エピローグ
時は流れ、二十一世紀。
オスロ大学のアウラ講堂では、数百人の拍手が鳴り響いていた。
壇上のスクリーンにはニルスの肖像が映し出されている。
司会者が語る。
「アーベルの楕円関数論は、当時の数学者たちにはなかなか理解されませんでした。しかし……」
司会者は、一呼吸おき、言葉を整えた。
「……しかし現在では、数学から自然科学に至るまで、あらゆる分野を支える基盤となっています。楕円という『歪な円』の中に、彼は調和を見いだした。その視点は、数学というより、詩に近いものです」
司会者は、ニルスの肖像画を一瞥した。
「彼の見つめた未来に、私たちはようやく追いついてきたのかもしれません」
さらに続ける。
「アーベルが導いた理論は、いま私たちが『アーベル群』と呼ぶ概念にもつながっています。 加法が交換できる……そんな素朴な性質を、彼は数学の中心に据えた。 その発想がなければ、現代の代数学も、数論も、暗号理論も、まったく違う姿になっていたでしょう」
会場から割れるような拍手が鳴り響いた。
壇上のニルスの肖像画が、静かに微笑んでいるように見えた。
ノーベル賞に数学賞はない。
それは、若くして亡くなった天才ニルス・アーベルのために、数学賞の席をノーベルが空けていたから……なのかもしれない。
〈終〉
【あとがき】
本作品を執筆しているあいだ、私はいつも斎藤康仁さんの「AUTUMN」という曲を流していました。
斎藤さんは、デジタルノベル……当時はアドベンチャーゲームと呼ばれていた世界で、数多くの名曲を生み出された作曲家です。
「AUTUMN」は DATAWEST社制作の「Nightmare」という作品のテーマ曲で、物語の静けさや余韻を支えるその音楽は、私にとって特別な存在でした。淡い旋律は、雪の中を歩くアーベルの姿と重なり、この物語の呼吸をそっと整えてくれました。
2024年7月18日、斎藤康仁さんはご逝去されました。
深い敬意と感謝を込めて。
本作品を、斎藤康仁さんに捧げます。
なお、「AUTUMN」は「斎藤康仁」「Nightmare(DATAWEST) - AUTUMN」などのキーワードで検索すると、今も動画サイトなどで聴くことができるようです。
最後に補足です。
本作品では主人公を「ニルス」と表記しましたが、一般的には「ニールス・ヘンリック・アーベル」と呼ばれることが多いようです。
また、クリスの本名はクリスティーヌであり、姓は不明です。本作では諸説ある姓の一つを採用しました。さらに、クリスの母親の名も史料には残っていないため、北欧らしい女性名を作者が設定しています。
そのほか、数学界の栄誉としてはアーベル賞の前にフィールズ賞がすでに創設されております。しかしフィールズ賞は四年に一度の授与であること、受賞者は40歳以下の若い数学者に限られることなど、ノーベル賞との性質がやや異なります。そのためノーベル賞により近い性質を持つ賞としてアーベル賞をとりあげました。
本作品を執筆するにあたり、「栄光なき天才たち 第2巻 ニールス・ヘンリック・アーベル」(集英社)、およびwikipediaの記事を参考にさせていただきました。
2026年4月。自宅にて記す。




