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基幹サーバーのスイッチングハブから手を放し、一呼吸する。
VR空間ではそろそろ花火も打ち止めになった頃だろうか。
データ作成日がイブの命日以前の火薬オブジェクトは、これで全て焼失した。
いくら凄腕の技術者でも、未来のデータに罠を仕掛けることはできない。
なんとかイブの企みを未然に防ぐことができた。だが随分と無茶をしたため、コールセンターとしての権限を剥奪されたという文言が、目の前のウィンドウに踊っている。
今まで大人しくしていた最後の人類が、意味不明な行動に出たんだ。VR空間の運営も、それぐらいの対処はするだろう。
物理演算機能のスイッチを入れ直し、意味もなくカバーも閉じて鍵をかける。
デアイサーに乗り込んで、鍵をアタッシュケースに向けて放り投げると、空しい音を奏でて転がった。
自分のブースに置いたままだったケースを解凍するために、デアイサーへと持ち込んだのだが、イブはどうしてこんなものを用意したのだろう。
体から力が抜けて、思わず凍った溜息を吐く。
何にせよ全ての罪を自分が被ることで、メアリ達に被害が及ぶことはないはずだ。通信自体はまだ生きているので、花火大会のスクリーンショットを何の気なしに視界に入れる。
あの鍵のせいで、彼女の望みも潰えた。
いや思い返すに、あの鍵を託されたのは、自分がイブを裏切る前だったか。こういう風に利用されるとは思っていなかったのだろう。
基幹サーバーに背を向けて、デアイサーの歩みを進める。
もうここにいる意味もない。もし万が一またトラブルが起きて、あの鍵を使う必要が出てきても、自分の寿命が先に尽きるだろう。
逆に言えば、生きている人間さえいれば、何でもできてしまう欠陥のような機能が、秘密裏に実装されてしまっている。
イブはそれを抱えて、一人だけ現実に残ろうとした。
そう思うと、より一層心臓を締め付けられる思いが全身を駆け巡る。
何か、大きな勘違いをしていないか。
どうしてこんな鍵を用意していたんだ。
人間嫌いのイブは、理想の世界のために、VR空間の開発に没頭した。
だがそれは、自らがVR空間へ行くためではなかった。
イブが現実に居座ろうと手を挙げたのは、きっと献身のためではない。
全人類を新たな楽園に閉じ込めて、この氷の地獄で一人になりたかったのだ。
あの鍵を使って、どうするつもりだったのかは、もう知りようもない。
シートに持たれかかって天蓋を見上げる。イブはきっとこの玉座が欲しかったのだ。
人類をサーバーに押し込めて、自分だけが現実で自由になろうとした。
自分はそれを奪い取ってしまった。
だから自ら命を絶ち、嫌がらせの小細工を残したのだろう。
そんなことを今更気がついても、何もかも手遅れだった。
サーバー管理用のインターフェイスを起動し、モニタ画面をチェックすると、加速計は予定通りの数字を示していた。
このままいけば地球が凍り付いて完全停止する前に、加速の最終段階に達することができるだろう。
それを自分が見届けてザイトに報告すれば、向こうの住人は安心して永遠の時を生き永らえる。
イブの暴走を食い止めたことも合わせて、自分には現実に残り続けた意味があった。
駄目だ。自分にそんなことを言い聞かせるようになるなんて。
ここまで不安みたいなものが、自分に押し寄せてくるとは想像しなかった。
この広く空しい地球に、生きている人間は自分一人。
イブが死に、残された望みまで打ち消してしまった後に、改めてそう認識させられた。
身震いしているのは寒さのせいだと割り切って、出発の支度をしようとする。
サーバー群のドームの入り口が、中々開こうとしない。外部モニタにも何も映らない。猛吹雪で扉も凍り付いてしまったのか。
ここに来るまでは夢中で何も思わなかったが、確かに天候はかなり悪かった気がする。
ヒーターが氷を溶かす時間さえも惜しい。今はもう一刻一刻が重い段階まで来ているのだから。
もうじき加速は最終段階に入る。その前に最後の約束を果たさないといけない。
『メアリさん、お待たせしました。メアリさんの本当の体を見に行きましょう』
コールセンターの権限は停止したが、通信手段は遮断されていなくて助かる。
加速計の報告の仕事が残っているから、当たり前のことなのだが。
コンソールにサーバーの加速計を表示させておく。これで安置所に行って、帰れなくなっても問題はない。外は氷礫が縦横無尽に舞っている。
恐らく自分の最後の瞬間は、安置所で迎えることになりそうだ。
『あっ、アオさん。お久しぶりだねー。今お仕事大丈夫なら、ぜひお願いしたいな』
加速が最終段階に近づき、とても数十分ぶりとは思えないほど、VR空間の様子は変化していた。さっきまで秋の花火大会をしていたかと思えば、今はもう東洋エリア自慢の桜が咲いている。
メアリはその中で薄いカーディガンを羽織り、目で追えないほどの速さで動き回っている。音声だけは自動で補正がかかり自然に聞こえるが、中継画面にはそのような機能はなく、目まぐるしい変化をそのまま垂れ流している。
急いで返事をし、すぐさま出発しなければ、彼女は待ち呆けをくらってしまう。
流石に他に何もせずに、こちらの返答を待っているわけではないだろう。それは刻々と変化する彼女を映した画面で分かる。
だが無駄に待たせていいものではない。それに、こちらも時間が惜しい。じきに気温が危険域に突入し、溶解炉が停止する可能性がある。
それに不凍液フィルターの在庫がなければ、自分はもう生きていられない。一秒一秒が、現実にもVR空間のメアリにとっても貴重だ。
必要そうなものを全部コートの中に詰め込み、外出用コートを更に着込む。そしてこれが最後だと言わんばかりに、フードをしっかりと被り直す。
『残りの仕事は、どこでもできますので。それでは出発します』
『はーい。って、あれ?』
重々しい扉を温めて開いた後、そこから入り込んでくる猛烈な雪の礫に全身を襲われる。
『アオさん! 滅茶苦茶天気悪いじゃん! また今度でいいよー』
一瞬でメアリに見せているカメラも、碌に機能を果たせなくなる。それでも自分は目を力強く見開いた。
『もう、今度なんてありません』
『えっ? どういうこと?』
『約束したのにここまで遅れて申し訳ありません。現実では、今日が計算上の最後の日なのです』
『そ、そうなんだ……ごめん、分かってなくて』




