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ついに孤独最初の日を迎える。
忘れないうちに不凍液フィルターの交換を済ましておく。
痛みはいつもと同じはずだが、どういうわけか重く体に響く。
この行為自体が死へのカウントダウンだと理解してしまったからだろうか。
伽藍洞となった僕のブースに戻り、放置されていたデバイスを手に持つ。
私物と言えるものはなく、ここに戻ってくることは二度とないだろう。
残りの人生はデアイサーの中で過ごした方が効率もいい。
デアイサーの倉庫とサーバー群のドームを往復するだけで、全て事足りる。
このブース内だけでなく、開発ラボ自体水を打ったように静まり返っている。
もう他に人はいないのだろう。
ザイトもイブもVR空間へ旅立った頃合いだ。
頭に太いケーブルを差し込んでサーバーと接続さえできれば、VR空間へのログインに場所を選ばない。
医療スタッフもいなくなったはずだから、人口冬眠は簡易的なものしかできないが、今からログインするならばそれで十分らしい。
それほど地球の最後は近づいている。
仮死状態になる薬品を投与して、脳だけは生かす。
この気温の低さだと二度と起きることもない。
後はVR空間で第二の人生を楽しめばいい。
イブはどこでログインを済ませたのだろうか。
最後に会いたいなどというのは我がままでしかないが、気になってしまうのも確かだ。
そんなことを考えていても仕方ないか。
明日からは何も考えずに任務に忙殺できるだろう。
さあ、さっさとデアイサーに戻ろう。
暖房が停止している施設内にいても、体の熱が奪われるだけだ。
僕のブースを出ようとしたとき、グローブが掴んでいるノート型デバイスが振動を始めた。
ホログラムに映し出されたウィンドウには、メッセージの受信を示している。
相手は、イブからだ。
僕は恐る恐る、その血の通わないテキストに目を向かわせた。
《【イブ】/どうしてあんなことをしたの》
発信元は現実。
彼女はまだここにいる。
だけど不凍液フィルターの交換の時間は過ぎている。
フィルターの交換もなしに、意識を保ってるとしたら大変なことだ。
僕は、彼女の問いよりも、体の心配をした。
《【アオ】/早くログインを済ませてくれ。向こうでもコールしてくれれば話はできる》
僕も彼女に合わせてテキストデータを送信する。
いや、合わせたというよりイブの声を聴くことが怖かったのかもしれない。
あんなこと、か。
確かに彼女からしてみれば余計なお世話だったかもしれない。
だけど、その結果、体を環境に合わせて改造する必要もない楽園へと移住することができる。
それがイブの意に添わないとしても、僕はそうあるべきだと思った。
《【イブ】/貴方は最後までそうなのね》
イブの言いたいことがよく分からない。
だけど最後という言葉がどうしても引っかかる。
これから顔を合わせることは不可能でも、メッセージのやり取りくらいはできるはずだ。
僕ともう関わりたくないという意思表示なら、まだいい。
だけど、僕の脳裏に過るのはもっと別のことだった。
今更、根源的な問いに思い至る。
人嫌いなイブは、本当にVR空間へ行きたかったのか?
メッセージの返信を急ごうとするが、指が宙を踊るだけで何も入力できない。
いい文言が見つからない僕より先に、イブが行動に移してしまうのではないか。
がくがくな膝に力を込めて、凍りついた床の上を駆け出そうとするも滑って上手くいかない。
そうやってもたついている内に、固く冷たい壁の向こうから、鈍い音がする。
《【イブ】/死体はそのままベッドに寝かせておいて》
彼女の遺言が、遅れてデバイスに到着する。
霜で張り付いた唇は、自分に悲痛の吐息を漏らすことを許さなかった。
イブの個室の扉を開けると、暖かい空気と共に、ベッドに横たわる彼女の姿が目に入る。左手に小銃が。
「イブ――」
やめてくれ。
冗談であってくれ。
そんな願いだけで彼女の名を何度も叫んだ。
あの銃は護身用ではない。
敵になりうる人間も全滅した世界で、そんなもの必要はない。
不凍液フィルターが尽きたとき、全身に毒が回って藻掻き苦しむことになる。
そのときの自決用としてあの銃がある。
そういった意味では、イブは似たような使い方をしたことになる。
イブの凍った額から、血が止めどなく流れていく。凝固防止剤のせいで血が止まりそうにない。
「イブ」
まだ治る傷ではないか。
そう思ってよろよろと近寄る。
「イブ、起きてくれ」
いや、さっき寝かしておいてくれと言っていたではないか。
彼女の言いつけは守らないと。
――駄目だ。
頭が回らない。
もう視界に入った情報をそのまま処理することを、僕の脳は選んだ。
寝具の上に横たわるイブ。
生気を失った白い肌に真っ赤な塗料が塗り付けられている。
このままだとベッドが真っ黒な棺桶になってしまうので、餞代わりにオイルで止血しておく。
彼女の額に触れる際、ついでだからと目を閉じさせる。
いつも無表情だったイブは、久しぶりに穏やかな顔を見せたように思えた。
《【イブ】/後は好きに生きたらいい。最後の人類さん》
時間を空けて送信する設定にしてあったのだろう。
口のない死人からメッセージが届く。好きにしろ、か。
「あああ、イブ」
好きに何かをやり遂げる時間はもう殆どない。
どうしてそんなことを言うのだろう。皮肉のつもりだろうか。
ああ、もう駄目だ。
冷静を装うことに努めても、どれだけ心が凍てついていようと、口が勝手に開き、叫びを吐き出そうとする。
「あああああああああああ――!!!」
その場に崩れ重力に身を任せた僕は、ただただ冷えた床に拳を叩きつけた。
どうして――どうして、こうなってしまった!
僕が悪い? 僕が愚かだったから? どうすれば償える? どうすれば元に戻せる?
僕のことなんてどうでもいい。イブが生き返るなら喜んでこの命を差し出そう。
頼む――。最早信仰を失った大地でも、見守ってくれている神様くらいいるだろう?
お願いだ、誰か助けてくれ――。
様々な思いを胸の中に往来させながら、ただ泣きじゃくるしかなかった。
凍ることを許されない涙が枯れたころ、尋常でないほどの虚無感が背中から襲い掛かってくる。
僕がどれだけ叫ぼうが、自分の声しか跳ね返ってこない。
誰かが駆けつけてくるわけでもなく、どこからか通信が飛んでくるわけでもない。
全ての雑音が、自身に由来する。
全ての行動に対する結果が、単なる物理法則でしかない。
そんなことを強く認識させられる。
体が勝手に震え、義足が軋む音がした。
世界で生きている人間は、たった一人。
その例えようのない孤独を、ようやく理解し始めたのだ。




