3月14日(水) ×3×
「紫、今日は本当にありがとう! 少ないけど、これ受け取って…」
「いや、いいよ。すみれ…。私、素人だし…」
「まあまあ、紫のおかげで今日のライブできたようなものよ。これでも私、プロでやっているから大丈夫。受け取ってもらえないとかえって困るから…。それに音響はライブでは重要なポディションなのよ!」
さすがにそこまで言われると断る事もできずに、紫は小さく「ありがとう」とつぶやいて茶封筒を受け取った。ライブ会場の照明に透かしてみると、福沢諭吉が一人微笑んでいるのが見えた。
「ところで紫、この後、裏方メンバーで軽く打ち上げをやるんだけど、紫も一緒に行かない?」
「桜田さん、これも何かの縁なので、ぜひ一緒に行きましょう!」
タイムキーパーの鹿本や照明担当の三河も誘ってくれたので、紫は思い切って、打ち上げに顔を出す事にした。このような機会は滅多にないだろうし、何より音楽業界をのぞける貴重な機会である。
打ち上げには鹿本、三河だけでなく、大道具の湯前も参加した。すみれと紫以外は全て男性である。会社以外のメンバーとこうやって飲むのは多分五年ぶりであろうか…。ここでも武下定秋の悪影響が出ているように思えた。
「へえ、紫、レーシックやったんだ。昔からコンタクトは合わないから、メガネ一筋だったもんね。だから、今日、久々に会った時、あれっと思った…。前から思っていたけど、紫は裸眼の方がかわいいよ」
「ああ、それはありがとう! すみれったら…、さっきも話したじゃない…。リハーサルの合間に…。そして、整形何とか…って曲を即興で作ったじゃないの?」
「あっ、そうだったね。ごめんね…。私、音楽に夢中になると、人の話を全然聞けなくなるから…」
すみれは無事にライブを終えた安堵感から、早くも酔っぱらっているような感じである。紫も全く気を遣わなくていい飲み会は久々だったので、いつになく心地よかった。やはり、会社の付き合いでは気持ちよく酔えないものである。
「昨日も電話で話したけど、五年間付き合った彼氏に浮気され、十年間勤めた会社に突然の出向を命ぜられて、やけくそになっちゃったよ…。何か今ならできそうな気がすると思って、勢いでやったの。やっぱり、人生、勢いが大事だよね…」
「桜田さん、次はどこへ行かれるんですか?」
「次ですか? 次は福岡に行きます。出向先の小さな出版社で総務主任をやる事になっています。鹿本さんは何をされているんですか?」
「何をって? ライブハウスでタイムキーパーなどの裏方の仕事をするのが私の仕事ですよ」
「ああ、ごめんなさい。専業でされている方なんですね」
「紫、ここにいるメンバーはみんなライブボックスにて、専業で働いているのよ。インフルエンザでぶっ倒れた佐田君も含めて…。この業界で掛け持ちの人間って、案外いないものよ」
紫はインディーズ音楽業界の豆知識がいろいろと知れて、楽しい夜となったし、何よりいい勉強になった。




