよりも少しだけ、晴れ渡って見えた。
そしてそれは、俺も同じなのかもしれない。
「……ははっ、そりゃそうだ、無理があったんだよな。こんな事、最初から……」
自分で言った自分の言葉に何かが……かちりと。あるべき場所へ嵌ったような感覚があった。
あれだけ俺の中で暴れ回っていた破滅的な衝動は、もうどこにもない。
今までの鬱屈とした感情が噓のように清々しい。
頬の痛みなんて、まるで気にならない。いや、きっとこの痛みと、痛みを与えた人物こそが、俺にきっかけをくれたのだ。
シオンを取り巻く状況が何か変わった訳ではない。
さっきと今とで起きた事と言えば、いい歳した男二人がみっともなく泣き喚いて殴り合っただけ。
覆すことなど許されない結末が、依然として俺達の前には立ち塞がっている。
だけど、前を向ける気がした。
永遠に変わらないものなんてこの世界にはなくて、大切に抱え続けたタカラモノだっていつかは必ず落としてしまう時がくる。だから、本当に大切なのは過去でも未来でもない。
俺達は今この瞬間を生き足掻かなければならないのだ。全力で。
だって、時間は一秒だって俺たちを待ってはくれないから。
未来は、前を向いている人間にしか見ることは出来ないのだから。
俺達は今、生きているのだから。
……ずっと、ずっと。そんな事は分かったつもりでいた。
小夜を失ったあの日から。
現実を知って、大人になったような気になっていた。
でも、俺はいつだって分かったようなフリばかりが得意で、本当の意味で理解に至るのは何もかもが手遅れになった後、全てが終わってからというどうしようもない人間だから。
俺一人では、今回だって最後まで気付くことは出来なかったのだろう。
「なあ、小夜。お前は……許してくれるかな……」
翔がいて、彩夏がいて、シオンがいたこの六日間は、本当に楽しかった。まるで八年前のあの頃に戻ったようなこの日常が、いつまでも続けばいいと本気で願っていた。
でも、それは間違いだったのだ。
俺は、あの日々を取り戻した訳じゃない。小夜のいた八年前のあの日々は、もう戻らない。絶対に。何故なら時の流れは不可逆で、過ぎ去った過去には手が届かないから。
だから、俺が手にしていたモノは、最初から過去なんかじゃなかったのだ。
それは、過去とは相反する未来。
そして、いずれ未来へと至る今この刹那。
月影小夜とではない。
『星喰い』シオンと共に生きたあの時間は、今この瞬間の俺達にしか生きられないモノだった。新たにこの手で掴んだタカラモノだった。
なら、俺は。
「いや、違うか。そもそも、許しを得る必要なんて、もう。どこにもないんだよな……」
高良光一は。
いつまでも過去にしがみつき、足を止めたままでいる訳にはいかないのだ。
例えそれが、小夜を守る為の行いだったとしても
どれほど焦がれようとも、月影小夜は、もう。
死んでしまっているのだから。
どれほど彼女を愛していても、小夜は俺達と同じ今を、生きてはくれないのだから。
だから、死んでしまった人にはお別れを告げなければならない。
あの時、出来なかったお別れを。
過去との決別を、今度こそ。
「……なあ、親友」
先に立ち上がったのは、俺だった。
「なんだよ、親友」
翔も遅れて。けれど、俺と同じように立ち上がる。
「翔、お前に言いたい事がある」
「奇遇だな。俺もだよ、光一」
……俺達には、やるべきことがある。やり残したままじゃ終われない、前にだって進めない。過去に決着をつけるため、未来に夢を抱くため。
「「絶交しよう、親友」」
そして――
「「協力しろ、恋敵」」
――今この瞬間、歩みを止めず生きる為に。
手が痛いほどに勢い良くぶつけ合わされる拳と拳。眼前で不敵に笑う好敵手へと、俺達は互いに最大級の信頼でもって応じた。
「任せろ、ビビり」
「任せろ、ロリコン」
今度こそ――
「「――俺達で、シオンを救うんだ」」
大好きな女の子を、救うために。




