表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

1. 破滅






運が無かった。


敢えて言葉にするとしても、きっとそれだけの事なのだろう。


ハワード王家の第一王子、ウィリアム=ルイス=ハワード、並びにカスティーユ公爵家の長女、ソフィア=アデライト=カスティーユ。2人がこの世に生を受け産声をあげる前から、両者の両親の手により勝手に取り決められていた婚姻の誓い。所謂「婚約」。それが真っ白に、綺麗さっぱりと白紙に戻されたのは、今から3年前の春の事だった。






王都を縦断する中央街道の桜が、零れ落ちる様な満開を迎えた、3年前の春満月の夜。先月齢15の誕生日を迎えたばかりのソフィアは、王家主催の夜会へ向かう馬車に乗っていた。夜会は披露宴を兼ねたものであり、その題目は、何を隠そうウィリアムとソフィアの婚約発表だ。最早公然の事実だったが、両者が15歳を迎えるまで国民へ向けた正式な婚約発表は行わない、というのがハワード王家の仕来りだった。


ああ、今日この日をどれだけ待っただろう。


絹糸のように美しいブロンドを結い上げ、いつか訪れるこの日のためにとかつてウィリアムから送られた、抜ける様な春空色に染められたプリンセスラインのドレスに身を包んだソフィアは、誰もが息を呑むほど美しかった。


明日の朝には、王都に住まう国民に向けて一斉に号外が出されることだろう。次期王位継承者として期待されているハワード王家の第一王子と、由緒正しいカスティーユ公爵家の長女の婚約発表…記事は一面、その事で持ちきりになるはずだ。


なる、はずだった。


「…ウィル……?」


期待に胸を膨らませ辿り着いた王宮。その、煌びやかなシャンデリアに照らし出された大広間で、ソフィアは信じられない光景を目の当たりにした。


欠かすことの出来ない主役の一人であるはずのソフィアを差し置いて、既に披露宴が開催されていたのだ。


それだけではない。その中心には、あろうことかソフィアではない令嬢を当然のようにエスコートするウィリアムがいた。柔らかな淡い亜麻色の髪をふわりとなびかせた愛らしいその令嬢の名は、ドートリッシュ侯爵の御令嬢、アデル=ドートリッシュ。この時のソフィアは無論知る由も無いが、彼女こそ、この後のソフィアの人生を完膚なきまで粉々に壊した張本人だ。


トドメとばかりに、アデル嬢の指に填められた指輪を目にしたソフィアは言葉を失った。当然だ。その指輪はハワード王家に代々伝わる婚約指輪で、今日、自分が受け取るはずの物なのだから。これは一体、何の冗談なの。そんな一言さえ出てこない。呆然とその光景を眺めていたソフィアに気付いたウィリアムは、酷く冷たい目でその姿を一瞥すると、何の躊躇も無く王宮の衛兵を呼んでソフィアを捕らえさせた。


「何するの!?離して!」

「…よくもこの場に来られたものだな、ソフィア」


アデルを庇うように前に出た彼の顔に、かつてソフィアが愛した優しい笑顔はなかった。あるのは、失望と侮蔑。端的に言えば、ソフィアはアデルに嵌められた。ソフィアはいつの間にか、アデルに対する傷害及び殺人未遂の罪を被せられていたのだ。しかしソフィア自身、嵌められた理由に心当たりが無いわけではない。むしろ、アデルがウィリアムに熱烈に想いを寄せていることは十分すぎるほど知っていた。彼女の恋慕は、好いた惚れたで済むような生易しいものではない。


あれは、汚泥の様な執着だ。


そう断ずるのには、訳がある。なにせ、嫌がらせをされていたのも、殺されかけたのも、実際はソフィアの方だからだ。持ち物を盗まれる、陰口を叩かれる程度なら優しいもので、他所の令息との姦淫の噂を立てられたり、明らかに不審な風体をした人物に切りかかられた事だってある。しかし、だからといって騒ぎ立てる事は出来なかった。所謂、貴族の面子というやつだ。第一王子の婚約者である公爵令嬢のソフィアが、たかだか侯爵令嬢の、自分より身分の低い者の嫉妬に揺らいで騒ぎ立てることなど、あってはならない。いずれ国母となるべき女性の品性や器が疑われてしまう。しかも、相手は曲がりなりにも侯爵令嬢だ。アデルの低俗な行いは、貴族の威信に関わる程に陰湿だった。内々に処理するべきだ、後は任せておけ、と言ったのは紛れも無くソフィアの父親である。


それを信じた末に、今、自分が見ているものは一体なんなのだろう。


公の場で身に覚えの無い数々の罪を着せられ、嘲罵され、唾を吐きかけられ、謗られる。それでもソフィアは、なんとか抗おうとした。きっと誰かがソフィアの無実を信じ、寄り添い、国王に嘆願してくれるはずだ。少なくとも自分は15年もの間この社交界で、貴族の世界で生きてきたのだから。その間に築いた信頼や、絆が、きっとまだどこかにあるはず。そう信じて。




そう、信じて―――――。




「いい加減見苦しいぞ。観念しろ、ソフィア」


しかし、第一王子直属親衛隊の隊長を務める幼馴染のギデオンに剣を向けられ、恐怖と絶望に身が竦んだ。脅しとばかりに切られた頬から、血が伝い落ちる。生まれて初めて意図的に付けられた傷は酷く熱くて、浅いはずなのにジクジクと痛み、零れ落ちた涙が酷く染みる。幼い頃から一緒に育った彼の手は、本来であれば王太子ウィリアムを未来永劫守り支えるためにあるはずなのに。その手はいつの間にか、丸腰の少女に躊躇無く武器を向けるものに変わってしまっていた。ずっと信頼をおいていた彼の変わりように、ショックで声が出ない。そのまま髪を摑まれ無理矢理立たされたソフィアは、湿っぽく薄暗い牢へと放り込まれた。腕にも足にも擦り傷が出来、滲んだ血が白い肌を伝う。


牢にいる間は、ただひたすらに泣いていた。泣きたくなくても、涙が止まらなかったのだ。ただ、全てが涙で霞んで見えなければ良いとさえ思えた。それくらい、何もかもが現実から遠い話に思えたのだ。


それから、王宮の牢に1週間もの間押し込められていた。まるでソフィアの存在など忘れ去られてしまったかの様に、時間だけが過ぎていったのを良く覚えている。粗末な少量の食事ですらほとんど喉を通らなかった。


1週間後の朝、引き摺られるようにして連れて行かれた宮廷の裁判場で、ソフィアは審議にかけられた。審議と言っても、建前のようなものだ。ろくに弁解も許されず、ただひたすらに扱き下ろされ、あれよあれよという間に国外追放となった。


「命があるだけ有難く思え。慈悲深いアデル嬢に感謝しろ」


第二王子のヘンリーが、忌々しげに吐き捨てる。当のソフィアは、なにも言い返せなかった。何を言っていいのかすら分からなかったのだ。地面に擦りつけられた額に血が滲んでも、ソフィアを押さえつける手は緩まなかった。ソフィアに無数の銃剣を突きつける衛兵達は、世紀の大罪人を相手取っているつもりらしい。そこにいるのは、汚れたドレスを身に纏ったたった一人の15歳の少女だけだと言うのに。


生家さえも、ソフィアを守ってはくれなかった。両親はソフィアに実の親とは思えないような罵詈雑言を浴びせ、幼い頃からソフィアを慈しんでくれたはずの義理の兄、エドワードも、ソフィアを厳しく責め詰った。


「お父様、お父様は知っているはずでしょう?私の無実を、あの子の犯した罪を。なのに、どうして何もしてくれないの?」


そんな微かな縋りの言葉でさえ、今更権力に縋ろうとする愚かな元令嬢だと蔑まれ、痺れを切らした義兄はソフィアの頬を打った。


「何故だ?何故お前は、此処までたくさんの人に迷惑をかけて、傷付けて、カスティーユの名に泥を塗っておきながら、平気な顔でまだ嘘が吐けるんだ?自分の身の可愛さしか考えられないのか?お前にほんの少しでも反省の色が見られれば、もう少しまともに送り出してやれたと言うのに…お前の心は、いつからそんなに醜くなってしまったんだ!?」


兄は、苦しげに、胃の腑の奥から搾り出すようにそう言った。けれど、ソフィアにはその言葉の意味がひとつも分からなかった。いつから?どうして?なぜ?…それは、ソフィアが、ソフィアこそが一番知りたいことだ。この場でソフィアだけが、その疑問を抱く事を許される存在だろう。それだけは、なによりよく分かった。幼い頃から身の回りの世話をしてくれていたメイド達も、遠巻きに、まるで汚いものを見るような瞳でソフィアを眺めていた。ソフィア専属の執事ギルベルトも、おそらくあの一件に加担していたのだろう。あの夜会の会場でソフィアではなくアデルの傍に控えていた。その証拠に、今、ソフィアに向けて罵声を吐いている兄をそっと諌めた彼は、ソフィアを見下ろすと、静かに言った。


「…ソフィア様。…十数年も傍にいながら、貴女をお諌め出来なかった私の愚かさを悔いるばかりです。…どうか、ご自身の罪を認めて、懺悔して下さい」


濃紺の髪を綺麗に後ろへ撫で付けたギルベルトは、その端正な顔を歪め、今生の最期とばかりに恭しく頭を下げた。ねえ、どうして。どうしてそこまで想ってくれているのに、少しでも信じてくれようとはしないの。私は、そんなに愚かだと思われていたの?それとも、本当は、本当は私のことなんて、最初から誰も。誰も…。喉を通らない疑問は、誰に問いかけられることも無くソフィアの肺で霧散して消える。


粗末な服だけ着せられて古い幌馬車に乗せられたソフィアは、「異国の地で、誰にも看取られず死んでしまえ」という両親の言葉を背に受け、また泣いた。




三日三晩かけて荒野を抜け、山をいくつも越え、川を3つも渡ったソフィアは、どこだかなんてちっとも分からない辺鄙な土地へ捨てられた。




心から愛したウィリアムも、義理の兄エドワードも、第二王子のヘンリーも、ソフィア専属の執事ギルベルトも。学友も、メイドも、両親も、王家の人間も。誰も、ソフィアに手を差し伸べはしなかった。幼い頃から愛され慈しまれ育ったソフィアに、その現実は耐え難いものだ。


今までこの世に生まれ落ちてから早15年。見てきた世界は、全て夢だった。綺麗なだけの、煌びやかなだけの、甘いだけの、麗しいだけの。ただ、ただひたすらに、それだけの夢。優しくしてくれた人も、愛してくれた人も、惜しげもなく尽くしてくれた人も、全て幻だった。そして今見ている、土くれだった地面と、苛まれるような空腹が、ソフィアの現実だった。たったそれだけの、それだけのものが、もう誰にも奪われることの無いソフィアの全てだった。




死ぬんだろうな。




このまま、誰にも看取られず、一人で。




そう思ったのは、馬車から放り捨てられて二日が過ぎた頃だった。食べるものも無く、町も村も見当たらない。あったところで、自分なんかが受け入れられるだろうか。こんな、見るからに訳ありの女を。そんなつまらない事を考えているうちに歩く力さえ尽き果て、ソフィアは冷たい土の上に倒れた。








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ