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そのころ、青年とともに正午前にオアシスから洞窟に戻ってきたエファイテュイアは、その場に崩れるように座り込んだ。
美しかったオアシスは悲惨な光景に変貌していたのだ。
彼女には直視できない惨劇だった。
「だから無駄だと言っただろう?」
生まれて初めて目の当たりにしたーーー人の死。
死体というもの。
動かない、塊……だった。
昨日まで言葉を交わしていたディーすら、も。
「やつらは狡猾だ。平気で夜に奇襲をかける」
エファイテュイアは返事もできなかった。だが、彼はかまわずに話を続ける。
「街のやつらからみれば俺たちはすべて蛮族なのだろうが、その中にもいくつかに分かれている。そして昨日の連中は一番性質が悪い。目をつけられるとは運がなかったんだろうさ」
このような光景には慣れ切っているのだろう、淡々と青年は言葉を紡いでいた。
「しばらくしたらその兄様とやらがオアシスに来るだろうがーーー」
「兄様はあのような穢れた場所へ来られないわ! ……兄様はもっと美しくて……わたしを優しく迎えにきてくださるの……!」
エファイテュイアにとってこの世で一番綺麗で高邁な存在が、ディルザードなのだ。夥しい血にまみれたあのオアシスなど、似つかわしくない。彼があのような場所に足を踏み入れるはずはない。
「お前はしばらく返さん」
「……えっ!」
ここから一人では帰れない。それはエファイテュイアにもわかる。
「連中が狙っているのは貴族。つまりあの一行の中ではお前だな。だがお前はいなかった。……俺がそうしたのだが。そうなればしばらくは血眼になって探すだろう。死にたいのなら出て行け」
ここがどこでキトがどの方角にあるのかも知らないエファイテュイアが出て行けないことなど承知の上で、彼はそう言った。洞窟の奥へ行き、壁に挿してあるいくつかの太い木の棒に火打石で火をつけてまわる。
「…………」
明かりに気づいて顔を上げたエファイテュイアは、この洞窟が思ったよりずっと広いことに気づいた。前日の夜はいろいろなことがありすぎて、野外にも近いこの場所で深窓の姫が安眠できるはずもなかったが、辺りを見渡せるだけの光はなかった。
今は、その全貌を見ることが出来た。
彼女が寝ていた場所は洞窟の中ほどで、そのときは気づかなかったがたくさんの布が敷かれていた。奥には石を削って作った台がある。エファイテュイアは自分の屋敷のものも見たことがないから知らないが、調理台だ。刃物や釜のようなものが揃っていた。
そのさらに奥にもなにかありそうだったが、そこまでは明かりが届かずエファイテュイアにはもう見えなかった。
「……やつらのせいで俺たちも自粛せねばならんな。やっかいなことだ」
独り言のようにそう呟くと、右肩の鳥が返事をするように片方の翼を動かした。この鳥には右側片方しか翼がないのだ。もう一方は、まるで千切られたかのように少し羽が残るのみである。
キト随一の家の娘が蛮族に襲われた挙句に行方不明となれば、大騒ぎになるのも必至であり、しばらくは厳重な警戒体制が敷かれるだろう。そんな中下手に動き回る危険を冒すほど、青年は無知でも愚昧でもない。
「【隻眼】!」
「きゃあ!」
エファイテュイアの背後から突然低い声が聞こえて、彼女はびくっと肩を震わせて振り返った。気配を感じさせなかったというよりむしろ、彼女自身がまるで辺りに気を配っていなかったのだ。
今、彼女の脳裏にはディルザードの笑顔しかなかった。エファイテュイアと優しく呼ぶ彼の声しかなかった。
「なんだこの女は。新しい遊び女か」
「ーーーいや。どうした、【刃】」
青年を【隻眼】と呼んだ男は、にやにやと薄笑いを浮かべてエファイテュイアを見下ろしながら、大またで歩いて洞窟の奥へ進んだ。
「しばらくどうするってみんな話してるぜぇ?」
「大人しくしているしかないだろう? いらん面倒は起こしたくないからな」
「そりゃそーだ」
「気をつけろよ、【刃】」
【刃】というその男は、細い双眸を一層細めて肩をすくめて見せる。
「今んところ、食料は足りてるから困らねーがな……【黒曜石】んとこのガキがな」
「ーーー【紅葉】のことか?」
その名前を聞くと、【隻眼】は眉を少しひそめた。
「あぁ。薬が足りなくなるかもしんねーってさ。そこんとこ覚えといてくれよってな伝言頼まれたぜ、【隻眼】」
鳥の乗っていないほうの肩を、【刃】はぽんぽんと二度たたいた。【隻眼】が承知したと言って頷いた。
エファイテュイアには相変わらず好奇の眼差しを向けながらも声はかけず、彼は洞窟を出て行った。【隻眼】がその背を見送った。
「……せき、がん?」
奇妙な名前だった。
「なんだ?」
何事もなかったかのように返事をする【隻眼】は、奥のほうから大きめの石を運んでエファイテュイアの前の焚き火に投げ入れた。
「蛮族はみんな、そういう名前なの?」
「ーーーああ」
再び石を運びながら、彼は答える。
「鳥も?」
「こいつは【片翼】だ。馬は【落陽】」
片方しか翼のない鳥。そして濃い赤の毛並みを持つ馬。どちらもその身に相応しい名であるかもしれない。
「空を飛ぶことはできないが、俺の右眼の代わりをする」
だから、彼の右肩にいつも止まっているのだ。
「……大きな鳥。わたし、小鳥しか見たことないわ」
「これは鷹だ」
「たか?」
聞いたことがある。貴族の男性は鷹狩りをよくするからだ。
「兄様もよく鷹狩りをしていたわ……」
思い出すたびに胸が痛くなる。兄に逢いたい、そう思うけれど、ここから出て行く行動力が彼女にはないのだ。大人しく座っていることに慣れすぎている。
「お前はその話ばかりだ」
合計五つの石を焚き火に投げ込んでから、【隻眼】はようやく腰をおろした。
「だが、ようやくまともに口をきいたな」
彼は口の端をゆがめて少し笑った。
「娘。ーーー名は?」
彼女がアイルディア公爵家の娘であることは彼も知っているが、貴族というのは下々に名を教えたりしない。キトの街人も知らないであろう彼女の名前を、【隻眼】が知るはずもなかった。
「…………」
身分ある人々でない限り、たとえラピカのように常に仕えていても、貴人の名を本人の前では呼ぶことができない社会で、エファイテュイアは育った。
「言いたくないならいいさ」
ゆらゆらと揺れる炎を見つめて、【隻眼】はどうでもいいことのようにそっけなく呟いた。
「……兄様」
早く逢いに来てほしい。迎えに来て。
エファイテュイアの心からはその祈りだけが次々に溢れてくる。ここがどこかわからなくとも、ディルザードはきっと見つけてくれる。そう信じていた。
「ーーーそうだな」
炎から目を逸らし、エファイテュイアが肌身離さず抱きかかえている装飾ばかりがまばゆい剣を見遣り、【隻眼】が口を開く。
「この俺を負かしたら……キトまで送り届けてやらんこともないぞ、娘」
「え?」
「お前も剣使いなのだろう? 俺に勝てるだけの腕があればやつらに負けはせん。飾りものの剣とその細腕でどうするのか、見てみたいものだな」
揶揄するように彼はそう言って立ち上がり、そばにあった二本の木の棒で器用に投げ入れた石を取り出した。
湯気が立っているそれを一つずつ運ぶ様子を、エファイテュイアは何をしているのだろうとぼんやり眺めた。
「娘、来い」
奥から命令口調で呼ばれ、彼女は訝しみながらも立ち上がって奥に歩みを進める。
彼を信用するとかしないとか、そういう感覚はエファイテュイアにはなかったから。警戒心というものをほとんど知らないのだ。
最奥には直方体の大きな石があった。そこから湯気が出てきている。
「……これはなに?」
「風呂だ。貴族は好きだろう?」
エファイテュイアが中を覗き込むと、石の内部はくりぬかれて綺麗に研磨されていた。【隻眼】が座っても足をゆったり伸ばせるほどの広さがある。透明な湯が張られて、中には先ほどの石が入れてあった。
「着替えもある」
薄い布を幾重にも重ねて作られたエファイテュイアのドレスには、小さな宝石が無数に散りばめられており、裾も引きずる長さがある。彼から手渡されたのは、真新しい厚手の麻で作られたらしい、簡素な白い衣服だった。
「少しは気がまぎれるだろうさ」
そう言って【隻眼】はエファイテュイアに背を向けると、洞窟の入り口辺りに戻っていった。




