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第十話 歪

 窓から差し込む陽の光の眩しさに、リビングのソファの上で目が覚める。


 いつもならば朝日から逃げるように布団を頭から被り直して、二度寝の惰眠を貪るところなのだが、今日ばかりはそんな気にもならない。……さて、起きるか。


 頭に微かに残った眠気の残滓を振り払うべく、上体を起こす。

 昨日沢山遊んだからか、身体が酷く重く節々が痛い。……どう考えても筋肉痛だわな、コレ。日頃の運動不足が祟ったか。


 とはいえ、動けないという程でもない。

 俺はソファに足を投げ出し座るような姿勢で壁に掛かった時計を確認しようと身体を捻り、そこで見知った顔と目があった。


「おはよう、コーイチ。今日は早起きだ」

「……おはよう」


 既に起きていたらしいシオンからの朝の挨拶に、俺は緩慢な動作でソファから降りながら答え、大きく伸びをする。関節がばきばきと爽快な音を立てた。


 ――今日は八月六日。

 共同生活も五日目となると、初日からの変化が見えてくるものらしい。

 まず最大の変化と言うべきは眼前のシオンの格好――佐久間翔が持ってきた旅行カバンの中に入っていたライムグリーン色のシンプルなパジャマに身を包んでいるその姿について言及すべきだろう。 

 ……そう、なんとあのシオンがちゃんと服を着てくれるようになったのだ……! 


 どんな心境の変化なのか、シオンは四日目の夜から俺が何を言わずとも服を着るようになっていた。

 これでもうシュレディンガーのパンツとかアホな事を言わないで済むかと思うと涙が溢れそうだ。いやもう心配の内容がアホとかそういう野暮なツッコミは今はいらない。俺にとってはそれくらいにめでたい出来事だったという訳だ。


「てか……そういうお前こそ早いな」

「むう。そうなのか?」

「そうなのか……って、何故に疑問形」


 シオンの答えに俺は苦笑した。

 俺に早起きと言っておいて、その俺より前に起きていたお前が早起きじゃないって事はないだろ。

 事実、時計の針が指す時刻は朝の六時半。怠惰な大学生でなくとも、それ以前の時間となれば確実に早起きにカウントされる時間だ。


 呆れたような俺の言葉にシオンはやたら真面目な表情で首を振る。


「そもそもわたしには、睡眠の必要がなかった。なので、普通より沢山寝ている。そういう意味ではむしろ遅いくらい」

「まあ、そりゃそうなのかもしれないけど……ま、なんでもいいか。それで? ちゃんと眠れたのかよ」


 パジャマデビューを果たしめでたく文明人の仲間入りを果たしたシオンに、俺は昨日から自室のベッドを使わせている。

 これには深い事情――という程のものは別になくて、単に俺の精神衛生上の問題が関係していた。冷房云々はともかくとして、男がベッドを譲らず女の子に固いソファを使わせているというのは如何なものなのかと、ここ最近のシオンを見て思うようになったからだった。


 何で今更? という真っ当な疑問については、まあ、その何というか……うん。ノーコメントを貫かせて貰うとしよう。

 一つ言える事があるとすれば、シオンが出会った当初のままだったら、俺がこんな気遣いを働かせるような事はなかっただろうという事。


「問題ない。もともと、必要がなかっただけで不可能という話ではない」


 生まれてから今まで寝た事がないという話だったので、不眠症患者みたいにベッドに入って目を閉じたはいいが一睡も出来ず――みたいな展開を予想していたのだが、どうやらそんな俺の心配は杞憂だったらしい。

 この辺りは食事云々と同じって訳だ。


「なるほど、便利なモンだな。で、実際にベッドで眠ってみた感想は?」

「悪くない。ベッドはふかふかで気持ちいい。昨日の記憶を反芻するのも、……楽しかった」


 シオンは一度頷いて、口元を少し綻ばせてそんな答えを返してくる。

 記憶の反芻? なんだよそりゃ、と言いかけてそれが寝ている間に見る夢の事を指しているのだと気付いた。

 ……まあ確かに、夢ってのは記憶を整理している間に脳が見ている映像らしいけど、そっくりそのまま自分が見た映像を機械的に再生できるなんて便利なモノじゃないはずなんだけどな。

 流石は『星喰い』。こういう所は、相変わらず人間離れしている。


「……………………」


 と、そんな事を考えながらぼけーっとシオンを眺めていると、そのシオンが何か言いたそうな顔をこちらに向けている事に遅れて気付く。……なんだよ、そのじとっとした半眼は。


 対抗するように俺も視線で問い返すと、


「……コーイチ、今何を思い出していた?」

「はい?」


 あまりに脈絡のない問いに俺が素っ頓狂な声をあげると、シオンは心なしか怒ったように眉根を僅かに吊り上げて詰め寄ってきた。

 シオンらしからぬ機敏な動き。その予想外の行動に反応の遅れた俺に対して、シオンはそのままびしっと人差し指を突きつける。


「む~~~。禁止、禁止だ。コーイチは昨日を思い出すの禁止。記憶の反芻ダメ、ゼッタイ!」

「はあ? なんだソレ、新しい標語ポスターか何かか?」

「いいから禁止。思い出すの禁止! コーイチは眠って記憶の反芻するのはダメ。ぎるてぃ」

「えーと、つまり夢を見るなって事か?」


 尋ね返す俺にシオンは極めて真剣な表情でこくりと頷いた。


「あのな、普通の人間はそんなのコントロールできねえんだよ」

「じゃあ眠るの禁止」

「いや死ぬわ」


 要求が横暴過ぎる。むしろどこかしらのタイミングで永久の眠りについてしまうな。 


「それは……困るな」


 俺のツッコミにシオンは困ったように俯く。


 そうね、俺が死んだら地球食べるのに協力してくれる人いなくなっちゃうもんな。

 でも、俺が死んだら死んだで『星喰い』の力がシオンに戻って万事解決する可能性もありそうな気がするな。……ひょっとしてコレ、とんでもない地雷なのでは?


 なんて、冗談混じりの軽い気持ちでそんな事を考えていると、


「……コーイチがいなくなるのは……嫌だ」


 苦虫でも噛み潰したような悲壮な表情で、そんな言葉をシオンは搾り出していた。

 ……なんだこいつ。感情ジェットコースターな情緒不安定っ子かよ。


「おいおい、いきなりマジで捉えんなよ。今のは――」


 ――と、不意にシオンとの距離がぐっと縮まり、口にしようとした言葉が途切れた。

 原因は俺にない。

 その一歩を踏み込んだのは、距離を縮めたのは彼女の方であると、揺れる彼女の美しい黒髪が端的に事実を告げている。


 少女は戸惑う俺の服の裾をきゅっと握りしめており、こちらを見据える潤んだ黒瞳がブラックホールのように俺の意識を吸い込んで離さない。目を離せない。

 胸の内側で時を刻む心臓の鼓動ばかりが脳内に反響し、世界から彼女と俺以外の音が消失していく。


 ……待ってくれ。今の流れでどうしてこんな空気になる? いつものように、俺の軽口を本気にするシオンの反応を笑い飛ばしてしまえば良かったのに、どうして俺はそんな簡単な事一つ出来ず固まっているのか。

 分からない。自分でも分からない感情が、この胸の奥に存在しているとでも言うかのように、俺の身体はまるで俺の言う事を聞きやしない。そして――


「――コーイチ、わたしは……」


 上目遣いのまま、シオンが俺にそっと顔を近づけるのを、俺はテレビドラマを見るように他人事みたいに眺めて――


「……いや。やっぱり、なんでもない。――服、着替えてくる」


 そう言ってパッと手を離したかと思うと、シオンはまるで磁石が反発するような挙動でくりんと勢いよくそっぽを向く。

 そのまま俺が何か声を掛ける前に、シオンは逃げるように俺の部屋へと駆け込んでいってしまった。


 ……バタンと、一人残された俺の元へ扉の閉まる音が届く。

 しばしの間石像のように固まってそんなシオンの背中を呆然と追っていた俺は、その音で思い出したように大きく息を吐き出した。

 全身が一気にだらんと脱力するのを感じながら、俺は思わずぽつりと独りごちる。


「アイツ。何だったんだ、今の……」


 昨日からどうにもシオンの様子がおかしい。いや、それはまあ前々からおかしなヤツではあったのだが、ここ最近は輪を掛けて変だ。海の時なんて特に――


『……むね』


 ――っ。


『見すぎだ……ばか』


 脳裏を過った朱色に染まる頬と羞恥の滲むシオンの声音に、心臓がどくんと跳ねあがった。


「……何だってアレを思い出すんだ、馬鹿」


 一瞬で顔に熱が昇ってきたのを自覚しながら、俺はしかめ面で額を抑え情けなく呻くしかない。


 ……様子がおかしいのはどうやら俺も同じらしい。

 よりにもよって何故海でのあのやり取りを思い出したのか、シオンの様子おかしかった瞬間なんて、それこそ他にもいくらでもあるだろうに。

 それに、自分で勝手に思い出しておきながら赤くなるなんて……これじゃあまるで、俺が――


「――、……いや、やめよう。馬鹿げてるだろ、それは」


 自分の思考をかぶりを振って否定する。

 ありえないだろう。だって、そんな訳がない。だってそれは、その感情は。今、ここにあってはいけないはずのものなのだから。


 だから、これ以上この事について考える事はよそう。意味がない。

 考えた所でそんな事はある訳がないのだから、ならば考える必要も同様にある訳がない。


 そう結論付けた俺は、思考を切り替えるように台所へと足を向けた。


 ……そうだ、こんな無駄な事に時間を割いてる場合じゃない。今日は朝から大切な用事があるんだ。さっさと朝飯を食べて、出掛ける準備をしなければ。

 待ち合わせに遅れて翔の野郎に飯を奢るなんて絶対にごめんだからな。


 誰かに対して言い訳でもするように内心でそんな言葉を重ねながら、俺は心を無にして二人分の朝食の準備に取り掛かる。

 心臓の鼓動なんてもう聞こえやしない。

 シンクを叩く水音が雑念まで綺麗に洗い流していくのに身を任せるように、俺は作業に没頭した。

 

 ――まるで、見たくない現実から必死に目を逸らし、己の中にあるナニカから逃げるように。



☆ ☆ ☆ ☆



 あの後、何事もなかったかのように朝食と着換えを済ませた俺とシオンは、約束の十五分前に家を出た。

 翔との集合場所に設定したのは少し大きめの通りにある巡回バスのバス停で、車で遠出する際の定番の場所になっている。と言っても、今回はバスに乗る訳ではない。


 朝から気合十分な太陽の光を全身に浴び、噴き出す汗を拭いながら歩くこと十分。

 既に目的地のバス停付近では佐久間翔が俺達の到着を待っており、この地獄の暑さの中でも涼しげな笑みを浮かべていた。


「おう。遅いぞ、光一。遅刻か?」


 翔はいつものカジュアルな服装ではなく半袖の白シャツに黒のスキニーと、モノトーンで清潔感重視の格好をしている。

 とはいえ俺も似たようなもので、有名スポーツブランドのロゴがワンポイントになっている白のポロシャツにスラックスのズボンを合わせたシンプルな出で立ちだった。

 フォーマルとまではいかずとも、俺も翔もバイト先くらいならばこの格好で顔を出せるだろう。


 一方、シオンが着ているのは黒のワンピースで、こちらもやはり装飾の少ないシンプルなデザインになっている。

 しかし目に見えて使っている布地が良いのと着ている本人の見た目とで、俺なんかとは比べ物にならないくらいオシャレに見える。

 というか、翔の野郎もめちゃくちゃスマートにキマっているし、俺だけが普通の格好をした無難でつまらない量産型無個性ファッションに収まっているのが納得がいかない。

 うーん、この圧倒的モブ力。これが顔面格差社会かぁ……結局、服なんざイケメンが着ればなんだってカッコ良く見えるんだよなぁ。


 朝から世界の不平等さを突き付けられた俺は、目の前のイケメンに対する鬱屈とした感情を隠そうともせずに顔を顰めて、


「お前が早いんだよ。まだ三分前だからセーフだろ」


 予め予約しておいたタクシーもバス停の二十メートルほど先に停車している。

 八時というのはあくまで俺たちの集合時間なので、こちらもかなり早めの到着だ。夏休みでいくら 観光客が多いと言っても、まだこの時間帯はタクシーも暇なのかもしれない。


 ちなみに、集合場所がバス停なのはタクシーを待たせる際にバス停が目印となって分かりやすいから。

 このご時世だ、家の住所を教えるのは抵抗があるし、俺や翔の家の付近で他に目印になりそうなものとなると熊野神社くらいしかないからな。

 車で遠出する時はバスを使う使わないに関わらずだいたい此処になる。


「そいつは残念だ、今日は食費が浮くと思ったのに」

「俺が遅刻すると思って飯代持ってきてない――とか言い出しても絶対貸さねえから安心しろ」

「うわ、友達がいの無いヤツだなぁ。……ま、俺は無意味な冒険はしない主義なんで、普通に用意してるんだけどさ」

「なんだよ、つまんねえ――あ」


 いつも通り。大変不本意ながら佐久間翔と息の合った軽口の応酬を繰り広げていると、ふと財布のポケットを叩く翔の姿に目がいった。

 連想ゲームは加速度的に。一瞬である答えに至った俺の顔から一気に血の気が引いていく。


 ……待ってくれ、冗談だろ?

 俺は一縷の望みにかけ慌ててズボンのポケットへと手を伸ばして――予期した通りの結末にその場で完全に沈黙した。


 ……最悪だ


 銅像みたいに固まって動かない不自然な俺の様子に、シオンがきょとんとした表情を浮かべて尋ねてくる。


「コーイチ? どうかしたか」


 尋ねられてしまった。しまったからには答えてあげるが世の情け。俺は、屈辱を堪えるようにぐっと歯を食いしばって、


「……財布、持ってくんの忘れた…………」


 よりにもよってこのタイミング。

 しかも翔に向かってあんな事を言った直後にこのザマである。穴があったら入りたいというか墓を掘ってでも入りたい。やめて俺をそんな目で見ないで。

 最悪の事態に絶望的な声をあげる俺に対して、俺の答えを何となく予測していたらしい翔は案の定というか当然の一手と言うべきか、心の底から楽しそうなニヤニヤとしたいやらしい笑みをその整った顔に張り付けて、


「……飯代持ってきてないとか言い出しても絶対に貸さない――だったっけか?」


 直後、的確に急所を抉られ無言のまま全力疾走で家に戻ろうとした俺は、慌てた佐久間翔に羽交い締めにされてその場に取り押さえられる事となるのだった。



☆ ☆ ☆ ☆


 

 車に揺られることおよそ一時間、俺達三人を乗せたタクシーは無事目的地に到着した。


「あっづ……」


 タクシー特有の香りが漂う涼しい車内から一歩外に出ると、窓越しに響いていたくぐもったセミの音や揺れるような潮騒の音が一気に解像度をあげて耳の中に飛び込んで来る。

 途端、降り注ぐ強烈な直射日光に思い出したように汗が滲み出してきて、あまりの温度差に別世界に足を踏み入れたような感覚に襲われる。


 まだ朝の九時過ぎだと言うのに、真昼のピーク時のようなこの日差し。

 ボジョレーヌーボーみたいに毎年更新される酷暑は、俺のようなインドア派の人間には堪えるものがある。日差しは間違いなく陰キャ特攻である。


 だが、そんな灼熱もアクティブでアウトドア派なリア充陽キャにはあまり効果がないらしい。


「いやー、それにしても財布を忘れるとは。あと一年はこのネタでいじれるな」


 ……あの後、運転手のおっちゃんが気を利かせて俺の家に寄ってくれたから翔の財布のお世話になる事こそなかったが、俺の都合で必要のない寄り道をさせてしまった。

 そんな訳で、伸びをしながらいい笑顔でからかってくる翔に俺は何も言い返せないでいた。


 控えめに言って死にたい。


「……死にたい」

「コーイチ、それは――」

「あー、これは冗談だからいちいち真に受けるな、お前は」


 俺の軽口に過敏な反応を見せるシオンにあらかじめ釘を刺しておく。出先で、それも翔の前であんな妙な雰囲気になったら財布を忘れる以上に最悪だ。何とからかわれるか分かったものじゃない。


「そうそう、心配しなくても平気だよシオンちゃん。光一のこれはシオンちゃんにカッコ悪い所見せちゃって落ち込んでるだけだから」

「そうなのか」

「全然違うわ」

「でも、コーイチはちゃんと集合時間間に合っている。約束が守れるのは偉い。落ち込む必要はないと思う」

「その次元で褒められるとむしろ惨めさが増してくるな……」

「あっはは、たしかに宣言通り寝坊はしなかったんだけどなぁ。いやー、光一らしい綺麗なオチだったわ」


 コイツめっちゃ笑いやがるやん……でも集合時間に気を取られて他がすっぽ抜けるとか我ながらアホ過ぎるのでやっぱり何も言えない。


「ところでコーイチ」

「なんだよ」

「ここはどこか? わたしはまだ、今日の予定について何も聞いていない。今から何をするか?」


 改まってそんなことを聞いてきたシオンに、俺はよく分からない後ろめたさを覚え、誤魔化すように後頭部を掻きながら眼前に広がる光景に視線をやった。


「……あー、そういや言ってなかったっけか」


 一定の間隔で立ち並ぶ灰色の直方体と、呪文のような文言が綴られた木札。儀式的、宗教的な匂いを感じさせるこの異質な空間ですることなど、一つしかありえない。


「墓参りだよ。今日は、命日なんだ。あいつの」


 躊躇っていたはずの言葉は自分でも驚くくらいにすんなりと、一切の温度を伴わないままにこの口から溢れていった。


 今日は八月六日。

 蝉の音がどこまでもうるさく響いている。



☆ ☆ ☆ ☆



 西之表太陽霊園は種子島では貴重な民営の霊園だ。

 閑静な土地にあり、海が近く潮風を感じられる豊かな自然に囲まれたこの霊園は、墓地という言葉が与える陰鬱なイメージから離れた不思議な場所だった。


「ただいま、小夜。今年も来たよ。俺も、光一も」

「……、」


 ――『月影家乃墓』。


 そう刻まれた墓石の前にしゃがみ込み、翔はいつものように優しく語りかける。


「なあ、信じられるか? お前がいなくなってからもう八年だ、俺も光一も大学生になったんだぜ? スーツなんか来て入学式に行ったりしてさ、笑えるだろ」


 俺と翔の大切な幼馴染、月影小夜はこの墓石の下に眠っている。

 八年前の今日、小夜は命を落とした。

 当時、小学五年生だった俺も翔も、翌朝になってから親からその知らせを聞いて、あまりに突然の事に感情が追い付かず、小夜の死に何の実感も持てなかった事を覚えている。


 毎日のように遊んでいた小夜と二度と会えない。喋ることも遊ぶことも喧嘩をすることも一緒に笑いあう事だって――もう出来やしない。

 棺の中で冷たくなった彼女と再会して尚、当時の俺にはそれが現実なのだと分からなかった。分かろうとしなかった。したくなかったのだ。


 大切な人との死別を経験するには俺達は幼すぎて、人の死を理解できないほど幼くはなかったから。


 ただ、どれだけ目の前の現実を拒もうとも、月影小夜が俺達の前からいなくなってしまった事実は変わらなくて、壊れてしまった日常はどう足掻いても元に戻る事はなかった。


 俺達はどうしようもなく無知で愚かで無力で、それでいてそんな現実を認めようともしない夢見るばかりの馬鹿な子供だったのだろう。


 もしかすると今だってそれは変わらないのかもしれない。あの日から、俺はずっと――……。


「二人とも島を出て、別々の学校に通って、別々の人生を歩いてる――なんて言ったって、小夜は信じないかもな。昔の俺だって信じられないと思う」


 一人が欠けてしまった日常は、もう俺にとっては日常ではなかった。それでも世界は当たり前のような顔して回り続け、日々日常は更新されていく。

 俺はそれが堪らなく嫌で、辻褄を合わせにばかり必死になって、でもそれも限界があったから。

 だからこの狭い島を飛び出したんだ。


「こいつの顔を何か月も見ないなんて事は今までなかったからさ、久しぶりに会うってのがすっげー不思議な感覚だったんだわ。きっと、小夜が今ひょっこり出てきたら、似たような気持ちになるのかもな、なんて思ったよ」


 手に濡れ雑巾を持って労わるように墓石を拭いてやる翔の姿を、俺もまたいつものようにその斜め後ろに立って、何をするでもなく眺める。

 まるで、他人事のように。


「光一、ほら。お前も」

「……ああ、」


 促すように言われ、翔と入れ替わるように墓石の前へ。小夜が好きだったオレンジの炭酸ジュースを供え、その場でしゃがみ込んで冷たい灰色の石に触れる。

 掌に返ってくるのは冷たく硬い墓石の感触。八年前から一度だって変わりはしない無機質な温度に、いつだって俺は翔のように彼女への言葉を重ねる事が出来なかった。


 ここに彼女が眠っていて、墓石は今の彼女の身体のようなものなのだから、声を掛けて優しく触れてあげて――なんて事をお坊さんからは言われたけれど、この手が触れるソレはどうしようもなく冷たいただの石の塊でしかなかったから。


 これが小夜の身体だなんて、そんな事は少しも思えなかったから。


 だから、そんなものに語りかけるなんて馬鹿みたいだと思ってしまうのだ。


「……久しぶり」


 翔の視線に応えるように形だけの挨拶をする。じんわりと、墓石に触れる掌を通して冷たい不快感が心の奥へ広がっていく。


 ――こんな所に小夜はいない。石に向かって何を言ったって届く訳がない。無意味な感傷だ。行動だ。どうして俺は墓参りなんてしているんだろう。だって、――、は。こんなにも――。


 どこまでも冷め切った自分が、こんな事に意味はないと墓石に触れる俺を俯瞰している。


 それは、いつも以上に強烈で劇的な情動。己の行動の無意味さを嘲笑う嘲笑で、けれど同時に胸に去来する不快感を吹き飛ばすような昏い高揚だった。


 ……この感情は一体何だというのだろうか。

 確かに俺は墓参りが好きじゃないし特別な意義を感じるような殊勝な人間でもなかったが、流石にここまでではなかった。


 平凡で普通で一般的、それが俺だ。

 大切な幼馴染の墓参りの最中に嘲笑を浮かべおかしな高揚を覚えるような人間はどう考えたって異常だろう。俺がそんな人間なはずがない。はずがないのに。


「……、」


 ふと、肩に触れる熱を感じて隣に視線をやる。

 シオンだ。俺を真似するようにその場にしゃがみ込んで腕を伸ばし、瞼を閉じて墓石に触れる黒髪の少女の肩が俺の肩に触れている。


 その感触に心を奪われ、俺の頬は無意識のうちに弧を描く。


 歪みのように、歪に歪む。


「――一つ、分かったかもしれない」


 俺の視線を感じたのか、瞳を閉じたままシオンが口を開いた。俺はその声に吸い寄せられるように、はっきりと彼女の方へと振り向いて、その横顔をじっと眺めた。


 ずっと。ずっと。もうどこかに行ってしまわないように。もう二度と離さないで済むように。大切なタカラモノを宝箱の中に詰め込んで、鍵を掛けるように。


 俺は彼女が。――、の事が、■■だから――


「コーイチは、好きか?」

「――え」


 突如、シオンの口から出た心を読まれたような言葉にぎくりとする。けれどそれは、シオンが『星喰い』としての力を使ったという訳ではなかったらしい。


「今日のコーイチを見ていて、なんとなく分かった。コーイチが、月影小夜の事を強く想っている事。言葉にせずとも伝わる、事実。コーイチの抱くこれが恋愛感情、『好き』、というもの。違うか?」


 確認を取るようにそう尋ねたシオンはどこか寂しげな儚い笑みを浮かべていた。


 人間らしい人間みたいに。恋バナが大好きなどこにでもいる女の子のように。


 俺のよく知る――、のように。


 だから、その笑みが今にも壊れてこの世界から失われてしまいそうなモノに思えてしまって、


「だから、コーイチ。わたしに向いているその感情は――」


 彼女の吐いた次の言葉が、


「――月影小夜へのものと同じ。いや、月影小夜への想いそのもの」


 俺の見ていた世界を致命的に破壊するその瞬間を。ただ眺めている事しか出来なかった。







「わたしと月影小夜は同じ姿。だから、コーイチはわたしに『好き』を想っている。違うか?」







 叩きつけられたその言葉に、俺は呆然と言葉を失っていた。

 ……いや、違う。失ったのは、言葉だけではない。


「………………、……――」


 全身を打ち据えるその衝撃は、まるで電流のように俺の身体を駆け巡り脳髄を穿ち致命的な結果を齎そうとしていた。

 世界を映し出す重なった色違いのフィルターにズレが生じ、視界が。目の前の世界が、揺らぐ。大前提から崩れていく終わりの感覚がうなじを撫ぜていく。


 まるで死神の鎌を首筋に突き付けられたような俺の狼狽に、動揺に、異変に、異常に――しかしシオンは気づかない。

 気づかないまま、俺を殺し得る言葉を重ねていく。


「感情の定義、困難。わたしは、『好き』がよくわからない。だから、ずっと、ずっと、分からなかった。コーイチがわたしに向ける想いが何なのか。わたしのこの感情が何なのか」


 それは、喜びはにかむような、悲しみ寂しがるような声色で。笑っているのか泣いているのか判断できない不思議な表情だった。


 複数の想いが複雑怪奇に絡み合った感情表現。

 『感情』という概念を知りながら『感情』が分からないと零していた少女のモノとは到底思えない程に人間的で魅力的で、出会った当初の彼女からは絶対に想像できない顔だった。


 だから本来であれば、俺はそんなシオンの変化、あるいは成長を祝福すべきなのに。


「けれど、今日。分かった」


 ……もう、やめろ。やめてくれ。そこから先は聞きたくない。それ以上、その顔で、その髪で、その瞳で、その唇で、その姿で、それ以上、そんな事は言わないでくれ。

 壊れる。壊れてしまう。壊れないように、落とさないように、大切に胸に掻き抱いていたタカラモノが。


 言葉にならない必死の懇願は誰にも届かず、とめどなく紡がれる少女の声は致命的な毒となって俺を蝕む。


 視界に――否、世界にノイズが走る。音が、色が、世界が、全てが俺から遠ざかって――


「コーイチは月影小夜を『好き』。だから、同じ姿のわたしを――」


 何もかもが手遅れになる、その寸前。




「――何だよソレ」




 自分でも信じられない程に冷たく擦れた声が、俺の喉から発せられていた。

 沸々と。

 身体の内側から湧き上がってくるその感情が何なのか、俺にも分からない。分からないままに、抗い難いそのドス黒い衝動の奔流に俺は身を投じてしまう。


「小夜とお前が似てるから、だから俺がお前の事を好きだって……? 何だよソレ、あり得ねえ。またお得意の妄想か? いい加減いい迷惑なんだけどな、そういうの」

「む。妄想ではない。それに、有り得ない事でもない、と思う。むしろ自然。コーイチはわたしに対して月影小夜へ抱くモノと同質の感情を有していておかしくない。だって、わたしは――」

「だから、何でそんな事が分かるんだって聞いてるんだよ!」


 シオンの言葉を遮る冷たい怒気と苛立ちを孕んだ俺の大声に、シオンの肩がビクンと跳ねた。


「……コーイチ?」


 今更のように俺の様子がおかしい事に気付いたのだろう。

 シオンは驚きながらも気遣うように俺の名前を呼び、俺の顔を覗き込んでくる。


 けれどもう遅い。

 脊髄反射のように口を突く衝動的な言葉は止まらない。止めたくても止められない。

 自分の心に爪を立てるように、棘が喉奥からせり上がってくるこの吐き気はもう堰き止められない。


「イライラするんだよ、そういうの」


 思ってもいなかったはずの感情が、まるで最初からそこにあったかのような我が物顔で胸のど真ん中に赤く染み出してくる。


 そして俺は、気づけばそれを目の前の少女目掛けて投げつけている。傷つけている。


「人の心なんて碌に分かりもしない癖に能面みたいな顔で分かったような口聞いて、恋愛感情なんてありもしない癖に俺を惚れさせるとか意味の分からねえことを言い出して、挙句自分が小夜に似てるから俺に好かれてるって……?」


 どうして小夜を見たことないはずの彼女が自分と月影小夜とが瓜二つの姿だと断定したのかとか、なぜこのタイミングでそんな話をするのかとか、シオンの抱いている感情とは何なのかとか、本当に言うべき事は他にあった。


 けれど、核心に触れる事を恐れた俺が吐き出したのは、自己を守り他者を排す為の醜悪な棘。シオンを傷つけるだけの言葉の暴力だった。


「ひょっとしてアレか? お前、この共同生活もお前が小夜に似てたから俺がオッケーしたとか思ってたのか? なあ」


 歪に引き攣った薄ら笑い口元から自棄になったような心無い言葉が飛び出していく。それを受けたシオンの表情が、誰の目にも明らかな程に悲痛に歪んだのが見える。


 ずきり、彼女のその表情を見た俺の心臓の奥が鈍痛に軋みをあげた。


「違う。コーイチ、待って。わたしは、そんな事が言いたい訳じゃ……」

「俺は嫌いなんだよ。非日常も、特別も、例外も、異常も異物も。そんなモンはいらねえんだよ俺は」


 ……違う、違うんだ。俺だって事が言いたかった訳じゃない。ただ俺は――俺は、彼女の言葉を否定しなければいけなくて。拒絶しなければならなくて。でも、だからって、こんな……こんな顔をさせたかった訳じゃないのに……ッ。


「俺は、平坦で平凡で退屈な当たり前の日常が普通に続いてくれればそれだけで良かったのに……それなのにっ」


 耳朶を叩く己の咆哮に、心が軋みを増す。


 俺自身にさえ制御できない膨張するその棘は、俺の意思など無視して俺と彼女にとっての致命的な一線をあまりに容易く踏み越えようとする。

 やめろ、叫ぶな。そこから先は――


「――俺がお前の事を好きとか。そんなの――」


 これまで彼女との間に築いた確かな何かを壊してしまうであろう言葉が、感情が、暴発する。その直前だった。


「――はい、ストップなー」


 止められないはずの言葉を堰き止めたのは、あくまで軽い口調で割り込みを掛けた腐れ縁の幼馴染、佐久間翔だった。


「光一、そのへんにしとけ。お前、熱くなりすぎ。てか女の子に向かって言い過ぎだ、流石に」


 翔は、冗談めかしたような態度とは裏腹に鋭さを宿した瞳でじっと俺を見据えてそう言った。

俺と翔の間でのみ伝わる、言葉以上の意図が籠められた視線が俺に突き刺さる。

 久しぶりに見た幼馴染の怒りの感情に、俺の中で無限に膨らむかと思えた棘が静かに消えていく。


 俺は翔の視線に応えるでもなく、むしろ逃れるようにただ黙して俯いた。

 だってそうだろう。一体どんな顔をして何を言えばいい? 自分が何をやらかしたかなんて、自分が一番分かっている。

 たとえ最後の一線を越えなかったとしても、取り返しのつかない事をしたのは誰の目にも明らかだ。


 ごめん。そう彼女に謝らなければならないと思っているのに、謝罪の言葉は干乾びた喉奥に張り付いてしまったかのように詰まって出てこない。


 そんな、いつまで経っても黙ったままの俺に翔は一度呆れたように息を吐き出すと、今度はシオンの方へ向き直って顔の前で拝むように両手を合わせる。


「シオンちゃん、ごめんな。あんまり光一のことを悪く思わないでやってくれ。こいつさ、小夜の事になるとちょっと過敏なんだよ、色々と」

「わ、わたしは……大丈夫。分かってる」

「そっか、ありがと。……でもまあ、シオンちゃんの話も、ここでするような事じゃなかったかもだね。今日は小夜の命日で、ここはその小夜が眠っている場所だ。……分かるよね?」

「……すまない。わたし、そんなつもりじゃ……」


 翔に優しく諭されがっくりとうなだれるシオン。

 彼女に悪気があった訳ではない事は翔だって分かっているのだろう。それでも言うべき事をきちんと言ったのは佐久間翔という人間の性格は勿論、彼にとっても月影小夜の存在が特別だからだ。


 その特別な日を、特別な場所を、特別な時間を、特別な想いを、俺は一時の感情に身を任せて滅茶苦茶にしてしまったのだ。


 ……ああ、そうだ。悪いのはシオンじゃない。俺だ。何もかもを、俺がぶち壊したんだ。


 衝動的に吐き出した暴言とシオンを傷つけてしまった事実に、後悔なんて言葉では片付けられない強烈な自己嫌悪が内側から俺を刺している。

 飲み込んだ棘は消えた訳ではなく、その矛先を彼女から俺へと変更しただけだった。

 棘を飲み込めば飲み込んだ当の本人が傷つく。実に当たり前のことだった。


「……おい、光一?」


 ふらりと。

 倒れそうな足取りで、俺は翔に向けて一歩を踏み出す。そのすれ違いざまに、ぽつりと耳元で一言。


「悪い、翔。後、任せたわ」


 そのまま返事も待たずに、二人から逃げるように俺はその場から駆け出した。


「どうして――」


 背後、走る俺の後を追うように零れた哀しそうなシオンの言葉が、追い打ちをかけるように俺の耳朶を叩いていく。


 その言葉を最後まで聞き取れた訳じゃない。


 けれど、彼女がなにを言いたかったのかは痛いほどに分かった。


 本当は最初から、分かっていたんだ。






 ――わたしとあの子を重ねていないと言うのなら。どうしてコーイチはわたしの名前を一度も呼んでくれないか?





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