最終話 ただいま
部屋は静かだった。
会長は腕を組み、組長は小さく息をしている。
本家の重い空気の中で、俺だけが宙吊りみたいな気分だった。
本家に来るか。
組を抜けて、自分の居場所へ行くか。
出世か。
居場所か。
どっちを選んでも、何かを捨てる。
会長の言うことは、理屈としては正しかった。
本家へ入れば、狐塚からも守られる。
身分も、立場も、用意される。
金も、力も、今までよりずっと持てるようになるだろう。
しかも、組長を楽にできるかもしれない。
それは、ずるかった。
俺のためじゃない。
オヤジのため、という形で差し出されると、断りづらいに決まっている。
だが――。
頭の中に浮かぶのは、本家の広い部屋じゃなかった。
液タブの青白い光。
安い缶コーヒー。
水島の嫌味。
久瀬の毒。
早乙女の、どうしようもなく面倒くさい熱。
あの部屋だ。
あいつらと、一コマの位置で揉めて、
タイトル一つで本気になって、
売れるかどうかで怯えながらも、
それでも最後は“何が面白いか”で目を光らせていた、あの部屋。
あそこが、俺の居場所だった。
組長に拾われた俺が、初めて自分で掴んだ場所だった。
俺は、ゆっくり頭を下げた。
「……すみません」
会長が目を細める。
「断るのか」
「はい」
短く答える。
「俺は、本家には行きません」
部屋の空気が少しだけ張る。
会長はしばらく黙っていた。
怒るかと思った。
呆れるかと思った。
だが、意外にも、最後は小さく笑った。
「そうか」
それだけだった。
「兄弟がそこまで言う理由も、少しは分かった気がする」
会長の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「惜しいが、仕方ねぇな」
「お前は、お前の行き先を見つけたんだろう」
「……はい」
その横で、組長が小さく目を閉じる。
安心したような。
少しだけ寂しそうな。
そんな顔だった。
俺は、そっちを見た。
「オヤジ」
「何だ」
「世話になりました」
言葉にすると、安っぽくなりそうだった。
でも、他に言いようがなかった。
組長は鼻で笑った。
「今さらだな」
「はい」
「ま、元気でやれ」
「変な女と、変な編集と、変な漫画家に囲まれてな」
思わず少しだけ笑った。
「全員変です」
「知っとるわ」
会長がそこで、煙草に火をつけるみたいな軽さで言った。
「行け」
「ただし、もし戻りたくなったら、その時は遠慮なく来い」
「その時まで、狐塚には好き勝手させん」
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
それで、本当に終わった。
本家を出たあと、俺はその足で警察へ行った。
夜風は冷たかった。
だが、頭の中は妙に静かだった。
受付で名前を告げる。
組を抜けると伝える。
形式だの、確認だの、いくつかの手続きをする。
相手の警官は慣れた顔で、淡々と説明を始めた。
元暴五年条項。
暴力団を抜けた人間は、すぐに普通の人間には戻れない。
五年。
その間は、まともな銀行口座を作るのも難しい。
家を借りるのも、携帯の契約も、仕事も、何もかも面倒がつきまとう。
ヤクザをやめた、と口で言えば全部終わるほど、世の中は甘くない。
「分かってますか」
警官が言う。
「はい」
分かっていた。
分かっていたつもりだった。
それでも、改めて言葉にされると重かった。
五年。
長い。
笑えるくらい長い。
だが、それでもやるしかなかった。
警察を出て、公衆電話を見つけた時には、もう夜もだいぶ更けていた。
今どき珍しい緑の電話機だった。
少しだけ懐かしい形をしている。
俺は硬貨を入れ、水島の番号を押した。
数コールのあと、出る。
『……誰』
「オレだ」
少しの沈黙。
『真壁か』
「おう」
『何だ、急に公衆電話なんて』
『昭和か』
「うるせぇ」
そう言ってから、一拍置く。
「組、抜けた」
向こうが黙る。
本当に、しばらく何も言わなかった。
やがて、水島が低く言う。
『そうか』
それだけだった。
だが、その二文字で十分だった。
「ただ」
俺は続ける。
「五年は会わねぇ」
『……は?』
「元暴五年条項だ」
「すぐ戻れるほど甘くねぇ」
「お前らのとこに顔出せば、余計なもんまで引っ張る」
水島が息を吐く音が聞こえた。
『早乙女が泣くぞ』
「知るか」
『嘘つけ』
嘘だった。
もう泣かせてばかりだ。
「とにかく、五年だ」
「その間、サークルはお前らで回せ」
「通帳も金も、全部預けた」
「お前なら何とかするだろ」
『人使い荒いな』
「編集だろ」
『元、な』
「うるせぇ」
少しだけ沈黙。
それから、水島が静かに言う。
『待ってると思うか?』
俺は目を閉じた。
早乙女の泣き顔。
久瀬の嫌そうな顔。
水島の、感じの悪いくせにどこか真っ当な声。
「知らねぇよ」
そう言うしかなかった。
「でも、もし待ってたら」
「その時は、また作る」
『……分かった』
それ以上は何も言わなかった。
通話を切る。
受話器を戻したあと、しばらくその場から動けなかった。
五年。
長い。
だが、その長さも含めて、選んだのは自分だ。
だったら進むしかない。
--五年後。
俺はマンションの前に立っていた。
昔の早乙女のアパートとは比べものにならない。
ちゃんとしたオートロックのある、そこそこの建物だ。
空を見上げる。
青かった。
雲一つない、馬鹿みたいにきれいな青空だった。
インターホンを押す。
少しして、扉が開く。
そこには、五年前と変わらない面々がいた。
早乙女。
相変わらず目がうるさい。
涙腺もたぶんゆるいままだ。
久瀬。
表情は相変わらず悪いが、前より少しだけ健康そうだ。
水島。
感じの悪さはそのままだが、死にかけみたいな顔はもうしていない。
「真壁さん」
早乙女が言う。
声が少し震えている。
「おかえりなさい」
俺は少しだけ笑った。
「ただいま」
その一言が、思ったより重かった。
本当に帰ってこれたんだな、と、その時初めて実感した。
久瀬が腕を組んだまま言う。
「五年、長すぎ」
「普通にムカつくんだけど」
「悪いな」
「ほんとに」
水島が横からぼそっと言う。
「まあ、戻ってきたならいい」
「素直じゃねぇな」
「今さらだろ」
そのやり取りに、早乙女がまた泣きそうな顔で笑う。
五年前と、何も変わっていないように見える。
でも、たぶん少しずつ変わったんだろう。
それでも、この場所だけは残っていた。
どうしようもない奴らが、どうしようもないまま、それでも一緒に何かを作っていられる場所。
俺の居場所。
そして多分、あいつらの居場所でもある。
上を見上げる。
青空が広がっていた。
もし、これまでの経緯を物語で表すとするならば――
人生の酸いも甘いも知って、社会に必要とされなくなったオッサンたちが、
それを自覚しながら、プライドだけは捨てられず、
哀愁を振りまいて傷を舐め合う。
そんな、どうしようもない話だ。
でも、だからこそ――
悪くなかった。
おわり
最終話まで読んで時間を使っていただきありがとうございました!
またどこかの世界でお会いしましょう
読み終わりましたら上の☆マークを五つ分頂けますと幸いです。
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