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まるくんの夢物語  作者: まるくん
第52章 農業政策
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コロナ禍で家族を失い、深い絶望に陥った主人公が、生と死の境界を彷徨いながら、生きる意味を問い続ける物語。日本の農業政策や社会問題を背景に、神話的要素を交えて再生への希望を模索していきます。

 

 生きる事は面倒くさい事だと思うようになりました。

 支払いで銀行や郵便局に行ったり、電気代、ガス代、水道代を払ったり、やらなければならない事がたくさんありました。

 春になれば苗代、代搔き、田植え、夏は草取り、秋は稲刈り、乾燥、数え上げればキリがありません。

 税金と国民保険も払わないといけないけど、面倒になってきて、そのままにしていました。

 コロナで嫁と子供が死にました。

 発熱した嫁を病院に連れて行き、検査で陽性が出てコロナだと分かりました。彼女は隔離され、見舞いさえ許されませんでした。次に幼い娘が発熱し、コロナの反応が出たので、同じ病院の別の病室に隔離されました。

 どうすればいいのか分かりませんでした。

 でもこの時はまだ、嫁と娘を失うなど夢にも思いませんでした。テレビでは、有名人の誰それがコロナで死んだという報道がありましたが、どこか遠くの国の出来事だと思っていました。それに同じ病院で、助かった患者がいたという事実が楽観的な気分にさせていました。

 ふたりが死ぬ、という気持ちよりも、早く良くなってくれという気持ちのほうが強くありました。色々とやる事があっても、嫁が居ない事には手に負えませんでした。その雑事を考えると、焦る気持ちもありました。

 見舞いも顔を見る事さえも出来ないのに、四六時中、病院にいました。待合室でそのまま寝入り、朝まで過ごしたことも何回もありました。誰もいない家に帰ったところで、なにもする事はなく、病院にいるほうが、気が紛れました。

 看護師を捕まえると、嫁と娘の容態を根掘り葉掘り聞こうとしました。休みもなく疲れ切った顔をしている看護師たちに、つれなくされる事もありました。

 嫁との出会いは、知人が用事の途中で家に寄ったとき、たまたま彼が妹を車に載せていたのがきっかけでした。お互いチラ見した程度でしたが、彼女が興味を示してくれたし、一目惚れしていたので、紹介されるとトントン拍子で結婚しました。

 その嫁に子供が出来て、家族となり、その家族のために面倒な事や苦しい事も我慢が出来るようになりました。

 数日が過ぎて、待合室で寝ていると、医師から「お亡くなりになりました」と伝えてきました。

「遠くからでもいいから、ひと目だけでも会わせてくれ」

 医師に懇願しましたが、感染率が高いので会わせられないと冷たく断られました。

 嫁が死ぬなど予想もしていませんでした。

 なにも準備しておらず、心は死んだという事実に対応が出来ませんでした。すこし遅れて娘も「お亡くなりになりました」と告げられました。

 何をどうしていいのか分かりませんでした。

 待合室でボーっとしていると、葬儀屋の人が声を掛けてきました。奇しくも父と母が亡くなった時と同じ葬儀屋でした。

「この度はお気の毒さまです。お悔やみ申し上げます」

「またよろしくお願いします」

「こちらこそ。ご両親のときもお手伝いさせて頂きました」

 葬儀屋も両親の葬儀のことを覚えてくれたようでした。

「今回の葬儀は形だけとなります」

「形だけ?」

「コロナでお亡くなりになった場合、ご遺体は返してくれません。自治体が遺体を処理します」

「娘もか?」

「はい、娘さんのご遺体も返してもらえません」

「お任せします」

 あくる日、約束の時間に葬儀屋は自宅にやって来ました。

「今回は、参列者はお呼びにならないほうがよろしいかと思います」

 死因がコロナだけに、そのほうがいいだろうと思いました。

「奥様や娘さんの名義で銀行や郵便局に貯金はありますか?」

「学資預金があるはずです」

「ご足労ですが、明日、預金を降ろして頂けますか?」

「ああ、分かってる。父や母の時と同じだね」

 死んだ人間の預金は、遺産相続などがややこしくなるので、銀行に死亡届を出す前にすべて引き出すのが賢明でした。

「もう経験しているからご存じですね。明日、町役場に死亡届を出すので忘れないでくださいね。時間が過ぎると問題になる事があります」

 明日、銀行に行く事も、何もかもが面倒になっていました。

「明日、昼から葬儀の準備に入ります。一番、簡単な葬儀に致します。参列者はどなたが来られますか?」

「女房の兄が来ると思います」

 葬儀の当日は、友人で義兄だけがやって来ました。僧侶の読経が済むと、葬儀屋は手際よく仏具や檀供を片づけました。僧侶のお布施など何から何まで葬儀屋がすべて処理してくれました。その点は感謝しても感謝しきれませんでしたが、人が死ぬと煩わしいものだと思いました。

 その家族が居なくなって、なんのために働くのか分からなくなりました。

 人はなんのために生きるのでしょうか?

 独身だったころは、こんな事は考えた事もありませんでした。しかし一旦、結婚して子供が出来ると、知らず知らずのうちに家族のために働いていたのだ、と彼らが死んでから気がつきました。

 毎日が空虚でした。

 胸にたくさんあったものがポンと音がしてすべてなくなってしまいました。

 それでも生きていかなければなりません。苗代を作り、田植えに備えました。

 掃除も面倒になってやらなくなり、部屋は雑然として埃だらけで、洗濯物も溜まって来ました。リビングで酒を飲みながらテレビを観ていると、そのうちに寝てしまい、明るくなると起き出しました。ビールや焼酎の空き缶がテーブルや床に転がるようになりました。苗代に水をやる事もなくなり、もう枯れてもいいやと思い始めました。

 布団で寝る事もなくなり、寝落ちするまで酒を飲み、前後不覚になってリビングのソファで寝ていました。起きるのは、トイレに行く時と、お腹が空いた時だけでした。

 冷蔵庫の中が空っぽになり、冷凍室の肉や魚を解凍して食べました。それらを見ると、嫁がこまめに冷凍していてくれたのだと思いました。

 もう生きる意味がありませんでした。

 この食材が無くなると、死のうと思いました。それで少しずつ食べる量を減らして行きました。スーパーに行って食料を買えない訳ではありませんでしたが、それすらも面倒になっていました。

 やがて1日1食になり、酒もなくなり、冷凍食品もなくなり、ご飯も茶碗に半分しか食べませんでした。お米だけはたくさんありましたが、精米に行くのが面倒になってきました。

 お腹が空いても、水やお茶を飲んで空腹を紛らわしました。

 人知れず、この家で餓死して他人に迷惑を掛けようと、死んでゆく身には関係ありませんでした。どうにでもなれと投げやりになっていました。

 一日中、ソファでゴロゴロし、起き上がるのはトイレに行くときだけでした。

 電気すら点けず、ただ横になっているだけで、あとは寝返りするだけで、時たま嫁や娘を思い出して、独り泣きました。

 なぜ、自分にはこういう人生が、充てがわれたのか、恨んでも恨み切れませんでした。なにも口にしなくなると、やたらと涙が流れました。

 7日目に、いよいよ意識が朦朧として来、トイレに立ち上がろうとして軽い眩暈を起こしました。それが嬉しくてたまりませんでした。もうすぐ、嫁と娘のところにいけると思いました。

 ソファで横になり、嫁と娘に会っていました。真っ暗なリビングで、気がつくと夢だと分かりました。夢でもいいから、また彼女たちに会いたいと思いました。

 何日かして、トイレに立ち上がるのも億劫になって来ました。トイレから戻ると、ソファに崩れるようにうずくまりました。うつ伏せになって目を閉じると、嫁と娘の遊ぶ姿が見えました。夢なのか、自分が作った幻影なのか、そんな事はどうでもいい事でした。考えるのが面倒でした。彼女たちの遊びに加わりたいと思いました。

 なにやら外で声がしました。

「ひろし! ひろし!」

 名前を呼ぶ人間がいました。

 嫁と娘との遊びに邪魔が入った気がして腹が立ちました。

「ひろし! 勝手に入るぞ!」

 意識はそこで途切れました。


 ペレシュ城のキッチンに、和歌子さんがため息をついて座り込んでいました。

 まるくんは、風呂上りにコーラーでも飲もうとキッチンに入ると、和歌子さんを見つけ、「どうしたの? 帰ったんじゃなかった?」と不審に思って聞きました。

 和歌子さんは、

「車が動かない」

 と落胆したように言いました。

「自動車の整備工場に電話してみたら」

「もう電話してみましたけど、繋がらないのです。たぶん日曜日でお休みなんだと思います」

「家まで送ってあげよう」

「いいんですか?」

「構わないよ」

「助かります。犬と猫の餌を上げないといけないんです」

 和歌子さんを家まで送る途中、県道から脇道に入ろうとしたとき、真っ暗な道のそばに高校の高橋先生が立っていました。

「高橋先生、どうしたんですか? こんな淋しいところで」

「友だちが家で倒れていたんです。自分の車で病院まで運ぼうとしたのですが重くて無理だったので救急車を呼びました。その救急車を待っているんです」

「どの家の方ですか?」

「芦森という名前です」

「ひろしさんですか?」

「そうです」

「彼は独り暮らしですよね。まるくん、すぐにその家に向かってください。高橋先生はここで救急車を待っていてください」

 まるくんは、和歌子さんの道案内で足守宅に向かいました。敷地に車を停めると、和歌子さんは飛び降りて、家に入りました。まるくんも続いて入ると、リビングのソファに男性が横たわっていました。男性は汗びっしょりになっていました。

「まだ息はあるわ」

 和歌子さんは近くにあったタオルで、ひろしさんの顔を拭きました。

「熱が高いわ。コロナかしら」

 そのタオルを水で濡らし、和歌子さんはひろしさんの額に当てました。

「冷蔵庫に氷がないか見てもらえますか」

 まるくんは、冷凍庫の扉を開けようとして、眩暈を起こしました。


 強い力で引き込まれて行きました。

 頭がぐらんぐらんと揺れて、歩こうとするとフラフラとして、まともに進みませんでした。真っ暗な中にひと筋の道だけが明るく浮かび上がっていました。

 その道を進むことにためらいはありましたが、行かなければならないと強く思いました。進んでいく道の先に、甘酸っぱいような温かい空気の中、遊んでいる家族の姿が現われました。

 ウサギの縫いぐるみを女の子が抱いてあやしているのを、お父さんとお母さんが笑って見ていました。その温かい空気の中へ足を踏み入れようとしたとき、強い力で背後をつかまれました。

「まるくん殿、ここは『黄泉比良坂よもつひらさか』だ! これ以上進むのは危険だ」

 振り返ってみると、カラス天狗様が背中をつかんでいました。

「黄泉比良坂? 古事記に出て来る黄泉のよみのくにへ行く道のことですか?」

「そうだ。黄泉の国は死者の国だ。行くと戻れなくなるぞ」

 古事記では、イザナギが死んだイザナミに会うため黄泉国に向かいました。

 イザナミは、

黄泉神よもつかみと話し合いたいので、しばらく私を見ないでください」

 とイザナギに言いました。

 しかし、イザナギは長く待たされたため火を灯して中を見ました。

 イザナミは鬼のような姿で全身から雷を生じさせていました。この姿に恐れおののいたイザナギは逃げ出しました。

 イザナミは「私に恥をかかせた」と激怒し、ヨモツシコメにイザナギの後を追わせました。


「でも彼を救うためには行かなければなりません」

 カラス天狗様の制止を振り切り、助けに行こうとしました。

「待て! どうしても行くのならば、これを持っていくがよい」

 カラス天狗様は、右の髪に差してある櫛を抜いて出しました。

「この櫛は、『湯津々間櫛ゆつつまぐし』だ」

 さらに美味しそうな桃の実も出し、

「ヨモツシコメという鬼女に追いつかれそうになったら、このふたつの物を投げつけよ」

 と注意してくれました。

 暖かい空気の中に踏み入れると、ひろしさんがこちらを見ました。

「あなたは誰ですか?」

「まるくんと申します」

「なにか御用ですか? 私は今、家族との団欒を楽しんでいます。邪魔をしないでください」

「ここは死者の国ですよ。あなたが居る場所ではありません。元の世界に戻りましょう」

「元の世界? そこに戻って何があるのですか? ここには生きる苦しみもないし、何よりも家族が居る。戻る意味は、生きる意味はあるのですか?」

 ひろしさんはさらに続けました。

「父が子供のころは、食糧管理制度というのがあった。政府がお米を高く買って、庶民に安く売るという制度です」

 食糧管理制度は、戦後の食糧不足を背景に1942年に始まり、1995年に廃止されました。この制度の弱点は常に赤字だという事でした。当時、赤字の3Kと言われて、米、国鉄、国民健康保険が常にやり玉にあげられていました。

「当時の日本のお米は守られていたんだ。1993年のウルグアイ・ラウンドの交渉までは日本ではお米は輸入できなかった」

「知っています。その交渉で日本はお米の輸入禁止は出来なくなり、最低限だけど輸入するようになりましたね」

「その通りです。1995年に最低限の輸入をしないといけなくなりました。その頃は日本ではお米が大量に余っていたから、それらは飼料用でした。しかし話は前後するけれど、1970年から減反政策が始まりました」

「お金を補助するから、米を作るな、田んぼを休耕地にしろ、という制度ですね」

「私の父や仲間たちは、農家が米を作らなくてどうするんだ、と反対してお米を作り続けました」

 政府の農水省や農協から偉い人たちがやって来て、お父さんの仲間の説得を始めました。

「みんな減反をしてるんだ。自分たちだけ制度を無視して許されるのか」

 と高官たちは詰め寄りました。

「その制度がおかしいと気づかないのか! そのうち農家はお米を作らなくなって、日本からお米がなくなるぞ」

 お父さんや仲間たちは、高官たちや農協に警鐘を鳴らしました。

 しかし、仲間たちはそれで農協などから嫌がらせを受けました。収穫したお米の乾燥機の使用を断られたり、トラクターやコンバインなどの農業機械の融資を受けられなくなったりしました。

「それで仕方なく減反に応じた。私はその頃の父の怒りを知っているんだ。百姓が一生懸命に米を作って、村八分にされるんだ。こんな日本に生きる意味などあるのか! 日本など滅んでしまえばいい」

「ひろしさんの言っている事はよくわかります。生きる意味がどうなのかは分かりません」

「令和6年の米騒動だってそうだろ。お米がどんどん値上がりしているのに、農水大臣は『お米は足りている。備蓄米を出せばお米の値段が暴落する』と言って備蓄米を出さなかった」

「そうですね。とうとうお米の値段は2倍になりましたね」

「お米の値段が2倍になったからと言って、我々農家の収入が2倍になったわけではない。おかしいだろ、こんな日本。アメリカで売っているお米のほうが安いんだ。おかしいだろ」

「20万トンの備蓄米を出しても、お米の値段は下がりませんでしたね」

 農協が備蓄米を買い占めたという噂が広がっていました。

 農林中央金庫(農林中金)という農協の親玉は、2025年3月期の最終赤字額が、1兆5000億円になりました。アメリカでの投資に失敗したものでした。農協はその赤字のために稼がなくてはなりませんでした。農協で稼ぐ方法はお米しかありませんでした。そのお米の価格維持のために、備蓄米が市場に流れると困るので9割近くを買い占めました。機関投資家のあいだで、そういう噂が流れました。

 家庭では、お米の替わりにパンやパスタ、うどんなどを食べるようになりました。ヤマザキパンや日清食品の株価は2倍にまで高騰しました。スーパーではサツマイモの売れ行きが好調で、芋粥を食べる家庭がありました。

「ますます日本人の米離れが進むと思いませんか? もし仮にベトナムやタイなどからの安いコメが輸入されるようになったら、日本では米を作る農家はいなくなる。米を作るより、スーパーで買うほうが安くなるからだ。こんな日本で農家として生きる意味はどこにあるんだ。それだったら家族と一緒に別の世界で暮らすほうがいい」

「その家族と一緒に元の世界に戻りましょう」

「家族と一緒に戻れるのですか?」

「戻れます」

「嫁と娘に聞いてみます」

 ひろしさんは、ふたりに問いました。

 嫁は、「死者の世界を支配している黄泉神よもつかみ様にお尋ねしてみます」と言いました。

 辺りがだんだんと暗くなり、嫁と娘の姿も消えていきました。ひろしさんは、彼女たちを追いかけようとしましたが、ありったけの力で引き留めました。

「ひろしさん、これを見てください」

 そばにあった松明に火を点けて、暗闇に投げ入れました。その炎に照らされて、鬼のような形相の嫁の姿が浮かび上がりました。身体からは稲妻がバチバチと飛び散っていました。

「見たなぁ!」

 鬼女が襲い掛かって来ました。

 ひろしさんを力いっぱい引き戻して、

「逃げるんだ!」

 と叫びました。

 必死で走って逃げました。

 黄泉神よもつかみに命じられたヨモツシコメが追いかけてきました。追いつかれそうになって、もみ上げの毛をむしって投げました。それはたちまち山ブドウの実になりました。ヨモツシコメはそれを食べるのに夢中になりました。

 そのあいだに走って逃げました。

 地面は苔で覆われていて、つるつると滑って思うように走れませんでした。

 山ブドウを食べつくしたヨモツシコメは、猛スピードで追いかけてきました。追いつかれそうになったので、湯津々間櫛ゆつつまぐしを投げました。たちまちタケノコに変わりました。ヨモツシコメはそれを食べるのにまた夢中になりました。

 また必死になって逃げましたが、すぐに追いつかれました。つかまれそうになって、その手を払いのけようとしたとき、3匹の黒猫がヨモツシコメに飛びつき、黒い犬が鬼女の足に噛みつきました。和歌子さんの家で飼っているペットたちでした。

 それに勢いを得て、カラス天狗様から頂いた桃の実を投げました。ヨモツシコメは「ぎゃあー」と声を上げて苦しみ、つかもうとした手が空中に跳ね上げられ、だんだんと溶けていきました。

 洞窟のようなところを、遠くの光を目指して走りました。

 3匹の黒猫たちが前方を先導し、黒犬が後ろ振り返って警戒しながら逃げました。

 息も絶え絶えに、出口にようやくたどり着くと、眩しさで目が痛くなりました。洞窟から出ると、前鬼が待機していて、出口を大石で塞ぎました。


 気がつくと、病院のベッドで横たわっていました。

 朦朧とする意識の中で、白鬼の姿が見えました。

「気がつきましたか?」

「ここはどこだ?」

「Pink Fairy Hospitalです。病院ですよ」

 深いため息をついて、助かったんだと感じました。

黄泉国よもつくにに行かれたんですね」

「いや、引き込まれたんだ。死者の国にね」

「戻ってくれてよかった。そのままあの世に行く人もいるのに」

「カラス天狗様のお陰で助かった」

「なぜあんな世界に行ったのですか?」

「ひろしさんを引き戻さないといけないと思った」

「まるくんの身体が腐りかけていました。ひろしさんも腐る寸前でした」

「そうだ、ひろしさんはどうなった?」

「元気です。でも、まだ意識が戻っていません」

「よかった。助かりそうなんだね」

 芦森家で、倒れて意識がなくなり、救急車でひろしさんと一緒に病院に運ばれたそうでした。それから十日間も意識が戻らず、このベッドで寝ていたそうでした。どれが現実なのか分からなくなってきました。

 医師は原因不明だと診断していましたが、白鬼や前鬼、後鬼には理解出来ていたので、さっそく処方してくれました。

 後鬼は川を遡って薬草を取って来て、白鬼がそれを煎じて秘薬を作りました。白鬼は薬草の知識が豊富で、秘薬の作り方も知っていました。前鬼は意識の中に入り込んで洞窟の出口で待機してくれました。

 身体には、腐りかけていたときの後遺症で、あちこちに青痣が出来ていました。それでも歩けるようになって、ひろしさんの意識が戻ると、その病室に行きました。

「元気になりましたね」

「あっ、あなたは夢の中に出て来た人ですね。あなたのお陰で助かりました」

「助けたのがよかったのかどうか分かりません。あのままでもあなたは幸せだったかもしれませんが、あなたが見たのは死神が投じた幻影です。ほんとうの奥さんと娘さんの姿ではありません。死神があなたを引き入れようとして心の隙間に入り込んだのです」

「夢を見ていただけなんだと思いました。ベッドで寝ているうちに、助かったんだから、もうすこし生きてみようかと思いました」

「私は、あなたに生きる意味の答えを与える事は出来ません。でも、これからその答えを探してみませんか? その手助けは出来ると思います」

 ひろしさんはベッドの上で天井を見ながら黙っていました。


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