3月17日(土) ※※1
「お母さん、私、やっぱり無理…。なんか緊張してきたよ」
「何を言っているの…。料亭にまで来ているのに…。せっかく、母さんの一番お気に入りの着物を貸そうとしたのに…、嫌がるし…。まあ、一番上物のスーツに袖を通してくれてよかった」
この日、十二時から小倉義広とのお見合いのため、十五分前には新宿の料亭「つまくれない」に母と一緒に待っていた。
紫はいつも思う。一ヶ月先の事だと、ついまだ先だからと気軽に予定を入れてしまう。なぜか一週間ぐらい前になると、だんだん面倒くさくなってくる。
さらに目の前になると、物事の大きさがはっきり分かるから、内容によっては本当に押しつぶされそうになる。こう感じるのは何も紫だけではないだろう。
とりあえず、人生初のお見合いの緊張から逃れるため、紫は昨日のエスペランサ出版総務課の送別会のことを思い出す事にする。総務課としての送別会は最後となるため、いつになく盛大に行われたような気がする。そんな中で、陽美は本当に申し訳なさそうに紫に言った。
「紫、本当にごめんね。よかれ…と思ってやったことが、かえって紫を傷つけてしまったね…。紫の言う通り、どうにかして、水戸あおいをこらしめてやりたかっただけなのかもしれない…。なんか、紫を利用したみたいで本当にごめんなさい…」
「別にいいよ。私こそ、ごめん。あんな所でカッとなって、大人気なかった。それに武下定秋と水戸あおいの件で、親身になってあれこれ動いてくれたのは、陽美だけだよ。本当にありがとう…」
「私達、これから離れ離れになるけど、これからも変わらずにいましょう」
「もちろんよ! 五月五日の結婚式、楽しみにしているから…」
十年間勤めた会社で、一人でも心から信頼できる友人ができたこと…。ただ、それだけでもよかったのではないだろうか…。それに三年後か、五年後か、いつになるかは分からないけど、またいつかエスペランサ出版に戻れるのである。その頃には全てを笑って済ませられるようになれたらいいな…。
「ちょっと、紫、何ぼんやりしているの? ほら、小倉さんがいらっしゃったよ。さあ、行くよ!」
「ああ、ごめん。ごめん」
母の一言で現実に戻された。さあ、勝負の時はやってきた。もうすぐ、福岡へ行く紫にとって、ここで相手方に本気になることほど困る事はない。いくら、母の顔を立てるためとは言え、無下に断る訳にもいかない。
相手に失礼の無いように、相手がやんわりと断るようにうまいこと話を持っていきたいところである。それについては母とも話しているが、母はこれも何かの縁だから、福岡へ行こうとも細く長く仲良くやっていけばいい…と言っていた。
母曰く、お見合いなんか、そう簡単にうまく結婚につながるものではないから、とにかく会う事が大切だと…。会ってとしても、多くは会っただけで終わるけど、ごくまれに会った事がきっかけに新しい未来が開ける事がある。それを見つけるのが、仲人の醍醐味だと母はいつも言っている。
「先ほどは、遅くなって申し訳ございません。小倉義広の父でございます」
「いえいえ、こちらが早く来過ぎただけですから…。桜田紫の母でございます」
「小倉義広です。よろしくお願い致します」
「桜田紫です。よろしくお願い申し上げます」




