行間三
――その感情はいつからそこにあったのだろう。
『ねえ、こーくんはさ。好きな子って……いるの?』
思い出すのは、小学生時代。確か、当番制で回ってくる日直にあたった日だったと思う。
黒板という名前のくせに吸い込まれそうなほど深い緑色をしているこの板の存在が不思議で仕方がなかったような頃。
黒板消しを片手に、しつこいチョーク汚れと格闘していた俺の背にそんな声が掛けられる。
時刻は放課後。
いつもは子供達の騒ぎ声で埋め尽くされる教室も、我先にと遊びに行った子供達を吐き出した後となれば眠りにつくような静寂に包まれる。
入学当初は、眼前にてスクリーンのように大きく広がる黒板と所狭しと並べられた座席の列が、幼い頃、まだ母さんが元気だった時に一回だけ連れていかれた本土の映画館みたいだなと思ったものだが、数年も通えばその特別感はどこへやら。
教室は、俺達を勉強へと縛り付ける退屈な日常の象徴と化している。
けれど、この瞬間ばかりはそれだけではない。
不自然なまでの耳が痛くなるような静けさ。
いるはずの皆がいない寂寥感。
よく知っている場所なのに、知らない異界へと迷い込んでしまったような非日常感が放課後の教室にはある。
もっとも、当時の俺にそんな思いを言語化するなんて高度な真似が出来るはずもなく、ただなんとなく、日直として教室に残り一人作業をする事は面倒だけど嫌いじゃないと感じていた。
『は、はぁ? いきなり何言ってんだよ、小夜』
『何って、恋バナよ。恋バナ。ほら、最近そういうの多いじゃない? 六年生の千秋ちゃんとか、同じクラスのさっちゃんとか。だから私も、女の子として流行に乗ってみよっかなって』
傾き始めた陽の光が、くたびれた薄いカーテンレースを突き破って机をまあるく照らす。
その光の輪の中で机に腰掛ける彼女はぶらぶらと足を揺らしながらこちらを見てどこか蠱惑的に笑っていた。
その笑顔の下に恥じらいと不安と恐怖を。
それらを乗り越える為の勇気を隠していた事に、幼い俺は気付けない。
『うぜー、女子ってそういうのほんっと好きだよな。意味分かんねぇー』
『はぁ……、男子ってそういうのすぐ逃げるわよね。根性無しばっかり』
『はぁ? 別に逃げてねえし。俺は逃げねえし』
『へー、じゃあこーくんは言えるんだ、好きな人。ねえ、誰? こーくんは誰が好きなの?』
誰が誰を好きで告白したとか付き合ったとか。ちょうど、周りでそういう話が出始めた時期だった。
二学年で一クラスを形成するような小さな学校だ、その手の話はあっという間に広まる。
その手の話に興味がなかった俺の耳にだって嫌でも入ってくる。
だから、そういう事を本格的に意識し始めたのも、この頃だったのかもしれない。
『そ、そんなのいねえよ!』
顔を真っ赤にして突っぱねる俺と、そんな俺を見て嫌な笑みを浮かべる小夜。
俺と彼女の力関係なんて普段は大抵こんなもので、彼女にからかわれぱなしだったのだと今なら分かる。
当時の俺があまりにガキだったという事は勿論のこと、月影小夜という少女は周囲の誰よりも精神的に成熟していたのだから、この結果も当然だ。
『へー、そうなんだぁ』
『……なんだよ、その顔。ニヤニヤして』
『ううん、べっつにぃ~』
『……なんかムカつく』
『えへへー』
『じゃ、じゃあ、そういう小夜はどうなんだよ』
『……え?』
『だから……好きなヤツ、いるのかよ。お前は』
俺の方からそんな質問をされるとは露とも思わなかったのか、小夜は夜闇のような黒い瞳を見開いたまま俺をじっと見つめて、
『気になる?』
『え、あ……別に俺は、その……』
真正面から真剣な顔でそう尋ね返されると当時の俺はもうお手上げだった。
小夜の綺麗な黒い瞳が持つブラックホールみたいな引力に吸い込まれそうになって、慌てて視線を逸らす。
これまでの自分の言動がやたら恥ずかしいものに思えて頬に熱が差している。
熱で暴走する頭ではまともな答えも返せず、顔を真っ赤にして馬鹿みたいに黙っていた。
そうして、そんな俺を見て、小夜はぱぁっと顔を喜色に輝かせるのだ。
『そっかぁ、こーくんは私の好きな人が気になるんだぁ』
『……だからなんでニヤニヤしてんだよ、お前は』
『そう見える?』
『見えるも何もめっちゃ笑ってるじゃんか』
『じゃあ、なんで笑ってるんだと思う?』
『はぁ?』
『ま、こーくんじゃ分からないかな。こーくん、そういうとこ鈍いし』
『なんだそれ……ってか、小夜だって結局言ってねえじゃねえかよ、好きなヤツ! 俺にあれだけ言っといて自分も――』
ようやく突破口を見つけて嬉々として反撃に出たというのに、
『――いるわよ、私。好きな人』
一言。
俺は、柔らかく微笑む小夜の小さな唇から発せられたそのたった一言に、全ての動きを封じられてしまう。
『……、それって、誰――』
『それはねー、うーん……ナイショかな』
そう言って、差し込む陽光をバックに机に腰掛けた小夜は、口元に人差し指を当ててイタズラっぽい笑みを湛えるのだ。
『私の好きな人が誰なのか、こーくんが言い当てられたら教えてあげる。だから―』
その時の彼女の姿を、俺は胸を締め付けるような痛みと共に何度だって思い出す。
『――早く答えを見つけてね、私の好きな人。……間違ってたら、一生教えてあげないんだからっ』
きっと、この感情はずっと昔から俺の中ににあったのだろう。
ソレは彼女や俺の成長と共に少しずつ、本当に少しずつ膨れ上がっていった。
だから、始まりがいつだったかなんて分からない。あえて言うのなら、物心つく前から幼馴染だった俺達は、出会った瞬間にはこうなる運命だったのかもしれない。
けれど、その感情を確かに自覚したのはこの瞬間。
俺は、月影小夜という少女に、どうしようもなく恋をしたのだ。
……そんな、過去に置いてくるべきだった想いを今なお抱えたままに、俺は今を生きている。




