-7.〔回収:ネットスーパー〕④
現状、引き返すことも叶わない暗がりの奥から、打撃めいた重低音が絶え間なく押し寄せてくる。
ただの震動ではない。
地下深く、石で造られた強固な通路を“何かが”擦り削る異音と、硬い踏み込みが幾重にも重なり合って轟音を鳴らす。
細く狭い一本道が筒の役割を果たし、咆哮混じりの鳴動は増幅して二人の鼓膜を容赦なく揺さぶった。
良平が掲げる心もとない灯りは当初の想定を離れ、先刻通って来たばかりの通路――その先にある濃密な闇、奥の空間へと向けられている。
削られた石片が散弾のように飛び散る音までもが、聞こえてくる。
何かが足を踏み出すごとに、天井から落ちてくる砂粒は増え。
既に、圧迫感すらも生じ始め。――生み出される気圧のうねりが良平の身体を強烈な恐怖で硬直させる……。
しかし亘平はその猛烈な威圧を前にしても微動だにせず、闇の中から直進してくる巨大な気配を正面から真っ直ぐに、焦点を合わせ続けていた。
途端に眼前の石の壁面が、耐えかねたか、不揃いな破砕音を上げる。
弾けた破片が床へ、激しく飛び散る。
――人が独り通るのが精一杯の空間を、強靭な肉体で力任せに押し広げる――巨躯が迫り来る。頑丈な石組みを粉々にし削り落とした岩屑を踏みつけて進む、凶悪な足取りで。
良平の明かりが激しく揺れ動く。
そんな中、舞い散る粉塵を破って姿を現したのは人間の倍以上はあろうかという歪んだ肉塊だった。
岩肌のようにゴツゴツとした褐色の皮膚と、丸太のように太い腕。
狭い空間へ自らの肉体を強引に捩じ込み、力任せに石壁を削り砕きながら進んだその頭部から、湿った熱気とともに、荒々しい呼気が吹き出す。
「……トロール」
圧倒的な暴力で通路そのものを拡張しながら迫り、現れた怪物を前に、良平は唇を震わせて乾いた喉から絞り出すように、――呟いた。
巨躯から吹き出す湿った熱気に野獣特有の生臭いニオイが、小広場で急速に立ち込める。
怪物の足が踏み出されるたび、足元が重い擦過音を立てて砕け散っていく。
亘平は、迫ってくる巨体から徐に視線を外し、近くで怯えている良平の方へと顔を向けた。
その眼差しは、先刻のように相手を服従させる展開を待つ、無言の見当を宿す。
良平は、自分へと注がれる視線に含まれた意図を即座に察した。が。
青ざめた顔で力なく首を振る――。
「――あのトロールは、僕の従魔ではありません……」
その返答を耳にした亘平は、詳しい事情までは分からなかったものの、今の状況を理解し。
「では、走って逃げましょう」
と表情を変えることなく、至って平坦な声で亘平は言った。
*
地上の敵を容赦なく薙ぎ払うと、天使は一躍して空へと跳んだ。
背の翼が強く風を孕み、一瞬で重力を振り払う。
上空で待ち構えていたのは、羽ばたきのたびに旋風を巻き起こす巨大な飛竜と、鋼の羽毛を持つ怪鳥の群れ――。
空気を切り裂く鋭い羽音とともに、急降下してくる無数の影。
天使は垂直に近い角度で飛翔を維持しながら、――襲い来る爪や嘴を紙一重で躱していく。
すれ違いざま、天使が手刀で放つ斬撃に空気が激しく振動し鋭利な風圧が飛竜の翼膜を叩き切る。
平衡を失った巨躯は重い悲鳴を上げながら地上へと堕ちていき、その後、激しい破砕音を立てて石造りの建物を押し潰す。
なおも途切れず殺到する、魔獣の群れに対し、天使は翼から舞い散る羽根の残像だけを残して高い空でも縦横無尽に駆け巡る。
従魔を切り裂く手刀の軌跡が描かれる都度、空からは肉塊と羽毛の雨が降り注いだ……。
地上の人々が降りやまない血肉の雨と、魔獣の断末魔に、耳や顔を覆う。
殺気立っていた従魔たちの喉から漏れる低い唸り声は、次第に困惑と恐怖の交じった掠れ声へと変貌していく。
しかし天使の呼吸が乱れることはない。
その衣服、翼にすらも泥や血の一滴が留まることもない。
群れをなした脅威が、着実に削られていく。
圧倒的だったはずの従魔たちが、天使という情理の通じない災厄を前に、ただ数を減らしていく惨劇の、――引き立て役に過ぎなかった。
さなか、上空で不意に天使が動きを止めた。
直前まで猛威を振るっていた天使の攻撃が途絶えたことで、周囲を包囲している従魔たちも追撃の機を逃す。
魔獣の群れは、戸惑いを滲ませながらも、一定の間合いを保ち、天使の様子を窺う……。
天使は、随分と数を減らしはしたものの、未だ群れで残る魔獣の分厚い影を見る……。
見渡す限りに無数の殺気が、自身へと集中する。その渦中で、天使は視線だけを巡らせると、心底煩わしそうに短く息を吐き出した。
次いで、自らの腰に帯びていた鞘に手を伸ばし。
――その柄を握り締めて。
「相談する相手が不在では、致し方ないな」
抑揚を欠いた声で、誰に聞かせるともなく呟く。と、天使は地上に存在する従魔たちの群れに向けて剣を真っ直ぐに掲げ、その十字架にも見える形状を――振り上げた。
天に掲げられた、十字架の意匠をもその刀身に刻む切っ先へと力が集束していく。
急激に膨れ上がる高純度の光が、天使の背後に広大な光の十字を鮮烈に背負わせる。
天空から降り注ぐ、その後光の粒子が、地上を埋め尽くしている魔獣の群れから威嚇の唸り声すらも途切れさせ、息を呑ませる。
と。
「――聖架斬奸」
天使の呟きとともに、振り下ろされる一閃。
直後、すべての音を置き去りにする閃光が地表全体を塗り潰す。
それは衝撃波などによる、破砕ではなかった。
十字架の切っ先から放たれる輝きの渦に触れた瞬間、如何なる巨躯も、肉片すら残すことを許されず。――存在そのものが綺麗に抹消されていく……。
光る斬撃の勢いは止まらず。
輝きは、波涛となって城塞都市にまで届く。
堅牢な石組みの城壁、立ち並ぶ重厚な建造物、そして都市を取り囲んでいた不自然な濃緑が、音も無く白く眩い光の中へと――呑み込まれていった。
…
世界を切り裂きかねない一撃でありながら、その威力の及ぶ範囲は天使側の調整で限定されていた。
地表のあらゆるモノを根こそぎ消し去りながらも、地盤そのものは陥没すらさせてはいない。
やがて天地を眩ませていた絶望の光が完全に霧散し。
あとに残されたのは、何も無い、ただまっさらな大地のみ。
底知れない数だった魔獣の群れも、今や、上空で天使を包囲している数十の従魔たちだけ。
都市や、生命力に満ちていた緑などは、もはや最初から存在していなかったかのごとく消滅している……。
遮るものの無くなった地上、乾いた風が、誰も存在しない真の荒地を吹き抜ける――。
*
背後から迫るトロールの咆哮と、石壁を力任せに打ち砕く音を浴びながら、二人は地下の一本道を奥へと疾走した。
辿り着いた先で、良平が床に手をつき魔力を流し込む。
床に刻まれていた複雑な幾何学模様が青白い輝きを放ち、――二人を包む。
前回と同じ、一瞬の浮遊感の後、二人は転移する。その先は、高い丘の上でぽつりと取り残されていた小さな廃屋の内部だった。
乾いた風に吹かれてキシキシと音を立てる板扉を押し開き、二人はついに日差しの中――地上へと飛び出した。
が、地上に逃げ延びたものの一息つく程も猶予などない。
追いかけてくるであろうトロールが、同じ転移魔法陣で地上へと現れる可能性を考慮し、良平は身を潜める場所を求めて周囲に視線を泳がせる。
しかし見渡す限り、丘の周辺にも、身を隠せる大きさの樹木はおろか、背丈を超えるような岩すらも存在していない。
良平の気が焦る。
その傍らで、亘平は遮蔽物のない平坦な風景を淡々と観察していた。
「隠れられそうな所は見当たりませんね」
平然とした声色で現状の不便さを口にする亘平、の隣で、良平は肩を激しく上下させながら何気なく向きを変える。
ふと、心に浮かんだ光景との違和感を覚えた。
良平はそのまま、丘の縁へと歩む。そして、眼下に広がるはずの城塞都市の方を見下ろした――直後。
良平の全身が、ピタリと動きを止めた。
引きつった喉の奥からは掠れ声みたいに息が漏れ出てくる。
ついさっきまで在ったはずの、都市を囲む堅牢な城壁、内部にて立ち並んでいた建物群、周辺を取り囲んでいた溢れんばかりの濃緑――その一切が、綺麗さっぱりと失われていたからだ。
「……ナゼ?」
良平の疑問の言葉を、吹き晒しの風が浚う。
次の瞬間、――ガァンッ! と背後で、凄まじい破砕音が爆発した。
二人が今しがた出てきたばかりの廃屋が内部で膨れ上がった無謀な容積に耐えきれず、内側から一気に弾け飛んだのだ。
四方八方へ砕け散った建材の隙間から、強引に現れる――あの禍々しい褐色の巨躯。
予想どおり転移陣を通って地上に出てきたトロールが、自らの巨体に対して余りに狭すぎた廃屋を、その身ひとつで粉砕しながら踏み出してくる。
良平はその姿を見て、絶望的な恐怖で再度硬直した。
都市の消失という理解を超えた事態から無理やり引き戻された彼の眼前で、再び迫る、圧倒的な暴力の気配。
近くでは、飛散した木片を一瞥した亘平が、何一つ表情を崩すことなくその怪異の姿を注視している。




