18.
新年度の季節だし、そろそろ新しい環境に挑戦したかった。
呼吸の仕方を変えるようにイメージして、31層までとは異なるレベルの熱気に全身を包まれながら32層に足を踏み入れる。
服装は長袖の上着を脱いでバッグに仕舞い込んで、上はTシャツ、下は短パンではなく長ズボン。
本当は何も着たくないくらいだけど、32階層が広大な空間であるとはいえ、流石に無人ではない。疎らながら散見される他の探索者パーティと遭遇する可能性は十分にあった。そう考えて、ここ一年以上の期間で培った暑さへの耐性という能力と、耐え続けて身についた気合いで踏ん張り、無理矢理乗り切る。
長ズボンなのは、単純に買いに行く時間やお金をケチったから。何を買うべきか悩むのがめんどくさかったのもある。
汗をかき、首元や背筋、脛や膝裏に体から表出して来た水分を滴らせながら歩く。
数秒で滝のような汗をかく為、服は数分も経てばびしょびしょで特に頭や首から滴る朝で襟元が水に漬けて軽く絞ったタオルみたいな様相になっている。
加えて、バッグの体を支えにする両肩と脇に接する部分と背中を覆って熱が籠る部分とに汗が染み込んでしまって動くたびに生温い液体が滲み出てくるようで、摩擦がなくなっているせいかぬるぬるしている。こうなってしまっては、洗濯と帰還道中が想起されて、家に帰るのが少し憂鬱になって来る。
しかし、利便性を考慮した結果、背中が熱くなりその影響で体温が上昇してしまうのは最早しょうがない事なのだと受け入れてはいる。
こちとら、優先順位の低い快適さなんてものは既に諦めているのだ。
リュックに入れている水筒は魔法瓶、外と内側が二重壁で区切られていて外気による温度の影響を軽減出来るものを三つ用意して進む。
魔法瓶なのは水の温度を保つという意味合い以外に、少しでも水が蒸発してしまうのを防ぐ意味合いがある。
効果の程は分からないが、使用しないよりはマシだと思ってる。
身体から、極限環境ゆえに体力が強制的に持って行かれる感覚がふとした瞬間に襲いかかって来るが、それすらも、もはや慣れつつある環境の一つになっている。
問題なく動けるし、通用すると分かった今ならば、諸々の問題は一旦無視し、他の階層と同様に走り回る。
魔物の種類は環境特性以外そんなに変わらず、最初こそ苦戦していた環境も警戒していればそこまで怖いものでもなくなっていった。
魔力を纏った拳に、熱に対応して来た皮膚。
それら任せに魔物を殴りつけて避けられない戦闘をコンパクトにやり過ごす。
魔物の皮膚と接触した部分が局所的に激しく振動するような触覚の後、案の定火傷を負って爛れた皮膚を自らの基準に従って治療する事で魔力消費を最低限に止めて進む。
金属製の剣は、最早武器ではなく腰寂しさを紛らわすための装飾に成り下がっていた。
学生時代の初期装備と言っても過言では全くない金属素材では、魔物の熱に耐えきれない。
長い時間を掛けてようやく到達出来たこの階層においてそれは、些か初心者装備に過ぎていた。
この環境下に置いておくだけならまだしも、魔物に突き立ててしまえば、たちまち刃が折れ曲がってしまいそうだと感じる。
厄介なのは魔物の硬さ、よりも熱さの方だ。
敵を押し除ける拳越しにそれを感じる取るのは、「普通の人」と比較してしまうとどこか変な感覚ではあるのだが…そう確信している。
ここまで来ると、今までの地上という法則よりも、不可思議が罷り通る領域、すなわちダンジョン固有の法則の方が強く作用していて、力関係がこれまでとは反転してしまったかのようだった。
地上では活火山にわざわざ行って溶岩に近づきでもしないと得られないような熱エネルギーが、岩石ではなく一種の生物として、奴らにとっては敵対生命だろう俺の命をなんの遠慮もなしに脅かしに来る。
とはいえ、人間の適応性も捨てたものでもなかったようで、最初の1ヶ月程度は苦戦を強いられたが、その後は徐々に感じる負荷が軽くなって来て、やがてこれまでの停滞が嘘のように進めるようになった。
のだが、順調に進めたのはほんの一瞬とも言っていい期間で、ようやく順調に進めるようになったというのに、そんな都合の良い状況はすぐに終わってしまった。
順調に進み始めてから2ヶ月程度は、止まっていた時間を取り戻すように、毎日次の日の余力は残しつつもそれ以外の時間をダンジョンに費やして進み(これはいつも通りかもしれない)、気分が良くなって、何で作られているのかは知らないけど、念の為準備しておいたやたらと耐熱性の高いマッピング用の紙へ進んだ方向と道、生息していた魔物とその規模、戦闘する場合の環境についてなどを細かくメモして行って、少しの達成感とともに走り続けて32階層を攻略した後。
33階層に足を踏み入れてしばらくしてから、またしても壁にぶつかってしまった。
「ふぅ、帰りも含めるとこの辺りが今の限界か…」
そう独り言ちて悔しさを誤魔化す。
本当はもっと奥まで潜りたかったけど、「1日で行って帰って来れる距離」を考えると、33階層が現在の物理的限界だった。
これまでも、奥の階層に進むほどそのフロア全体の広さは確実に大きくなっていたわけだが、ここに来てその距離が1日というタイムリミットありの状況を考慮すると飽和を迎えてしまった。
それも、マッピングにより独自に導き出した最短距離を通ってそれだ。
今後、足の速さや戦闘する際の効率など基礎的な能力が今以上に向上すれば、この問題は解決する可能性はもちろんあるが、それでも数ヶ月でどうにかなるとも思えなかった。
「うーん、こうなったらやっぱりダンジョン内で野営をするしかない、か?」
もともとこうなる事はわかっていたから、野営をしようと思って幾つか候補地は絞っていたけど、まさかこんな直近で必要になるなんて思ってなかったから、まだまだ準備に時間がかかる。
段取り良く次々に物事を進行させたいものだが、いかんせん俺はソロでダンジョンに潜っている。
フットワークが軽い反面、他者の意見を取り込むのが難しく、どうしても探索者として曖昧な足踏み期間が出来てしまうのは仕方のないことだ。
パーティを組めば?という考えがないでもないけど既に探索者として8年、学生分を抜いてももうすぐ5年目になる。
今更知らない他人と一から信頼を築き、苦手なコミュニケーションを頑張って、ソロよりは遅くなる探索速度にも目を瞑ってとなると、デメリットの方が多く感じてしまうのが実情だった。
コミュニケーションが最も高いハードルになっているのはなんとも言い難いものがあるが、そこは諦めてもいる。
いずれ、実力的に潜れる階層が頭打ちになることが頭ではわかっていても、パーティを組んだ方が後々恩恵が大きいと想像は出来たとしても、今となっては、ソロでの自由な探索を譲りたくなかった。
多分、こういうのが成長の足枷になって実力を頭打ちにしてしまう要因になってしまうのだろうが、そうなったらそこが俺の限界になるんだろう。受け入れるしかない。
コミュニケーション能力で、その先がなくなるというのは、ダンジョンという場所にありながら、なんだか嫌に現実的ではあるけど。




