3
一時間ほどが過ぎただろうか。
顔や手足を容赦なく襲う冷たい疾風に、すべての感覚が麻痺し始めたころ、ようやく馬は速度を落とし、やがて止まった。
まだきつく瞳を閉じているエファイテュイアが落ちないように支えながら、青年は器用に馬から飛び降りて、彼女をも抱きかかえて降ろした。
全身の震えを止めることができなかった。
怖い、怖い、怖いーーー。
大勢の召し人にかしずかれることが当たり前になっている彼女にとって、見知らぬ土地で見知らぬ男と一人、取り残されていることは何よりも恐ろしいことだった。
真実の孤独など、感じたことがなかったから。
「行け」
青年が馬に声をかけると、まるで言葉を理解したように、それはどこかへ走り去った。
ざらりとした不快な風が、エファイテュイアの全身を突き刺すように吹いている。
何も見えなかった。
オアシスでは警備たちが多くの焚き火をたいていて、夜とはいえ足元が見えるほどの明かりはあった。だが、ここにあるのは月星だけ。美しいが、頼りない光たちだ。
「娘、来い」
「……や、離してっ」
青年が彼女の腕を掴み、強引に引きずるように歩かせた。彼女の細腕で抗える力ではとうていありえない。
何歩か歩くと急に風の流れと月星の光が消え、彼は手を離す。
何も見えないことを承知しながらエファイテュイアがあたりを見回していると、今度はぱっと明かりが灯った。彼女が明かりの方向を見遣ると、二つの小さな石を持った青年が焚き火のそばで立ち上がるところだった。
「これは、なに?」
「家だ」
「いえ……って貴方がここに住んでいるの? 石の中に?」
エファイテュイアは洞窟という存在を知らない。彼女が会うキトの街の人々は誰も小さいながらもレンガの家を持っていた。洞窟という自然も、そこを住居にしているという青年の言葉もエファイテュイアのもつ常識をかなり逸脱したものだったのだ。
「これでも食って落ち着け」
青年が何かを投げてきた。小さな手の中に正確に投げられたそれを、エファイテュイアはまじまじと見る。大きな丸いものだった。
「たべもの……」
だが見たこともない。
「ザッカリアだ」
エファイテュイアの大好きな果物の名前だった。だが彼女は切られた状態か、絞ってジュースやシャーベット、ケーキなどに加工されたザッカリアしか知らない。手のひらに乗る丸い果物をじかで見たのは初めてだった。
知らないことばかりで、急に嫌悪感が増した。手の中のザッカリアがするりと転がって足元に落ちた。
「ラピカは? わたし、ラピカのところに帰りたいわ」
「ーーーだめだ」
自分の依頼をこうも簡単に突き放すように拒否されたことのない姫は、きょとんとした表情で青年の緑色の左眼を見つめた。
「今オアシスに戻ってももう無駄だ」
「わたし、早く兄様にお逢いしたいのっ」
無駄だという意味がエファイテュイアにはわからなかった。ラピカたちは公爵家の姫を置いて出発したりは決してしないだろう。エファイテュイアは取り残されるという状況を思いつきもしなかった。
ただ、一刻も早く兄ディルザードに逢いたいと、それだけを願っていた。
青年は何も、説明しない。
やがて、夜が静かに明けていった。